「罪からの解放」  ローマ書六章一ー一四節

 パウロが、ローマの信徒の手紙五章二○節で、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」といったために、それを聞いた愚か者が、それならば、「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」と、言い出すのであります。

 それに対して、パウロは「決してそうではない」口語訳では、「断じてそうではない」といいます。そしてその後、パウロは「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるであろうか」といいます。

 この一連の問答は、どうもちぐはぐになっているのではないかと思います。つまり、「罪にとどまるべきだろうか」という問に対する、答えならば、「罪にとどまってはいけない」という答えになる筈であります。そうしてはならない、というわれわれの意志を問題にすることになると思います。

 それなのに、パウロはそうは言わないで、「そんなことはできないのだ」というのです。つまり、罪にとどまってはいけない、とか、罪を犯し続けてはいけないとか、というのではなく、罪なんか犯すことがそもそもできないのだ、できなくなっているのだ、という答えなのであります。

 リビィング・バイブルでは「罪を犯さないでいられるようになったのに、なおも罪を犯し続けてよいでしょうか」となっております。

 そしてその後、パウロはわれわれはバプテスマを受けたのだ、それはキリストの死にあずかるバプテスマであって、われわれはキリストと共に葬られてしまったということなのだ、わたしたちの古き人はキリストと共に十字架につけられてしまったのだ、だからもうわれわれの罪のからだは滅び、われわれはもはや罪の奴隷ではなくなり、罪から解放されたのだ、といろいろと言うのであります。

 それは一言で言えば、リビィング・バイブルの訳のように、われわれはもう「罪を犯さないでいられるようになったのだ」ということであります。

 それはどういうことなのでしょうか。パウロが生きていた社会には、奴隷がたくさんいたようであります。そして奴隷はどの主人につくかということで、奴隷の生活は一変してしまうわけであります。

 意地の悪い、暴力的な主人に買われた奴隷の生活は、それこそ一日一日が戦々恐々の生活を強いられるわけです。しかしその主人が優しい主人であったならば、それはもう心から主人に仕え、この主人のために自分のすべてを捧げて生きようという気持ちになるものであります。

 奴隷は自分を買ってくれる主人によってその生活は一変するのであります。パウロはそういう奴隷の姿をよく見ていたのであります。それで奴隷を例にとって、われわれは罪の奴隷からキリストの奴隷になったのだ、もう主人が代わってしまったのだというのであります。だからもう罪に支配されなくなったのだ、キリストの恵みに支配されているからだ、というのであります。

 罪に支配される、ということは、死の恐怖に支配されるということであります。つまり立派な行いをしないと、われわれは裁かれる、そして最後には、地獄に落とされる、そういう死の恐怖に支配されるということであります。

 立派な行いをしないと最後には地獄に落とされる、だから何かよい行いをしよう、人をも愛そうとして、人を愛する、あるいは、慈善事業に励もう、奉仕活動をしようとするならば、それが果たして本当に立派なよい行いになるだろうか。
 それは考えて見れば、いや考えてみなくても、それはみな結局は自分のために人を愛し、自分が救われるために慈善事業をし、奉仕活動をするだけの話で、結局は自分の身を守るためであって、それは決して人のため、人を愛するためでないことはあきらかであります。

 もしわれわれが地獄にいくかどうかが、そのように自分の行いによって決まるということを聞かされていたら、われわれは必然的にそのうように、ただひたすら、自分のために自分のために、という、いっさいのことが「自分のために」ということから逃れられない生き方になってしまう。それが律法のもとで生きるということで、それが罪の奴隷になり、罪に支配されるということであります。

 罪の奴隷になるということは、自分が自分自身の奴隷になり、なにをするにも「自分のために」ということから逃れられなくなる、自分から逃れられなくなってしまうということではないかと思います。どんなに良いことをするにしても、それがすべて自分のための良いことしかできないとしたら、なんと惨めなことになってしまうか。

 それは結局は、すべてあの死から免れるためには、あの地獄から逃れるためには、自分の行いにかかっているというところから来ている。自分で自分を守らなくてならないという恐怖感がそうさせるのであります。それが罪の奴隷ということであり、死の奴隷になっているということであります。

 しかし今は、われわれの主人はキリストになったのであります。もうわれわれは自分で自分の身を守る必要はなくなったのであります。一四節にありますように、「律法の下にあるのではなく、恵みのもとにあるので、罪に支配されることはない」、罪に支配される必要はなくなったのであります。

 もちろん、だからといって、われわれは死なないわけではない、死ぬのです。しかしその死を神に委ねることができる、われわれは確かに裁かれるでしょう、しかしその裁きも神とキリストに委ねることができる、もう自分で自分を守る必要はない、自分で自分をガードする必要はなくなったのです。自分を絶対的に守ってくれる主人のもとに生きられるようになったのであります。

 われわれが罪赦されたのは、何かわれわれの現状がいろいろ調べられてこの程度ならば、許してあげましょうとか、あるいは、われわれがしっかり悔い改めているのがわかったから、無罪放免にするという書面が書かれて罪赦されたのではないのです。そうではなくて、罪を赦してくださったかたがおられる、そういう特別な裁判官がおられるということなのです。

 当番制の裁判官によって無罪になったのではないのです。キリストという特別な裁判官によって、ただその方のとりなしによって無罪になったのです。

 大事なのは、無罪放免という書面の文章ではなく、キリストというかた、そういうかたがおられるということなのです。ですから、われわれ自身はそんなに変わっていなくても、われわれのほうの悔い改めが未熟でも頼りなくても、われわれを赦してくださったかたの意志は限りなく確かなのですから、そのかたから目を離してはいけないのです。

「罪に対して死ぬ」ということはどういうことですか、とどなたかに質問されましたが、よく考えてみれば「罪に対して死ぬ」というのは本当に変な日本語です。まるで罪というものが人格的にどこかに存在していて、猛威をふるっているような印象を与えます。リビングバイブルでは、「罪を犯さないでいられるようになる」と訳しております。内容的には確かにそうなのでしょうが、しかし原文は、「罪に対して死ぬ」といういいかたがされていて、ここは単に「罪を犯さないようになった」という、自分の意志の問題ではないようです。

 「罪に対して死ぬ」ということは、ここでいう罪とは「自分自身に対するこだわり」、自分に執着する、いつもいつも自分が自分がと自分を主張する、自分はだめだ、自分はだめだと、やはり自分にこだわり続ける、そうして自分中心にして生きようする、そういう生き方をもうやめたということであります。なぜなら、もう自分で自分を守る必要がなくなって、神が自分を絶対的にまもってくださることを知り、信じたからだということであります。

 パウロは「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておられるだろうか」と、もう罪を犯すことができないのだ、罪をおかさなくてすむようになったのだと言った後、後半になりますと、「だからもう罪をおかさないように」と、われわれの意志を問題にするのです。

 十一節からこういうのです。
 「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、体の欲望に従うことがあってはなりません。またあなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。
 かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神にささげ、また五体を義のための道具として神にささげなさい」と勧めるのであります。

 前半では、もう罪の支配の中にはいないのだと、われわれのおかれている現状をいって、しかし後半では、だから「罪に支配すれないように」と、われわれの意志を問題にするのであります。大変不思議ないいかたであります。
 
 つまり、「救われるために、こうしなさい」というのではなく、「もう救われたのだから、こうしなさい」というのです。こうしないと救われないから、清い生活をしなさい、というのではなく、もう救われたのだから、これから生活を改めて、清い生活に励みなさい、という勧めの言葉が続くのであります。これは聖書というか、パウロの独特の論理、倫理であります。

 それは、たとえば、ガンという腫瘍は完治した、しかしだからといって今までと同じような生活を続けていたら、また再びガンが発生するかも知れない、だからその腫瘍が完治した後も、医者の指示に従って、検査を受けなくてならないし、生活を改めなくてならないというようなことであるかも知れません。

 われわれの体の中に巣くっている罪という病原菌は、ガンよりももっと執拗でしぶとく、陰険にわれわれを過去の生活へと引きずり込もうとするのであります。だから生活を改めなくてならないのです。

 この六章の一三節からのところで、口語訳ではこうなっております。「あたなかだの肢体を不義の武器として罪に捧げてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」となっております。

 ここのところを竹森満佐一がこう説明しております。「罪にささげる」というときの、「ささげる」という表現は、「惰性によって捧げるような書き方がされている」のに対して、「義の武器としてささげる」という時には、決然としてささげるという気持ちをはっきり示した言葉を使っているといっているのであります。

 新共同訳では、「罪にささげる」というほうは、「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません」と、「任せる」と訳して、後半の「五体を義のための道具として神に献げなさい」と、こちらは「献げなさい」と訳して変えています。

 信仰をもつようになったが、自分はいつまでこうなのだろうなどといっていないで、今すぐ断固たる決意をもって、肢体を神にささげよ、という意味をこめてているのだと、竹森満佐一は説明しているのであります。

 この説明で思い出すのは、やはりパウロがガラテヤ人への手紙の五章で、肉の働きと、御霊の働きとを区別しているところで、肉の働きは「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、ねたみ、泥酔、宴楽」といろいろとあげている、そして御霊の働きは「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」とあげているところなのですが、それを説明して、鈴木正久が「ここで述べられている肉の働きは、どれも不品行から始まって泥酔、宴楽のすべては、はっきり決心して行うというようなものではない。祈りをもって決心して好色になるとか、人をそねむことにするとかということはない。

 これら『肉の働き』は畑の雑草のように、わたしたちの心が油断しているとき、不決断であるとき、決断しないでいきるときに、芽を出し、生い茂ってくる、つまりずるずるべったりにそうなる。

 しかし御霊の働きのほう、『愛をもって仕える』ということは、まさにその反対で、ずるずるべったりに愛をもって仕えたなどということは起こり得ない。他の人を心から愛し、これに仕えることは、いつでも決心を要する。祈りをもって決断しなければできないことだ」と言っているのであります。 

 われわれがキリストの死のバプテスマを受けたものも、やはり現実は自分の過去の名残をまだまだ引きずっているわけです。それをその時どき決然と捨てていかなくてならないのであります。

 あるお医者さんが「わたしの健康法」ということで、おもしろいことを書いておりました。たばこをやめたというのです。十年ほど前に歯をくいしばってたばこをやめた。ガンの原因だとはっきりしてきたからだ。たばこをやめるにはコツがある。不潔恐怖症といって、しょっちゅう手を洗わないといられない患者さんがいる。そういう患者さんにたいしてこういうというのです。
 「手を洗いたい気持ちは仕方がない。それはあるがままに受け入れなさい。しかし洗うという行為は自分の意思で自由になるんだから洗うのはおやめなさい」と話す。

 何度か失敗はするけれど、治っていく。たばこも全く同じ、吸いたい気持ちは仕方がない。しかし吸うという行為は自分の自由になる。今日一日、今日一日と吸わないことを積み重ねる。自分の病院の医師も全員やめました」と書いていたのであります。

 本当かなという気持ちもいたしますが、ともかく、われわれの悪癖というか、過去の名残の生活を改めるためには、自分のなかにそうした過去の名残が現実にあるということにあまり気にする必要はないかもしれない。それはもう仕方ないものとして、そういう自分の弱さはあるがままに受け入れておけばいい。しかし同時にそれを捨てるという決断をする、今日一日今日一日という決然とした生き方が必要だということであります。

 われわれはもう律法のもとにいるのではなく、罪に支配されことはなくなったのであります。恵みのもとに生きているのであります。だからわれわれは自分の過去の名残の生き方を捨てることができるのであります。

 死人の中から生かされた者として、自分自身を神に捧げることができるようになったのであります。だから、時々刻々、神に自分を捧げなさい、それが罪から解放されることなのだというのであります。