「悪魔から誘惑を受ける」  マタイ福音書四章一ー十一節


 イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダン川のほとりまで来ました。このヨハネの授けているバプテスマは「罪の赦しの悔い改めのバプテスマ」であります。ヘブル人への手紙では、「大祭司であるイエスは、わたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と記されているように、イエスは罪は犯さなかったのです。それなのにどうして「罪の悔い改めのバプテスマ」を受けたのでしょうか。

 ヨハネは、「わたしはあなたの履き物をお脱がせする価値のない者なのに、そのわたしがあなたにバプテスマを授けることなどできません」と、それを思い留めさせようとした。すると、イエスは「今は止めないで欲しい。正しいことをすべて行うのは、われわれにふさわしいことです」といって、ヨハネからバプテスマを受けたのであります。

 そのときに、イエスは、天が開いて神の霊がはとのように自分のところにくだってくるのを見た。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いた。

 なぜ罪を犯したことのないイエスが、罪の悔い改めのバプテスマを受けたのか。それは「正しいことだからだ」というのです。それを証明するように、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神からの承認があったのであります。

 それは神の子として誕生したイエスは、罪を犯すという点を除いて、あらゆる点においてわれわれと同じになったということであります。神の子でありながら、まるで罪を犯した人間のようになって、まず率先して罪の悔い改めのバプテスマを受けられたということであります。そしてそれはなによりも神の御心に適い、「これこそわたしの愛する子、わたしの心に適った者だという神からの承認があったのであります。

 そしてそれから四章を見ますと、イエスは悪魔の誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に行ったのであります。

 この順序は大切であります。つまり、悪の誘惑、あるいは神の試練にあってから、それを乗り切り、それに合格し、それに勝ってから、洗礼を受けたのではないということであります。

 われわれは洗礼を受けるということを、ある程度信仰的に成熟してから、つまり罪と戦い、ある程度、もう罪の誘惑にあっても負けないぞという経験を積んで、そういう覚悟ができてから、洗礼を受けるのだと思いがちでありますが、そうではないということであります。

 そういう気持ちなることも、分からないわけではありませんが、そういう真面目な真摯な態度は、ある意味では必要かもしれませんが、それは根本的には大きな間違いだということであります。

 洗礼を受けるということは、これから神様を信じていきます、神様にどんなことがあっても従っていきます、神様と共に歩んでいきますという決意のあらわれであります。もっと正確にいえば、どんなことがあっても、たとえわたしのほうがあなたから離れるようなことがあっても、あなたは決してわたしを見捨てない、そのことを信じていきますという信仰の表明であります。

 そういう信仰があってはじめて、われわれは悪魔の誘惑に勝てるのであります。そうでなくて、悪魔の誘惑にあって、その試練に合格してから、洗礼を堂々と受けるのだというのでは、それは悪魔の誘惑に勝ったように見えて、それこそ悪魔の誘惑に負けてしまったということになるのであります。
 悪魔の誘惑とは、神の助けを借りないで、悪魔に勝つことができると錯覚してしまうことだからであります。つまり自分を神のようになろうとすること、それが悪魔の誘惑だからであります。

イエスは荒れ野に導かれて、何をしたのかといいますと、四十日の間、昼も夜も断食をしたというのです。人はなんのために断食をするのでしょうか。それはいうまでもなく、人はパンによって生きるのではない、いや、人はパンだけによって生きるのではない、そのことを証明するために断食をするのではないかと思います。つまり、肉欲に捕らわれないで、なにかを悟ろうとして断食するのではなかと思います。

 イエスは四十日、断食をしたあと、何を感じたのか。イエスは昼も夜も断食したあと、空腹を覚えられたというのです。
これは何でもない記述ですが、考えみれば、大変おもしろいことだと思うのです。
 空腹を覚えられたということは、人間は結局はパンなしには生きていけないことを実感されたということではないか。人はパンだけによって生きるものではないことは確かですかけれど、しかし人はまたパンなしには生きていけないことも確かだということであります。イエスは断食をしてそのことを実感されたということであります。まるでそのことを知るために断食したのではないかと思われるのです。

イエスが四十日断食をしたあと、なにひとつ空腹にならなかったとか、あるいは、断食をしたあと、何か悟りを開いて、そのあと、空腹になったというのであれば、イエスはそれこそ聖人のようなひとになって、一切の肉欲から離れて、われわれとは全く別のひとになったということかもしれませんが、聖書は、そうはいわないのです。

 イエスは四十日断食をしたあと、空腹になったのです。つまり、その点ではわれわれと全く同じ人間の道を歩み始められたということであります。イエスはヨハネから罪の悔い改めのバプテスマを受け、われわれと同じ人間としての道を歩み始めた、その道をここでも歩んだということであります。イエスは聖人の道を歩み始めたのではないということであります。

 イエスが空腹になったということは、パンが欲しくなったということであります。そのとき、悪魔が出てきてイエスに言うのです。「神の子ならば、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言ったのです。

 ある人が指摘しておりますが、悪魔はイエスに対して、パンを神に求めよ、とはいっていない、直接にイエスは自らの力で、石に命じてパンにしてみよ、といっているのだというのです。つまり、「神の助けを借りないで、みずからの力で石ころからパンにしてみよ、なせなら、お前は神の子なのだから」という誘惑なのだということであります。

「石に命じてパンにして見よ」というこの悪魔の誘惑の言葉は、モーセのことを思い起こさせます。
出エジプト記に記されておりますが、イスラエルの民が荒れ野をさまよっているときに、飲む水がなくて、モーセに水が飲みたいと懇願したときに、モーセは神に水を求めるのです。すると神はモーセに「お前は杖をとり、お前は岩を打ちなさい。水はそこから出て、民はそれを飲むことができる」といわれた。モーセがそのようにすると水が出たという記事であります。

 悪魔は、そのことをイエスに思い出させ、「もしお前が神の子なら、石に命じてパンにしたらどうか」と言ったのです。モーセは神に必死に頼んだのです。神に頼んで、神に命ぜられて、岩を杖でたたいたら水がでたのです。

 しかし、いま悪魔はイエスに対して、お前自身の力で石に命じてパンにしたらどうかといったのです。イエスはそれを拒んだのであります。

 おもしろいことに、民数記に同じ出来事が書かれているのです。それはやはり民が荒れ野をさまよっていたときに、水が欲しいと言い出した。モーセはこの時も神に懇願した。そのとき神はモーセに「杖をとり、民を集め、その目の前で、岩に命じて水をだせ」と言われたのです。
 そのとき、モーセは杖で岩を二度打つと水がでてきて、民に飲ませた。そのとき、神はモーセにこういうのです。「お前はわたしを信じないで、わたしの聖なることを現さなかったから、お前はヨルダン川を渡って、約束の地、カナンに入ることはできない」といって、モーセは叱られるのであります。この時モーセは裁かれたのであります。
 そして事実、モーセは約束の地の手前で、死んでいくのであります。これがメリバの水の躓きといわれていることなのであります。

 モーセは同じことをしながら、この二度目の事件では神の聖なる名を汚したということで裁かれたのです。なぜそうなったのか。不思議であります。恐らく、モーセは二度目のときには、かつての経験をもとにして、神の言葉をろくろく聞かないで、同じように岩を杖で叩いて、水を出そうとした。しかしこの二度目のときには、神は杖を取れとはいいましたが、岩を打てとはいっていないのです。岩に命じて水を出せといっているだけなのです。しかし、モーセはこのときおごり高ぶってしまっていた。ろくろく神の言葉に耳を傾けないで、つまり、神を信じないで、自分の経験に照らして、杖で岩を二度叩いて水を出そうとした。それが神を信じないで、神の聖なる名を汚したということなのだと考えるのが正しいと思います。

 今悪魔は、イエスに対して、あのモーセの二の舞を踏ませようとして、「お前の力で、神の助けを借りないで、神に求めるのではなく、自分の力でこの石をパンにしたらどうか」と誘惑したのであります。

 イエスはそれを拒否した。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という申命記の言葉を引用して悪魔の誘惑を退けたのであります。

 申命記の言葉はこうであります。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたの先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを知らせるためであった」と記されているのです。

 おもしろいというか、大事なことは、「人はパンだけで生きるものではなく」という言葉は、人を飢えたままにさせて、そういわれたのではなく、マナという不思議なパンを与えることによって、つまりパンを与えた上で、「人はパンだけで生きるものではない」と言われているということなのです。そうして「人はパンだけでいきるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのだ」といわれたということなのであります。

 神はわれわれを空腹のまま、いわば断食のままにさせないのです。五千人にパンを与えたように、空腹のままに帰らせないのです。マナという不思議なパン、これは木の樹脂みたいな木がだす蜜のようなものだともいわれておりますが、ともかく神はマナというパンを与えた上で、そのパンを神の御手から受け取りなさい、そのパンを食べるとこによって、「ああ、神様はわたしを養ってくださると、神に感謝し、神によって生きる、神によって生かされることを知りなさい」といわれたのです。

 主イエスは、「主の祈り」のなかで、一番大切な祈りとして「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りなさいと教えられたのであります。

 だからわれわれにとって、食前の感謝の祈りは、大切なのであります。それはパンを神から与えられたパンとして受け取って食べるということだからであります。

 イエスは空腹のままの五千人の人々に、パンの奇跡を起こしたのです。そのあと、イエスは群衆をすぐ解散させたのであります。イエスはパンの奇跡を起こして、それによって群衆を引きつけて、新興宗教の教祖のようにはならなかったのです。イエスはそのあと、すぐ群衆を解散させたのであります。

 それはそれによって、民衆はみなイエスを王にしようとしたからであります。イエスは悪魔がイエスを誘惑したように、石に命じてパンにして見せて、それによって群衆をひきつけ、自分が王になろうとは決してしなかったということであります。イエスはそういうメシアになろうとはしなかったのであります。そうならないために、イエスはヨハネから人々と同じ立場にたって、洗礼を受けたのであります。

次ぎに悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「お前が神の子ならここから飛び降りてみよ。『神があなたのために天使達に命じると、あなたの足が石にうちつけられないように、天使達は手で支えてくれるだろう』と旧約聖書の詩編の言葉を引用して、つまり聖書の言葉を引用して、イエスを誘惑したのであります。

 ある人がここのところでこういっているのです。「神を試みるときに、もっとも単純なことは、必要もないことをしてみて、神の誠実さを試そうとすることだ。たとえば神殿の頂上から身を投げるということは、全く必要のないことだ。それをするのは、ただ神の真実、神の誠実さを試すという以外になんの目的もないことだ」といっております。

 ここでイエスが敵に追われてせっぱつまって、神は助けてくださると信じて、神殿の頂上から飛び降りるということではないのです。

 あの悪魔が「天使達はあなたを手で支えてくれる」という詩編の言葉は、「神はあなたを救いだしてくださる。仕掛けられた罠から」という言葉で始まり、「暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も」あなたを襲うことはない、と歌う詩編なのであります。

 そこでは切羽詰まった病気とか、敵がどんなにあなたを囲み、襲ってきても、神は必ずあなたを守り、支えてくださる、という詩編なのであります。

 ダニエル書にこういう話が出てまいります。当時のバビロンの王ネブカドネツァルが捕らわれの身であるイスラエル人に金の像を造って、これを神として拝めと強要するのであります。それに対して、どうしても拝もうとしなかった三人のものがいた。王は怒って、燃えさかる炉の火に投げ込むぞ、といって脅すのであります。「お前達の信じている神はお前たちをその炉から救い出してはくれないだろう」といって脅すのであります。

 すると三人は、王に対してこういいます。「わたしたちのお仕えする神は、その燃えさかる炉や王の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます」というのです。そうしてその後、こういいます。「たとえそうでなくても、ご承知おきください。わたしたちは王の仕える神々に仕えることも、金の像を拝むことも決していたしません」と答えて、燃えさかる炉の中に投げ込まれていったというのです。

 これはもう神を試して、燃えさかる炉の中に入っていったというのではないのです。「神は必ず助けてくださる」と信じて、信頼して、神殿の上から飛び降りたということであります。なぜなら、彼らは「たとえそうでなくても」、自分達は神を信頼していきますといっているからであります。これは神を試したのではなく、神に信頼して炉の中に自分の身をなげだしたということであります。

 全く必要もないのに、高いところから飛び降りるということは、神が自分の願いをただ聞いてくれるかどうかを試すということ、つまり、神は自分のいいなりになってくれるかどうか、神は自分の奴隷になってくれるかどうか、を試すということであります。これが悪魔の誘惑であります。

 それに対してイエスは、やはり、同じ聖書の言葉を引用して「あなたの神、主を試してはならない」といって、この悪魔の誘惑を退けたのであります。

 最後に、悪魔はイエスを高い山に連れて行き、この世のすべての国々と繁栄ぶりをみせていったのです。「もし、ひれ伏してわたしを拝むならば、これらをみな与えよう」。ルカによる福音書では、「この国々の権力と繁栄わ見せて」となっております。

 悪魔はイエスに最後にこの世の権力と富を見せて、わたしを、つまり悪魔にひれ伏すならば、これをお前にあげるといわれたのです。これはメシアとして、救い主として活動するもっとも魅力的な誘惑であります。

 権力と富、それをもって世界を支配し、世界を救ったらどうかということであります。それは世界の指導者たちが、独裁者たちが必ずとってきた有力な力、そして手っ取り早い手段であります。

  しかしそれはいつも悪魔と手を握ってこの世を支配し、救おうとすることになるのだということであります。

 これはこれから人々を指導し、人々を救おうとするイエスにとっても、もっとも有効な、もっとも魅力的な手段ですが、イエスはそれを退けて、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」と、聖書に記されている、といって、この誘惑を退けたのであります。

 世の人々を導こうする指導者にとっては、権威というものはなくならぬものだと思います。そういう権威がなければ、人々はついてくるはずはないのです。イエスもまたそうした権威をもっておられました。イエスが語ると人々は驚いたというのです。それは律法学者のようにではなく、権威ある者のように語ったからだというのです。

 しかし、イエスはその権威をいつも、権力と結ばれることを警戒していたのであります。だから、これから指導者になる弟子達にも、上に立つ者は、つねに人の僕として一番低いところに立て、と命ぜられたのであります。

 人を指導する立場にある人には、ときには、富とか権力が必要だと思います。しかしその富と権力を行使しようとするときには、必ず悪魔的なものと手を結ぶことになるかもしれない、悪魔に支配されるようにして、富みに支配され、権力におぼれてしまうという快感に陥る危険を自覚していなくてはならないということであります。

 これら三つの悪魔の誘惑はなによりも、イエスにとっては、これから救い主として、指導者として人々の上に立つ、メシアとしての歩みを始める時にいつも警戒しなくてはならない誘惑だったということであります。しかし、イエスはその三つの誘惑をことごとく退けて、「ただ主なる神に仕える」という姿勢を貫いて、その覚悟をもってメシアの歩みを始めたということであります。

 われわれは別にメシアになるわけでもないし、あるいは指導者になるわけではないかもしれませんが、しかし、われわれもまた神を信じて、神を信頼して生きていこうとするときに、かならず、それを妨げる誘惑に遭うわけであります。ですから、この三つの誘惑はわれわれにとっての誘惑にもなると思います。

 われわれは自分の願い通りにならなくても、「たとえそうでなくても」、あなたを信頼して歩んでいきますと告白しつつ、この一年も歩みたいと思います。