「罪と罰」 創世記三章八ー二四節 ロマ書後五章一二ー一九節


 神から食べるなと禁じられていた善悪を知る木の実を食べた後、男と女の目は蛇がいうように、確かに開かれました。しかし目が開かれて彼らが見たものは、自分達の裸であり、しかもその裸をただ醜いもの、恥ずべきものとして見たのであります。それでいちじくの葉でその恥部を被わざるを得なかったのであります。そして彼らの助け手としての関係は破綻し、お互いに非難しあう関係になってしまったのであります。

 そして彼らはさらに神の歩まれる足音を聞いて、木の間に身を隠さざるを得なかった。神を恐ろしいかたとして見るようになったからであります。罪を犯した人間の罪の結果は、人間関係においては、恥の感情、神との関係においては、恐れの感情をもたざるをえなかったのであります。

 それは罪を犯した人間が自ら招いた結果であります。しかし神はそれだけにとどめずに、神みずから、罪を犯した人間に関わろうとするのであります。それをわれわれは罰と呼ぶのであります。聖書には、罰という言葉は使われていないのですが、これを罰といっても差し支えないと思います。

罰は怖いものです。私は小さい時から仏教の説話にある地獄という存在におびえながら生きたものであります。悪いことをしたら地獄に堕とされるのだと、ある意味では、本気で信じていたようなところがありました。
 そして中学のときに、はじめて聖書にふれたときに、「情欲をいだいて女を見るものは、心のなかですでに姦淫したのである。右の目が罪を犯したら、それを抜き出して捨てよ、全身が地獄に落ちるよりはよい」という聖書の言葉に出会って、ああ、ここにも地獄のことが書かれていると思って恐れおののいたものであります。それ以来、聖書をその視点からしか読むことができないで、聖書を律法主義的に、間違って読む事になってしまったのであります。

 最初に、神の愛から聖書を読むか、地獄の恐怖から聖書を読むか、それによってずいぶん違ってしまうのであります。そういう意味では、クリスチャンホームに育てられた人は、神の愛からキリスト教にふれるわけで、聖書を正しく読めるのではないかと思います。

罰というものは、罰を下す者の意志というものがあります。罪を犯した結果起こった悲惨なことは、いわば自ずから、必然的に起こったわけですが、罰は罰する者の意志と意図というものがあるはずであります。

 問題は罰を下す者が誰かということであります。それが悪魔なのか、それとも神なのか。

 神が罰をくだすことが創世記の三章一四節から記されております。

 まずへびに対する罰として、「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這い回り、塵をくらう」ということであります。

 そしてさらにこういわれる「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
 
 女に対する罰を越えて、女の子孫、つまり人類全体に対する罰が語られております。どういう罰かといいますと、へびと人類との戦いであります。このへびは悪魔の象徴として考えてもいいと思います。

 つまり、人間と悪魔との永遠の戦いであります。そしてこの戦いは、どちらが決定的に勝利を収めるという戦いではない。蛇は人間の頭を砕き、人間は蛇のかかとを砕くというのです。しかし、実際のイメージからすると逆に表現したほうがいいように思います。つまり、人間が蛇の頭を砕き、蛇が人間のかかとをくだとという方がいいように思えます。

 つまり、これは人間がへびの頭を打ち砕いてこれでへびに勝ったと思ったとたん、人間はそのかかとをへびにかまれて、そのかかとが砕かれている、そういう戦いがこれから永遠に続くのである。どちらが勝利を収めるという戦いではなく、どちらも決定的に勝利を収められない戦いが果てしなく続くのだということであります。

 それは、人間が悪魔の頭を砕くという、力による粉砕という戦いをとるならば、一時は、その戦いに勝利し、悪魔をこれでやっつけたと思っても、やがて悪魔はわれわれのかかとをねらって忍び込んでくるという果てしない戦いになるというのであります。。

 力で、暴力で、相手をやっつけようとすれば、この闘いはどちらが徹底的に勝利する闘いではなくなって、勝ったと思ったとたんに、今度はテロによって脅威をおぼえる、ちょうどモグラたたきのように果てしない戦いが今日でも続いているわけです。

蛇に対する罰は、われわれに力による闘いの空しさ、を教えてくれます。そしてわれわれは神が完全に勝利するとき、つまり終末の時まで、悪魔との果てしない闘いが続くのだということを教えくれるのではないかと思います。

 次に女に対する罰であります。口語訳「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。」女にとって子供が与えられるということは、一番の喜びの時、祝福の時であります。その時に苦しみがあるということはどういうことなのか、それは女が罪を犯したからだというわけであります。出産の苦しみ、陣痛の苦しみ、それは理不尽なものであります。
 
しかし、陣痛の苦しみというのは、確かに女にとっては、苦しみの時でありますけれど、しかしもし陣痛の苦しみがなかったならば、われわれはどこで命の重みとか尊さを会得できるか。この陣痛の苦しみというものがあるために、われわれは生まれてくるもの、命の尊さというものが身をもって味わうのではないか。もし手軽に子どもが生まれるならば、果たして生まれてくる命というものの重み、その尊さというものを実感できるだろうか。
陣痛の苦しみは、確かに罰であるかもしれませんが、またわれわれに生まれてくる命の尊さをわれわれに教えてくれるのであります。

 そして次に「お前は男を求め、彼はお前を支配する」というのです。ここも口語訳では、「それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と訳されております。「それでもなお」というのは、新共同訳にはなく、原文にはないようであります、口語訳がそれを挿入したのは、陣痛の苦しみのもとを与えたのは男、夫ですが、それでもなお夫をを慕うという意味が込められているのではないかと思います。それでも妻は夫を慕い求め、そしてしかも夫は妻を支配し、妻を服従させるという関係が続くだうろというのであります。

 それは、妻はどんなに夫から服従を強いられても、妻は夫を慕い続けるということであります。それが男と女の関係であるというのです。それは罪を犯す前の、お互いに裸であったが恥ずかしいとは思わなかったという、対等の男女の関係、お互いに助け合うという関係は破られて、夫が妻を支配するという関係になってしまう、しかもそれならば、妻はあっさりと夫を離れ、夫を見捨てていけるかというと、そうはならなくて、それでも夫を慕い求めるという関係になるだろうというのであります。

 これは単に夫と妻、男と女という関係だけではなく、およそ人と人との関係は、そういう関係であるということではないかと思います。

 人と人との関係というものは、女であれ、男であれ、人が人と交わろうとするならば、ある時にはしもべとして、自分が仕えるという形で、つまり相手に支配されることに甘んじるという形で、しかもそれでも相手に敬意を示しつつ、相手を慕う、相手を愛し続けるという形をとる以外に、人と人の関係は維持できないということなのではないかと思います。

 相手から支配されるのは嫌だ、いつでもこちらが支配する立場に立ちたいと考えたり、あるいはいつでも対等な関係でなくてはいやだといったら、人と人との関係は成り立たないのではないか。少なくとも罪人どうしの交わりは、どちらかが仕えるという覚悟をとりつつ、相手をそれでも慕う、相手を愛するという思いをもたなければ、人と人との関係はなりたたないのではないかと思います。仕えながら、相手を慕うということがなければ、われわれの人と人の交わりは成り立たないだろうと思います。

 次に男に対する罰であります。口語訳、「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」といわれるのであります。労働の苦しみ、しかもそれは労働の空しさであります。

 ここで記されております労働はどうも農業のことのようであります。農業というのは、自然との戦いであります。どんなに人間が努力に努力を重ねても、ひとたび嵐が起こり、あるいは干ばつになれば、人間の一切の努力は無にされてしまうというものであります。

 この労働の空しさというのは、そういう人間の力を越えた自然の脅威から起こる空しさであります。人間というものは自然の前に立つ時にどんなに小さなものかということを思わされるのであります。その時にわれわれは人間の傲慢さ、自分の傲慢さが打ち砕かれるのではないかと思います。

 ここで語られている労働の苦しさとか空しさは、農業に携わる者の労働のことのようです。ここではまだ資本主義の構造の中での資本家に搾取される労働者の労苦とか空しさが考えられてはいないとは思いますが、不思議なことにそれをまるで予言するかのような労働の苦しさと空しさがここで語られているのであります。

 そして最後には土のちりに帰る、死ぬということで終わるのだということであります。人間はこの時にもう一度、自分達が土のちりから造られたものであること、自分は神ではないことを最後に悟らされるのであります。

 人間は最後には土に帰る、死ぬということはなんとありがたいことではないでしょうか。罪を犯した人間がいつまでも死ななかったならば、こんな悲惨なことはないのであります。われわれはいやがおうでも、最後には死ということを通して、それは自分の死ばかりではなく、他人の死を通して、自分たちが造られ存在に過ぎないことを悟らされるのではないか。
そのようにして、われわれはもう一度、神の前にひれ伏し、自分が塵に過ぎないものであることを悟り、われわれが神の息を吹き入れられて、はじめて生きることができるものであることを確認させられるのであります。

 これらのことが、神がくだす罰であります。

 ここでは、へびは呪われております。一四節に「お前はこの事をしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる」と、へびは呪われるのであります。そして地が呪われのであります。一七節に「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、命じた木からとって食べたので、地はあなたのために呪われ」と地が呪われているのであります。

 へびがのろわれるのはわかります。女を誘惑しているからであります。しかしなぜ地が呪われなくてはならないのか。ここでは、罪を犯した人間のために地が呪われる、と言われるのであります。しかしここでは人間は直接には呪われないで、その代わりに地が呪われるのであります。不思議であります。しかしここに、これを語る聖書がどんなに慎重に神の罰を語ろうとしているか知ることができるのではないかと思います。

 神は罪を犯した人間に罰を与えました。それは罪を犯してしまったアダムとエバ、罪を犯してしまった彼らの人間どうしの関係を修復し、また神との関係を修復させるための罰でした。それは苦しみを与えるだけの罰ではないのです。それは罪をおかしてしまった人間を再生させるための、いわば教育的な罰であります。

 そして神はさらに、ご自分のひとり子イエスを、罪を犯した人間の一人として、罪人の一人としてこの地上にうまれさせて、罪人がどのように生きたらいいか、どのように再生の道を歩んだらいいかを示してくださったのであります。

 そのことをパウロはいっております。「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの正しい義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである」というのであります。

 罪を犯した人間が受けなくてはならない罰、罰というよりは、人間の現にある苦しみとか空しさとか、悲しさ、それをイエス・キリストがこの地上にひとりの罪人として生きて、どのようにそれを克服してくださったのかを教えてくださったのであります。
 
 イエス・キリストは、処女降誕であった。それはマリヤという女の胎内に宿り、従ってあの陣痛の苦しみを通してイエスはこの世に誕生したのであります。
処女降誕ならば、もっと徹底して、羽衣の天女のように、どこかの松林に天からおりてきてもよさそうなのに、神はそうはなさらなかった。具体的にマリヤという女を通して生まれさせたのであります。イエスご自身が陣痛の苦しみを味わったわけではないでしょうが、その誕生にはその陣痛の苦しみがあったのであります。

 そしてイエスの生涯は神の子でありながら、仕えられるためではなく、仕えるためにその生涯の道を歩まれたのであります。そうしてわれわれ人間を愛し通されたのであります。あの女に言われたこと、「それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」という言葉は、「夫があなたを治めても、それでもあなたは夫を慕う」という言葉に置き換えられることであります。そしてその歩みかたをイエスなさったのであります。イエスは仕えるということを通して、われわれ人間を愛し通された生涯を歩まれたのであります。

 そしてイエスのあの神の子としての宣教者の働きもまた最後まで、実りのない空しい働きに見えるのであります。「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」のであります。イエスのたとえた話にこういう話があります。あるぶどう園の主人がいちじくの木を植えても三年間実がならなかった。それでもうこの木を切り倒してしまえ、園丁に命じたところ、園丁は、「もう一年待ってください、そのまわりを掘って肥料をやってみますから」と、取りなしたというのであります。
 この園丁はイエスご自身のことであります。イエスの働きがどんなに実のりのない働きであったか、しかもイエスはそれでもその労働を最後まで止めずに、肥料をやり続けようとしたかということであります。

 そしてイエスは最後には十字架の上で死ぬのであります。イエスの悪魔の戦いも最後には力によって悪魔を屈服させる戦いではなく、自分が死ぬという戦い、自分が負けるという戦い、自らが悪魔のいわば生け贄として、自ら呪われたものとして、十字架で死んでいくのであります。

 イエス・キリストはこの創世記の三章で示されている罪を犯した人間が受けた罰を自ら担い、その生涯を歩まれたのであります。

 そして神はそのイエスを最後に、このようにして生き、このようにして十字架で死んだイエスをよみがえらせて、悪魔に勝利し、われわれ人間の罪に勝利をなさったのであります。

 出産の苦しみも、あの治められながら、しかも慕い続けるという人との交わりも、そして労働の苦しさと空しさも、そして最後に死を迎えるということも、そのどれもが決して空しいものではなく、最後には悲惨に終わる道ではなく、勝利の道なのであることをわれわれに示してくださったのであります。

 さて、神はなぜアダムとエバをエデンの園から追放されたのでしょうか。二二節を見ますと「主なる神は言われた『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』。」と記されております。

 罪を犯してしまった人間が、神にはなれなくて、ただ神のようになろうとするだけの人間が、永遠に生きることになってしまったら、どんなにグロテスクに生きることになるか、それは人間だけでなく、この全宇宙の破壊になってしまう、それを憂えて神は彼らをエデンの園から追いだしたのであります。

 そして二一節では、「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼ら着せられた」と記されております。 

 罪を犯してしまったわれわれはもう子供の素朴さで裸のまま外を歩き回ることできないのです。外に出て、人とそのように接することはできないのです。どうせ人間は醜いのだから、その恥をさらけ出して生きようなどというのは、開き直りであって恥の上塗りというものであります。だからと言って、常に自分の恥を絶えず気にしながら、いわば赤面恐怖症になって生きることもつまらない生き方であります。
 
 神はそういうわれわれに皮の着物を造ってわれわれの恥部をわれわれの罪を被って下さって生きる道を備えてくださったのであります。着物で被ったからといって、われわれの恥部がなくなったわけではない。ただ被われているだけであります。しかし、神はわれわれの恥部を被ってくださった、われわれの罪を被ってくださった。われわれはそのことを信じて、神に罪赦された者として、イエス・力ストが具体的に生きてくださった歩みを、この地上で生きていきたいと思うのであります。batsu