「罪の結果」 創世記三章一ー一九節 ペテロ第一四章七ー八節 

 
 アダムとエバは神から食べてはいけないと禁じられていた善悪を知る木の実を食べた後、へびがいうように、確かに目が開かれました。目が開かれて彼らは何を見ることができたのか。聖書は皮肉であります。目が開かれて彼らが見たものは、自分たちが神のようになった姿ではなく、自分たちが裸であったこと、しかもそれを恥として見たというのであります。

 罪を犯す前は、二章二五節をみますと「人と妻とも裸であったが恥ずかしがりはしなかった」と、記されているのであります。ふたりとも裸であっても一つもそれを醜いこととは思わなかった、従ってそれを恥じることもなかったのに、自分達が神のようになろうとして神になれなかった時に、自分たちの裸を醜いものとして感じられ、それを恥として意識し、自覚し、それでいちじくの葉でその恥を隠そうとしたということであります。

 罪を犯した後は、自分の裸、そして相手の裸を、醜いものとして非難する気持ちで見るようになったということであります。もはやここにはいたわりとか、許し合う思いやりはなくなってしまったということであります。

 もうふたりのあの助け手としての信頼関係は破られてしまったのであります。男は神から「お前は食べるなと命じておいた木からどうして食べたのか」と言われますと、男は「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えるのであります。
 「あなたがわたしと共にしてくださった」と言って、つまり神さま、「あなたが」助け手として一緒にしてくれたあの女がわたしを誘惑したのですというのです。間接的には神を非難し、そして直接的には、女を非難して、自分の犯した罪の責任を逃れようとするのであります。

 人が神のようになろうとして、自分を神の位置に置き、生きるということは、それはとりもなおさず、自分中心に生きるということであります。全てを自分中心に物事を考えようとするということであります。その時にはもはや相手をかばうなどということはできないで、自分の犯した罪の責任を取ろうとしないで、相手に責任を押しつけようとするのであります。

 罪を犯す前は、ふたりは信頼関係がありましたから、自分達が裸であっても少しも恥ずかしいとは思わなかった。それはちょうど子供にとって母親との信頼関係がある時には、自分の裸をさらしても少しも不安を感じたり、恥ずかしいと思わないことと同じであります。

 罪を犯した後は、もはや子供と母親という関係ほどには信頼関係はとりもどせないのではないかと思います。せいぜい夫と妻という関係、その程度の信頼関係であります。

 子供はもう無条件に素朴に無心に母親を信頼して裸をさらすことはできるかも知れませんが、夫婦の関係の信頼関係はそれほど素朴に、というわけにはいかないだろうと思います。夫婦の関係というものは、本当に小さな事からその信頼関係がいつやぶれるかわからない、そういう危機をはらんでいるものであります。そういうもろい信頼関係でしかないと思います。従って、あの罪を犯す前の素朴な信頼関係にはもどれないのです。それでわれわれは、自分達をいちじくの葉でおおうとするのであります。それは仕方ないことであります。

 しかし、三章の二一節をみますと、こう記されております。「主なる神はアダムと女に皮の衣を作って着せられた」。

 つまり、神もまた罪を犯さない前の素朴な信頼関係を失ったしまったふたりの関係を哀れに思ってくださって、自分達の恥部をあからさまにさらけだすことをさせないで、皮の着物を作り、裸を被うことを許されたということであります。自分たちが考えたいちじくの葉ではあまりにも可哀想だということで、神は皮の着物を作り、彼らに着せられたというのであります。

 罪を犯した人間は、自分に対して恥じの感情をもつということは大事なことではないかと思います。逆に恥じを失う、恥じらいをなくした人間はかえって醜いし、そういう人とはつきあいづらいのであります。
 それでわれわれはいちじの葉で自分の裸を、自分の恥ずかしいところを隠そうとするのであります。

 しかし、神はそれではだめだということで、皮の着物を作っておおってくださったというのです。それはただ自分の裸を被うだけでなく、相手の裸をも被ってあげなさいという皮の着物であります。
 
 ペテロの第一の手紙には、「愛は多くの罪を被う」と記しされております。
 もう罪を犯してしまったわれわれは、もう罪を犯さない前の素朴な子供にはもどれません。子供のように自分の裸をさらして平気で遊び回るわけにはいかないと思います。だから、われわれはお互いに神が作って着せてくださった皮の着物で自分の裸を被う必要があると思います。つまり、神様があたえてくださった愛という皮の着物で、相手の裸を被ってあげる、ゆるしあっていくということが大事だと思います。

 罪を犯した人間が人との関係でいだいたものは、恥の感情でしたが、神との関係ではどうなったのか。それは恥の感情ではなく、恐れの感情を神に対していだくようになったと聖書は語るのであります。

 八節から見ますと、彼らは日の涼しい風のふくころ、園の中央に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、アダムと女は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神はアダムに呼びかけた。「どこにいるのか」と言われた。男はこう答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」。

 罪を犯した人間の人に対する感情が恥であったのに対して、神に対する感情は恐れであったというのです。人と人との関係ならば、自分の裸をいちじくの葉でおおうことによって、つまりごまかすことによって、自分の裸を多少偽り装うことによって、その関係を維持できましたが、神との関係ではもはやそのようなごまかしは意味をなさないのです。

 アダムと妻は、園の木の間に身を隠したというのであります。 神からの逃走であります。 人と人との関係のように、もはや多少のお化粧ではごまかしはきかないということであります。

 そういうアダムと女に対して、神はあえて「おまえはどこにいるのか」と、尋ねるのであります。尋ねてくださるのであります。神はすべてを見通すかたですから、本当は彼らが木の間に身を隠していることはご承知なのです。それなのにあえて「お前はどこにいるのか」と尋ねてくださるのであります。それは「お前はわたしから逃げようとしているかも知れないが、逃げることできないのだよ、お前はどこにいるのか、どこにいこうとしているのか」という問いかけであります。

 あの詩篇の一三九篇の言葉を思い出します。口語訳でよみますが、「わたしはどこへ行ってあなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前を逃れましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられる。わたしが陰府に床をもうけても、あなたはそこにおられる。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます」と告白するのであります。
 
 罪を犯したれわれは神を恐れて、木の間に隠れて、神から逃れようとしますが、神のほうからはいつでも「お前はどこにいるのか」と問いかけ、尋ねるであります。それは詩編一三九編の言葉からみれば、もう神から逃れようとしても無駄なのだ、つまり、それはもう「恐れて、身を隠すな」ということであります。それはつまり「もう恐れなくていい」といってくださっているということであります。

 主イエスも「からだを殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」と、人間を恐れないで、神を恐れなさいといいます。しかしすぐその後、主イエスは、その神はどういう神であるかをわれわれに告げます。「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたたがたは多くのすずめよりも勝った者である」と、言われるのであります。もう神様を恐れなくてもいいと主イエスはいわれるのです。

 罪を犯したわれわれは神から逃れようとして、木の間に隠れようとしますが、神のほうからはいつも「もう恐れないで木の間に隠れるな」と、よびかけておられるのであります。「おまえはどこにいるのか」という神の問いは、もう神を恐れて、木の間に隠れるなということであります。神の前にたちなさいという呼びかけであります。
 
 神は男に「どうして食べるなと命じておいた木からお前は取って食べたのか」と言いますと、男は「あなたがわたしと一緒にしてくれたあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べました」と、責任を神と女になすりつけるのであります。

 神は今度は女に「お前はなんということをしたのか」と問いますと、女は「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」と答えるのであります。女も自分のしたことに自分で責任をとろうとしないで、へびに責任をなすりつけるのであります。
 
 罪を犯した結果、神との信頼関係も、人と人との信頼関係も破れましたが、それだけではなく、実は、われわれは自分自身との関係もまた破れたということなのではないでしょうか。自分のした事に自分が責任をとれないということは、もはや自分の内部で自己分裂をきたしているということで、自分との関係も破れてしまったということではないでしょうか。

 このことをパウロは「わたしの欲している善はこれをしないで、欲していない悪がこれをしている。もう自分のことがわからないのだ、わたしはなんというみじめな人間なのだろうか。だれがこの死のからだから救ってくれるだろうか」と嘆くのであります。

自分のしたことに自分で責任を取れなくなってしまったわれわれ、われわれはもう自分のことがわからない、自分で自分のことをどうしていいかわからなくなつてしまったというのであります。そしてわたしはなんというみじめな人間だろうと嘆かざるをえないのであります。「だれが、この死のからだから救ってくれるだろうか」と嘆くのであります。

 そしてそのあと、パウロは突然唐突に「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します。わたし自身は心では神の律法に仕えているが、肉では罪の法則に仕えている」と、述べるのであります。

 「だれがこの死のからだから救ってくれるか」という嘆きと、「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝する」という救われた感謝の言葉の間には、なんの説明もないのです。いきなりの飛躍であります。

 しかし救われるということは、そういうことなのではないでしょうか。あるとき、ふっと上から光りがそそがれていたということであります。

 自分が座っている椅子を自分でもちあげることはできないのです。どんなに一生懸命力んで、自分の座っている椅子をもちあげようとしても、もちあげることはできないのです。それはだれかにもちあげてもらう以外ないのです。

 自分で自分を救うことはできないのです。「だれがこの死のからだから救ってくれるか」と、救いを求め、救いをだれかに委ねたときに、パウロはとつぜん「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝する」と告白できたのであります。

われわれは海で溺れかけたときに、自分で一生懸命手足を動かそうとしても、なかなか浮かびあがれないものであります。返ってそれは自分自身を疲れはてさせ自滅の道にいってしまうのです。そういうときに、いっさいの力を放棄して力を捨てたときに、水のうえにうくことができるものであります。