「神に選ばれた人。ヤコブ」  創世記二五章一九ー三四節
ローマの信徒への手紙九章一○ー一六節

 今日からヤコブの物語に入ります。創世記の記事の中で一番長い、また内容も深い物語であります。ヤコブという人物がどんな人間かということはあらかじめ知っておいたほうが、これからの問題を考えるうえで大切なので、かいつまんでお話しします。

 今日の記事でもわかりますように、リベカに双子が生まれた。エサウとヤコブであります。ところが弟のヤコブのほうは生まれる時に、兄エサウのかかとをつかんで生まれようとしたというのです。つまり兄を押しのけて、自分が長子としてこの世に誕生しようとしたのだということであります。
 聖書はそれで「ヤコブ」と名付けられたと記しております。この「ヤコブ」という命名は語学的には難しく、これは「かかと」という言葉が「アケブ」という言葉なのでそう名付けられたとなっております。

 ともかくこのヤコブは生まれ出たときから人を押しのけるような人間だったということであります。成人してから、エサウは狩猟者としての生活、ヤコブは野の人となった。新共同訳聖書では、「天幕のまわりで働く人になった」と訳されております。要するに畑をたがやして生活するということであります。

 そしてある時エサウが狩猟者として外からお腹をすかして帰って来た時に、ヤコブは畑を耕す人だったので、家でおいしい豆を煮ていたのであります。それでエサウがそれを食べさせてくれと頼みますと、ヤコブは「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」、口語訳では、「まず長子の特権をわたしに売りなさい」というのです。

 人の弱みにつけ込んで、長子の特権をたった一杯の煮物と交換してしまうとするのであります。当時長子の特権というのは、親の財産を二倍相続できるという特権だったようであります。お腹のすいているエサウは「わたしは死にそうだ、長子の特権などわたしに何になろう」といいますと、ヤコブはすんなり煮物をエサウにあげるのではなく、まず誓いをさせるのであります。ヤコブは実にそういう意味では抜け目のないずるがしこい人間であります。そのようにしてエサウは長子の特権を軽んじるのであります。
 
 そのヤコブは後に、今度は長子の祝福までもエサウから奪ってしまうのであります。
 
 お父さんのイサクは年をとってもう自分の死期が近いことを知って、長男のエサウを呼んで、「もう自分はいつ死ぬかわからないから、最後においしいものを食べてお前を長子として祝福したいから、獲物をとってきてくれ」というのです。
 
 イサクの妻リベカはそれを聞いてしまいます。リベカは長男エサウよりも次男のヤコブを愛していた、ただ愛していたというよりは偏愛していた、それでなんとかして、ヤコブに長子としての祝福を受けさせようとしたのであります。そしてとんでもないことを計画します。

 ヤコブを呼んで、「お父さんがエサウに鹿の肉をとってこさせてそれを食べてエサウを長子として祝福しようとしている。わたしはお前になんとしてでも長子の祝福をうけさせたいのだ。今からいうことを実行しなさい。鹿を射止めるには時間がかかるし、大変だから、家畜として飼っているすぐ手近にいる山羊の肉をわたしが調理してあげるから、それをもって父親のところにいって、これは鹿の肉だとだましてしまいなさい。どうせもうお父さんはもうろくしているから、鹿の肉だか山羊の肉だかの区別などつくはずはないのだから」というのです。

 ヤコブはさすがにためらいます。「兄エサウは毛深い人間でわたしはなめらかな肌をしているから、父がわたしのからだにさわったら、すぐわかってしまいます。そうしたらわたしは祝福を受けるどころか呪いをうけることになるでしょう」といいます。
 するとリベカは「お前が受ける呪いはわたしが受けます」といって、ヤコブにエサウの晴れ着を着させ、ヤコブの手と首のとろに山羊の皮をつけさせて、イサクがさわってもヤコブだとわかってしまわないように工作するのであります。もうこの時はイサクは目が見えなくなっているからであります。

 そうしてまんまんとヤコブは父親をだまして、長男エサウの長子としての祝福を奪ってしまうのであります。イサクは「どうしてこんなに早く鹿の肉を手にいれられたのか。どうも声はヤコブのようだが、しかし肌は確かにエサウの毛深い肌だ」といって、イサクはだまされたと知らないで、ヤコブを長子として祝福してしまうのであります。

 そうしているところに、兄のエサウがおいしい鹿の肉を調理してもってきます。その時ようやくイサクは自分がだまされたことを知ります。「わたしがエサウです」というエサウの声を聞いて、イサクは激しくからだをふるわせていうのです。「それではあの鹿の肉をとって、わたしに持ってきた者はだれか。わたしはお前が来る前に、鹿の肉をみんな食べて彼を長子として祝福してしまった」。

 それを聞いてエサウは「わたしをも祝福してください」と大声をあげて激しく父イサクにつめよりますと、父イサクは「お前の弟が偽ってやってきて、おまえの祝福を奪ってしまった」と答えます。するとエサウは「よくもヤコブとなづけたものだ。彼は二度までもわたしをおしのけた。先にはわたしの長子の特権を奪い、今度はわたしの祝福を奪った」と悔しがります。

 エサウは長子の特権を奪われただけでなく、長子の祝福までヤコブに奪われてしまったのであります。長子の特権というのは、遺産相続の財産という、ある意味ではこの世的なもの、物質的なものですが、長子の祝福は神からの祝福を意味しておりますから、こちらの方が重要な意味を持っているのであります。

 それでエサウは父親イサクに必死に訴え「あなはわたしのために祝福を残しておかれませんでしたか。父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」と訴えて声をあげて泣いた。

 それに対して父イサクはエサウを祝福しますが、もうそれは長子としての祝福ではなく、むしろ彼の不幸を暗示するような予言でしかないのであります。「あなたのすみかは地の肥えた所から離れ、また上なる天の露から離れるであろう。あなたは剣に頼って生きていく。しかし、お前は弟に仕える」と祝福するのであります。これはもうとうてい祝福というようなものではないのです。

 聖書は、このヤコブが後にイスラエルと名前を変えられて、このヤコブの子孫から選民イスラエル民族、ユダヤ民族が形成されていくことを語るのであります。

 自分たちの民族の出発点に、自分たちの民族の土台にこんな卑劣な手段で長子の特権と長子の祝福をだしまとったヤコブが存在していることを、イスラエルの民は決して隠そうとしていないのであります。

 これは考えてみれば、不思議な、驚くべきことではないでしょうか。自分たちの民族の歴史の出発がこんな卑劣な手段で勝ち取ったものであるということを語りついできているのであります。自分たちの民族の出所を決して美化しないのです。

 もちろんこれから続く創世記のヤコブ物語は、このままなんの苦労もなく、ヤコブは神からの祝福を受けて幸せいっぱいの人生を歩んでいくのだとは記してはおりません。ヤコブは自分の犯した罪のために、その罪をいわば自分で刈り取るようにして、苦難に満ちた歩みをしていくのであります。

まず第一にエサウから憎まれ、エサウは「父が死んだら、ヤコブを殺す」と口ばしったというのです。それを聞いた母リベカはヤコブを自分の里に逃亡させるのであります。ヤコブは自分の犯した罪のために自分の故郷を去らなければならないのであります。

 彼を待っていたのは、決して単なる祝福ではなく、労苦であります。しかしそれでもこのヤコブの長子としての祝福は取り消されないのであります。

ここで考えておかなくてはならない大事なことは、ヤコブが長子としての祝福を受けるということは、もう彼が生まれる前から神によって定まっていたことなのだということであります。

 ヤコブが長子としての祝福を神から受けるのは、母親リベカのそそのかしと、それに従うヤコブの邪悪によって奪い取られたのではない、実は神がエサウとヤコブという双子が生まれる前に、二人が母のリベカの胎内にいる時にすでに、「兄は弟に仕えるであろう」ということが定められていて、そのことを母親リベカも神から告げられていたのだと聖書は記しているのであります。これは初めからの神の選びのご計画だったのであります。

 問題はこのリベカとヤコブの邪悪な行為によっても、ヤコブの長子としての祝福という神の選びのご計画は取り消されなかったということであります。この事をしっかりと考えておかなくてはならないのであります。

 つまり、神の選び、それは神の救いといってもいいと思いますが、神の選びは人間の欲望によって勝ち取られるものではなく、それはあくまで神の選びであって、神がお決めになることであるということなのです。
 そして、たとえ、神が決められた選びが人間の邪悪な罪によって曲げられたり、汚されたりされようが、神の選びは決して取り消されないということなのであります。

 この事をパウロは明確な言葉で語るのであります。ローマの信徒への手紙の九章からは、選民イスラエル民族、ユダヤ民族が今キリスト教会を迫害し、イエス・キリストを信じようとしない、受け入れようとしない、それならばそのイスラエル民族は神に捨てられるのか、という問題を論じているところであります。

 そこで、パウロは、ローマの信徒への手紙の十一章二八節で、神がひとたび選んだイスラエルを決して見捨てないということを論じているところであります。「福音について言えば、彼らはあなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは変えられることはない」というのであります。

 神はひとたび選んだものを、その選ばれた者が邪悪な罪によって転落していこうが、決して見捨てることはしないというのであります。それが神の愛だというのです、それが神の選びだというのです。「神の賜物と召しは決して変えられることはない」というのです。

 あの放蕩息子の父親は、子供が自分の遺産相続の取り分を先取りして、父親のもとを離れ、さんざん放蕩して帰ってきても、その息子を見捨てることをせず、帰ってきた息子を黙って父親のほうから走り寄って受け入れた、それが父なる神の愛だとイエスは語るのであります。

 われわれが神のもとに帰ることができるのは、この神の愛があるからなのではないでしょうか。われわれも洗礼を受けたからといって、信仰ひとすじにというわけにはいかないのです。それこそ紆余曲折がある。ある時には信仰を捨てることもあるかもしれない。教会を遠ざかる時もあるかもしれない。しかし、その時にわれわれをもう一度教会に帰らせ、信仰に帰らせるのはこの神の愛があるからなのです。

 それは選びの愛であります。つまりわれわれが救われたのは、自分が信仰をもったからとか、自分が悔い改めたからとか、自分がなにかよい行いをしたからとか、そういうことではなく、まず神が先手をうってわたしを選んでくださっていた、そういう信仰にわれわれが立てる時に、われわれはどんなに神から離れてもこの神のもとに立ち戻れるのであります。

われわれがキリスト教を求め、そして洗礼を受けようと思い立ったのは、自分の意志であるかもしれません。しかし、その志を起こさせたのは神なのだ、神の選びの愛なのだ、神様の方でそういう志を起こしてくださったのだと悟り、信じるようにならない限り、われわれの信仰の確かさはないのです。

 母リベカはなぜこんなにまでして、次男のヤコブを偏愛し、夫であるイサクを卑劣な手段でだましてまで、ヤコブに長子としての祝福を受けさせたかったのでしょうか。それはリベカの単なる母親としての人間的な思いから出た偏愛であったのだろうか。そうではないのではないのです。

 リベカはエサウとヤコブがまだ生まれない時に、母の胎内にいるときに、彼らは双子でしたので、母の胎内で争っていた。それでリベカはこんな事では将来どうなるか心配して、神に尋ねて、祈ったのです。そうしたら、神から「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」と、告げられているのであります。

 リベカが弟のヤコブを偏愛し、そしてこんな卑劣なことまでして、ヤコブに長子としての祝福を受けさせようとしたのは、ここにその原因があつたのであります。
 神はヤコブを選んでいるのであります。その選びをリベカは人間的な思いで、補強しようとした。本当はそんなことをしなくても、ヤコブは長子として祝福を受ける道が進んでいくはずなのに、母親リベカは人間的な思いで、この神の選びを補強しようとした。

 神の選びは本当はそんな人間的な補強を必要としないのにであります。そこにリベカの過ちがあったのではないか。

 それはまさにイスラエル民族の過ちでもあります。イスラエル民族の歴史は、旧約聖書をみれば、そうしてあえて言えば、今日のイスラエルという国の現状をみても、この選民性のおごり高ぶりが苦難の歴史を生み出しているともいえるのではないか。

 自分たちは神に特別に選ばれている、そのことを本当に深く受け止めて、だからこそ神の前に謙遜になり、すべての世界の祝福の基となって、すべての民族に仕える民として、祭司の国として道を歩まなくてはならないのに、イスラエルの民は、この選民意識のために、逆におごり高ぶり、他の民族を軽蔑し、そしてついに神に裁かれて国を失い、アッシリヤに滅ぼされ、バビロンに滅ぼされていく、それが選民イスラエルの歴史なのであります。

 そしてそのイスラエルの傲慢の罪を救うために神が派遣した神の子イエス・キリストまで、ついに十字架で抹殺してしまうのであります。それはまさにイスラエルの選民性のおごり高ぶりの故であります。

 ヤコブはその後、故郷を追われ、さんざん苦労いたします。そうして最後にはゆくところがなくなって、ついに自分を憎み、自分を殺そうとして待ちかまえているエサウがいる自分の故郷に帰らざるをえなくなるのであります。

 その旅の途中で、ヤボクの渡し場というところで、深夜ヤコブは神の使いのものと相撲をとるのであります。そしてその相撲に勝つのであります。しかしヤコブはその神との相撲に勝ちながら、泣いて自分を祝福してくださいと訴えたというのであります。

 勝ちながら、まるで負けたようにして泣き、この自分を祝福してくださいと神に懇願したというのです。それで神は「もうお前はヤコブと呼ばないで、、これからはイスラエルと名前を変えなさい」と言われるのです。イスラエルというのは、「神が支配する」という意味であります。「お前はもはや自分中心に生きるのではなく、神を中心として生きなさい、神が支配してることを信じて歩みなさい」とあらためて神からいわれるのであります。
ここでヤコブはイスラエル、人を押しのけてまで、自分を主張する人間から、神を信じ、神が支配する人間として、イスラエルという名前に変えられていくのであります。

 ヤコブはそのもものつがいをはずされて、神から祝福を受けた。ここからイスラエル民族が生まれていくのであります。

 そのことによって聖書は何をわれわれに語ろうとしているかということであります。それは神の選びの不思議さということであります。イスラエルの歴史を導いているのは神なのだということであります。われわれの生活を導いているのは最終的には神なのだということであります。決して人間ではない。人間の努力とかわざではないということなのであります。

 そのことをパウロはローマ人への手紙の九章でいうのであります。
「ひとりの人、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も同様である。まだ子供たちが生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰せられたのである。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりである。では神の側に不正があるのか。断じてそうではない。神はモーセにいわれた。『わたし自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者をいつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。」というのであります。

 つまり、もうすでにヤコブの選びは神によってなされていたのだ、彼らがまだ善も悪も選択できない時に、二人がリベカの胎内にいる時にすでに「兄は弟に仕えるであろう」という神の選びがあったのだということなのであります。

 ですから、これからヤコブの物語を学ぶ時に、こんなヤコブがなぜ神に選ばれるのかと問いを発するのではなく、神にすでに選ばれているヤコブがなぜこのような生き方をしているのか、あるいは、神にすでに選ばれているからこのような生き方をしたのではないかと考えて、この物語を読んでいかなくてはならないということなのであります。

 ヤコブはなぜ選ばれたという問いではなく、神に選ばれたヤコブはどのような生き方をしたのかということであります。

 神の選びというのは、われわれが何か善い行いをしたから、あるいは悔い改めたから、信仰をもったから、神はわれわれを選んでくださったのだ、そういうことではないということなのです。われわれの行いに根ざして神の選びがあったのではない。神の選びのほうが先行しているということであります。

 「まだ子供が生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画がわざによらず、召したかたによって行われるために」、神の選びがあったというのであります。神の選びがわたしの悔い改めよりも、先行している、そのことにわれわれは気がつかなくてはならないということなのであります。

 自分の人生を最終的に支配し、導いてくださるかたがおられるということを知ることがどんなに心強いことであるか、またそのことはどんなにわれわれを謙遜にさせるかということであります。