「罪を犯さなかったイエス」 ヘブル書四章一四−一六節

わたしは七○才になって、牧師を引退いたしましたが、引退したあと、説教するとは思いませんでしたが、こうして説教する機会を与えられることは大変ありがたいことであります。おもいがけないことに、無牧の教会から定期的に説教にきてくれと頼まれるようになりまして、最初のうちは、もう新しく説教を造るエネルギーはないと思って、さいわい今までした説教はパソコンの中に入ってりおましたから、そのうちの一つを引っ張り出して、一週間かけて推敲して推敲して、説教をしておりました。それはそれで大変楽しい作業で、新しい発見がありました。

 あるときに、指揮者の小澤征爾が大手術をしたあと、これからまた復帰するという記者会見がありまして、彼が自分は七十になってけれど、これから第二の人生が始まるのだといっておりました。わたしは彼と同年代ですので、自分もまたこうしてはいられないと思いました。折角、説教する機会を与えられるのだから、また新しい思いをもって説教を造ろうと思いだしまして、いろんな教会で説教を頼まれましたときに、新しく説教を造り始めました。

 そのときに、教会という現場から離れて、説教をするようになって、聖書を読んでいるときに、教会という枠というか、しがらみから離れて説教をしようとするときに、いくつかの発見がありました。

 今日はそのうちの一つをお話しようと思っております。それは何かといいますと、さきほど読んでいただきましたヘブル書に「この大祭司はわたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同じ試練に会われたのです。だから、憐れみを受け」というところで、この大祭司、つまり、イエス・キリストは罪を犯さなかったが、わたしたちの弱さに同情できるかただ、ここは口語訳でいいますと、「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」となっておりますが、イエスは罪は犯さなかったが、われわれの弱さを思いやることができるというのです。

罪を犯したことのないイエスがどうして、罪を犯してしまうわれわれ人間の弱さを思いやることができるのか、同情できるのか。このことは、わたしにとっては、現役の時からずっと脳裏にひっかかっていた問題だったのです。

 イエスが罪を犯さなかったということは、イエスは罪の一かけらもなかったということなのか、その心のなかにいっぺんの曇りもなく、邪悪な心がひとつもない、いわば、聖人のような人だったのだろうか。前に遠藤周作というカトリックの作家が「おばかさん」というイエスをモデルにした小説を書いたことがありましたが、その「おばかさん」は、全くのお人好しで、善人で、というような人物として描かれていたと思います。イエスもそういうまったくの善人で、聖人のような人だったのだろうか。

バッハのマタイ受難曲の冒頭の合唱で、イエスは「罪も穢れもなく、十字架につけられ」と歌うところがありますが、イエスはそのように穢れもない人間だったのだうか、そういう人がどうして、罪を犯してしまうわれわれの弱さに同情できるのだろうかということなのです。

確かに、罪を犯したことがなくても、罪を犯した人の弱さを思いやることはできるかもしれません。たとえば、自分の息子が人を殺してしまったというときに、その母親は自分自身は人を殺したという経験がなくても、人を殺してしまった息子の弱さを思いやることはできると思います。それは母親は息子を愛しているからです。愛は想像力、想像力というのは、クリエイティブという創造という意味でではなく、イマジネーションとしての想像力であります、愛は想像力を生み出して、罪を犯してしまった息子の弱さを思いやることはできる思います。

想像力を生み出さないような愛は、愛でないのです。つまり想像力というのは、相手の立場に立つという想像する力であります。相手の弱さに立つというイマジネーションであります。そういう想像力のない人の愛は、ただ自分の親切心を、自分の善意を、自分の愛を相手に押しつけるだけで、そんなものは愛ではないのです。

人を殺した経験をした人だけが、人を殺した人間の弱さを思いやることができるというわけではないと思います。逆に平気で人を殺すことをした人間、人を殺すことのできる人間は、罪に鈍感なだけで、決して人の弱さなど、人を殺してしまった人間の弱さなど思いやることなんかできるはずはないのであります。

 深い愛を持った人は、自分が人を殺したという経験をしていなくても、そういう罪を犯したことがなくても、人を殺してしまった人間の弱さを思いやることはできると思います。

 イエスもそういう意味でわれわれ人間を深く深く愛しておりましたから、われわれ人間の弱さに同情できたことだろうと思います。
 
 しかし、「イエスは、罪を犯さなかったが、あらゆる点でわたしたちと同様に試練に遭われた」ということはどうでしょうか。

 われわれと同じ試練に遭われたということは、たとえば、イエスは「情欲をいだいて女を見るものは、心のなかにすでに姦淫をしたのである。右の目がそのように罪を犯すなら、右の目を切って捨てよ」といわれましたが、情欲をいだいて女を見た事のない人が、そんなことがいえるだろうか、イエスもまた一度は、情欲をいだいて女をみたという試練に遭い、そしてそれに打ち勝ったということなのではないか、情欲をいだいて女を見てしまって、そうしてそのようにして見た自分の右の目を切って捨てたいという思いをもったことがあったのではないか、そういう試練に打ち勝って、しかし姦淫をしなかったのではないか。だからああしたことがいえるのではないか、ということなのです。

 こんなことはやはり、現役のときには説教のなかで言えなかったのです。言いたくなかったのです。そんなイエスに対するイメージをもちたくなかったし、それを信徒に伝えることはできなかったのです。しかし、現役を離れてここのところを説教をしたときに、わたしはこう説教したのです。

 「イエスも情欲をいだいて女をみたことがあったのではないか。しかし、イエスはその欲情と激しく闘って、姦淫という罪を犯さなかった、それが「この大祭司は、罪を犯さなかったが、あらゆる点でわれわれと同じ試練に遭われた」ということなのではないか、だからこそ、イエスはわれわれの弱さに同情し、同情できたのではないか、ヘブル書では、「イエスは罪を犯さなかった」とは書いているが、「イエスは罪と闘わなかった」とは書いていない、つまり、イエスは罪と激しく闘って、それに打ち勝って、罪を犯さなかったのだ、それがイエスの地上での生きた姿だったのではないか、と説教したのです。

イエスは、あらゆる点で試練に会われたというのです。試練に会うということは、自分の心のなかで、情欲をいだいて女をみてしまうという試練に会うということではないでしょうか。そういうことにまったく心動かされない人、まったく罪を犯してしまう心の動揺を味会うことがなかったというのならば、それは、あらゆる点で私達と同じ試練に会ったとは、決していえないのではないか。

 同じヘブル書で、イエスはこの地上でこういうように生きたのだと記されているところがあります。
 「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげて、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いをとをささげ」とあります。イエス・キリストは、肉において生きていたとき、この地上で、われわれと同じ肉の生活をしていたときに、「激しい叫びと涙を流した」というのです。

これはわれわれ人間の罪に対する激しい憤り、深い悲しみのなかで、激しい叫びと涙をながしたということかもしれませんが、しかしそれは単なるわれわれ人間に対することだけでなく、ご自身のなかにある罪との激しい闘いのなかで、激しい叫びと涙を流したということなのではないか。そうでなければ、どうしてイエスはあらゆる点で、われわれと同じ試練に会われたと言えないのではないか。

イエスは宣教を開始するときに、荒れ野にいって、四十日間、昼も夜も断食をしたというのです。それはちょうど日本の禅僧のように、座禅を組んだり、あるいは山のなかにこもって荒行を行ったようなものかもしれません。

 しかし、聖書はそのあと、イエスはどうしたかといいますと、「昼も夜も断食したあと、空腹になられた」と書いているのであります。「空腹になった」というのです。仏教のように修養をつんだり、荒行をつんで、仙人のようないわば聖人になったというのではなく、「空腹になった」というのです。聖書は実にリアルであります。われわれ人間とまったく同じなのです。

 そうして悪魔の誘惑に、悪魔の試練に会うのです。「お前が神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうか」という試練に会われたのです。イエスはお腹がすいて、パンが欲しくてたまらなかっただろうと思います。しかし、イエスはその思いと激しく闘って、「人はパンだけで生きるものではない」といって、悪魔の試練に打ち勝ったのであります。罪を犯さなかったのです。

 イエスが情欲をいだいて女をみたことがあったのではないかなどということは、わたし自身も考えたくはないのです。そんなイエス像は思いたくもないし、ましてそれを説教で教会員に伝えたくはなかったのです。現にそんな説教は現役の時はしなかったのです。

 ある教会で、受難節での説教を頼まれて、ゲッセマネの園での箇所で、イエスが「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っているところがありますが、そのところでこういう説教をしたのです。
 イエスはそれまで弟子達に三度にわたって、自分は十字架で殺されるんだと予告しておりながら、このときに、この期に及んで、自分を十字架につかせないでくださいと父なる神に祈っている。そのかたわらには、あの弟子のペテロもいた。ペテロは眠くてもうろうとしていたのかも知れませんが、ペテロは、このイエスの祈りの言葉をどのような思いで聞いたのだろうか。

 イエスが、自分は十字架で殺されるんだと弟子達に告げたときに、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」というのです。神の子であるメシアがそんな死に方をしてはいけないと思ったのです。そのときに、イエスはなんと言ったか。「サタンよ、退け、お前は神のことをおもわないで、人間のことを思っている」といって激しくペテロを叱責しているのです。
 
 そうしますと、この時、イエスがまさにペテロに対して「サタンよ、退け」といって叱責した、その同じことをイエスはここで父なる神に祈っているということになるわけです。この「わたしを十字架につけないでください」という訴えは、まさにサタンの思い、つまり罪の思いだとということになるのです。

 イエスはここで決定的に罪を犯しそうになっているのだということなのではないか。ペテロはこのとき、このイエスの祈りの言葉をどのような思いで聞いたのだろうか。

 しかし、イエスとペテロと決定的にちがっているところは、この時イエスは最後に「しかし、わたしの思いどおりにではなく、みこころのままになさってください」と祈っているということなのです。イエスはここでペテロと決定的に違って、自分の思いと闘い、自分の罪と闘い、サタンの思いを退けて、神のみこころに従っていこうとしたということなのです。そして事実、神のみこころに従って十字架で死んだのです。

 これが、イエスは罪は犯さなかったが、あらゆる点でわれわれと同じ試練に遭われ、そうしてわれわれの弱さに深く同情し、同情できて、われわれのために執り成しをしてくださったということなのではないか。
 
 ヘブル書では、「キリストは肉において生きておられたときに、激しい叫び声をあげ、涙をながした」と記したあと、続けてこう記すのであります。「涙を流しながらながら、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いをささげ」と記しているのです。
イエスが「激しい叫び」と「涙をながした」というのは、われわれ人間の罪をみて、その罪に憤り、激しく叫び、われわれの罪に深く悲しみ、涙をながしたということはもちろんあったでしょう。しかし、それだけではなかったと思います。それは単にわれわれ人間のために、そうしたというよりは、ご自分の罪に対して、激しい叫び声をあげて罪と闘い、涙をながして、父なる神に助けを乞い、祈られたということでもあると思います。

 イエスが自分の罪と闘って、それを克服し、それに勝利して、最後には罪を犯さなかったのは、決して自分の意志の力などではないのです。激しい叫び声をあげ、つまり自分の弱さと悪戦苦闘しながら、涙をながし、ただひたすら、「自分を死から救う力のあるかたに祈りと願いをささげて」、罪を犯さなかったということなのです。

われわれは自分の中にある罪と闘うときに、ただ自分の意志の力とか、禁欲するとか、そんなことだけでは到底自分のなかにある罪と闘うことはできないのです。もちろんそうした意志の力、努力、禁欲、節制するということは必要であります。しかしそれだけで、われわれは自分の中にある罪と闘うことなどできないのです。そのように闘いながら、くじけそうになり、そして実際になんどもくじけ、そのときに激しい叫び声をあげ、涙を流しながら自分を罪という死のの中から救いだしてくださる神に祈りと願いを捧げて、罪を克服できるのではないか。

イエス・キリストは、そのように自分のなかにある罪の思い、女を見て情欲をいだいてしまう思い、空腹になられて、パンが欲しいと思ってしまう、あるいは、高いところから飛び降りて、何か奇跡を起こして大衆を導きたいという誘惑をおぼえてしまう、富と権力で民衆を導いていきたいという誘惑に駆られてしまう、そういうわれわれと同じような試練に会い、身をもってそのような試練に会い、その罪と激しく闘い、叫び声をあげ、涙を流しながら、父なる神に祈りと願いを捧げて、罪を犯さなかったのであります。

 そういうイエス像を想像することは、救い主イエスを貶めることなのでしょうか。

 われわれはイエスの姿を、あの中世の画家たちが描いたような後光をさしたイエス像のなかに神の子イエス、救い主イエスの姿を見ようとしていいのだろうか。
そんなイエスがどうしてわれわれと同じ試練に会われたイエスだといえるでしょうか。

 イザヤ書には、後のメシアを預言したといわれる「苦難のしもべ」の歌が預言されておりますが、そこでは、「この人は、見るべき面影はなく、輝かしい風格もこのもしい容姿もない」と記されているのであります。「彼は軽蔑され、人々に捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っていた」というのです。それは決して後光がさしている聖人の姿ではないのです。

 われわれと同じ一人の罪人になりきった救い主の姿を預言しているのであります。

 フィリピ書では、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ姿になられた。人間の姿で現れ、へりくだり、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順であられ」と記されているのであります。

 イエスは決して聖人としてこの地上の生活を送ったのではないのです。われわれの一番低いところまで、降りてきてくださって、われわれと同じ試練にあい、われわれの弱さを身をもって知ってくださったのです。だからこそ、このイエスはわれわれがどう祈っていいかわからなくなったときにも、われわれと共に苦しみ、うめきながらわれわれの祈りを父なる神にとりなしてくださるのであります。

 それがあの十字架の最後の祈りの言葉、「わが神、わが神、どうじてわたしをお見捨てになったのですか」という祈りの言葉になったのではないかと思うのです。それは決して聖人の祈りではないのです。イエスは、まさに罪人の一人になりきって、自分は見捨てられかもしれないという思いと闘いながら、「わが神、わが神」と父なる神に助けを求めて、死んでいかれたのです。そしてそのなかで、ルカ福音書が記しておりますように、イエスは「すべてを神に委ねます」と祈って死んでいかれたのです。

 われわれは死が間近に迫ってきたときに、どんなに不安にかられるかわからないと思います。クリスチャンとして立派に死にたいと思っていると思います。クリスチャンとして立派に最後の言葉を家族に残して死にたいと思っているかもしれません。しかし、そんなに都合よく美しく死ねるわけにはいかないと思います。

 われわれは、美しく死のおうとか、立派に死のおうとか、そんなことを考える必要はないと思います。どのような死に方をしようが、どんなに死にたくない、死が怖いと叫びながらも、そのときに「わが神、わが神」と、神に訴えて死を迎えられる、イエスが、激しい叫びと涙流しながら、ご自分を死から救う力のあるかたに祈りと願いを捧げて死んだように、われわれもそのように死ぬことが許されている、それがわれわれ信仰者の慰めであるし、それが罪と闘うということであるし、そのようにして、われわれは罪を犯さなかったという生き方、死に方ができると言うことなのではないかと思います。

罪を犯さないということは、罪と闘って罪を犯さないということなのです。
われわれ人間はみなそれぞれ違った環境のなかで生まれ、違った遺伝子をもち、違った性格をもって生まれ、育ってきているのです。生まれつき、それこそ善人のような人もいれば、生まれつき愛情深い、愛情豊かな人もいるのです。しかし、また自分のなかにどうしようもない悪意をもっている人、人以上に欲望を持っている人もいるかもしれません。しかし、罪を犯さないということは、そういう自分のなかにある罪と闘いながら、激しく叫び、涙を流しながら、自分を罪という死から救い出してくださる神に助けを求め、祈りながら、罪を犯さないという生き方をしていかなくてはならないと思います。

イエス・キリストは確かに罪を犯さなかったのです。穢れないおかただったのです。しかしそれは激しく罪と闘いながら、罪を犯さなかった、そういう意味で、穢れのないおかただったというこさとなのであります。