「罪のしわざ」 ローマ書七章七ー二五節

 神様が与えてくださった律法を考えるときに、いつも考えなくてはならないのは、神が十戒をわれわれに与えた時のことであります。

 あの十戒の冒頭の言葉は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだした神である」という宣言から始められているということなのであります。そしてそのあと「あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない」という十の戒めを語り始めるということなのであります。

つまり、わたしはお前を救ったのだから、これからはわたしに従うために、このように生きなさいと具体的な指示をあたえたのが十戒、律法なのであります。
神が与えてくださった律法は、いわば天国に入るための入学試験ではないのです。それを守ったら、天国にゆける、守らなかったならば、守れなかったならば、地獄に突き落とされるというものではないということなのです。

 もういってみれば、天国にいくことは決まっているのです、神様はもう救ってくださったのです。ですから、律法は入学試験のテストではないのです。
 テストというものは、その本来の目的は、日常の自分の実態はどこかにあるか、どこに弱点があるかを知るためのものであります。その弱点がわかったら、それを鍛えるためにさらに精進するためのものであります。

 ところが、律法を、救われるための入学試験にさせてしまったのが、罪のしわざなのであります。神様はあんなことはいっているけれど、本当は違うんだよ、これは天国に行くかどうかの入学試験なのだとわれわれの心にささやいたのが罪なのであります。罪のしわざなのであります。

 われわれは律法を守れる時もあります。人を赦せるようになることもあります。そのときには素直に神に、律法を守れました、ありがとうございましたと言って、神の前に感謝しにいけばいいのです。子どもが試験に良い点をとった時に、子どもは誇らしげにそれを親にみせにいくように、神の前にそれを差し出したらいいのです。

 また律法をどうしても守れない時には、ただうなだれて、神から遠ざかり、神から離れていってはならないのです。その時こそ、神の前に出て、神に祈り、どうか人を愛せる力を与えてくださいと祈ればいいのです。

 律法を守れたにせよ、守れなかったにせよ、どちらの場合にも神の前に感謝し、神の前に悔い改めにいけばいいのであります。

 ところが、われわれの中にある罪はそうさせないのです。一三節に「罪は戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである」とパウロは言うのです。そしてそれは「罪のしわざである」といいます。

 律法は一度書かれた言葉になってしまいますと、つまり文字なりますと、それはその文字だけをまもれば、もう律法そのものを守っているような錯覚を与えてしまう。いや律法はそういう自信をわれわれに与えてしまうのであります。

 自分は人を殺したことはない、盗んだことはない、姦淫を犯したことはない、だから律法を完全に守っているのだ、自分は週に二度断食しており、全収入の十分の一を捧げており、ほかの人のような貪欲なものでなく、不正な者ではない、と神の前に堂々と胸をはることができるようにさせてくれたのであります。

 自分の力で律法を守り、神に従うことができるような自信を人間に与えたのであります。罪は律法を通してわれわれ人間にいたずらに自信を与えたのであります。

 「しかし律法に対して人間がもった自信は、罪が人間に与えた幻影でしかない、それは幻でしかない」とある人が説明しております。

 その自信は幻影なのです。ですから、それは幻影ですから、律法を通して得る自信は微動だにもしないというような自信ではないのです。それは幻影ですから、いつも不安がつきまとうのです。自分は本当に神の律法を神のみこころを守っているだろうかという不安をたえず抱えている筈であります。

 イエス・キリストは、お前達は律法を完全に守っていない、神の律法は「殺すな」ということで、「兄弟に対して怒るな」ということまで言おうとしているのだ、「人を愛しなさい」とのいう戒めは「敵をも愛しなさい」ということまで勧められているのだ、律法は単に文字面をまもっていればいいというものではないと言われた時、律法を自分は守っているのだと自信をもっていた彼らは、その自信はゆらいだ筈であります。その自信は幻影でしかないからであります。
 
 だから、彼らにとってイエス・キリストの存在は大変煙たい存在、煙たいどころか、自分たちの自信を覆す存在になってきたのであります。そのために彼らはついにイエスを抹殺しようとしたのであります。

 もし彼らの自信が本物であったならば、イエスからなにをいわれても微動だにしなかった筈であります。しかし彼らの自信は幻影でしかなかったのであります。だからゆらいだのです。自分たちの中にある不安を消すために、どうしてもイエスという存在を抹殺しければならなかったのであります。

 そこが罪のしわざたる所以であります。罪は人間に律法をとおしてただ自信を与えただけでなく、同時に律法を通して不安も与えのであります。

 罪はいたずらに人間に自信を与えて、死ぬまで安心させるほどお人好しではないのです。自信を与えておいて、その裏側からその自信をゆるがせ、不安にもさせていたのであります。なぜなら罪は結局のところ、われわれを安心させ、われわれを幸福感に浸り切らせることが目的ではないからであります。罪は最後にはわれわれを不幸にさせるのが罪の目的だからであります。
律法はそれを守れたと自負している人にとっても、それを守れない人にとっても、結局は絶望を与えるしかなかったのであります。

 少しでも良心的な人ならば、神経の鋭いひとならば、罪が律法を通してわれわれに与える自信が幻影でしかないことには気がつく筈であります。
そして幻影はそれが幻影である限り、われわれに本当の安らぎを与える筈はないのであります。

 われわれが自分の力だけで生きようとするならば、自分の力だけで自分をガードしようとするならば、それはちょうど百点をとることだけを自分の生き甲斐にしいてる優等生がもつ不安と同じ不安の中を生きることになるのではないか。
 わたしは優等生なったことはないので、本当はよくわかりませんが、優等生は、いつも自分は優等生の地位から落ちるのではないかと神経をすりへらして生きざるを得ないという不安を抱えて生きているのではなか。

 パウロは律法の問題を説いて来て、律法それ自体は聖であり、正しく、善なるものであるはずなのに、しかしその善なるものが、わたしにとって、わたしを死に追いやることになってしまったというです。

 そしてこういいます。「わたしは自分のしていることがわからない。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。そしてその後、わたしをそのように律法に違反するように導いているのは、わたしのなかに宿っている罪だというのです。悪いのは私自身ではない、罪なのだといわんばかりのことをいうのであります。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」というのです。

 こういう一連の議論を読んでいきますと、なにかパウロが責任逃れをしているように感じるかも知れません。責任を罪になすりつける。それはまるで、自分のなかに宿っている生まれつきの遺伝子が、今日はやりの言葉で言えば、DNAが悪いのだといっているような気がするかも知れません。つまり親が悪いんだ、自分の家系が悪いんだといわんばかりなのであります。自分が悪いのは環境のせいだというようなことであるかも知れません。

 しかしそのように責任を他に転嫁しようとする人は、「自分のしていることがわからない」と言って悩むだろうか。

 パウロが「わたしは自分のしていることがわからない」という時、それは自分のしていることについて責任を放棄しようとしてそう言っているのではなく、自分のしていることに深く責任を感じているからこそ、もうどう責任をとっていいかわからないと言っているのであります。

 彼は自分のしていること、自分の存在それ自体に責任を深く深く感じているのであります。それはもう間違いのないことであります。深く責任を感じているからこそ、「自分のしていることがわからない」と告白している。そうしてその責任を自分自身でとりたくてもとれないから、「自分のしていることはわからない」といい、そして最後に「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」と嘆いているのであります。

 「自分のしていることがわからない」という告白は、責任放棄の無責任な告白ではなく、自分について、自分の犯した罪について深く責任を自覚して、もう自分が自分のしていることに責任がとれないという告白であります。

ここでパウロが「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている」という自己の分裂は、どういう分裂のことを言っているのでしょうか。

 それはたとえば、アルコール中毒になった人がもう酒は絶対に飲まないと心に誓いながら、しかしどうしても酒に手がいってしまうということなのでしょうか。あるいは、自分の体のなかにある強烈な情欲というものを抑えきれないで、その欲望にふりまわされてしまう、ということなのでしょうか。
 しかしもしそういう分裂ならば、これは律法とは関係のない分裂であります。律法が入り込んで来たからそういう分裂が起こったのだということにはならないだろうと思います。「罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしを欺き」とか、「善なるものが、わたしにとって死となった」ということにはならいと思います。

 ここでは、神の律法が入ってきたために、そのもともとは善なる律法がわたしを悪へと誘い、わたしを死なしているというのであります。二一節に「善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気づきます」というのです。

 「法則」という表現は大変おもしろいと思います。もともとは律法という字と同じ字なのです。パウロはここで一つの語呂合わせをやっているのですが、「善をしようとするわたしに悪が入り込んでくる」ということ、それはもうまるで法則のようにそうなっているというのです。

 このごろの言葉を使えば、法則というよりは、システムという訳がいいかも知れません。そういうシステムになってしまっているというのです。つまり善を自分がしようとすると、まるで機械仕掛けのようにそこに悪が入り込むというシステムが自動的に働きだしている、そういう法則になっていて、もうどうにもならないのだということであります。

 これはどういうことかといいますと、あまり良い例かどうかわかりませんが、たとえば、われわれが何か寄付をしようとするときに、寄付をしてある困っている人を助けたいと思うわけですが、その事自体は善であります、いいことなのです。その時、同時にわたしの心の中に「おれはなかなか良いことをしているぞ」と、自分のことを誇る気持ちが働きだす、そうなると、その人を本当に助けたいのか、それともこれはただ自分の心を満足させたいためだけの行為なのかと考えてしまう、それこそ「自分のしていることがわからない」ということになってしまうのであります。

 それはもう法則のように、システム化されてしまって、自分が何か善いことをしようとすると、その心の内部に自動的に自分を誇り出す装置が動き出す、もう自動的に有無を言わせずにそういうシステムが働いてしまうのだということであります。

 つまり律法を守ろうとするとき、それによって神に従い、人を愛そうとするわけですが、その時そのわたしの心にもう自動的に自分を誇ろうとする法則が働き出す。自分は律法を守っているのだ、どうだ偉いだろうという自分を誇る気持ちがまるでシステムのように働きだすということであります。

 後にパウロがユダヤ人のことをとりあげて、彼らは律法を守ることに関しては熱心であったが、それは神の義に従うとするのではなく、その実、ただ自分の義を立てようとすることに熱心なだけだったというのであります。

 それはつまり神に従うという律法とはまるで正反対の方向に動きだすということであります。それは内側から律法を破らせていることなのであります。パウロは律法を守れないことをここで嘆いているのではなく、律法を守っている、いや律法を完全に守っている時に、このような分裂が自分のなかに起こっていることを言っているのであります。

 だから「罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしを欺き」というのです。わたしの何を欺くのかといえば、自分が心から神に従いたいというわたしの心を欺き、自分を誇らせるということであります。

 こういう説明はあまりにも理屈ぽい、文学少年、哲学青年が陥ることで、青臭いと言われるかも知れません。あるいはそれは高尚すぎる、われわれはもっと低俗なことで、苦しんでいるのだ、たとえば酒をやめられないとか、自分の欲情を抑えられないとかということで分裂し、苦しんでいるのだと言われるかも知れません。

 しかし、ここは神の律法を真剣に考えようとした人間が陥った苦しみ、分裂なのです。高尚とか高尚でないとか、ということでなく、神に従って生きるという問題なのです。
 そしてそのパウロの自己分裂という苦しみは、われわれのもっと卑近な世俗的な現実的な苦しみ、酒をやめられない、ギャンブルをやめられないという問題とやはりつながっている問題でもあるのではないかと思います。

 なぜなら、パウロの問題で言えば、自分を誇るという自己中心性という問題と、われわれが酒をやめられないとか、ギャンブルがやめられないという問題とは、それはどちらも、自分の自我、自分の欲望にふりまされているという自己中心性ということでは同じだからであります。

 問題はその自己中心的な生き方からどうしたら脱却できるかということであります。パウロは二四節で、「わたしはなんというみじめな人間なのだろうか。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と嘆いた後、なんの説明もなく、大変唐突に、すぐその後、「わたしたちの主イエス・キリストを通して、神に感謝いたします」というのであります。

 この唐突さは、この自己分裂の状態から脱却できたのは、自分の努力とか自分の悟りではなく、自分の力なんかではなく、自分以外の他の人の助けによってであるということから来ているのではないかと思います。自分以外の他の人から与えられる救いというものは、いつでもこのように唐突なのではないでしょか。こうだから、こうなる、という順序をふまえて、救いが与えられるのではなく、他から与えられる救いはいつでも思いがけないものなのではないでしょうか。

 ましてこれは神からの救いであります。それはわれわれの予想とか、計算とかを超えて、思いがけない時に、上から与えられるものなのでありまます。だからそれはいつでも唐突であるし、なんの説明もできないのかも知れないと思います。

 そしてこのあと、パウロは「このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の法則に仕えているのである」と記すのであります。大変不思議なことに、これは救われる前と、救われた後と、全くなにひとつ状況は変わっていないかのように記しているのであります。

 これは救われる前の状態を述べているのではないのです。なぜなら、ここでは、「肉では罪の法則に仕えているのである」と現在形で述べているからであります。救われた後もそうだというのです。状況は救われた後も救われた前とひとつも変わっていないのです。

 しかしこの最後の文章には、「なんというみじめな人間なのだろう」という嘆きも、いらだちももう感じられないのであります。ただ淡々と自分の分裂している現実を認めている、容認している、そういう静かな気持ちがあると言えるのではないかと思うのです。もう悪あがきをしないというか、自分で自分のことをもう救おうとしない、ただ神の救いだけを待つ姿勢をもっているという安らぎを感じれるのであります。

具体的な問題でいえば、さきほど例にあげたわれわれが何か寄付をして人を助けたいと思うとき、同時にわきあがってくる、自分は善いことをしているという自分を自慢したい気持ちがわき起こっても、もう気にしない、もう自分にこだわらないということです。
ああ、また自分のしつこい自分を自慢したい思いが顔をだしてきたと思うだけなのです。

 そして、たとえそういう気持ちで寄付したとしても、現実に自分がだしたお金がその人のためになり、その人を助けることに働くのだから、もういいではないかと、そういう自分の気持ちなんかどうでもいいではないかと、自分のことをふっきって、寄付ができるようになるということではないかと思うのです。

 われわれも救われた後も、救われた前とあまり状況は変わっていないかも知れません。しかしわれわれはもう悪あがきはしていない。神の助けを待っている、いつでも聖霊の助けと働きを信じている、そのことだけは言えるのではないかと思うのであります。われわれが自分の分裂から脱却できるのはこの道しかないのではないかと思うのであります。