「イエスの十字架への歩み」 マタイ福音書二七章四五ー五六節


 昼の十二時に全地は暗くなり、それが三時まで続きました。そして三時ごろ、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫んだ。これを聞いた一人の人が、イエスは預言者エリヤを呼んだいるのだと誤解した。また一人の人は、すいぶどう酒を含んだ海綿を葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしてさしだしましたが、ほかの人々が「待て、エリヤが救いにくるかどうか見ていよう」といった。

 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られたのであります。この「再び」大声をあけで、といわれていますが、これが同じ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉だったのかは記されておりませんが、恐らく同じ言葉だったのではないかと思われます。

 それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味だというのです。

 神の子であるイエスがなぜ最後にそのように叫ばれて死んでいったのでしょうか。これは詩編の二二編の冒頭の言葉でもあります。そこでは「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜ、わたしたをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださるないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」となっております。

 イエスは最後にこの詩編の言葉を朗読しようとしたのではないかとも言われております。しかしこの詩編は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのてずか」という訴えであります。つまり「どうかわたしをお見捨てにならないでください」という訴えであります。そして現にこの詩編は、最後には、神はわたしを見捨てなかったという神に対する感謝と賛美の言葉で終わっているのであります。

 しかし、マタイによる福音書、またマルコによる福音書が記しておりますイエスの最後の言葉は、「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と、もう自分は神に見捨てられてしまったという神に対する抗議の言葉、あるいは神に対する絶望の言葉なのであります。

 パウロは十字架の救いについて語ってきて、最後の結論の言葉のようにして語ったことは、「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できようか」と語り、「どんなものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と語るのであります。

 つまり、われわれがどんなに人から見捨てられても、この世が見放されても、神がわれわれの味方であり、神に見捨てられさえしなければ、われわれはだ丈夫だ、救われるのだ、と力強くのべているのであります。

 しかし今イエスは、その神にまで見捨てられようとしているのであります。イエスは人々に見捨てられるということについては、覚悟はできていたでしょうし、そのことについては、弟子達にもさいさい予告していたのであります。しかしその際、自分は神にも見捨てられるのだとは語ってはいないのであります。自分は長老、祭司長に殺されるが、三日目には復活するといわれているのであります。つまり、神が自分を見捨てないで、よみがえさせてくださると予告しているのであります。

 それなのに、この十字架の上で、イエスは息を引き取るときに、最後に叫ばれた言葉が「わが神、わが神、どうして、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」という言葉だったのであります。
 
 ある人がいうには、イエスが十字架につけられたのが、午前の九時です。そして息を引き取られたのが昼の三時であります。その六時間の間、イエスはひとことも声を出していないのです。ずっと沈黙していた。そしてその六時間の最後に、この言葉を叫ばれたということを考えなくてはならいと指摘しております。

 つまり、イエスはその六時間の間、ずっと「自分は神に見捨てられてしまうのか」ということを考え続けておられた、あるいは、祈られていたということであります。「あなたは本当にわたしを見捨てられるのですか」と、祈り続けておられたということなのであります。

 人に見捨てられる覚悟はできている、しかし神にまで見捨てられてしまうのか、それが救い主としての自分の使命なのか、それが父なる神のみ心なのかということであります。

 この十字架の上のイエスに向かって、人々は「他人を救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りてみるがよい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子なのだ』といっていたのだから」といって、罵ったのであります。つまり、「お前は神の子なのに、神から捨てられるのだ、それが神の子といえるか」といって、罵しったのであります。

 父なる神はなぜご自分のひとり子イエスを見捨てなくてはならなかったのでしょうか。イエスはなぜ父なる神に見捨てられなければならなかったのか。

 人々に見捨てられ、それでも正義を貫いた人は、歴史のなかでたくさんいたと思います。殉教者はみな最後には人々に捨てられて、殺されていっても、自分の真実を、自分の正しさを、あるいは人々に対する愛を示して、自分の命をなげだしていったのであります。人には見捨てられても、神は自分の正しさを知ってくださっているに違いないという確信をもって死んでいったと思います。

 しかし、イエスは、単なる殉教者ではなかった。それはイエスはただ人に捨てられるだけではなく、最後には、神にまで捨てられていくからであります。神の子でありながら、自分は神の子だと人々にいいながら、最後には、その神にまで捨てられていったのであります。そういう人がどうしてわれわれの救い主になるのか。

 イエスご自身もそのことに納得ががいかないで、神に問い続けたのです。それがゲッセマネの園でのイエスの祈りであります。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と神に祈ったのです。「杯」というのは、苦き杯ということで、十字架の苦難、十字架の死をいっているのです。「自分を十字架で死なせないでください」という祈りであります。
 「わたしは本当に十字架で死ななくてはならなのですか。自分が十字架で殺されるということは、あの祭司長、長老たちのいいなりになるということ、つまりは、サタンの手に渡されるということになるのですよ。それでもいいのですか。サタンが勝利していいのですか」という訴えなのであります。

 そしてイエスは、「できることなら、自分を十字架につけないでください」と祈ったあと、「しかしわたしの願いどおりではなく、御心のままになさってください」と祈ったのであります。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心がおこなわれますように」と、祈っているのであります。

 それに対して、父なる神はなにひとつ答えてはいないのです。それまでには、重要なときには、神は天から啓示をあたえているのです。イエスが罪人のひとりとして、罪の悔い改めのバプテスマをヨハネから受けたときに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天から声が、神の答えがあったのです。同じようなことが、イエスが十字架を予告したあと、高い山にのぼられたときに、イエスの姿が栄光に輝き、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声があったのです。

 それなのに、なぜこのとき、イエスの必死な祈りに対して、神はなにもお答えにならなかったのか。

 しかしイエスはその沈黙のなかに父なる神の堅い決意、ゆらぐことのない神の御心をうけとめて、「時がきた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。わたしを裏切る者が来た」といって、敢然として十字架の道を歩み出すのであります。

 ですから、イエスは自分が十字架で殺されることになっても、本当は神には見捨てられてられることにはならない、なぜなら、これは父なる神のみこころなのだから、神の意志なのだからだと知っていたはずなのです。

 それなのに、イエスはその十字架の上で、六時間の間、考え続け、祈り続けたすえに「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて息をひきとっていったのであります。

 ある人が、ゲッセマネの園でのイエスの祈りについてこういっているのであります。「主イエスは、ご自分を悪魔の手に渡されないで、勝利をしめる道はない、とお考えになった。その先はどうなるのか。それは神のみの知っておられることだ。主イエスすらも、そのことについては、信じるだけであったのだ。それならば、このゲッセマネでの戦い、十字架の上でのイエスの戦いは、神のみが知っている戦いであった。われわれにはわからない。したがって、主イエスが恐れ、おののき、悩み始められたといっても、不思議ではない」というのであります。

 つまり、信じるということと知っているということとは違うのだということであります。信じるということは、すべてのことがわからなくても信じるという面がでてくるということであります。
 なにもかもわかっていたら、なにも信じる必要はないわけです。すべてのことがわかっているわけではない、しかし、相手を信じて、信じることに賭けてみるということであります。ですから、信じると言うことにおいては、戸惑いとか悩みとか恐れとか不安というものは当然つきまとうのだ、つきまとっていいのだということであります。

われわれはともすれば、信じるというときに、信じているというときに、信じておりながら、不安になったり、恐れたりするときに、自分の信仰が足りないのではないかと思いがちでありますが、そうではない、信じるということはそういものが伴うのは当たり前なのであって、それが知るということ、知っているということとの違いなのだということであります。

 主イエスは、自分が十字架で殺されるということは、神のみこころなのだということ、それは神に見捨てられることではないのだということは、わかっていたのです。しかしそれはただ信じるということを通してわかっていたということなのです。だから最後の最後に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばずにはおれなかったのではないかと思います。

そして事実、神はこの十字架の上で、我が子イエスを見捨てたのです。我が子を見捨てることによって、神に見捨てられるということがどんなに恐ろしいことであり、悲しいことであるかをわれわれに知らせようとしたのであります。

 われわれはどうでしょうか。神に見捨てられるということはそれほど深刻なこととして受け止めているでしょうか。人に捨てられることは恐ろしいと思うし、悲しいとことと思うかもしれません。ですから、親や、夫に反対されたら、教会にいくのもひかえてしまうということもするのではないでしょうか。人に捨てられないために、あっさりと信仰を捨ててしまうことすらあるのです。人によく思われるためには、神までもあっさりと捨ててしまうことがあるのであります。

 確かに、神に見捨てられることはこわいと思うかもしれまん。しかしそれは神に捨てられること自体を恐れるのではなく、ただ神に見捨てられて、地獄におとされるのが怖いということだけなのではないか。つまり神との関係がなくなることよりも、地獄におとされて怖い目に遭うのでがいやだと言うだけの話ではないか。

本当は、たとえ地獄に落とされても、神に見捨てられさえしなければ、大丈夫だ、救われているのだという信仰は、われわれはなかなかもてないのではないか。
パウロは、そういう信仰をわれわれに教えた筈なのです。神がわたしの味方ならば、誰がわたしに敵しえようか。イエス・キリストによって示された神の愛は、たとえ、地獄のなかであろうと、その神の愛からひきはなされないのだ、だから大丈夫だという信仰をパウロはわれわれに教えたのです。

 神は、十字架の上で、ひとり子イエスわ見捨てることによって、神に見捨てられるということがどんなに恐しいことか、それがどんなに絶望的なことであるかを、あのイエスの十字架のうえでの最後の絶叫を通して、われわれに示してくださったのであります。イエスはそれを身をもって示してくださったのであります。

 神に見捨てられるということは、最後のところ、われわれには本当はどうでもいいことなのである、人に捨てられさえしなければ、そんなことはどうでもいいことなのだということは、人間中心主義、それはつまりは自分中心主義ということであります。

 イスラエルの父祖アブラハムは、あるときに、自分の最愛の子イサクを神に燔祭として神に捧げよと命ぜられるのであります。我が子を殺して神にささげなさいと命じられるのです。燔祭として捧げるということは、小羊とか動物を殺して、それを薪の上に並べて、その薪に火をつけて焼いて、その煙は上に上っていきますから、それは神に捧げられるものになるのだという儀式であります。

 我が子を殺して神に捧げよと神は命じるのです。その我が子というのは、アブラハムとサラとの間にようやくにして、与えられた唯一の世継ぎの子であります。ようやく与えられたわが子を殺して神にささげよ、と命じられるのであります。アブラハムはそれに従いました。

 山の上でそれは行われるのですが、山の近くにきたときに、それまでついてきた若者をそこでとどめて、アブラハムは我が子イサクと二人きりで、たきぎを取り、それをイサクに負わせて、手に火と刃物とをとって、山に登るのであります。その途中でイサクはは父親アブラムに尋ねます。「父よ、火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」と尋ねます。するとアブラハムは、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるだろう」と答えるのであります。

 このとき、イサクはまさか自分が燔祭の小羊として殺されて、ささげられるのだとは思わなかったのだろうか。そう感づいていたら、逃げ出しただろうと思うのです。しかし、あるいは、父親のなみなみならぬ緊迫した雰囲気から、もしかしたら自分が燔祭の小羊として殺されるのかと感づいて、このことを尋ねたのかもしれません。

 アブはラムは、神に示された場所にきたときに、そこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛り、祭壇の上に載せて、手をさしのべて、刃物をとって我が子イサクを殺そうとした。そのときに、主の使の声が天から聞こえた。「アブラハムよ。その子に手をくだすな。なにもしてはならない。お前が神を畏れるものであることが、今わかった」。そういう声が天から響いたというのです。

 そしてアブラハムが目を上げてみると、うしろのやぶに角をかけている雄山羊をみつけ、その雄山羊を捕らえて、それを燔祭として捧げたというのであります。

 なぜ神はアブラハムにそんなことをさせたのか。アブラハムが、我が子イサクを殺そうとして、刃物をとったということは、もう心理的には、我が子イサクを殺したと同じであります。
 なぜ神はそんなことをアブラハムにさせたのか。それはアブラハムがなによりも神を畏れるものであるかどうかを試すためであったというのです。神を第一として神を崇めるものであるかどうかを試すためにそうしたというのであります。

神の理不尽な命令に従うかどうか、我が子を殺してささげよという神の理不尽な命令に従うかどうか、そのことによって彼が本当に神を畏れるものであるかどうかを試すためであったというのです。
 
 この記事の冒頭には、「これらのことの後で神はアブラハムを試された」と記されているのです。「これらのことの後で」というこれらのこととは、創世記はその前の記事で、アブラハムの甥ロトの住んでいたソドムとゴモラの町の滅亡の記事があるのです。そしてロトの娘たちの自分の父親に酒を飲ませて子供造ろうとした話、あるいは、アブラハムの妻サラの愚かな行動、自分の子が生まれたあと、自分が奴隷に産ませたハガルをいじめて追い出してしまうという話、つまりあまりにも人間的な愚かな、浅ましい出来事が次々に書かれているのであります。

 そういうあまりにも人間的なあさましい、愚かな出来事が起こった。それはすべて神を畏れないところから起こったことなのであります。人間中心主義、自分中心の生き方がそのような混乱と罪を引き起こしたことを創世記は記すのであります。

 そのために、「これらのことの後で」、神はアブラハムに、お前は本当に神を第一とするか、本当に神を畏れるものであるかと問うたのであります。

 アブラハムは実際には、我が子イサクを殺さなかったのですが、しかし、一度は神の命令に従って、刃物を手に取ったのであります。それはもう殺したと同じであります。

 後に、我が子イサクから、「お父さん、あなたはあのときにわたしを殺そうとしましたね」と、尋ねられたときに、父アブラハムはなんと答えたでしょか。恐らく、アブラハムはこう答えたのではないか。「そうだ、確かにわたしはお前を殺そうとした。しかし同時に、あのとき、わたしは自分自身も殺そうとしたのだ」と答えたに違いないと思うのです。イサクもまたそのことを知っていたと思うのです。だから、そのあと、父と子の関係はひとつもぎくしゃくしないで、親子の関係は続けられていったのではないか。

 神はご自分のひとり子イエスを十字架で死なせた。イエスもまた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、叫びながら、父なる神にしたがっていって、死んでいったのであります。

 それを見ていて、異邦人の百人隊長は「本当に、この人は神の子であった」と告白をしたのであります。

このことをパウロはこう表現しているのであります。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じものとなられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」というのであります。

 キリストの十字架の死によって、われわれはなにを示されたか。それは「へりくだり」ということ、謙遜になるということであります。そして謙遜であるということは、ただ自分で自分を低くするとか、慎み深くするとか、ということではなく、父なる神に対して、従順になることによって得られるということであります。謙遜になるためには、神に従順になることによってだということであります。

 アブラハムがそうしたように、神を本当に畏れ、自分を捨てるということであります。

 われわれの罪は、われわれが本当に謙遜になれないということであります。われわれが本当に自分を捨てられないということであります。どこまでいっても、傲慢であり、自分中心であるということであります。

 その自分を捨てるためには、神を第一とし、神を畏れ、神に従順に従うことによってでしかないのであります。

 ヨハネによる福音書には、「互いに愛し合いなさい」といったあと、「友のために自分の命をすてること、これ以上に大きな愛はない」といっております。
自分を捨てるということは、人を愛するということなのです。

 自分の命を捨てるなんてことは、そうやすやすとできることではないのです。しかしわれわれの人生においては、一生に一度ぐらいは、自分の命をすててまで人を愛さなくてはならい状況がくるかも知れないと思います。「友のために自分の命をすてること、これ以上に大きな愛はない」というのです。「友のために」というのです。なにもアフリカの飢えた子供のためとか、日本のためにとか、国家のためにとか、そんな大げさなことのためではないのです。「友のために」です。自分の家族のために、親のために、夫のために、妻のために、子供のために、介護のために、自分を捨てなくてはならない時が、一生に一度くらいはくるかもしれないのです。その覚悟をもって生きるということが大切だと思うのです。

 主イエスの十字架の道はその道をわれわれに示してくださった。

 主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、叫ばれましたが、自分を見捨てる神に対して、「わが神、わが神」と叫ばれたのであります。それは、主イエスの信仰であった。神は今わたしを見捨てるけれど、それがあなたの御心であるのならば、あなたはわたしを最後に見捨てないのですね、という信仰のあらわれだったのではないかと思います。

 それが三日後の復活において示されたのであります。少し屁理屈になるかもしれませんが、神はイエスを見捨てることによって、イエスを見捨てなかったのであります。神は一度イエスを見捨てることによって、最後にはイエスを見捨てなかったということであります。それがイエス・キリストの十字架と復活によって示された神の愛だったのであります。

 その十字架のイエスの叫びを知らされたわれわれは、自分が死ぬときには、もうイエスほどに絶望的にならなずに、もっと安心して、「わが神、わが神、アバ父よ」と祈りつつ、「わたしの霊をあなたに委ねます」と、死んでいくことができるのではないかと思います。