「神に受け入れられる者」  ルカ福音書一八章一ー一四節


  今日学ぼうとしておりますルカ福音書の一八章の一から八節までのイエスの語られたたとえ話も、解釈するのに難しい箇所だといわれております。それはたとえそのものは難しくはないのですが、それがイエスが語られたという点で、なにかわれわれには不可解というか、不思議な思いのするたとえ話なのです。
こういう話です。
 イエスは気をおとさずに絶えず祈らなくてはならないことを教えるために弟子達に話されたというたとえ話であります。

 ある町に神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいたというのです。そこにその町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」といって訴えてきた。裁判官はしばらくの間は取り合おうとはしなかった。しかし、そのあとに考えた。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわいなから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目にあわすに違いない」と思ったというのです。

 イエスはそう話して、それからこの裁判官はやもめのために裁判を開いたのだということはいわないで、こういうのです。「それから主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして、神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人のために裁きをおこなわずに、彼らをいつまでもほっうておかれることがあろうか。言っておくが、神はすみやかに裁いてくださる』。」

 これは、よく不正な裁判官のたとえと言われているたとえであります。それはすでにまなびましたが、ルカ福音書の一六章の「不正な管理人のたとえ」と並んで、「不正な裁判官のたとえ」といわれているところであります。

 人を人とも思わないで、それどろか、神を神とも思わない、神を畏れない、裁判がいたというのです。しかし、彼はひとりのやもめ女のあまりにも執拗な訴えに対して、心動かされて裁判をしてあげる気になったというのです。それはその女の訴えの正しさの正しさに心動かされてではないのです。また、その女の訴えの執拗さに動かれてでもないのです。ただ自分を患わすからだという理由だけであります。自分が迷惑を受けたくないから、仕方なく裁判を始めてやろうというのです。

 そういう裁判官はこの世にはいくらでもいるかもしれません。問題は、その不正な裁判官をイエスは、ここでいわば父なる神にたとえているということなのです。もちろん、ここでイエスは「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人達のために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」といっているのですから、「まして神は」といっているのですから、この不正な裁判官と、父なる神とは違うとはっきりといっているのですが、しかしこの不正な裁判官の心の動きを全面的に否定するのではなく、比喩としてもちいているのは、驚きであります。

 牧師は説教でこういう比喩を用いることは絶対にできないことではないかと思います。われわれは神を謹厳実直なかた、どんな不正な動き方をもしないかた、真面目なかたとしてしか見ることはできないと思うてのです。

 しかし、イエスは平気で、この不正な裁判官、めんどくさいから、患わされたくないから、裁判をしてあげようというような裁判官を父なる神に対比して用いるというイエスの発想の自由さ、想像力の豊かさに驚くのであります。

 われわれは父なる神を自分達人間の生真面目な真面目さのなかにあまりにも閉じ込めすぎていないか。本当はわれわれを救ってくださる父なる神はもっと豊で、もっとユーモアをもったかたで、もっと深い愛の持ち主で、もっと深い豊かな真面目なかたなのではないか。

 前に確か、アメリカがどこかで出版された本で、「あなたは神様を小さくしていないか」というような題の本があったと思います。それはわれわれ人間の小ささなのなかに神を閉じ込めてしまって、自分の小ささ、人間の小ささのなかで、神様を小さい神にしてしまっていないかという趣旨の本だったと思います。

 イエスはこのたとえを「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子達に話された」といって、話をしております。ここは口語訳では、こうなっております。「イエスは失望せずに常に祈るべきことを人々に教えられた」となっております。

 新共同訳では、「弟子達に」となっておりますが、口語訳は「人々」で、原文からいうと「弟子達」という言葉はないのです。しかし原文は「彼らに」となっていおりますので、「人々」というよりは、やはり前後関係からいうと、ここはやはり「弟子達に」イエスが語られたといったほうがいいと思います。

 なぜそんなことにこだわるのかといいますと、ここでイエスは弟子達に「絶えず祈れ」「常に祈れ」と教えようとして、このたとえをするのですが、われわれは「絶えず祈る」とか「常に祈る」とかいわれると、修道院にでも入って、四六時中祈り三昧に浸ることを想像するのではないかと思うのですが、イエスがここで語ろうとした「祈り」はそんな静かな、いわば瞑想的な祈りではなく、激しい祈り、不正な裁判官をその祈りの執拗さにへきへきさせるほどの、厚かましい祈りを祈れと勧められているということなのです。

 イエスはここで弟子達に修道院にでも入って、常に四六時中、祈れとは勧めてはいないということなのです。

 われわれは「絶えず祈る」とか「常に祈る」という言葉から想像する祈りは、なにか大変静かな、瞑想的な祈りを連想するのではないか。そういう祈りにあこがれるのではないでしょうか。われわれは「祈り」という言葉のなかになにかロマンチックなものを想像するのではないか。しかし、イエスは弟子達にそういう祈りを一度も勧めたことはないのではないか。
 
 ある人が「常に祈る」ということは、四六時中祈り三昧に浸ることではなく、つねに祈るようをしているというこだといっているのであります。いざというときに、祈る用意をしておくこと、それが常に祈るということなのだというのです。

 弟子達がイエス二、「私達にも祈ることを教えてください」といったことがあります。それを受けてイエスは、まずいわゆる今日「主の祈り」といわれるようになった祈りを教えるのです。そしてそのあと、こういう話をするのです。

 「あなたがたのうちのだれかに友人がいたとして、真夜中にその人の所に行き、こういった。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何もだすものがないのです』。するとその人は家の中からこう答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めてしまったし、子供たちも寝ている。起きてあなたにあげるわけにはいかない』。といって断ったというのです。

 そしてそのあと、主イエスはこういうのです。「しかし、言っておく。その人は友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きてきて必要なものを与えるだろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたけ、そうすれば開かれる」と言われたのであります。

 「しつように頼めば」祈りは聞かれると、主イエスは弟子達に教えたのです。友人だからといった慣れ親しんだ関係にあぐらをかくのではなく、ひとりの本当に困った人間として、神の前にたち、神に祈り求めよといわれたのです。

 祈りというのは、きれいごとなどではないというです。自分は今本当に困っているのだ、だから助けてくださいと、執拗に祈る、自分の恥をさらけだしてあからさまに求める、それが祈りだというのです。それは修道院で瞑想にふけるというような美しい、すがすがしい、ある意味では、ロマンチックなものではないというのです。

 もちろん、そういう静かな静謐な祈りというのもあるでしょう。自分のなかのすべてを空っぽにして、欲もなくして、ただひたら神様と交わりたいというような祈りというのもあると思います。イエス自身もしばしば山にこもって祈りをしたとありますから、それはそいう静謐な祈りなさったのかもしれません。

 しかし、ここで主イエスが教えられた祈りは、一人の本当に困窮した者として神に正直に立ち、助けてください、と求めることだ、そうしたら、あの不正な裁判官ですら、わずらわしいから助けてあげようと腰をあげてくれるではないか。まして神は決して不正な裁判官などではなく、正しい裁判官なのだから、われわれの心からの求めを決してないがしろにすることはない。必ず、すみやかに裁いてくださる。われわれの求めに応えてくださるというのであります。

 そしてそのあと、主イエスは、こう言われるのです。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰をみいだすだろうか」といわれるのです。「わたしがこの地上にもう一度くるときに、果たして、この地上に、そのように恥をさらけだしてまで、神に祈る信仰者のひとりでもいるだろうか」と、主イエスは嘆くのであります。

 イエスは続いて、さらに祈りについて語るのであります。それは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエス次のたとえを話された」と、続きます。

 前のたとえは、弟子達に対して語られているようですが、このたとえは、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々、具体的には、ファリサイ派の人々に対して語られるのであります。ここでは、「対しても」とありますから、前のたとえと関連して語られたということであります。
 つまり、前のところで、自分の恥をさらけ出してでも、神に対して執拗に、しつっこく、あからさまに求め続けよ、それが祈りだといったのに続けてであります。

 新共同訳では、「うぬぼれて」と訳しておりますが、口語訳は「自分を義人だと自任して」、「自任」と訳されております。岩波訳では、「自分は義人であると自ら恃み」となっていて、このほうが原文に忠実であります。

 つまりこの人々は、自分が正しい人間であることを自分で自分に認めている、他人に評価してもらうとか、神様に評価してもらうとか、そういうことを求めていない、もう自分で自分を恃みとしている、自任している人々であります。つまり、もう祈る必要を感じていない人々であります。

 それでイエスはこう語るのであります。「ふたりの人が祈るために神殿に昇った。一人はファリサイ派の人で、もうひとりは徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心のなかでこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たとのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています』」。

彼は自分の正しさを主張するときに、かならず、「ほかのひとのようにではなく」、他人をひきあいにだして、自分の正しさを主張するのです。あさましいかぎりであります。

 ここで考えさせられるのは、彼は自分を正しい人間だと自任し、自らを恃みとしている人間は、「心のなかでこのように祈った」というのです。「心のなかで」であります。自分の心のなかでであります。自分の心のなかで、神に対してではなく、自分の心のなかで、いわば自分につぶやくように、祈った、というのです。そんなものは祈りではないということであります。

 主イエスがこういっているところがあります。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さまもないと、あなたがたの天の父の元で報いをいただけないことになる。だからあなたがたは施しをするときに、偽善者たちがほめられるようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパをふきならしてはならない。はっきりいっておく、彼らはすでに報いを受けてしまっている。」というのです。

 いったい彼らは、誰から報いを受けているというのでしょうか。人々からでしょうか。彼らがラッパを吹き鳴らして、これから自分は施しをするぞ、と言って施しをしている人々を見て、本当にあの人は立派な人だとほめるでしょうか。われわれはそういう人をみたら、なんと愚かな人間だ、なんという偽善者だと、誰もが思うのではないでしょうか。

 「彼らはすでに報いを受けてしまっている」というのは、自分で自分に報いを与えているということであります。そいうことをしている自分を自分で、おれはなんという立派なことをしているのかと、自分で自分をほめている、自分で自分を正しい人間だと自任し、自分を恃みにしているということであります。

 彼らはどこまでいっても、自分中心なのです。神に目をむけていないし、人に対しても目をむけていないのです。ただ、ただ自分を恃みにしていきいるのです。
 
本当に大事なことは、父なる神から父なる神のもとで報いを受けることなのだとイエスはここでいわれているのです。神に義としていていただくことなのです。神に認められることなのであります。

 それに対して徴税人は、遠くに立って、目を天に上げようともせずに、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。ここには、はっきりと「言った」と記されているのです。「神様」とよびかけ、神様に言った、ただ心のなかでつぶやいたのではないのです。言った、叫んだのです、声に出して、叫んだのです。イエスはこれが祈りだといっているのです。

 「言った」「助けてください」「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と神に向かって言うことです。告白することです。これが祈りというものであります。あの不正な裁判官に執拗にせまり、彼を患わすほどに叫ぶことです。

 わたし自身あまりそういういわば熱狂的なというか、執拗な祈りとかあからさまな祈りは好きではありません。もっと静かな、自分ひとりの中で祈る祈りのほうがすきです。しかしそのようにたとえ自分の心のなかであっても、やはり心の中でつぶやくのではなく、神に対して訴えるのです。心の中でにしろ、素直に正直にしきりに神に訴えるのです。

 イエスはそう語ったあと、「義とされて家に帰ったのはことの人であった」というのです。

このイエスのたとえで、われわれがしばしば誤解するのは、本当のクリスチャンのありかたはこの徴税人の祈りの姿勢にあると考えるということです。つまり、自分は罪人だ、どうかわたしを助けてください、おゆるしくださいと、祈ることが信仰者の本当のありかただと言い出すことなのです。そうしては教会のなかでは、罪の告白ごっこが始まり、自分はダメな人間です、自分は弱い人間です、と告白することがいかにも敬虔なクリスチャンだと言い始める偽善者を、教会のなかにつくりだしていないかということなのです。

 それはあのファリサイ派の人、律法学者が偽善者といわれているのと同じように偽善者なのです。それは自分はこのファリサイ派の人や律法学者のような偽善者でないことを感謝しますと自分の心のなかでつぶやくことになるからであります。

 大事なのは、「義とれさて家に帰ったのはこの人であった」と主イエスがいわれたことを聞いて、自分の罪が赦されたことを信じ、今度は、「目を天に上げて」祈れるようになるということであります。「このわたしをおゆるしくださいましたことを感謝します」と目を天に向けて祈るようになることであります。
 神様に受け入れられたということを、自分でもまた受け入れるということが大事なのであり、それが信仰ということであります。