「神の義しさ」 マタイ福音書一章一八ー二五節

 聖書は、イエス・キリストの誕生の記事をこのように書き始めます。
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と書き始めるのであります。

 自分の婚約者が自分の身に覚えがないのに妊娠している、そのことを知ったヨセフは憤ったに違いないと思います。マリアは他の男と不倫したと思ったわけです。それでただちに離縁しようとした。婚約を解消しようとしたのであります。正しい人間だったならば、だれでもそうするだろうと思います。

 聖書は、「夫ヨセフは正しい人であったので」と書きますが、その正しさとは、彼は正しい人であったから、自分の婚約者の裏切りと不倫に憤り、離縁しようとしたとは書かないで、「夫ヨセフは正しいひとであったので」、マリアのこのことがおもてざたになるのを望まず、ひそかに、「ひそかに」です、ひそかに縁を切ろうと決心したと記すのであります。

 ヨセフはマリアの不倫を知って、ただ正義をふりかざし、マリアを糾弾するという、正義の志というような正しい人ではなく、人の過ちをも最大限に許し、被ってあげようとする優しさをもった正しい人間であったということであります。

不倫をしたに違いないマリアの罪を公に暴き立てて、彼女を追い込もうとしないで、その恥を被ってあげようとしたのであります。このことで「彼が正しい人であった」と記しているのであります。正しさとは優しさであるということであります。

 吉野弘の「祝婚歌」という詩があります。これはよく結婚式の披露宴で紹介される詩のようであります。
 「二人が睦まじくいるためには  愚かでいるほうがいい  立派すぎないほうがいい  立派すぎることは  長持ちしないことだと気付いているほうがいい  完璧をめざさないほうがいい  完璧なんて不自然なことだと  うそぶいているほうがいい  二人のうちどちらかが  ふざけているほうがいい  ずっこけているほうがいい  互いに非難することがあっても  非難できる資格が自分にあったかどうか  あとで疑わしくなるほうがいい  正しいことを言うときは  少しひかえめにするほうがいい  正しいことを言うときは  相手を傷つけやすいものだと  気付いているほうがいい  立派でありたいとか  正しくありたいとかいう  無理な緊張には  色目を使わず  ゆったり ゆたかに  光を浴びているほうがいい」

もう少し続きますが、こういう詩です。「正しいことを言うときには、少しひかえめにするほうがいい」というのです。われわれが正しさをいうときには、どこかに必ず自分の正しさを主張するという、自分が自分がという自我の主張があるからであります。

この詩は、よく結婚の披露宴で誰かが紹介する詩なのだそうですが、そのときに結婚式をあげている本人達、あるいはまだ若い人ではなく、いわば熟年の人たちに感銘を与えたということであります。

 茨木のり子さんという詩人がおりますが、茨木のり子さんの親戚の娘がドイツのカトリックの青年と国際結婚するとことになったといのうのです。そして式のときに相手は聖書の一部、あの有名な「コリント人への手紙の愛の賛歌」を読むから、こちらも日本の詩のなかでなにかを紹介して欲しいということがあって、その詩の選択を頼まれたとき、茨木のり子さんはすぐこの吉野弘さんの「祝婚歌」を選んだというのです。

 この「祝婚歌」という詩は、ヨーロッパの思考法、徹底的に原理を追求するヨーロッパの思考法とは、対極にある詩だから、ある意味では、これは聖書の一節に十分拮抗できるのではないかと彼女は思ったというのです。それでこれを紹介したら、若い二人はとても気に入ってくれた。相手のカトリックのドイツの青年も気に入ってくれた。それでこれをドイツ語に訳して渡したところ、式のときにこの詩が聖歌隊によって歌われた。そうしたら、出席した会衆に大きな感動を与えた。神父もこの詩についてかなり長い解説をしていたというのです。

茨木のり子さんは、この詩はあの原理を追求するドイツでも受け入れられたというのは、興味深いことであると書いているのであります。

 今世界は、ある大国の正義の主張によって、テロリズムを引き起こし、復讐の連鎖を断ち切れないでいるのであります。ただ正しさを求める原理というものがある意味では破綻を来しているといってもいいかもしれません。  

われわれは人間関係のなかで、正しさを求めるときに、どこかぎくしゃくしたところがでてくるのではないでしょうか。親子の間で、あるいは、特に夫婦の間で正しさを主張しようとすると必ずぎくしゃくしたものが起こるのではないでしょうか。

 ヨセフは正しいひとでした。ですから、婚約者のマリアは自分以外の他の男と不倫したのではないかと思い、縁を切ろうとしましたが、しかしそのとき、ヨセフは自分の正しさをあからさまに主張しようとはしないで、それをおさえて「ひそかに」、離縁しようとしたというのであります。
 吉野弘の詩にあるように、「正しいことをいうときには少し控えめにするほうがいい」とありますが、ヨセフはそうしたのであります。

 ヨセフは人間のもつ最良の正しさをもっている人でした。

 しかし神はそのヨセフに対してこう告げるのであります。「ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだ。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と、神は天使を通して告げるのであります。

このとき、神は、ヨセフが「ひそかに」にではあっても、離縁しようとした彼のもっていた正義、潔癖感を捨てさせて、マリアを妻として迎え入れよ、といわれるのです。神はヨセフのもっていた正義感、それは人間のもつ最高の正義感であったのですが、それを捨てさせようとするのであります。

ヨセフのもっていた正義とは何だったのか。

 ヨセフは、マリアをあからさまに告発しないで、石打の刑から逃れさせようとして、ひそかに離縁しようとしたのであります。ここには人間のもつ最良の優しさがあるかもしれません。しかしそこでは、どんなにひそかにではあっても、離縁しようとする限りにおいては、まだまだ自分の正しさを守る、自分の潔癖性を維持するという、自分の立場を守るということ、自分を守るということは保持されているのであります。

 ここに、人間のもつ正しさの限界があるのではないか。このときヨセフがいだいた正義感は、自分の立場に固執するという人間の罪につながる正義でしかなかったのではないか。 
 
 ヨセフの優しさという正義は、自分の立場を守るという限りにおいては、状況によっては、あのヘロデ王の幼児虐殺につながる正義でしかなかった。ヘロデ王は自分の王という立場を守ろうとして、将来イスラエルの王として生まれたという噂のある幼子イエスを殺そうとして、ベツレヘムの付近の幼子をことごとく殺していったのであります。

 ヨセフがひそかに離縁しようとしたあの正義感、潔癖感は、あのヘロデ王の自己保身という罪にいつ転落するかわからない、それとつながっているのだということをわれわれは知っておかなくてはならないと思います。

 善良な市民がいつヒットラーのナチズムに荷担して、罪のないユダヤ人の大量虐殺にまわってしまうかわからないのであります。あの罪のないユダヤ人の大量殺戮に加わったナチズムの高官たちは、家に帰れば良きパパだった、モールアルトの音楽を好む善良の市民であったということであります。

マリアの事が表沙汰になるのを好まず、ひそかに離縁しようとしたというヨセフの正しさ、ヨセフの優しさという正しさは、最後のところでは、自分の潔癖性を守る、自分の立場を守ろうとすることに固執する限り、それだけでは本当にこの世界を変えていくことはできないのではないか。

なにも離婚することが悪いというのではないのです。ある人の言葉に、人は誤って結婚する場合があるが、離婚するときは正しい理由で別れるといっております。離婚にはさまざまな理由があると思います。今はそのことを問題にしたいのではないのです。
 
 われわれの正義はいつも自分の立場を守るというところに固執していないかということなのです。それがわれわれ人間の正義なのではないかということなのです。

 そのために、神は今ヨセフのもっている自分の立場を守るという正義を退けさせて、神の正しさの前に立たすのであります。

神の正しさとは何か。それは御子イエス・キリストの誕生によって示された神の正しさであります。つまり、神の子がわれわれ人間の姿をとってこの地上にきくださったという正しさであります。教会ではそのイエス・キリストについてこういって賛美してきたのであります。
 「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿であらわれ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」というのであります。

 キリストはご自分の正しさを主張することに固執しなかった。キリストはご自分の潔癖さにこだわることに固執しなかった。かえって、自分を無にして、しもべの身分になり、われわれ罪人と同じ者になったというのです。
 そのために神は御子を王宮や神殿のなかで誕生させないで、貧しい飼い葉おけのなかに誕生させたのであります。

ある時、イエスのところに不倫をしたことが発覚した女が人々によって捕らえられ連れられて来ました。「こういう汚れたことをした女は石で撃ち殺せと律法には書かれていますが、どうなさいますか」と人々はイエスに問いつめたのです。といいますのは、イエスはしばしばそういう世の罪人といわれている人々交わっていたからであります。捕らえられた女は、おそらく恥ずかしくて、うずくまっていたと思います。

 イエスは人々の問いに何も答えないで、女と一緒にうずくまり、指で何かを書かれていた。それで人々はさらに「石で打ち殺しましょうか」と迫りますと、イエスは「お前達のなかで今まで罪を犯したことのない者がまず石を投げるがよい」といわれて、またうずくまり、地面に何かを書きはじめられたのです。するとイエスの言葉を聞いた人たちは、年寄りからはじめて、一人去り、二人去り、みんなそこを去っていったのであります。

 みんなが去ったときに、はじめてイエスは身を起こし、女に「女よ、お前を罰するものはだれもいなかったのか」と聞くのです。女が「誰もいませんでした」と、答えますと、イエスは「わたしもお前を罰しない。今後は罪を犯さないように」と言ったのであります。

イエスは「わたしも」というのです。本当はイエスだけが、罪を犯したことのないイエスだけが、この女に石をなげつけることができる資格と権利をもった人なのです。しかしイエスはその資格と権利を捨てて、われわれ罪人の一人になりきって、「わたしもお前を罰しない」といわれたのです。

 神の御子、イエス・キリストはわれわれ人間の罪を糾弾するために、裁くために来たのではないのです。罪を犯し、過ちを犯してしまうわれわれを赦すために、この地上にきてくださり、最後には、われわれの罪を身代わりに引き受けてくださって、十字架の死を担ってくださったのであります。

 神は、われわれ人間の罪を裁くことにおいて神の正しさが示されたのではなく、われわれの罪を赦すことにおいて、神の正しさを示されたのであります。

 神は、自分の正しさ、自分の潔癖性に固執して、自分の立場を守ろうとするヨセフに、「恐れないでマリアを妻として迎えよ」といわれるのです。
 「マリアの胎内の子は聖霊によって宿ったのだ」というのです。他の男と不倫してできた子ではない、だから恐れないで、妻として迎えなさいというのです。

 ヨセフの場合には、不倫を犯したマリアの罪を赦したということではありません。マリアは不倫をして子を宿したのではないからであります。マリアはわれわれ人間には到底信じられないことですが、聖霊によって、神の不思議な働きによっ身ごもったからです。

 ヨセフは、不倫したマリアの罪を赦したということではないかもしれませんが、しかし、ヨセフは、人間の常識からいったら不倫をして妊娠したとしか思われないマリアを、神の言葉を信じて、自分の正義感とか自己保身的な潔癖感を捨てて、神の正しさの前に立ったのであります。

自分のちっぽけな自己保身的な正義感、潔癖感を捨てて、神の大きな正しさ、相手のあやまちと罪を赦していく神の正しさ、どこまでも人の罪を赦していくという神の愛という神の正しさの前に立たされたのであります。

 つい先日、わたしはある音楽関係の本を読んでいて衝撃的な言葉に出会いました。それはニーチェが「喜びは悲しみよりもずっと深いのだ」といっているという言葉にであって、びっくりしました。
 「喜びは悲しみよりずっと深い」。わたしは「悲しみは喜びよりもずっと深い」と思っておりました。ですから、音楽でも、少し悲しい曲、少しセンチメンタルなところのある音楽を好んで聴いてきたのであります。

 しかしそうではないのだ、「喜びは悲しみよりずっと深いのだ」と、あのニーチェがいっている、あの悲劇の哲学を書いたニーチェ、悲しみの生涯のなかで発狂して死んでいったと言われているニーチェが、「喜びは悲しみよりもずっと深いのだ」といっていたことを知って驚いたのであります。

 クリスマスは「恐れるな、見よ、すべての民にあたえられる大きな喜びをあなたかだに伝える」と、野宿している羊飼いに告げられて、クリスマスは始まったのであります。その大きな喜びはなんの悲しみを知らない脳天気な喜びではないのです。人間のすべての悲しみを深く味わいつくしたうえでの、その深い悲しみよりももっとずっと大きい深い喜びがクリスマスの日から始まるのだということであります。