「罪とその結果」 創世記三章一ー二四節 ローマ書5章12節


 三章の一節をみますと、こう記されております。「さて、主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびがもっとも狡猾であった。へびは女にいった。『園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に神は言われたのですか』」。人間の罪はこのへびの言葉から触発されて始められたと創世記は語るのであります。

 へびの誘惑は実に狡猾であります。「園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に神が言われたのか」と、へびは言います。神はそんなことは言っていないのです。二章の一六節をみますと、口語訳でみますと、「お前は園のどの木から心のままに取って食べてよろしい」と、むしろどの木からも取って食べて良いと言われているのです、それをへびはゆがめて「神はどの木からも取って食べるな」と言ったのかというのです。
 すると女はそれに触発されて、確かに神は「わたしたちには園の木の実を食べることは許してくれていますが、ただ園の中央にある木の実についてはこれを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないから」と、神から言われていると答えます。

 すべてのことは許されている、しかしただ一つのことだけは禁じられている、それは考えて見れば、結局はすべてのことは許されていないということと同じになってしまう、人間は自由だといったって、結局は自由ではないのではないかと思い始めるのであります。そう女に思わせる、そこがへびの実に狡猾なところであります。

 女からその思いを引き出すと、へびはサタン的な姿をむき出しにし始めます。「あなたがたは決して死ぬことはない。それを食べるとあなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのだ。」
 それで神はお前達にそれを食べることを禁じたのだというのです。

 つまり神はお前たちのことを本当に心配してそれを禁じたのではなく、お前達が神のようになることを嫉妬してそれを禁じたのだというのです。

 善悪を知るということは、道徳的な意味での善悪ということではなく、善と悪と、正反対のことを述べることによって、全てのことをあらわすということであります。それは単に道徳的な意味での善悪ということではなく、すべてのことを知るという意味であります。神でもない人間が神の立場に立ってすべてのことを知るということを意味しているのであります。それを神は人間に禁じたのだということであります。

 ある学者はそのことをこういうふうにも言っております。古代人にとって、善と悪というのは、観念的なことがらではなく、善とはわれわれ人間にとって有益なこと、悪とはわれわれ人間にとって不利益になることと、そういう具体的なことをさして言っているのだというのです。

 ですから、それを食べるとわれわれは人間の立場からなにが人間に取って有益かどうか、役に立つかどうかを判断できるようになるということを意味しているのだというのです。

 人間の立場から、それはつまりは自分の立場からということなのですが、人間の立場から、全てを自分の立場から、何が人間にとって有益かどうかを決めていく、それは人間にとって、われわれにとって本当にいいことなのかどうかであります。それは人間を不幸にする、それは決して人間を生かすことにはならない、それが神様のお考えなのであります。だから神はそれを食べることを人間に禁じているのであります。

 神が禁じたただ一つのこと、それは、人間が神の立場に立って自分中心に物事を判断し、行動していくということであります。そのように自分を中心にものの善悪を判断し、選択したら、自分は自由だ、自由だといっても、それは人間を決して自由にはさせないのです。われわれは自由ではなくなるのです。それはただ自分のわがままさの奴隷になるだけ、自分の欲望の奴隷になるだけ、つまり罪の奴隷になるだけで、自由を失うのだということであります。

 子供が生まれる前に、胎内にいる子供が男か女かを判定できるようになる、それは確かに人間の知恵の発達がそうさせたのでしょうが、しかしそれがわかるようになると、胎内にいる子が女の子だったら、中絶をしてしまうということが現に起こっているということであります。そうなったら、人類はどうなるのか。すべてが自分の都合によって何が有益かどうかを判定しようということになったら、それはやがて人間を破滅させることになるのだということが今日われわれはようやくわかるようになってきたのではないでしょうか。
 
 広い視野からみれば、それが人類の破滅につながるということは予測はできても、いったんその知恵を得てしまうと、われわれはただ狭い自分の立場からしか、あるいは、自分たちの生きている世代だけを考えて、善悪を判断をしていくことになる、原子力の利用も、自分達だけの世代では、便利かもしれませんが、その核廃棄物の処理は、次の世代に受け継がせていく、ということになってしまう。

 人間が、われわれが神のようにして、全てのことを判断する知恵を得ることが本当にわれわれを生かすことになるのか、われわれを本当に幸せにするのか、それは、われわれをただ死に追いやることなるだけだということであります。

 神でもない人間が、神のようになろうとする知恵を得ようとする、それが人間の罪だ、罪の始まりだと聖書はいうのです。つまり罪とはすべて自分の都合だけで判断し、行動しようとすることなのであります。

 神でもない人間が神の立場に立って、神のようになって、すべての価値判断を自分で決めていくことの浅はかさであります。いや、浅はかさというだけでなく、恐ろしさであります。
 
 へびはそれを食べても決して死なないと女にいいます。確かにそれを食べても直ちには死にませんでした。しかし人間は本当に死ななかったのか。そうではないのです。神がいわれたように、人間は必ず死ぬのであります。
しかし、その死は、「土からとられたのだから、土に帰るという死」、つまり、神から与えられる死としてではなく、恵みとしての死としてではなく、罪を犯したあとは、死は自分が望まない死、自分達の願望が中断される死として、死を迎えざるを得ない死になってしまったのであります。

 死を神から与えられる死、恵みとしての死ではなく、罰としての死、裁きとしての死としてしか考えられなくなってしまったのであります。

 アダムとエバは確かに、毒キノコを食べたように、善悪の木の実を食べてもただちに、死ななかったかもしれません。しかし、ただちに死なないぶんだけ、人間の一生は、神から与えられる恵みとしての死としてではなく、罰としての死として、その恐ろしい死の陰に脅かされながら、生きていくことになるのであります。死の陰に脅かされながら、その死の陰から逃れようとして、われわれはあらゆることをし始めて、更に罪を重ねて生きていくことになるのであります。

 ここは人間の原罪が書かれていると昔から言われてきたところであります。アダムとエバが罪を犯したから、その罪は遺伝のようにして、宿命的にわれわれ人類全体に広がっていったのだ、そういう意味でここに原罪が書かれているのだといわれたのです。しかしここでいっていることはそういうことではないのです。

 ここには人間の犯す罪の原型があると言う意味で、ここに人間の原罪があるというのであります。ここに罪の原型があるということです。罪の原型とは人間が神のようになろうとするという事であります。罪はいつでもそこから始まる。言葉を変えて言えば、自分を神の位置において、なにごとも自己中心的に考え、生きようとするということであります。それが原罪であります。

 ですから、原罪という時、アダムが罪を犯したから、あとは遺伝的に、宿命的にわれわれが罪人になっていくのだということではないのです。
 
 パウロも「ひとりの人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死がはいってきたように、こうしてすべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ」と、述べるのであります。ここでは確かにひとりの人アダムによって罪が入り込んだとは述べています。しかしその後、パウロは「すべての人が罪を犯さないのに、死が全人類に入り込んだ」とは記さないで、「すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ」」と続けるのであります。

 不思議な書き方であります。確かに罪は連鎖反応的にひとりの人によって罪が広がるという罪の恐ろしさはあります。それはある意味では遺伝ではないかと思われるほどに宿命的に罪は親から子に、夫から妻へ、妻から夫へ、そして人から人につながっていくものであります。しかしだからといって、ひとりひとりに罪の責任はないのかと言えばそうではなく、「すべての人が罪を犯したので」とパウロははっきりと、ひとりひとりの罪の責任を書き記しているのであります。

 その善悪の木の実を食べると、ふたりの目が開いたというのです。目が開かれて彼らはまず何を見たのか。自分たちが神のようになった姿を見たのでしょうか。そうではないと聖書は言う。彼らは自分達が裸であることを見た。しかもその裸を醜い、恥じるべき裸として見たのであります。まことに聖書は辛辣であります。

 彼らはその木の実を食べる前は、自分達の裸がが見えなかったわけではないのです。見えていたのです。自分たちが裸であることは見えていたのです。二章二五節には、しかしそれをひとつも恥ずかしいものとしては見ていなかったのであります。

 ものの見方によって事態はすっかり変わってしまうということであります。罪を犯す前も、罪を犯した後も、裸であることにはひとつも変わりはないのです。その実体は変わりはないのです。それをどう見るかであります。裸というのは、ただ性的な意味でそれが恥ずかしいということを述べようとしているのではなく、もっと人間の本質的なことであります。つまり自分のあるががままの姿であります。自分の無防備な姿、自分の長所も短所もそのままの姿であります。それをどうお互いに見るかであります。

 木の実を食べる前のふたりは自分たちが裸であったが恥ずかしいとは思わなかったのであります。しかしその木の実を食べ、神のようになろうとしたときに、つまり、自分を神の位置に置いて、自分中心にものを考え、ものを見ようとした時に、自分達の裸を恥じるようになったというのです。

 罪を犯す前も、罪を犯した後も、ふたりが裸であることには変わりはないのです。その裸をどうみるかであります。神のようになろうとしないならば、自分達が神によって造られた存在であることを少しも恥じることはなかった。お互いに助け合い、赦しあって生きていけばいいと思っていたのであります。お互いが助け合う者どうし、お互いが信頼しあうどうしならば、自分達が裸でもすこしも不安はないし、恥じることもなかったのです。しかし自分が神のようになろうとしてなれなかった時、自分達が造られた存在であることを恥じるようになった、自分達の弱さが恥と感じられるようになったのであります。そうしてお互いの信頼関係も破れていくのであります。

 もうふたりのあの助け手としての信頼関係は破られてしまったのであります。男は、神から「お前は食べるなと命じておいた木からどうして食べたのか」と言われますと、男は、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので食べました」と答えるのであります。神様、「あなたがわたしと共にしてくださった」と言って、つまり神さま、あなたが助け手として一緒にしてくれたあの女がわたしを誘惑したのですというのです。

 間接的には神を非難し、そして直接的には、女を非難して、自分の犯した罪の責任を逃れようとするのであります。もしふたりの信頼関係が残されていたならば、たとえ事実としては男は女からその木の実を渡されて食べたとしても、女をかばい、女を非難せず、自分が食べたかったから食べましたというに違いないと思いますが、彼はそうはしないのであります。もはやふたりの助け手としての信頼は崩れてしまったのであります。
 
 罪を犯す前は、ふたりには信頼関係がありましたから、自分達が裸であっても少しも恥ずかしいとは思わなかった。それはちょうど子供にとって母親との信頼関係は、自分の裸をさらしても少しも不安を感じたり、恥ずかしいと思わないことと同じであります。

 それならば、罪を犯した後は、そうした信頼関係をとりもどせるのか。もはや子供と母親という関係ほどには信頼関係はとりもどせないのであります。せいぜい夫と妻という関係、その程度の信頼関係であります。

 子供はもう無条件に素朴に無心に母親を信頼して裸をさらすことはできるかも知れませんが、夫婦の関係の信頼関係はそれほど素朴に、というわけにはいかないだろうと思います。夫婦関係は本当に小さな事からその信頼関係がいつやぶれるかわからないという危機をはらんでいる、そういう信頼関係でしかないと思います。従って、あの罪を犯す前の素朴な信頼関係にはもどれないわけですから、アダムとエバは、自分達をいちじくの葉でおおうとしたというのです。

 三章の二一節をみますと、「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼に着せられた」。
 神は、この信頼関係を失ったしまったふたりの関係、自分達の恥部をあからさまにさらけだすことができずに、いちじくの葉でおおうことしかできない関係を哀れに思われたのであります。それで神は、いちじくの葉ではあまりにも可哀想だということで、神は皮の着物を造り、彼らに着せられたというのであります。

 ひとたび罪を犯してしまった人間、つまりわれわれは、自分に対して恥じの感情をもつということは大事なことではないかと思います。逆に恥じを感じない、恥じらいをなくした人間はかえって醜いし、そういう人とはつきあいづらいのであります。

 神もまたわざわざ皮の着物を造って着せてくれたのであります。それは自分の裸という恥をみっともないから被いなさいということであります。そのために、神は皮の着物を造って被ってくれたのであります。

 ペテロの第一の手紙には、「愛は多くの罪を被う」という言葉があります。
 もうわれわれは、純真無垢な子供に返って、もっとあっけぴろげな裸のつきあいをしようといっても、それはもはや不可能であります。大人はもう子供には帰ることはできないからであります。それならば、お互いに着物を着て、「愛は多くの罪を被う」というように、お互いの恥を被い、お互いをゆるしあっていくという関係、自分の恥を被い、そしてまた相手の恥もおおってあげるという関係をつくる以外にないのであります。

 罪を犯した人間は、神との関係ではどうなったのか。人と人との関係のように、恥の感情を神に対していだくというのではなく、恐れの感情を神に対していだくようになったと聖書は語るのであります。

 八節から見ますと、彼らは日の涼しい風のふくころ、園の中央に主なる神の歩まれる音を聞いた。そのとき、男と女は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠したというのです。
 主なる神は人に呼びかけて、「おまえはどこにいるのか」と言われた。男はこう答えます。「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸であったので、恐れて身を隠したのです。」
 罪を犯した人間の人に対する感情が恥であったのに対して、神に対する感情は恐れであります。

 人と人との関係ならば、自分の裸をいちじくの葉でおおうことによって、つまりごまかすことによって、自分の裸を多少偽り装うことによって、その関係を維持できましたが、神との関係ではもはやそのようなごまかしは意味をなさない。男と女はは園の木の間に身を隠したというのであります。神から逃走しようとしたということであります。

 そういう男と女に対して、神はあえて「おまえはどこにいるのか」と、尋ねるのであります。尋ねてくださるのであります。神はすべてを見通すかたですから、本当は彼らが木の間に身を隠していることはご承知なのです。それなのにあえて「お前はどこにいるのか」と尋ねてくださるのであります。それは「お前たちはわたしから逃げようとしているかも知れないが、逃げることできないのだ、お前はどこにいるのか、どこにいこうとしているのか」という問いかけであります。

 罪を犯した人間、われわれはわれわれのほうで、神を恐れて、神から逃れようとしますが、神のほうからいつでも「お前はどこにいるのか」と問いかけ、尋ねだしてくださるのであります。神のほうから「もう恐れなくていい」といってくださるのであります。
 主イエスも「からだを殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」と、人間を恐れないで、神を恐れなさいといいます。しかしすぐその後、イエスは、その神はどういう神であるかを語ります、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたたがたは多くのすずめよりも勝った者である」と、言われるのであります。

 罪を犯したわれわれは神の前には恐れとおののきをもって出ざるを得ないのです。しかしそういうわれわれに対して、神のほうからはいつも「恐れるな」「恐れるな」と、よびかけておられるのであります。「おまえはどこにいるのか」と、木の間に隠れてしまおうとするわれわれを尋ね出してくださるのであります。
 
人と人との関係は、皮の着物を造って、お互いに赦し会うことによって、その関係を回復させようとしたのに対して、神を恐れて逃げようとするわれわれに対しては、神様の方から「お前はどこにいるのか」尋ね求めて、われわれとの関係を回復しようとしてくださるのであります。