「信仰の弱い人を受け入れなさい」 ローマ書一四章一ー一二節

 パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい」といいます。「その考えを批判してはなりません」といいます。

 信仰の弱い人というのは、具体的にどういう人かといいますと、二節をみますと、「何を食べても良いと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」といっておりますので、肉をたべないと決めている人のようです。これは今でいう菜食主義の人という意味ではありません。つまり健康上の理由から肉を食べないというのではなく、当時、肉は偶像に備えられた肉というのがあったわけです。

 ユダヤ教でもありますが、自分の罪をつぐなうために、自分の身代わりに小羊を献げて罪の赦しを乞うたのです。罪の償いとして動物をささげたわけです。

 そして異邦人の社会でも、ユダヤ教やキリスト教からいったら、偶像の神々にやはりそうした動物を献げるという習慣があったのです。その偶像に備えた肉を食べてしまうと、偶像と一緒に食事を共にするということになるわけで、自分の信仰が汚れてしまう、偶像を拝んだことになってしまう、それで肉を一切食べないということで、自分の信仰の純粋性を保とうとしたわけであります。

 肉は市場に出回っておりますから、どの肉が偶像に供えられた肉かどうかは明確に判別できないわけで、それならもう一切の肉を食べまいとした、そうして自分の信仰の純粋性を保とうしたのであります。

 ですから、ここで「信仰の弱い人」というのは、信仰が間違っているという人という意味ではないのです。パウロは、福音とは違う教えに対しては、敢然として、厳しく戦った人なのです。信仰的に間違った人を許すはずはないのです。

 ですから、ここでいう「信仰の弱い人」というのは、間違った信仰をもっている人という意味ではなく、信仰の知識という点で弱いという意味なのです。

 パウロはコリントの信徒への手紙のなかで、やはり同じ問題を扱っていますが、そこでは、はっきりと信仰の知識の問題として、正しい信仰の知識を持っている人が信仰の強い人、そして信仰の知識としてまで未熟な人のことを信仰の弱い人として扱っています。

 どういう知識かといいますと、偶像などはこの世にそもそも存在しないのだから、偶像に供えた肉を食べたからといって、その人の信仰が汚れるなどということはあり得ない、食物のことで信仰が左右されることはないのだ、なにを食べても自由なのだという知識であります。それが知識の正しさということからいえば、正しい信仰の持ち主なのです。そして信仰の強いひとなのです。

 パウロ自身は、そういう意味では、信仰の強い人で、なにを食べても差し支えないと思っているひとなのです。

 しかしすべての人がそういう知識をもっているわけではない、あるいは知識という点では、つまり、頭ではそのことはわかっていても、実際に偶像に供えられた肉を食べるとなにか自分の信仰の純粋性が汚れるのではないかと不安になってしまう人がいたのです。

 五節をみますと、「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」とありますが、これもクリスチャンになる前の生活習慣で、たとえば、ユダヤ教では過ぎ越しの祭りとか、いろいろな宗教的な行事というものが事細かにあって、この日にはなにをしてはいけないという掟があって、それがクリスチャンになってもその習慣から抜けきれない人がいたわけです。

 今日の日本でいえば、仏滅の日には、絶対にお葬式をしないということで、その日はいまだに火葬場はお休みであります。その日にお葬式をすると、一緒にあの世に連れられていくのではないかと恐れられているわけです。
 そんなことは、いうまでもなく、迷信であります。つまり知識としては間違っているわけです。しかしそのことは頭では迷信だとわかっていながら、われわれはなんとなく、その日は避けたくなるわけであります。

 ですから、これは知識の問題なのであります。迷信的な知識から解放されて自由な生活をすることができるかどうかの問題であって、その信仰が正しいかどうかの問題ではないのです。

 この問題は、肉を食べるかどうかという問題は、今日のわれわれにとってはあまりぴんとこない問題かもしれません。今日われわれ日本のクリスチャンにとっては、むしろ、クリスチャンとして禁酒禁煙の問題としてこれをとらたらよくわかる思います。ひところは、クリスチャンといえば、禁酒禁煙があたりまえで、クリスチャンでありながら、酒を飲み、特にたばこをたしなむひとは、まるでクリスチャンでないように思われたものであります。

 酒を飲むとかたばこをたしなむということは、ヨーロッパの教会ではなんの問題もないことのようですが、日本のキリスト教は、特に日本のプロテスタントの教会は、アメリカのピューリタンから入ってきたということで、禁酒禁煙はクリスチャンの旗印になっていたのであります。わたしの最初の赴任地の教会では、昔の役員会記録など、またその日誌をみますと、酒を飲んだということだけで、陪餐停止、聖餐式を受けてはいけない、という処分を受けたことが残っていて、驚いたことがあります。

 禁酒禁煙は、当時の日本の社会状況からいって、社会的にも貢献したわけで、キリスト教の一つの旗印としてなったようであります。
 酒を飲んだり、たばこを喫煙することは、本来は信仰的な問題とは関係のないことであります。「神のもとに導くのは食物ではない」とパウロが明言しているのです。

 ここでは、肉を食べない、野菜だけを食べる信仰者を信仰の弱い人、肉を食べる人を信仰の強い人となっておりますが、日本の教会では、禁酒禁煙を守るクリスチャンは信仰の強い人で、酒を飲んだり、たばこをたしなむひとは、信仰の弱い人となっているようで、全く逆になっているかもしれません。

 肉を食べない、野菜だけを食べる、あるいは、特定の日を大事にするという信仰者は、自分達の信仰のありかたを一定のルールをつくって、つまり、ある意味ば律法というものを設定して、その律法を守れば信仰を保てる生き方をするわけです。そのほうが信仰生活を送り安いのです。どうも自由だなんていわれてしまうと自分はなにをするかわからない、自分の意志はとても弱いので、自由な生き方をするよりは、一つの決まりというものを造ってそのレールのうえで信仰生活を送ったほうが、生き安いと思ってそうするわけです。

 その人たちは自分の弱さを知っている、だからなんかの決まりをもうけて、その自分の弱さを守った方が良いと思っているわけです。

 一方、信仰の強いといわれる人は、偶像なんかそもそも存在しないのだから、そんな迷信的なものにとらわれる必要はないので、なにを食べても自由だ、仏滅だろうが大安だろうか、その日に葬式したって、結婚式をしたって、平気だ、自分はそういう迷信的なものから自由なのだ、といって威張っているのであります。

 パウロはクリスチャンになって、ユダヤ教時代の律法主義的な生き方から百八十度転換したわけで、自由な生き方をするようになった人で、信仰の強い人のほうに入っているのです。

 しかし、そのパウロは、コリントの信徒への手紙で、同じ問題を扱っておりますが、自分は何を食べても自由だと思っているけれど、そしてそれが正しい信仰だと思っているけれど、信仰の弱い人、決まりというものを造って自分の信仰生活を守ろうとする、いわば信仰の弱い人をつまずかせないために、自分はあえて自分のもっている自由を放棄して、自分もまた肉を食べないといっているのであります。

 ここの箇所でいえば、「食べる人は食べない人を軽蔑してはならない」ということであります。

 それはなぜかといえば、その肉を食べると自分の信仰は汚れると思っている弱い人は、自分の弱さをよく知っているひとなのです。その弱い自分がなんとかして、信仰の純粋性をまもろうとして、必死に信仰に生きようとしている、「特定の日を重んじる人は主のために重んじる」ということであります。
 自分の弱さを十二分に知っていて、その弱さをかかえたまます、主に従うがおうとしている、そのけなげな信仰、その必死な信仰の姿をパウロは尊ぼうとしているわけです、決してその人の信仰を軽蔑しようとはしないのであります。

 逆に、強い人の信仰というのは、どうでしょうか。自分は強いのだ、自分はいつも信仰の理解において、信仰の知識においては、強い、正しい知識をもっいて、だから迷信から自由なのだとおもっているかもしれない。しかし、信仰の強い人は、その自分の強さに足をすくわれて、主に仕えるよりも、自分の主義主張にとらわれて、威張りだし、人を軽蔑し、そして裁き、他の人の自由をうばうことになるのではないか。
 信仰の強い人は、自分の強さによって、信仰をダメにしてしまうことになりかねないのであります。主に仕えるよりは、自分の考えに、自分の主義主張に仕えることになりかねないのであります。

 大事なことは、自分の主義主張に生きることではなく、主に従うことであります。

 七節に「わたしたちの中には、誰一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいません。わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。
 
 ここでパウロは「わたしたちは生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬ」といいますが、この言葉は、われわれ日本人には嫌なことを思い出させるのではないか。それはかつて、われわれ日本人は、あの戦争で、天皇陛下のために死ぬだといって、多くの人達が死んでいったからであります。そうした生き方、そうした死にかたは、もうこりごりだというのがわれわれの思いではないか。

 そのめたに戦後は、もうだれもが、自分のために生き、自分のために死ぬのだという思いで生きているのではないか。もう国家のためにとか、まして天皇のために、死ぬという生き方はこりんざいしたくないという思いがわれわれ日本人にはあるのではないか。
それなのに、ここでは、「われわれはだれひとり自分のために生きる人はいない、だれひとり自分のために死ぬ人はいない。主のために生き、主のために死ぬのだ」というのであります。

 戦後は、われわれ日本人はみな自分ひとりのために生き、死ぬといういきかたをしてきたのであります。しかしそれで本当にわれわれは幸福になったか。それでわれわれは本当に生き甲斐というものを見いだしたのだろうか。

 なにかそこに空しさというものを感じていたのではないか。そのために、われわれはオウム真理教のようなものがでてきて、優秀な若者が麻原しょうこうの命令に忠実に従うひとがでてきて、その人のために死ぬことさえ辞さない若者の出現に驚いたのではないか。そこでは、ただ自分ひとりのために生き、死のうとする生き方に行き詰まった若者の姿をわれわれはみたのではないか。

 パウロがわれわれは「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬ」というとき、すぐ続いて八節で「キリストは死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」といっております。
 つまり、まずキリストのほうが先に、われわれを救うために、十字架で死んでくださり、そしてわれわれを救うために復活してくださった、だからわれわれはその主のために生き、その主のために死ぬことができるのだというのです。

 われわれは自分を愛してくれている人のためならば、喜んでその人のために死ぬことはできるのであります。

 あの戦争のときも、多くの人は、名目上は、天皇のために死ぬだといったかもしれませんが、実際は、自分を愛し、育ててくれた母のために、あるいは父のために家族のために、その人たちを守ろうとして自分の命をなげだしていったのだと思うのです。

 自分を愛してくれた人のために、そして自分もまた愛することのできる人のために死ぬことができる、そういう人をもっている人は、どんなに幸せであるか。そういう人はとても幸せな生き方ができると思います。ただ自分一人のためだけに生き、死ぬという人生がどんなに空しいことか。

 そしてここでは、その自分を愛してくれた人、また自分が愛することのできる人というのが、ただ人間ではなく、キリストであり、神なのであります。われわれ創られ神、人間を超えた神なのであります。

 聖書の人間関係は、ただ、わたしとあなたという、いわば二項目の関係だけでなく、わたしとあなたという関係を超えた第三の項目を関係のなかにおかれているのだというのが、聖書がわれわれに教えているところであります。

 わたしとあなたという関係、そういう二項目の関係だけですと、うまくいっているときはいいかもしれませんが、一端その関係がくずれますと、愛し合う関係が憎悪の関係に転落してしまうのであります。夫婦の関係なんかその典型であります。

 聖書では、つねに、わたしとあなたという関係のほかに、その関係を超えて、第三者が存在している関係をわれわれに示しております。

 たとえば、主イエスが敵を愛し、迫害する者のために祈りなさいというとき、それに続けてこういうのです。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨をふらせてくださるからである」といわれるのであります。

 わたしと敵という二項目の関係のなかに、天の父なる神という第三の項目、関係をわれわれに告げるのであります。

 わたしと敵という関係のなかだけでは、とうてい敵を愛し、敵を許すなんてことはできないし、その余裕はでてこないのです。しかしそういうときに、天の父なる神は、お前が憎いと思っている、その敵にも雨を降らせ、太陽を昇らせている、だからその敵のために祈りなさいというのであります。

 パウロは「食べる人は食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は食べる人を裁いてはならない」といったあと、「神はこのような人をも受け入れたからです」というのです。コリントの信徒への手紙では「その兄弟のためにも死んでくださったのです」といっているのです。

 二項目だけの関係から、第三の項目、われわれを超えた神の項目がなければならないのです。

 パウロは旧約聖書を引用して「主はいわれる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌は神をほめたたえる』と」といって、われわれを神の前に連れ出すのであります。
 われわれひとりひとりが、信仰の弱い人も信仰が強いと威張っている人も、われわれを救い、そしてわれわれを最後に、本当に正しく裁いてくださるかたの前に連れ出し、「わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つのです」というのです。それなのに、どうして「なぜあなたは自分の兄弟を裁き、また兄弟を侮るのか」というのであります。
 
 今われわれも神の前にひれ伏し、神の裁きを受け、またこのようなわたしをも赦しすくってくださった神の前に立ちたいとおもうのであります。