「神からの祝福を求めてーヤコブ」  創世記三二章二三ー三三節
マタイ福音書七章七ー一一節

 ヤコブは母リベカにそそのかされたとは言え、父イサクをだまし、兄エサウが受けるべき長子の祝福を奪い取ってしまったのであります。そのためにエサウから恨みを買います。「父の喪の日も遠くはないであろう。その時に、ヤコブを殺そう」とエサウは口ばしっていたというのです。それを聞いた母リベカはヤコブを自分の兄ラバンがいるところに一時ほとぼりがさめるまで避難させるのであります。ヤコブはそのようにして、自分の故郷を去らなくてはならなかったのであります。

 ヤコブはベエルシバを立って、ハランに向かった。日が暮れたのでそこで一夜を過ごそうと、そばにあった石をとり、それを枕にして寝た。彼は夢を見た。
「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも神の御使いたちが、それを上がったり下ったりしていた。」
 そして主が傍らに立ち、ヤコブに語りかけた。

 「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫に与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南に広がり、地の諸族はあなたと子孫によって祝福を受けるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」と告げるのであります。

 驚くべきことに、卑劣な手段で父イサクと兄エサウをだまし、長子の祝福を奪いとり、その結果いわば自業自得のようにして、故郷を追われていく、そのヤコブに、主なる神が「わたしは決してお前を見捨てない」と語りかけるのであります。

 この時ヤコブはたったひとりで野原に石を枕にして寝ていたのです。孤独であります。その孤独は、ただひとりぽっちだという意味での孤独というだけでなく、今自分が故郷を追われ、一人旅をして、まだ見知らぬ地、叔父ラバンのところに行かなくてはならない、しかもそれもこれもみな自分が犯した罪の結果なのであります。この厳しい状況はみな自分が蒔いた種を自分が刈り取っているのであります。

 そのときに、神のほうから、ヤコブに現れ、ヤコブに「わたしは決してお前を見捨てない」と言うのです。ヤコブは、自分は神からも、人からも家族からも見捨てられたと思っている時に、神からそのように語りかけられるのです。

 この時に、ヤコブは自分の犯した罪の結果を自分が引き受けなくてはならないことは覚悟はしていたでしょうけれど、まだ神の前に悔い改めたわけではないのです。まだ悔い改めてはいない、それなのに神が先手をうってヤコブに「わたしは決してお前を見捨てない」というのです。

 ヤコブは眠りから醒めた時に、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。これはなんという恐るべき所だ。これは神の家だ。これ天の門だ」といった。

 「主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」とヤコブは言っておりますが、これは単に「神がここにおられるのにわたしは知らなかった」という意味だけでなく、主なる神というかたがこういう神であるとは思いもしなかったということなのではないかと思います。

 われわれは神が現れてくださる時というのは、われわれが自分の罪に泣き、自分の罪を悔い、そうしてなんとかして自分の罪を清めようとした時に、神が現れてくださるのだと思っているのではないかと思います。罪を犯して、その罪の結果、人の恨みを買い、人から殺されそうになって逃亡している人間、しかもまだ神の前に悔い改めてもいない人間に、神のほうから現れてくださるなどとは、われわれ思わないだろうと思います。

 われわれは、自分の心とか魂を浄化して、そうして神を見るのだと思っているのではないかと思います。しかし、そういう神というのは、本当の神ではない、少なくもイエス・キリストを通して示された神ではない、それは結局はわれわれが自分が勝手にイメージした神、自分が作りあげた神でしかないのであります。
 われわれはそういう意味では、いつでも神を誤解していると思います。そして、本当の神の声を聞いた時に、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」と告白することになるのではないかと思います。

 「まことに主がここにおられるのに、わたしは知らなかった」。神の声をきくということは、いつでも「わたしは知らなかった」という思いがなくてはならないと思います。自分が思っている通りの神の言葉だったというのでは、それは自分が作りあげた神でしかないかもしれないと思います。

 そのような神にお会いして、ヤコブは驚き、また喜びました。ヤコブは誓いを立てた。「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神としたいしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家としたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一をわたしは必ずあなたにささげます。」

 読むとすぐわかりますように、この誓いは、まことに御利益的で、虫のいい話であります。なぜなら「もしなになにしてくださるなら」という条件つきの誓いだからであります。神のほうではいっさい条件をつけない、「もしお前が悔い改めたら、わたしはお前を守る」とか、そういう条件をいっさいつけないで、「わたしはお前を決して捨てない」と約束しているのに、ヤコブは「こうこうこならば、」という条件をつけているのであります。

 われわれ人間はどこまでいっても、御利益的信仰を脱することはできないのです。この御利益的信仰を打ち砕いてくださるのはただ神だけであります。

このあと、ヤコブは叔父のラバンのところにいきます。そこでヤコブはさんざん苦労いたします。理不尽な仕打ちをうけます。それもみなヤコブが自分の犯した罪を刈り取っていく苦難であります。
 途中の経過を省きますが、ヤコブはとうとうその叔父ラバンのところを去って、自分の故郷に帰らざるをえなくなるのであります。そこは自分を殺すと待ち構えている兄エサウのいる故郷であります。そこに帰らざるをえなくなるのであります。

 ヤコブはまず兄エサウのところに使者をつかわした。エサウに会ったからこういって欲しいと言わすのです。「あなたのしもべヤコブはこう言っています。『わたしはラバンのもとに寄留して今までとどまりました。わたしは牛、らば、羊、男女の奴隷を持っています。それでわが主に申し上げて、あなたの前に恵みを得ようと人をつかわしたのです。』」

 使者が帰ってきた。兄エサウは四百人を率いてあなたを迎えようとしていると報告するのであります。その四百人が何を意味するのかはっきりしませんが、少なくもヤコブにとってはそれは脅威でした。ヤコブは非常に恐れた。そして苦しんだ。それで彼は共にいる人々を二つのグループに分け、家畜も二つの組に分けて、「エサウが来て、戦いになっても、一つの組が負けても、残りの組は逃れるだろう」と作戦をねった。

 それだけでは不安なヤコブは主なる神に「助けてください」と祈った。

 それでもヤコブは不安でした。このように神に祈った後、ヤコブの気持ちは少し変わったようです。
 彼の持ち物のうちから兄エサウへの贈り物を用意したのであります。その贈り物を二段三段にわけて、それでエサウの一隊が進んでくる間に、これはヤコブからの贈り物ですと、何段にも分けて献げて、そうして兄エサウの気持ちをなだめよう、それから最後に自分は出ていこうと作戦を立て直すのです。

 神に祈る前に立てた最初の作戦は、兄エサウと戦うための組わけでした。しかし今度はいわば贈り物作戦であります。

 こうして贈り物を先に行かせて、ヤコブ自身は、その夜、野営地にとどまった。

みんなのものをヤボクの渡し場のところで、川向こうに先にやり、自分はこちらにひとり残って夜をすごそうとする。考える限りの作戦をねって、兄エサウとの再会を計ったのであります。それでもおそらくヤコブは不安だったのではないかと思います。それがこの夜彼がたったひとりで野宿したことでうかがえるのであります。

 ヤコブは今自分の犯した罪の始末をつけようとしているのであります。自分の犯した罪のために、自分を殺そうと待ち構えているかも知れない兄エサウと対面しようとしているのであります。

 そのためには自分の罪と正面から向かわなくてはならないのです。そのために考えられるあらゆる策を講じた。しかしそれによって彼は安心したかと言えば、ひとつも安心できないのです。むしろそうした策を講じれば講じるほど不安は高まったのではないかと思います。
 ここには自分の罪に対して、悔い改めとか、懺悔とか、そうしたものは一つもないからであります。ただただ、兄の怒りをなだめることだけしか考えようとしていないからであります。だから不安は解消されていないのです。

 人は罪を犯す時も卑怯ですけれど、その罪を解決する時にも卑怯であります。いや罪を解決しようとする時の方がもっともっとわれわれ卑怯かもしれません。自分の犯した罪を隠蔽しようとしたり、弁解しようとしたり、忘れようとしたりするからであります。われわれは罪を犯す時よりは、罪を解決しようとする時の方がもっと卑怯なのであります。

 自分が考えられる限りの手だては尽くした。それでもヤコブは不安でした。その不安の根元を見極めたいと思って、彼はひとりになったのであります。ひとりで夜を過ごそうとして、みんなのものをヤボクの川の向こうにみな先にやったのであります。

 その夜であります。ひとりの人がヤコブに現れて、夜明けまで組打ちをした。相撲をとったのであります。その人はヤコブに勝てないのをみて、ヤコブのもものつがいをさわって、ヤコブのもものつがいをはずして、そこを去ろうとした。「夜が明けるからわたしを去らせてくれ」と懇願した。

 ここには古代の神話的な物語が組み込まれているのだと言われています。神々との出会い、あるいは魔物との出会いは、夜の間だけで、朝が来るとそういう天的なものは去っていかなくてはならないという話であります。

 天の使いは夜があけてしまうから、去らせてくれというのです。するとヤコブは「わたしを祝福してください。祝福してくださらないならば、あなたを去らせません」と食い下がった。

 ヤコブは突然あらわれて自分に挑んできたその者が始めは何者であるかはわからなかったと思います。人間なのか、悪魔の使いか、あるいは天の使いか、わからなかったと思います。しかし組み打ちしている間に、これは天の使いだと確信したと思います。それで「わたしを祝福してください、祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と、執拗に食い下がったのであります。

 そしてそれはかなえられたのであります。天の使いはヤコブを祝福した。
 
 その天の使いは、ヤコブを祝福する前に、「お前の名はなんというのか」と、尋ねます。彼は「ヤコブです」と答えます。天の使いは言った。「あなたはもはやヤコブとは言わず、イスラエルと言いなさい。あなたは神と人とに、力を争って勝ったからだ」と言います。

 ヤコブは兄エサウに会う時に非常に不安で、あらゆる人間的策略を講じても不安で、神に祈ったのです。しかしその祈りはまことに身勝手な祈りで、苦しい時の神頼みのような祈りだったと思います。
 それに対する神の答えがこのヤボクの渡し場での神の回答だったと考えることができると思います。

 神はわれわれのあのはなはだ身勝手な祈り、苦しい時の神頼み的な祈り、御利益信仰的な祈りにも答えてくれるという事であります。と言うよりは、神はわれわれの御利益的な祈りにもかかわらず、答えてくださるのだということであります。
 
 われわれの祈りというのは必ずどこかに身勝手な苦しい時の神頼み的な祈りがあり、御利益的な祈りを完全に払拭するなんてことは到底できないのです。だからもう祈るのは止めようと思ってはならないのです。そういう祈りでも祈らないよりは、祈ったほうがよほどいいということであります。

 なぜなら神はわれわれのそうした祈りに答えてくださるからであります。そうした身勝手な祈りにもかかわらず、答えてくださるからであります。

 われわれは自分の心を純粋にして、そうして御利益的な思いをなくすことができたら、神様に祈ろうなどと思っていたら、われわれは一生、祈りはできないだろうと思います。われわれの祈りは必ず御利益的な祈りが込められているのです。苦しい時の神頼みという祈りしかわれわれにはできないのです。しかしそれでもいいから、祈れ、と聖書はわれわれに告げている。

主イエスは「求めよ、そうすれば与えられる。捜せ、そうすれば、見いだす。門を叩け、そうれすば開けてもらえる。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、
門を叩く者はあけてもらえる」といわれたのです。

 神は、われわれの御利益的な要求をそのまますんなりと受け入れてくれるわけではないかも知れません。われわれの身勝手な祈りに応えてというよりは、われわれの身勝手な祈りにもかかわらず応えてくださるという事ですから、その神の答えには、なにか恐ろしいものがあるかも知れません。

 ヤコブの場合、この時、天の使いは、ある意味ではヤコブを屈服させるために来たのかもしれません。ヤコブを殺すために来たのかもしれない、それで天の使いはヤコブと格闘しに来たのであります。それがヤコブの祈りに対する答えだったのかも知れません。

 それでも神がわれわれの祈りに答えてくださるということは、なんとありがたいことか。ヤコブもそう思ったに違いないと思います。ヤコブは自分を殺すために来たかも知れないこの天の使いと格闘しながら、なんとしてでも神の祝福を得たいと願ったのであります。

 このところを預言者ホセアはこう言っているのであります。口語訳「ヤコブは母の胎にいた時から、兄のかかとをつかみ、成人したとき神と争った。彼は天の使いと争って勝ち、泣いてこれにあわれみを求めた」。
 
 ヤコブはこの天の使いとの格闘で勝利したのだ、しかし面白いことに、勝利したものが泣いてあわれみを求めたというのです。

 相手が神だらかであります。神の使いだからであります。神に勝つということは、神をねじ伏せるのではなく、ヤコブのように、「わたしを祝福してくださらないならば、あなたを去らせません」と、神からなんとしてでも祝福を求める、泣いて憐れみを乞うということであります。それが神に勝つということであります。

 もうこの時のヤコブには御利益的な気持ちは一つもなかったのではないかと思います。エサウとうまく和解しようなどという気持ちはふっとんでいて、ただ神からの祝福を得たいと願ったのです。

 なぜなら、この神からの祝福を得たヤコブは、翌日エサウに会いに行くとき、自分がまず先頭に立ち、三三章の三節をみますと「みずから、彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた」と記されているからであります。
それまでは自分が一番最後に出て、エサウと和解しようとしていた。しかし神から祝福を得たあとは、ヤコブはもうそうしたこざかしい策略は捨てて、自ら先頭に立って、エサウに謝ろうとしたのであります。

 創世記は、ヤコブが兄エサウから長子の特権と長子の祝福を奪い取ったとは記しておりますが、しかし具体的にそれがどのような形でヤコブに与えられたかはいっさい記していないのであります。いったい長子の特権とはなんだったのか。長子の祝福とは具体的にはなんだったのか。創世記はそれに対してなんの関心も示していないのであります。
 ヤコブが求めていた長子の祝福は、それは実はこのヤボクの渡し場での天の使いから与えられたのではないでしょうか。それを創世記がここで語ろうとしているのではないでしょうか。

 天の使いはヤコブの求めに対して、ただそのまますんなりと天からの祝福を与えたのではありませんでした。

 まず「あなたの名は何か」と尋ねるのであります。それに対して、「ヤコブです」と彼は答えた。ヤコブという名前の由来についてはいろんな説がありますが、少なくも言えることは、兄エサウのかかとをつかんで、兄をおしのけて、自分が先にこの世に出ようとしたところからつけられて名前であります。彼は今までの自分が歩んできた人生の全体をここで神から問われるのであります。

 「わたしはヤコブです。」彼は自分が今までどんなに自己中心に歩んできたかを告白させられるのであります。それに対して天の使いは、「あなたはもはや名をヤコブとはいわずに、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです。」と言うのであります。

 ここで「神と人」とでてまいりますが、なぜ「人」というのかと不思議な気がしますけれど、これは当時の用語の使いかたから出た表現で、神を強調するために使われた言葉であろうということであります。

 天の使いはヤコブに対して、もうヤコブではなく、イスラエルと名前を変えなさいというのです。イスラエルという意味は、「神が支配されるように、神が支配したもう」という意味であります。

 ヤコブは今まで自分が主人で、自分が自分の人生を支配していたのであります。これからはもうそうするな、神に支配していただくように、ということで、イスラエルという名にしなさい、と言われるのであります。
 
 それでもヤコブは、「どうかわたしにあなたの名をしらせてください」と求めますと、天の使いは「なぜわたしの名をきくのか」ときっぱりと拒絶して、しかしその所で天の使いはヤコブを祝福したのであります。
 神の名を聞こうとすること、相手の名を知るということは、相手を自分の支配下におくということを意味したようであります。それを天の使いは厳しく拒否するのであります。「お前は神を支配しようとしてはならない、神に支配される人間になれ」ということであります。
 
 夜が明けました。太陽が上って、ヤコブを照らしました。そのヤコブはびつこ引いていた。夜が明けて太陽のもとにさらされたヤコブはびっこを引いていたというのであります。天の使いとの格闘でもものつがいがはずされ、びっこを引いているヤコブ、それが神に祝福されるということなのであります。五体満足でないヤコブ、もはや完璧でないヤコブ、そこに神の祝福が満ちているのであります。なぜなら、神の力と神の恵みは、パウロに示されたように、人間の弱さにおいてこそ、完全にあらわれるからであります。

 だからわれわれは、パウロと共に、そしてヤコブと共に、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」という神の祝福を受けることができるのであります。