1.日露戦争の原因 

 


 

(1)日露戦争の歴史的意義

(2)本当は、日本の負けだった?

(3)日本の戦争目的

(4)ロシアの戦争目的

(5)イギリスの事情

(6)アメリカの事情

 


 

(1)日露戦争の歴史的意義

 

 

日露戦争は、1904年〜1905年にかけて、新興の大日本帝国と、老大国ロシア帝国が、中国東北部(満州)を主戦場として戦った、帝国主義の領土獲得戦争です。

 

この激戦は、アメリカが仲介する形で終結するのですが、その結果は、日本の勝利となりました。「判定勝ち」だったとはいえ、日本は、その戦争目的を完全に達成しましたから、完勝と言っても差し支えないと思います。

 

この戦争の結果、既に衰勢が明らかであったロシア帝国は、没落への一途を辿り、1917年のロシア革命で壊滅、崩壊します。

 

逆に、大日本帝国は世界の「五大国」に成り上がり、東アジアで大いに覇を唱えるに至るのですが、その突出振りがアメリカやイギリスの逆鱗に触れ、1941年〜1945年の太平洋戦争に敗れることで、アジアの覇権国家の地位を失うに至るのです。

 

日露戦争は、勝者である日本にとっても、敗者であるロシアにとっても、まさに運命の転機と言える政治的大事件でした。

 

いや、それ以上に、後世の政治史に重要な影響を及ぼしました。

 

日露戦争は、「有色人種が白色人種に勝利した、人類史上はじめての近代戦争」だったのです。

 

この当時の世界は、地球の陸地面積のほとんどを白人が支配しており、大多数の黄色人種や黒人(つまり有色人種)は、白人に植民地支配され、奴隷のような境遇に甘んじていたのです。この当時、有色人種の完全な主権国家は、全世界で日本、トルコ、タイ、エチオピアの4国だけでした(中米や南米は、白人と有色人種との混血に支配されていたので、純粋な有色人種の国家とは見なしません)。そのことからも、当時の状況の過酷さが良く分かると思います。そして、白人の有識者は、この状況を「当然」だと思っていました。彼らは、「有色人種など、ブタや馬と同じなのだから、我々に飼育されているのが当然だし、その方がかえって幸せなのだ」などと公言していたのです。

 

しかし、純粋な有色人種の国家である日本が、白人国家ロシアに挑戦し、これを見事に打ち負かした事実は、白人たちを瞠目させ、そして彼らの支配に苦しんでいた有色人種たちに勇気を与えました。

 

「俺たちだって、やれば出来るんだ!日本を見習え!」

 

こうして、全世界の植民地で独立運動が巻き起こり、自由の風が世界を覆う結末を迎えたのです。

 

日露戦争は、全人類の歩みを永遠に正しい方向に変えた、画期的な事件だったと言えるでしょう。

 

日本人は、もっと誇りを持って良いのです。

 

 

 

(2)本当は、日本の負けだった?

 

 

しばしば耳にする議論に、「日露戦争は、本当は日本の負けだった」というのがあります。学校の歴史の授業で、教師が生徒にそう教えているのだそうです。

 

私見を言うなら、この議論は完全な間違いです。

 

そもそも、「本当は負けだった」という言葉が論理的に変です。戦争の結果には、「勝ち」か「負け」か「引き分け」の3種類しか無いのです。その中に、「本当」や「嘘」が入る余地はありません。

 

学校教師が口にする「本当は負け」というのは、こういう意味で言っているのだそうです。

 

「日本は、短期で戦争が終わったから勝ったのだ。もしも長期化していれば、兵員数に勝るロシアが勝っていたはずなのだ。だから、本当は負けなのだ」

 

この説明は、論理的に間違っています。

 

実際の戦争は、確かに短期に終わったのですが、それは日本の戦争指導者たちが、短期に終わるよう努力したからそうなったのです。つまり、この戦争が短期に終わったのは、日本の作戦勝ちということです。ゆえに、「日本の勝利」という事実に変わりはなく、「本当」も「嘘」も無いのです。

 

また、一部の論者は、兵員の損耗数を根拠に「本当は日本の負け」と主張しているようです。確かに、捕虜を含めない兵隊の死傷者数では、日本の方が多かったかもしれない。

 

しかし、この主張も、論理的に間違っています。

 

戦争の勝ち負けというのは、兵員の損耗の多寡で決まるのではありません。戦争の勝敗は、「戦争目的が達成できたか否か」で決まるのです。日露戦争で、戦争目的を達成したのは日本の方でした。だから、あれは問題なく「日本の勝利」だったのです。異論を差し挟む余地などありません。

 

そもそも、損耗の多さで勝敗が決まるというのなら、長篠の戦いは武田騎馬軍団の勝利ということになるし、ノモンハン事変や硫黄島の戦いは日本軍の勝利ということになっちゃいませんか?(それぞれ、織田徳川連合軍、ソ連軍、アメリカ軍の方が、死傷者数が多かったのです)。

 

ところで、どうして日本の学校教師や識者は、「日露戦争を日本の負け」にしたがるのでしょうか?それは、戦後日本に蔓延したいわゆる「自虐史観」の仕業です。左翼思想に偏向した日教組は、戦前の大日本帝国の業績を、全て否定するような教育を展開したのです。今日、多くの日本人が愛国心を失っているのは、そのためです。

 

でも、我々の生きている社会には、『絶対悪』なんて存在しません。大日本帝国は、確かに悪事もしたでしょうが、良い事だってしているのです。その全てを否定的に教える日教組の方針は、教育というより「洗脳」ではないかと思います。

 

ともあれ、日本の若者の多くは、日露戦争に対して否定的な考えを持たされている。

 

そして、この小論の最大の目的は、洗脳の呪縛から若者たちを解放することにあります。

 

 

 

(3)日本の戦争目的

 

 

まず、基本的な前提から説明しなければなりません。

 

当時の世界は、いわゆる「帝国主義の時代」でした。軍隊や経済の力で他国や異文明を破壊し、植民地支配することが、ごく当たり前のように行われていたのです。力こそが正義、力こそが全てでした。力の無いものは、その生存を許されず、強者の草刈場にされてしまうのです。

 

最も残酷に帝国主義を推進したのは、もちろん、白色人種のヨーロッパです。彼らは、キリスト教、なかんずくプロテスタントの偏狭な世界観に縛られ、ヨーロッパ文明(=キリスト教文明)以外の文化や種族を軽侮していました。彼らの触手は、主として異教徒である有色人種たちに襲い掛かったのです。

 

前述のように、有色人種の完全な主権国家は、20世紀の初頭では4国しかありませんでした。

 

その中で最大勢力であったトルコ帝国は、その領土のほとんどをロシアとイギリスに奪い取られ、断末魔の危機に喘いでいました。

 

日本やタイやエチオピアが独立を保ちえたのは、これらの国が、たまたま白人勢力間の均衡の中間点にあったという幸運に恵まれたからです。例えば日本は、イギリスとフランスが頭上で睨みあって互いに牽制しあってくれたお陰で、その隙間をついて近代化を推進できたのです。

 

その日本は、19世紀終盤に至るまで、260年もの長きにわたって鎖国をしていました。これは、帝国主義の魔手から国富を守る措置でした。しかし、アメリカやロシアが強大な武力を背景にして開国を迫ると、もはや安住していられる時代は終わりを告げたのです。

 

こうして、なかば無理やり開国させられた日本は、究極の選択を迫られました。

 

・白人の植民地になるのか。

 

・黄色人種初の帝国主義国家に生まれ変わるのか。

 

日本の選択は、後者でした。

 

徳川幕府に取って代わった明治政府は、猛烈な「富国強兵政策」を展開し、従来の「封建的な農村国家」を、一気に「帝国主義的近代工業国家」に改造したのです。

 

その過程で起きた戦争が、日清戦争と日露戦争です。

 

この2つの戦争の最も重要な焦点は、「朝鮮半島の帰属問題」でした。

 

朝鮮半島は、言うまでもなく日本に地理的に最も近い陸地であって、その国家戦略に及ぼす重要性は計り知れないものがありました。19世紀末の時点で、ここを領有していたのは、「韓王国」でした。しかしこの国は、軍事力も経済力も前近代的な水準のままで、いつ外国の植民地になっても仕方がない状況に置かれていました。そんな朝鮮が、それまで独立を保っていられたのは、中国(清帝国)の属国になっていたからです。

 

その中国は、19世紀末の段階で、白人勢力に多くの領土を侵食され、もはや半植民地と成り下がっていました。今や朝鮮は、自分ひとりで帝国主義勢力と戦わなければなりません。

 

日本は、当初は、朝鮮に技術援助を行い、日本と同様の帝国主義国家に生まれ変わってもらおうと考えました。そして、共に手を携えて白人勢力に立ち向かおうとしたのです。しかし、この国では保守的な勢力が強く、改革などほとんど望めない状態でした。このままでは、朝鮮半島は、フランスかロシアかドイツの植民地になってしまうでしょう。そうなったら、日本は完全に白人勢力に包囲されてしまいます。

 

これは、当時の日本人にとって、たいへんな恐怖でした。ちょっとでも隙を見せたら、日本本土まで、たちまち乗っ取られてしまうでしょうから。

 

日本は、打って出ます。すなわち、朝鮮半島を勢力下に置き、ここを橋頭堡にして白人勢力の進出を防ぎとめようとしたのです。これが、いわゆる「日帝50年支配」の幕開けでした。

 

私は、「日帝50年支配」を正当化するつもりはありません。日本人の心の底に、「せっかく帝国主義国家になったんだから、植民地の一つでも持たなくちゃカッコが付かないし、西欧列強の仲間入りが出来ない」という気分があったことは確かです。

 

ただ、この時代は、情け容赦の無い「食うか食われるか」の世界だったことは、決して忘れてはならない点でしょう。侵略されたくないのなら、侵略する側に回るしかなかったのです。「弱い」と思われたが最後、たちまち食い物にされるからです。

 

そんな日本は、まずは、朝鮮半島に宗主権を持つ中国と対決します。日清戦争(189394)です。この戦争に勝利した結果、朝鮮半島は日本の保護領にされるのでした。

 

しかし、この情勢に切歯扼腕したのは、ロシア、ドイツ、フランスでした。彼らは、「ちくしょう、生意気なサルに先を越されちまった!」と怒ったのです。そこで、日本政府にねじ込んで、日本が中国から租借した遼東半島などを奪い取ったのです。いわゆる「三国干渉」です。当時の日本の国力では、とても彼らに抵抗できませんから、日本人は「臥薪嘗胆」を合言葉に、復仇の時を狙ったのです。

 

この「三国干渉」で、最も利益を得たのは、地理的に朝鮮に近いロシアでした。大陸への日本の影響力を弱めることに成功したこの国は、中国東北部(満州)や朝鮮半島を植民地にしようと動き出しました。中国政府の微弱な抵抗を撥ねのけて、軍隊を満州のみならず、朝鮮半島にまで送り込んだのです。

 

このままでは、朝鮮半島がロシアに奪われる・・・。

 

日本政府の焦燥は、目を覆わんばかりでした。

 

日本としては、朝鮮半島を我が手に収め、満州は西欧列強からの中立地帯として中国に保持させておきたかったのです。

 

すなわち、日露戦争における日本の戦争目的は、「ロシアの勢力を、朝鮮半島と満州から駆逐する」ことでした。

 

 

 

(4)ロシアの戦争目的

 

 

次に、ロシアの事情を見ていきましょう。

 

ロシアは、もともとヨーロッパ東部に位置する農業国でした。13世紀にモンゴルの侵略に遭い、その植民地となっていましたが、イワン雷帝らの活躍でようやく独立国の体面を取り戻します。しかし、新生ロシアと言えども、封建領主と農奴によって構成された、遅れた農業国でしかありませんでした。

 

この状況を大きく変えたのは、18世紀のピョートル大帝です。この巨人は、スウェーデンやトルコを連戦連破し、ついに海への出口を獲得しました。ペテルブルク(現サンクト・ペテルブルク)は、ロシア初の海外貿易港だったのです。

 

この後、西欧文明を見習って経済発展に努めるロシアですが、十分な不凍港(冬でも凍らない港)が無いために、思うほどの経済成長を遂げることが出来ません。

 

当初は、トルコを叩いて地中海方面に出ようとしたものの、ロシアの勢力拡張を恐れるイギリスとフランスが、その前に立ち塞がりました。そして、露土戦争やクリミア戦争の結果、ロシアは、この方面への進出を断念せざるを得なくなったのです。

 

南への進路を塞がれたその巨大な触手は、比較的西欧勢力が手薄な東へと向かいます。中国との数度にわたる角逐の後、ようやく日本海に臨む港湾を獲得。ここを、ウラジオストック(東を征服せよ、という意味)と名づけたのです。そして、中国の清王朝の弱体化を見た彼は、暖かい港を求め、南へ南へと下っていきました。清王朝を恫喝し、中国東北部に東清鉄道を敷設したロシアは、その先端にある細長い遼東半島を、「三国干渉」で日本からもぎ取りました。この半島の突端に位置する旅順港は、ロシアにとって念願の、豊かな不凍港だったのです。

 

ロシアは、旅順港に大艦隊を派遣しました。「旅順艦隊」です。喉元に匕首を突きつけられた日本は、震え上がりました。もはや、日本海と東シナ海のシーレーンは、ロシアの思うが侭だったのです。

 

以上のことから分かるように、日露戦争におけるロシアの戦争目的は、「苦節の末に獲得した東アジアの権益を維持し、強化すること」だったのです。

 

 

 

(5)イギリスの事情

 

 

帝国主義の時代は、生き馬の眼を抜くような激しい闘争の時代でした。帝国主義諸国は、互いに複雑な同盟や協定を幾重にも結び、既得権益を守りつつ、新たなチャンスを野獣のように狙っていたのです。

 

この中でも、最大の既得権益の保持者は、太陽の沈まない帝国イギリスでした。そのイギリスは、当然ながら、新進気鋭のライバルであるドイツやロシアの動向に神経を尖らせていました。ドイツやロシアは、いわば帝国主義の後発組です。彼らが勢力を伸ばそうとすると、必然的にイギリスの既得権益が脅かされるのです。

 

イギリスとドイツは、アフリカや中近東で激しい鍔迫り合いを繰り広げました。この対立が、やがて第一次大戦への扉を開くのです。

 

その隙をついて、ロシアが中国への触手を伸ばしていきました。このとき、半植民地であった中国に最も巨大な利権を持っていたのがイギリスだったのです。イギリスは、大いに焦りました。しかし、東アジアに大軍を派遣する余裕はありませんから、彼は有力なパートナーを求めていました。そのパートナーに、ロシアを食い止めてもらおうと考えたのです。

 

東アジアのパートナー、それは、新興の大日本帝国以外に有りませんでした。

 

こうして、「日英同盟」が結ばれます(1902年)。

 

 

 

(6)アメリカの事情

 

 

アメリカは、日露戦争に影響を及ぼした大国の一つです。このころは、ようやく南北戦争という内乱を乗り越えたばかり。いわば、帝国主義の後発組でした。

 

20世紀初頭の帝国主義競争を俯瞰すると、先頭を走るイギリスとフランスを、一馬身差でドイツとロシアが追い、さらにその後を日本とアメリカが追いかけているという状況だったのです。

 

イギリスは、真後ろにいて目障りなロシアを蹴り落とすため、遥かに後方にいて当面の脅威にならない日本を利用しようとしました。

 

そしてアメリカは、この状況の中で漁夫の利を得、一気に上位に踊り出ようとしたのです。すなわち、日本とイギリスの両方に恩を売ることで、ロシア撤退後の中国市場への進出を企んだのです。

 

この日露戦争の結果、ロシアは遥か後方に脱落し、やがて共産主義革命という形で、この帝国主義レースを降りてしまいました。

 

ロシアに取って代わった日本は、併走するドイツと手を組んで、今度はイギリスとフランスの覇権に挑戦します。これを迎え撃った英仏は、アメリカの力を借りて日独を返り討ちにするものの、自らも疲れ切って後方に脱落。これが、第二次大戦ですね。

 

結局、20世紀の覇権競争は、ライバルたちを振り落としてトップに飛び出したアメリカの一人勝ちに終わったというわけです。

 

そういう視点で歴史を見ると、日露戦争に果たしたアメリカの役割は、たいへんに興味深いものがあるのです。

 

アメリカは、日本とイギリスに対して、ロシアとの戦争になったら支援を惜しまない旨を約束しました。また、頃合を見て和平を斡旋することも約束したのです。

 

アメリカの視線は、じっと戦後の中国市場に注がれていました。

 

こうして日本は、イギリスとアメリカの「対ロシア覇権闘争」の道具として使われたのです。