「土のちりで造られた人間」  創世記二章四ー一七節 
               コリント第二四章七ー一○節


 創世記には二つの資料が使われて創造物語が造られております。一つは一章の一節から二章の四節前半のところであります。そしてもうひとつは、二章の四節後半のところからです。
 これは読んでみれば、すぐわかることです。初めの方の記事では、神は光をはじめに創造し、次に天と海を分け、それから陸地を造り、それから植物を造り、そして動物を造り、そして最後に人間を神様の栄光に似せて造られたというのです。そして最後にわざわざ七日という日を造り、神様は休まれたという話しであります。

 ところが後半の方の創造物語は、主なる神は、と、前の箇所では、ただ「神は」となっておりますが、ここからは、「主なる神は」となっているわけです。もう神様の呼び方まで、違うわけです、そこでは、主なる神が地と天を造られたときには、野の木も草も生えていなかったというのです。そして神はまず土のちりで人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れた。そのとき人は生きた。聖書では、「こうして人は生きる者になった」と記されております。

 創世記の創造物語は、一章からバベルの塔の物語が載っております十一章までに記されていて、これは当時流布していた神話を用いて、聖書の著者が「人間とは何か、世界とは何か」を語ろうとしたのであります。ですから、これはもちろん、フィクションです、つまり実際にあった出来事ではないのです。ですから、これは科学的な意味での天地とか人間の誕生の話しではないのです。

 十二章からアブラハムが登場してきまして、神話ではなく、イスラエルの歴史が語られていくのであります。
 
 今日学ぼうしております二章からはじまる創造物語では、人間の創造に関しては、前の人間に関する創造物語と全く違うように書かれております。

 一章のほうでは、人間は神の像に似せて造られた、いわば神の栄光を担った存在として、人間に特別の栄誉が与えられているのに対して、ここでは人間は土のちりで人が造られたのだということであります。そうしてその土のちりで造られた人間の鼻から神が命の息を吹き入れられた時に、人は始めて生きた者となったというのであります。ここにはあの一章で示された人間に対する見方、人間の尊厳をあらわす見方はみじんも感じられないのであります。

 土のちりというのは、吹けばとぶような存在ということであります。土のちりで人間が造られたということは、人間はもろい存在なのだ、人間は弱いものだということであります。しかし、その土のちりで造られた人の鼻に、神が命の息を吹き入れられた、そのときにはじめて、人間として生きることができるものとなったということであります。

 人間の弱さとはなんでしょうか。それはただ人間が土のちりで造られたということだけではないのです。土のちりで造られた人間がその鼻から神から命の息を吹き入れられて始めて生きることができたということ、この事実を忘れてしまうことです。あるいは、この事実を知っていてもそれを拒否したり、このことを認めて生きることをいさぎよしとしない生き方をする、そこに人間の弱さがあるということであります。

人間はひとりでは生きていけないし、ひとりで生きようとしてはいけないということであります。人間は神によってその命の霊を吹き込まれて始めて生きることが出来る存在なのだ、神に生かされて生きることができる存在、それが人間なのだということであります。

 そして、人間は神によって生かされるだけでなく、人間は他の人間に助けられないと生きられない存在なのだということでもあります。二章の一八節には「人がひとりでいるのは良くない」という神の言葉から始まって、人間には助け手が必要だということが述べられるのであります。最初は動物、しかし動物は人間の助け手にはなれなくて、最後に男に対する女が造られたという物語になります。これは何も男と女という関係だけでなく、人間はともかくひとりではだめだ、助け手を必要としているということなのです。人間は神から絶えず命の息を吹き入れられないと生きることはできないということ、そしてそれだけでなく人の助け手も必要なのだということであります。この事実を忘れ、この事実を拒否して生きようとする時に、人間の弱さが現れるということであります。

 ひとりで生きようとする人間、神も拒否し、人の助け手も拒否して生きようとする人は見た目には確かに強そうであります。しかしその強さはいつも弱さをうちに抱え、その弱さを人に見せまいとして、いつもぴりぴりしている強さではないでしょうか。そうしたことが本当に強いといえるかどうかであります。

 弱さについて考える時にいつも引き合いに出すことですが、竹森満佐一の言葉であります。「世の中でもっとも扱いにくいものは弱さではないか。弱い人というのは、大事にしすぎるとつけあがるし、厳しくするとひねくれる、甘やかすとまとわりついてくるというように、手におえないものだ」という大変辛辣な言葉であります。

 これは要するに、われわれが人を正しく信頼することができないことをあらわしていると思うのです。ここで言われている弱い人というのは、本当の意味で自立できていない人ということであります。自立できていないから、人の関係が正しい関係にならないということであります。甘えたり、ひねくれたり、まとわりついていく、過剰に依存的な人間になってしまう。

 自立するということは、人の助けを一切拒否して生きるということではなく、むしろ人の助けがなくては人間は生きていけないのだということを十分承知して、正しく人を信頼できるようになる、甘えることなく、ひねくれることなく、媚びることなく、人に信頼して生きられるようになれた時、その人は本当に自立したといえるのではないかと思います。
 
 その根源にわれわれ人間には神との関係があるのだとこの記事はわれわれに教えているのであります。人間は「土のちり」で造られた存在である、そしてその人間に神が命の息をその鼻に吹き入れた時に人間は始めて生きることができたのだというのであります。

 そのことをパウロは「わたしたちはこの宝を土の器のなかにもっている」ということで語るのであります。「この宝」というは、神の恵みということであります、ここのところでいえば「神の命の息」ということであります。
 その後パウロは「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことがあらわれるためである」というのです。だから「わたしたちは四方から艱難を受けても窮しない、途方に暮れても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない、倒されても滅びない」というのです。

 われわれは何度でも途方にくれることはある。艱難を受ければ窮することはいくらでもある。倒れることもある。迫害を受ければ、人からは見捨てられたと思う時もあるのです。 しかしその時に自分は神の命の息を吹き入れられて生きることができた存在なのだということを思い出して、神が必ず助けてくださるのだから、神を信頼して生きようという生き方をして、そのときに、たちあがることができるというのであります。

 さて、創世記の二章の八節をみますと、その造られた人間を「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこにおき、一五節からみますと、このエデンの園を耕させ、これを守らせられたのであります。

 そのエデンの園にはその中央に二つの木がありました。一つは命の木と、一つは善悪を知る木であります。そして主なる神は人に、ここは口語訳のほうがいいので、口語訳でよみますと、こうなっています。「おまえはどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言われるのであります。

 ここは多くの学者が言うには、二つの資料が混じり合っているのではないかというのです。園の中央には命の木があったという物語と、園の中央には善悪を知る木があったのだという物語があったのだというのです。それをこれを編集した聖書の記者が巧みに二つにしたのだというのです。

 といいますのは、命の木については始めにでてまいりますが、その後はなにも言及されないで、ただ三章の二二節に「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べて命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」と出てきて、ここで命の木のことがまた唐突にでてくるのであります。それまではこの命の木について言及されていない。そして始めは命の木から取って食べてはいけないという神の禁止命令は出ていないのです。

 一つの物語はこういうものであったかも知れません。園の中央には命の木があって、この命の木から取って食べてはいけない、という禁止命令があった。人は本来土のちりで造られ、その鼻から神の命を吹き入れらて始めて生きることができるのですが、人間がその事実を忘れ、命の木からその実を取って食べ、ひとりでつまり自力で永久に生きようとする、それは許されないことだ、命の木から自分勝手に取って食べてはいけないというわけです。

 しかし人間はそれを食べてしまった、だから神はエデンの園から人間を追放しようということになった、それがはじめの物語だったのではないかと想像できるのであります。

 もう一つの物語があった。それは命の木の代わりに、善悪を知る木の存在の物語であります。それを聖書は、巧みに再構成して今の創世記の記事に編集したのではないかと想像できるのであります。そしてこれによってこの物語の意味をもっと深いものにしたのではないかと思います。

 一六節をもう一度読みます。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」というのです。ここでは、繰り返しますが、命の木から取って食べてはいけないという禁止命令は書かれていないのです。
 
 善悪を知る木の実をどうして食べてはいけないのか、なぜ神はそれを禁止されたのか。それは、三章の五節にへびの言葉として「それを食べるとあなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる」とありますが、この「善悪を知る」ということは、道徳的な善悪という意味ではなく、神のようにすべてのことを知ることを意味しているのあります。

 ヘブル語の表現の一つに、ものの正反対のことを並べてその事柄のすべてをあらわすという表現があるそうです。たとえば、白黒という表現で色全体のことをあらすということであります。善と悪ということで、すべての知識ということをあらわしているというのです。へびの誘惑の言葉でいえば、その木の実を食べると神のように全てのことを知るようになって、神のように全知全能になれるんだよ、ということであります。

 神はそれを人間に禁止したのだということであります。なぜか。それは人間の本質にあっていないことだからであります。第一そんな事は人間にはできないことだし、できないことをあたかもできたかのように錯覚して生きることは人間の不幸であるし、人間の自滅であるし、それは人間そのものの死になるからであります。

 人間がそのようにして善悪を知る木の実を食べてしまった時、神はその人間をエデンの園から追放しました。三章二二節に、それは命の木の実からも取って食べ、永久に生きようとするからだと聖書は告げているのであります。ここではじめて命の木を取って食べて人間が永久に生きようとすることの危険が警告されているのであります。 

 これはまさに現代の人間の知恵の最先端ともいうべき科学技術が向かう方向を示していると思います。つまり、人間が最後のところで目指している知恵は、永久に生きるということではないか。不死、永久に死なないということであります。善悪の木の実を食べて神のようにすべてのことを知る、その目的は不死にある、永久に死なない、永久に生きようとするところにあるのではないかと思います。
 
 今アメリカでは、死んだ後も脳を保存して、やがて人間の科学が発達してそれこそクローン人間ができるようになった時に、再生しようとしているということであります。そういうことが真面目に考えられているということであります。人間の知恵のゆきつくところはそこにあるのであります。それは実にグロテスクな願いであります。

 そのことを考える時に、逆に人間にとって死ぬことが出来るということはなんとさいわいなことかと思います。人間が永久に死ななかったら、こんな不幸なことはない。莫大なお金をもっている人間、権力をもっている人間、優秀な能力をもっている人間だけが永久に生き延びるとしたら、こんな不幸な世の中はないと思います。
 
 人間は善悪の木の実を食べたら死ぬと言われておりますが、本当はそれを食べなくても死ぬことは死ぬのです。神は始めから人間を死ぬものとしてお造りになっているのです。それが土のちりから人間を造ったのです。

 その土のちりから出来た人間の鼻から神が神の命の息を吹き入れて、人間を生きるものとしたのであります。神がその命の息を吹き込むのをやめたら、人間は死ぬということであります。ですから、善悪の木の実を食べなくても人間には死はあるのです。

 それでは、善悪の木の実を食べて死ぬのと、それを食べなかったときの死と、どう違うのかということであります。
 
 善悪を木の実を食べたら、「必ず死ぬ」というのです。必ず死ぬ、ということは、直接には、その善悪を知る木の実を食べたら、その場でたちまち死ぬ、というように、ちょうど毒のキノコを食べたら直ちに死ぬように、必ずただちに死ぬということではないようであります。それを食べたアダムもエバもただちには死ななかったからであります。
 
 それではそれはどういう意味かと言えば、善悪を知る木の実を食べた後は、同じ死ぬにしても、それから始終、人間は死ぬんだ、死ぬんだと、いつか死ぬんだという、死の恐怖に脅かされて生きざるを得なくなるということであります。
 
 もし人間が善悪を知る木の実など食べようとしないで、神のようになろうなどとしないで、人間が人間であることを素直に受け入れ、人間は神に生かされて生きる存在なのだということを素直に認めて生きていたならば、同じ死ぬにしても、死の恐怖におびかされて生きるのではなく、神によって生かされて生きるのだから、神が生きるのを止めよといわれたら、われわれはその死を素直に受け入れて死ねばいいのであります。そのように生と死を受け止めて生きるということであります。「生かされて」生きるということをいつも心がけて生きるということであります。そして死ぬということであります。

 そして死ぬときには、あのヨブが告白しましたように、「わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ、主のみ名はほむべきかな」と、自分の死を神に委ねて、神を賛美しながら死ぬことができるのではないかと思います。主イエスにあって死ぬ人は幸いであるということであります。

 ところが善悪の木の実を取って食べ始めた人間は神によって生かされて生きるという事実によって生きるのではなく、自分はやがて死ぬんだという死の恐怖に脅かされて生きることになってしまったということであります。

 河合隼雄がある本の中でこんなことを言っております。最近の若い人がホームレスの老人を平然と殺したり、また若い人の自殺傾向をとりあげて、若い人が他人の命、自分の命というものを粗略に考えすぎるといわれている。しかしその反面、ある老人ホームの人の話によると、最近の老人は「生に執着しすぎて見ておれない」という言葉を紹介しております。昔の老人は「悠々自適」とか「余生を楽しむ」というように、最後には「静かに死を迎える」ことになるのだが、現在の老人をみると、少しでも長生きするために、少しでも残された生を精一杯楽しむために狂奔していて、逆に死が訪れるてくると、にわかに元気がなくなったり、おおあわてしたりして、「見苦しい」と言っているというのです。
 
 われわれ人間は土のちりから造られた存在であり、その鼻から神さまから命の息を吹き入れられて始めて生きたのであります。そしてそれはまた神がその命の息を取り去られる時がくる、そのときはわれわれは死ぬのだということであります。そのようにして、われわれは自分の死を、あるいは愛する者の死を受け止めたいのであります。神によって生かされて生き、そしてあるときに、神はわたしの命を取り去る時がくると信じて、生き、そして死を迎えたいと思います。