「罪と死」   ローマ書五章一二ー二一節 創世記三章一ー一九節

 「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入りこんだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」とパウロはいいます。

 「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり」とありますが、これは言うまでもなく、創世記に書かれております、アダムとエバのことであります。いわゆる原罪と言われる罪のことであります。

われわれは罪を犯すのもなにか自分ひとりの意志で、「よしこれから俺は罪を犯すぞ、悪いことをするぞ」、などと英雄的に罪を犯すのではなく、そもそものはじめは誰かに誘惑されて、蛇に誘惑されて女は罪を犯し、男は女に誘われて罪を犯してしまうので、自分の主体的な意志で罪を犯すなどというかっこいいものではないということであります。

 そしてその罪はひとたび、われわれの心のなかに入り込むと、それはもうわれわれの体の組織の一部のように入りこんでしまって、われわれを振り回し、われわれを支配するのであります。

犯罪者を捕まえようとする時、警察はまずその手口を調べるそうです。そうするとその手口の傾向がわかって、これをしたのは、あいつだということになって犯人がつかまってしまう。それならば、犯罪をする者は前とは違う手口を使えばよさそうなのに、そうしない、いやそうできないのだということであります。罪はもうわれわれの体の一部のようにしみついてしまって、それはもう習慣のようになってしまって、われわれは自分の罪に引きずり回されてしまう、罪に支配されてしまうのであります。

 聖書では、罪というものは、ただ単に自分の意志の問題としてだけとらえられるものでなくて、それは他から入り込んできたものとしてとらえられているのであります。それをサタンの誘惑として聖書は表現するのであります。

そしてひとたび一人の人によって罪が入り込んできますと、池のなかに石を投げ込むと波紋が広がるように、その罪はどんどんひろがっていって、やがてすべての人が罪を犯すようになるということでもあります。

 それは罪を犯した人間をどうやって処罰するか、ということをめぐってさらに罪が深化してしまうということでもあります。つまり人間の罪の恐ろしさは復讐という形でどんどんエスカレートして拡がってしまうということであります。

そして聖書は、「罪によって死が入ってきた」というのであります。すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだというのであります。

 これも創世記のアダムとエバの記事に記されていることであります。
 人間は罪を犯したために死が与えられるというのであります。「人間は土からとられたのだから、最後には土に帰る。お前はちりだから、ちりに帰るのだ」というのであります。罪の支払う報酬は死であるというのであります。

死は罪に対する罰だというのです。しかし、ここでは罰という言葉は使われてはいないのですが、これが罰だとしたら、ずいぶん穏やかなというか、罰とはいえないような罰なのではないか。つまり、たとえば、片方の手が罪を犯したら、切って捨てよ、両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりはよい。地獄では、蛆虫どもつきることなく、火も消えることがない、といわれるような地獄に落とされるというような恐ろしい罰としては、描かれてはいないのであります。

 そう考えますと、この創世記で記されております罪に対する罰は、罰でありながら、それはわれわれにとっては罰でありながら、罰を超えて救いにつながるものではないかと思います。

 創世記の記事は大変慎重に書かれていて、ここには、蛇は呪われます、また土地は呪われます、「お前は野の獣のうちでもっとも呪われる」とか、一七節では、「お前のゆえに、土は呪われるものなった」とか、蛇とか土は呪われておりますが、罪を犯した本人、人間に対しては、神は呪うとは書かれていないのであります。

 くわしいことは避けますが、たとえば、女に与えられた罰、陣痛の苦しみというのは、確かに苦しみでしょうが、もし陣痛の苦しみというものがなかったら、生まれてくる命の尊さというものが感じとれるだろうか。労働の苦しみとかも、やはり苦労して糧を得ることによって、生きるということの真剣さを知ることができるのではないか。

 そして死ぬということであります。ここでは、死は、「お前はそもそも土からとられたものだから、塵にすぎない存在なのだから、最後には塵に帰るのだ」ということであります。

 つまり、人間の罪とは自分が神によって造られた存在であるにもかかわらず、神のようになろうとして善悪の木の実を食べた、ここでいわれている善悪とは、道徳的な意味での善悪ということではなく、すべてのことを知るという全知ということであります、神のようにすべてのことを知ろうとすること、神になろうとすることが人間のそもそもの罪なのです。だから、もう一度人間を土に返して、人間が神でないこと、被造物であること、造られたものにすぎない事を知らせようとして死があるということであります。

 死は、われわれが神のようになろうとするという傲慢という罪を粉砕するための罰なのであります。だからそれは罰のようでいて、ある意味では神の恵みであります。人間が人間にすぎないことをわれわれに悟らせてくれる恵みでもあります。

ところが、われわれは自分が死ぬときに、立派な死に方をしたいと願うのではないでしょうか。クリスチャンとして、信仰者として無様な死に方はしたくないと思うのではないか。しかしそこにわれわれ人間の卑しい、浅ましい罪の思いが潜んでいないだろうか。

わたしが最初に赴任した教会のある一人の長老のことを思いだすのですが、そのかたはその教会の大黒柱だったのです。それは教会のなかだけではなく、耳鼻科の医者として、また市の初代の教育委員長としても活躍した人で、大変立派な人でした。そのかたが脳梗塞かなにかで倒れて、不自由なからだになりました。教会の礼拝にもなかなか出席できなくなり、役員もおりました。わたしが赴任してまだ一年にもなっていないときだったと思うのですが、しばしばその家にいって、一緒に家庭礼拝をして、聖書を学んだのです。家庭礼拝のあと、このごろは聖書も賛美歌もつまらなくなった。自分がしてきたことはなんだったのだろうかといいだしたのです。
それを聞いていて、奥さんはとても心配して、しきりに「主人が神の栄光を汚さないようにしてください」と、御主人の晩節を信仰者として汚さないことを祈っておりました。その奥さんもその教会を支えてきた、とても信仰の篤い人でした。
 それまで教会で役員をして、医者として、また町の教育に関しても、人の役に立ってきた人が、病気で倒れてもういっさい人の役に立てなくなったときに、生き甲斐をうしなって、信仰もまた失いかけてきたのです。
 
 そのうちに何かのきっかけか忘れましたが、信仰というのは、同行二人ということなのですね、と言ったのです。同行二人というのは、同じという字と行くという字、そして二人と書いて、同行二人と書くのですが、四国のお遍路さんが遍路の間かぶる笠に、書かれている言葉なのです、どんなにひとりで歩いても、弘法大師さまが一緒に歩いてくださっているということを現す言葉なのです。
信仰というのは、どんなときにも神様のほうで一緒に共にいてくださることなのですね、同行二人なのですね、と言いまして、そのかたの信仰は回復したのであります。そして最後は穏やかに亡くなりました。

 その奥さんはそれから十数年経ったとおもいますが、やはり脳梗塞かなにかで倒れて病の床につきました。もうわたしがその教会を去ってからのことでしたが、家族からの手紙で、そのかたは亡くなるころは、もう聖書も賛美歌にも興味をもたなくなったというのです。生涯を信仰一筋に貫いたひとが、御主人の信仰を心配して、「神の栄光を汚さないようにしてください」と祈っていたその人が、そうなってしまったということで、家族はとても心配したようです。あんなに熱心だったのにと嘆いたようなのです。

 わたしはそのことを聞いても少しもたじろぎませんでした。人が死ぬということは、あのヨブが「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきなむ」といったように、われわれが死ぬということは、われわれが裸で死ぬということなのだ、神はわれわれに生きているときには、いいものを沢山あたえてくださる、しかし最後には、神はすべてのものを奪うかたなのだ、神はわれわれのもっているとおもっている信仰まで最後には奪い取るかたなのだ、われわれの意識的な、自覚的な信仰は奪いとられるということなのかもしれない、人が死ぬということは、その人がもっていると自負していた信仰すら奪い取られて塵に帰ることなのだと思うのです。

 信仰の篤いと思われている人ほど、その信仰が奪い取られるのではないか。

そのかたは最後はもう幼子のようにして息をひきとっていったのであります。人は幼子のようにならないと天国にゆけないということはそういうことではないかと思います。そういう死に方が神の栄光を現すということなのであって、死ぬときになにか信仰的なことを口走ることが神の栄光を現すというようなことではないと思います。人間として死ぬのです、塵に帰ることなのであります。

 わたしの妻の母の晩年もそうでした。牧師夫人として、また教会付属の保育園の主任保母として何十年も奉仕してきたひとでしたが、最後は娘のところがいいということで、東京のわたしたちのところで引き取ったのですが、九十歳でなくなりましたが、最後の一年は寝たきりになり、一時意識が混濁して、夜幻聴を聞いたりするようになりました。その頃しきりに口走っていたことは、「ゆるしてください」ということでした。腰がもともと悪かったのですが、寝たきりになって、同じ姿勢のままではよくないということで、わたしと妻とで重い体の向きを変えようとしますと、しきりに痛がりました。そしてそのたびに「ごめんなさい」というのです。わたしはなぜ「ごめんなさい」というのか不思議でした。なぜ謝らなくてならないのか、なぜ謝罪しなくてはならないのか不思議でした。わたしはそのとき思いました。恐らく、この時の母の気持ちは、このようにしてこの期に及んで痛い思いをするのは、自分の今まで犯してきた罪の罰を受けているのだ、自分は今神の裁きを受けているのだという思いだったのではないかと思ったのです。神にあやまっているのだと思いついたのです。
 
 自分は今まで多くの人を傷つけてきた、自分は大変自己主張の激しい女だった、そのことを今思い起こして「ごめんなさい、ごめんなさい」と神様に謝っていたのではないかと思ったのです。
 彼女は性格の強い人でした。そのために保育園を立派な保育園にしてきました。ずばずばものをはっきりと言う人でした。そのために子供の母親たちをずいぶん励まし、支えてきたのでした。しかしまた同時の多くの人を傷つけてきたという思いもあったのではないかと思います。

 人が死ぬときに、思うことは、自分の数々のしてきたよいことてばないのです。自分の犯してきた罪のことであります。

 母はそのことを思ったのではないか。だからしきりに神に赦しを乞い続けたのではないかと思うのです。死ぬことにとても不安がっておりました。「わたしは天国にゆけるのかね」といっておりました。

 しかしそうした時期をすぎますと、ほとんど寝たきりの状態になり、好きなテレビも観なくなり、ほとんど一日中寝たきりになりました。もうそのころは、聖書にも賛美歌にもすっかり関心をうしなっていったのであります。そうして最後は急性肺炎になって静かに息をひきとっていったのであります。 

人が死ぬということは、「お前は塵にすぎない、だから塵に帰るのだ」といわれて死ぬということなのではないか。

 聖書では、どんな人の死も美化しようとはしていないのです。モーセは最後には、自分がそのために召された約束の地カナンに入ることが許されないで、ヨルダン川の手前、モアブの地で死ぬのであります。そして今日に至るまで、その葬られた墓を知る人はいないと聖書は記すのであります。
 
 あのイスラエルの王、ダビデの晩年も惨めでした。冷え性のために自分ひとりの力では夜眠ることができないために、若い娘ふたりをその傍らにはべらせて、からだを暖めてもらわないと眠ることができなかったというのです。最後に遺言めいたことを我が子ソロモンにいいますが、最初は立派なことをいいますが、その締めくくりは、自分を侮辱したものを一度は許すといったにもかかわらず、「彼の罪を不問にしてはならない、あの白髪を血に染めて、陰府に送り込まなければならない」と、復讐を託した言葉が最後の言葉なのであります。それは決して立派な死に方でも、美しい死に方でもなかったのであります。

 あんなに活躍したペテロもパウロの死も聖書はなにひとつ語ろうとはしないのです。かろうじて、ステファノだけが、殉教者として立派な死をとげたと記すだけであります。

 そしてヘブル人への手紙では、「これらの人はみな信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、地上では旅人であり寄留者であることを自ら言い表した。そう言い表すことによって、彼らがふる里を求めていることを示したのだ」と記すのであります。

この地上では、旅人として、寄留者として、つまり、あくまで、途上にある者として、未完成な者として、天を指し示しながら、それを望みながら死んでいったというのです。立派に死んでいったなどということは、一言も書こうとはしないのであります。

われわれは生きるということに関しては、立派に生きようと努力する必要はあるかもしれませんが、死ぬということに関しては、立派に死のうなどと努力する必要はないのではないか。

 「死は入り込んだ」と聖書は記します。それは死が人間が作り出したものでも、望んだものでもなく、「入り込んだもの」、つまり神によって入りこんできたものであります。

 自殺する人がおります、このごろは自殺という言葉は使わないで、自死という言葉を使いますが、自死する人は、自分で自分の命を絶つことがてぎるのだとおもっているかもしれません。しかし主イエスは、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできるかたを恐れなさい」と言ったあと、「二羽の雀は一アサリオンで売られている。だが、その一羽さえ、あなたがたの父なる神の許しがなければ、一羽も地におちることはない」といわれ、「あなたがの髪の毛までも、一本残らず数えられている。だから恐れるな、あなたがたは沢山の
雀よりもはるかにまさっている」といわれているのでりあます。

あのありふれた、いわば価値のない雀の一羽の命さえ、神の許しがなければ地に落ちない、死ないというのです。まして人間の命は、神の許しがなければ決して死ぬことはできないということであります。
 われわれは自分の命を自分勝手に処理でこるものではないのです。自死する人は自分で自分の命を絶つ、絶ったつもりかも知れませんが、その背後には神の許しがあったのだ、神の御手が働いて自殺することができたのだということではないかと思うのです。

神のおゆるしがなければ、神の御手が働かなければわれわれは自殺さえできないのであります。われわれはそこに自死した人に対する慰めを感じることができるのではないかと思うのです。

パウロはこういいます。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人を豊に注がれるのです」といいます。われわれはひとりの人イエス・キリストによって罪から救われるのだというのであります。

 「ひとりの正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の従順によって多くの人が正しい者とされたのです」といっております。一人の正しい行為とは、ひとりの人、イエス・キリストの従順な行為だというのです。

 主イエス・キリストのなさった行為とは、従順な行為だった。誰に対して従順であったかといいますと、父なる神に従順であったということであります。自分を主張しないで、父なる神に従順に従ったということでした。死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であったということであります。それがキリストの謙遜ということであり、キリストの義なる行為でした。

主イエス・キリストの死は、われわれ人間が期待するような崇高な死ではなかったのです。われわれ罪人のひとりになりきって、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫して、しかしそう叫びながら、最後には「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」と言って、息を引き取ったのであります。最後まで父なる神に信頼して従順に従って、神に捨てられるまでして、従順に従って死んでいったのあります。

 罪は死をもってわれわれを支配するのであります。アダムとエバは、罪を犯したからといって、ただちに死んだわけではないのです。しかし生涯、死の支配に脅かされて生きることになったのであります。

 ある人の言葉に、死を見つめていれば、死に見つめられるだけだと言う言葉があります。死だけを見つめていれば、死にみつめられて戦々恐々として、死に支配されて、生きることになるのであります。死だけを見つめるのではなく、その死を神の御手から受け取って、変な言い方ですが、神と共に死を見つめる、ということであります。

 神を信頼して、神に信頼して、今日一日、今日一日を生き、そして死を迎えたいと思うのであります。