呑んべえの由姫子におくるパリよっぱらいだより
1989年10月 作成
フランスの酒といえば何といってもワインです。そしてそれは1本11フラン(1フラン=約21円)です。これは夫婦で研究所に勤める教授夫妻に教えてもらいました。フランスでは貧富の差が激しいので日本の様に普通のフランス人という表現はできません。しかし彼ら夫妻は職業からいって我々と同じかそれ以上の階層に属するはずで、それは低所得者層ではなく、共稼ですが、経済的にゆとりがあるはずです。そんな人たちが飲むワインが1本(もちろん720ml)11フランなのです。ものの本にはフランスのワインは3つのランクに分けられ、そのうち一番高級なのが特定の畑からとれた葡萄だけを使用してその土地で醸造され、その土地のシャトーで瓶に詰められたもので……、などともったいを付けて書かれており、実際こういったワインは日本では高級品として高価で売られていますが、実はフランスの街角でで売られているワインの殆どはこの一番高級な部類に属する、すなわち原産地指定銘柄と呼ばれるものなのです。そして街角にある普通の酒屋やスーパーマーケットで売っているワインの値段は10〜30フランぐらいで、100フランを越えるような高価な物はよほどのマニア向けの高級店か、さもなければ日本人観光客相手の免税店と言う名の土産物屋にでも行かなければ売っていません。そして普通に売られている原産地指定銘柄のうちで最も種類も多く量的にもよく売れている価格帯が、11フランなのです。そしてそのおいしさは日本にいてはとても想像することができません。たった11フランなのに日本で何千円、いや何万円もだして高級ワインを買ったとしてもとても想像することのできないおいしさなのです。しかし私はフランスから1本のワインも持ち帰りませんでした。それはワインは保存がすべてだからです。昨日あれほどおいしかったのにうっかりしまい忘れて直射日光に当ててしまったために翌日にはまずくてもう飲めないということが何度かありました。またボルドーのシャトーを見学に行ったとき、かねてから疑問に思っていたので、どうしてこの瓶は上げ底になっているのかと、その場で買ったばかりの瓶を引っくり返してみせて尋ねたところ、そのシャトーの主人に、理由は特にない、心配しなくても中身は表示されている量だけちゃんと入っている、そんなことよりもお願いだから揺すらないでくれ、味が変わってしまうんだ、といわれました。それほどまでにデリケートなものを船に積んで赤道を2回も越えたらもう見る影もないでしょう。ならば航空便で運べば良いのですが、ほとんど航空運賃を飲んでいるようなことになりますし、仮に良い状態で届いたとしても高温多湿の日本では長期保存は不可能です。フランスでは私の住んでいたような安アパート、それは33階建ての高層ビルの中にあったのですが、ですら1軒づつ地下にカーヴが割り当てられていました。日本で有名なボルドー産の物は一般に4年以上寝かさなければ飲めないと言われていますが、普通に売られているのは1〜2年前の物です。きっとみんなこれを11フランで買ってきて自分の家のカーヴで寝かせておくのでしょう。日本でこのまねをするのはちょっと難しそうです。そしてフランスワインのおいしさはそのものの持つおいしさはもちろんですが、それに加えて毎日が軽井沢のようなさわやかな気候と、一緒に食べる食物のおいしさもまた重要なものです。そんなわけで私はこのおいしさは持って帰れないと思うようになり、結局あきらめました。
さて、先の教授夫妻とワインの話をしたのは日本でも有名なボジョレ・ヌーボーの解禁日でした。その前夜、テレビのニュースには日本での解禁の模様が放送されます。もっともこの解禁日、以前は12月だったそうで、彼らの説よればテレビ局とワイン会社の陰謀により段々早くなったのだとか。そういえば騒いでいるのはテレビばかりで、彼らが言うように同じマスコミでも大学の売店に置いてあるような教養人向けの一流新聞には一言も書いてありませんでした。ただフランスに於いてもボジョレ・ヌーボーは秋の風物詩には違いなく、彼らもあれは軽くておいしい酒だといっていました。私はその時点ではまだボジョレ・ヌーボーは希少価値のある高価なものだと思っていたので、彼らに、では普段は何を飲んでいるのかと聞いたところ夫婦で口を揃えて「スーパーマーケットの11フラン」という答えが返ってきたのでした。その日の夕方、研究所からの帰り道、町中の至る所の酒屋、食料品店、レストランの店先には「ボジョレ新酒到着」の貼り紙がありました。そしてその値段はやっぱり10〜30フランぐらいで、私も11フランで1本買って帰ったのでした。ボジョレ・ヌーボーはその名の通り新しいうちが命なのだそうで、2週間ほどですべて飲みほされ、店頭から姿を消します。なるほどこれは秋の風物詩です。
フランスでは日本で知られている産地以外にも全国に様々な種類があり、私はフランス南東部産の物が熟成も早く色がきれいで口当たりが良いので普段よく飲みましたが、日本酒と同様好みの問題ではありますが、それぞれにおいしさがあります。フランスでは普通ワインというと赤を指しますが、もちろんロゼや、白にもおいしい物があります。で、レストランへ行くと分厚いワインリストを渡されて、選ぶのに一苦労……、ということはあまりありませんでした。もちろんちょっと気の利いた店へ行けばワインリストは出てくるのですが、私はよほどの高級店以外はそのなかからは選びませんでした。それは酒屋で11フランのワインを買うのと同様、レストランでもピシェに入ったその店のワインで充分おいしいからです。これは地方へ行けばなおさらで、思掛けなく素晴らしい地酒に巡り合えることさえあります。もっともパリの高級店ではさすがと言える年代物の上物があります。こういったところでは自前のカーヴでよく管理されて保存されているので、本当のおいしさが味わえるのです。逆にいくら高く出しても酒屋の店先で棚ざらしになっているものはおいしくありません。また年代も古ければ良いというものではなく、あたり年に収穫されたものが良いのです。最近では今年、すなわち1989年が今世紀最大の当たり年になるのではないかと噂されています。もしあなたがフランスに地下室をお持ちでしたら、来年出荷される1989年ものをたくさん買い込んでしまっておくと良いでしょう。
さて日本ではフランスの酒というとコニャックのような高級ブランデーと思い込んでいる人が今だにいるかも知れませんが、実は高級ブランデーはあまり一般に飲まれていません。それが証拠にコニャックの80パーセントは輸出されています。また日本で有名なカミュ・ナポレオンなどはフランス人は飲んだことどころか、見たことも聞いたこともありません。それというのもフランス国内でカミュを売っているのは空港の免税店だけだからです。だいたいにおいてブランデーは食後酒ですから、食前酒は女性も含めて多くの人が飲みますが、そのあとにワインをたらふく飲んで食事をし、山盛りのデザートをたいらげ、更にそのうえ食後酒まで飲もうというのはさすがにフランス人といえども少数派で、研究所内でも大酒飲みで知られる所長ひとりぐらいのものです。うちの研究グループのチーフは、フランス人はお金が無いからブランデーは高くて飲めないので輸出して、代わりにカルバドスを飲むんだ、といっていました。私の感想としてはこんなに安くておいしいワインがあるのに、何もブランデーなんてあんな高くてまずいものを飲むことはないように思いました。
ブランデーの種類のうちコニャック、アルマニャックは特定の産地をさすもので、その土地でとれたものしか名乗ることができません。これはワインなど他の酒も同様で、特定の産地を名乗るためには役所の許可が要ります。ブランデーにはこの他にオドビと呼ばれるものもあります。オドビという言葉はブランデーの別名として総称的に使われることもあるのですが焼酎のような地酒を意味することもあり、そのなかにはピンからきりまで色々な物があります。
ワインに次いでよく飲まれる酒は、世界的傾向でしょうが、ビールです。フランスのビールは、日本では知られていませんが、ドイツとの国境に近い地方で造られていて、コクがあってなかなかのものです。近所のスーパーマーケットには世界のビールコーナーがあって世界中の色々な種類のビールを売っていました。さらにデパートへ行くとなんと日本のビールを売っているのです。それも日本よりかなり安い値段で。
葡萄のとれない北部地方へ行くとりんごから造ったビールのような飲み物、シードルが伝統的に飲まれています。これを蒸留したものがカルバドスです。さらに桃から造ったもの等もよく見かけます。
さて高級ブランデーや年代物のワインに見向きもしないフランス人が目の色を変えて我先に飲む物があります。それはシャンパーニュです。シャンパーニュは当然のことながらシャンパーニュ地方でだけしか生産されないもので、フランスで買っても100フラン程度と高価な飲み物です。しかも一度栓を開けたら一気に飲みほさなければならないところから、フランスでも祝いごとなどの時にしか飲まない特別な酒なのです。したがって食物が何も用意されていなくても、高級なシャンパーニュがたくさん振る舞われるカクテルパーティは大変豪華なものとされているのです。シャンパーニュは食前酒です。従ってお祝いの会食の前にはシャンパーニュとカシスで作ったキールロワイヤルを飲んだりするのは大変豪華なことです。正式な大きな会食の場合には食前酒が最初にロビーで振る舞われ、人々が一通り歓談を楽しんだ後、着席して食事が始まります。しかし着席してしまうと色々な人と歓談することができなくなるため、最近の国際会議のレセプション等では、実のある部分、すなわち食前酒とともに歓談する部分だけを取り出してカクテルパーティとして行なわれることが多いようです。彼らには日本のように立食パーティで飲んで食べてという習慣が無いため、それでも高級なシャンパーニュがふんだんに振る舞われれば、それだけで充分に豪勢なもてなしと言えます。それを知らずに、食物が少ないから予算をけちったなどと思い込んではいけないのです。日本の立食パーティ以上に費用はかかっているわけですし、彼らはその後で食事に行くわけですから、ここであまりたくさん食べてしまってはいけないのです。従ってカクテルパーティで良い仲間と巡り合い、それぞれ適当なグループになって食事に出掛けて交流を深めるというのが、正しい利用法だと思います。 ところでフランスには日本にあるような「飲み屋」というものが見当りません。町中至る所にバーはあるのですが、これは文字どおりバーであって、立ったまま友人とお喋りをしながら軽くお酒を飲むところです。従って日本のように酔い潰れるまでとことん飲むというわけにはいきません。一方レストランではゆっくり座ってワインを飲むことができるわけですが、レストランですから当然食事が主体になるのであって、レストランへ飲みに行くというのもへんです。結局フランスでは私は日本のように酔い潰れるまで深酒をするということはありませんでした。
またフランス人は食事の度にワインを飲みそして町中至る所のバーで酒を飲み、などと書くと国中がのんべえみたいになってきますが、そしてもちろん駅のベンチには昼間からアル中患者がごろごろしているのも現実ではありますが、アンケート調査によれば実にフランス人の3分の1はまったく酒を飲まないのだそうです。ですからレストランへ行って分厚いワインリストを渡され何を飲むのかとしつこく聞かれても、「水道の水で結構です」と言ってボーイがいやな顔をするのをものともせずに断ってしまってもいっこうに差し支えないのです。ただ「水道の水」というところが肝心で、はっきり言わないとミネラルウォーターを持ってきて、後で代金をしっかり請求されます。でもせっかくだったらその店の自慢のワインを飲んでみましょう。あのおいしさは日本に持って帰れないのですから。