8月4日(金曜日) イスタンブール旧市街

 


 

ドーハ空港にて

イスタンブール到着

スルタンアフメット観光

キリム

ガラタ橋のカフェテリア

 


 

ドーハ空港にて

 

ドーハ空港の構内で遊んでいれば7時間くらい平気で潰せるだろう、と最初は甘く考えていたのだが、予想以上に小さくて狭いターミナルだったので困惑した。土産物売り場は一箇所しかなくて、しかもロクなものが置いていない。しょうがないので、椅子に座ってひたすら読書に明け暮れる。

 

やがて、腹がすいたので、一箇所しかないレストランでハンバーガーを食べた。このとき、ついでに飲んだコーヒーの不味いこと不味いこと。なぜか、猫が一匹レストランをウロウロしていて、追い出そうとする店員たちと駆け引きを展開したりして、お客さんたちの失笑を誘っていた。イスラム圏は、猫がやたらに多い世界なのだった。

 

空港ビルの構内を観察すると、「やはりイスラム圏は他と違うな」と感じることがある。まず、英語で「PRAY ROOM」という部屋が男性用と女性用に一つずつ設置されているのだが、これは1日5回のアラーへのお祈りに使うのに違いない。また、トイレに行くと、便器の数より洗面台の数のほうが多いので驚く。イスラムでは、お祈りの前に体を清めることを勧奨するから、体を洗うために洗面台を利用する人が多いからだろう。実際、お祈りの時間帯にトイレに行くと、顔や手を洗う人たちによって洗面台が占拠されていた。イスラム世界の人たちは、実は欧米や東アジアの人々より清潔なのである。

 

さて、読書に明け暮れて「始末屋ジャック」の活躍に胸を躍らせているうちに、イスタンブール行きの搭乗手続きが始まった。飛行機まではバスで移動するのだが、ひとたび空港ビルを出ると、さすがにドーハは灼熱の砂漠である。熱波が、全身を強烈に圧迫する。大急ぎでバスの冷房に身を浸さないと、熱射病で倒れてしまいそうだった。

 

ともあれ、イスタンブール行きのカタール航空の機体は定刻どおりに飛び立った。3時間のフライトの後、着陸態勢に入った飛行機の窓外に映る街の風景の美しさは息を呑むほどだ。ヨーロッパ風の赤屋根の中に、アジア風の建築物も散見される。なるほど、イスタンブールはまさに文明の交差点なのだな。

 

 

イスタンブール到着

 

こうして、夕方4時に「アタチュルク国際空港」に到着。いつものようにボストンバックを機内持ち込みして来たので、荷物を受け取りに行く手間はない。

 

入国審査は、めくら版でパスした。審査ブースの青年は、俺のパスポートを見ると嬉しそうに微笑んで、何も聞かずにハンコを押したのだった。これは、噂に聞くトルコ人の親日感情の表れであろうか?

 

次に、両替所に行って1万円をトルコリラに替えてもらった。だいたい110YTLになったかな?円とリラの交換レートは、円とドルとに近いので計算しやすい。2年前にデノミをやって、新トルコリラ(YTL)は使いやすい貨幣に進化したのだった。

 

こうして外へ出て行くと、「Mr.Miura」と張り紙を掲げた大柄なオジサンがいた。旅行会社に言いつけられて俺を迎えに来たのである。

 

言い忘れていたが、今回の旅行は、いつものように旅行会社に飛行機とホテルだけを取ってもらい、後は完全自由行動になるツアーである。日本トラベルという会社を使ったのだが、メールなどの対応はイマイチ。でも、安い割にはホテルと空港間の送迎もあるので、そうそう文句も言えないだろう。

 

で、俺を迎えに来たオジサンは、日本語がペラペラだったので拍子抜けした。断食月(ラマザン)に生まれたために親からラマザンと名づけられたというこの大きなオジサンは、イスタンブール旧市街で絨毯屋を経営しているらしい。日本の商社と取引関係があり、東京で2年ほど仕事をしていたこともあるというから、日本語ペラペラなのも頷ける。でも、そんな偉い人が、どうして旅行会社のパシリをやっているんだろう?

 

訊ねてみたら、もともとこの仕事は彼の弟がやるはずだったという。弟が急病になったので、兄である彼が急遽駆けつけたのだとか。次第に分かることだが、トルコ人は家族の絆が強く、家族愛を何よりも大切にしている人々なのだ。だから、大会社の社長が、弟のパシリになることも十分に有り得るのだった。

 

俺が、「帰りの航空券のリコンファームをしたいので、カタール航空のブースに行きたい」と言ったら、ラマザン氏は親切に出発ターミナルまで先導して、一緒に航空会社の事務所を探してくれた。しかし、驚いたことにカタール航空の事務所は営業を終了していた。平日だし、まだ4時半だぜ。いい加減だなあ。

 

「私が、後でやっておいてあげますよ」と、ラマザン氏が親切に言ってくれたので、そのまま彼に案内されて駐車場に向かった。そして、彼のダークグレイの国産車は、マルマラ海の海岸線沿いに市街中心部の置かれた東へと快適に走った。窓外にテオドシウスの城壁跡を眺めつつ、俺は自分の旅行目的をラマザン氏に語った。

 

「私は素人作家でして、最近は、近代トルコとアタチュルクをテーマにした本を出しました。今回の旅行目的は、トルコ史とトルコ文化の取材なのです」

 

ラマザン氏は喜んで、「ホテルに荷物を置いたら、私の店に遊びに来てください。私の店はブルーモスクの近くなので、付近の名所をうちの小僧に案内させますよ」と言ってくれた。トルコ人が親切な民族で、しかも親日的だというのは事前に知っていたから、俺もこの程度では驚かない。

 

車は、ブルーモスク付近で左折し、細いつづれ道を北に向かってよじ登った。イスタンブール旧市街は、海に突き出した細長い半島状の形質をしているのだが、海岸線から中央の高地に向かってかなりの傾斜になっている。その高地の上に、ブルーモスクやアヤ・ソフィアやトプカプ宮殿が密集して建っているのだった。

 

ブルーモスクとアヤ・ソフィアの西隣を抜けると、車は旧市街の北側に入り、今度は金角湾に向かって下り坂を降りる形となった。歴史の古い街だけに道路の幅はとても狭く、あっという間に渋滞に嵌ってしまった。驚いたことに、その隙間をトラム(路面電車)が走るのである。日本の城下町なみの窮屈さだ。

 

坂を下りきると、エミノニュ桟橋へ向かう途中に、目指すホテル・イルカイがあった。ラマザン氏はロビーで待っていてくれるというので、俺はトラムの走る通りに面した2階の部屋にチェックインを済ませると、手荷物を持って彼に合流した。

 

再びラマザンの車に乗り、丘を登ってブルーモスク近辺にまで戻る。モスクとヒポドローム広場に挟まれた道沿いに、彼が経営する絨毯屋「BLUE ART」があった。

 

 

スルタンアフメット観光

 

車を降りると、店の入口で「小僧」のメスートくんに出会ったので、ラマザン氏はさっそく彼に、客人に付近の観光名所を案内するように命じた。このメスート少年は、弱冠17歳でありながら、すでに英語の達人であるらしい。確かになかなかのレベルだったが、いかんせん強烈なトルコ語訛りがあり、最初のうちは聞き取るのに難渋した。これも、次第に慣れたのだったが。

 

並んで歩きつつ、メスートはポケットからメモ帳を取り出し、そこに列挙されている覚えたての日本語を披露してくれた。さすがは絨毯屋だけに、営業用の簡単な挨拶がメインだったのだが、なぜか女性を口説く言葉も多かった。メスートは、「俺はこれらの日本語が好きだ」と言いつつ、「あなたと一緒にいたい」とか「あなたとキスしたい」とか、たどたどしく喋ってくれた。まあ、この年頃の若造は、いつもそういう事ばかり考えているのだけどな(笑)。

 

そんな彼は、俺を先導してヒポドロームに入った。ここは、楕円状の巨大な広場である。元は、ビザンチン帝国の競技場だったというけれど、ローマのチルコ・マッシモ(円形競技場)に比べると随分と狭く小さく感じられる。その理由は、イスタンブール(コンスタンチノープル)の中心部が、狭い丘陵地帯に立地しているからだろう。この街は、ローマなどに比べると、意外と不便な地理的条件に置かれているのだ。こういったことは、実際に訪れて、自分の目や足で確かめないと決して分からない。これが、海外旅行の醍醐味の一つなのだ。

 

さて、ヒポドロームの北端に鎮座していたのは、第一次大戦前にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が寄贈してくれた廟堂、通称「ドイツの泉」である。あのころのドイツ帝国は、オスマントルコ帝国の歓心を買うために、こんなことばかりしていた。それに乗せられたトルコは、あの悲劇的な第一次大戦に巻き込まれて大きな犠牲を払ったのである。そう考えてこの建造物を眺めると、なかなか感無量である。

 

南進して綺麗な噴水の横を通りすぎると、次に見えてきたのが巨大な「テオドシウス1世のオベリスク」である。メスートの早口の解説をなんとなく聞きながら、デジカメを使う。さらに南に進むと、大きな穴の中に青銅製の柱が立っていた。蛇がのたくったような意匠から「蛇の柱」と呼ばれているこれは、東ローマ皇帝がギリシャのアテネから分捕ってきた記念碑である。この広場の南端に進むと、内部の石がむき出しの不恰好な「コンスタンティヌス7世のオベリスク」がある。これらを背景にお互いに記念写真を撮り合って、俺とメスートはヒポドロームを後にした。

 

次の目的地は、ブルーモスクである。正式名称は「スルタン・アフメット・ジャーミー」。これは、現代も寺院として機能する内では、イスタンブール最大のモスクである。したがって、礼拝に訪れる信者さんが盛んに出入りしている。そのお陰で、観光客も夕方6時を過ぎても問題なく中に入れるのだった。

 

 

 

 

ブルーモスクの入口では、靴を入れるためのビニール袋と一緒に、女性用の青いスカーフを配布していた。この寺院に入る女性は、非イスラム教徒の観光客であっても、必ず髪をスカーフで隠さなければならないのだった。俺とメスートは、男だからスカーフとは無縁なので、さっさと靴を脱いで巨大なドームの中に入った。広大な薄暗い空間は、とても神秘的だ。あちこちで、大勢の信者さんが跪いて礼拝をしている傍らで、外国人観光客たちは忙しくカメラやデジカメを使っている。メスートの解説を聞きながら、俺は寺院内部を飾る美しい美術品の数々を堪能したのだった。やはり、異文化に触れるのは気持ちよいな。

 

こうして見学を終えた俺とメスートは、ブルーモスク北側に広がるスルタン・アフメット公園を散歩しつつ北上し、アヤ・ソフィア(聖ソフィア寺院)の前に立った。ブルーモスクとアヤ・ソフィアは、公園を挟んで南北に向かい合っているのだ。そして、アヤ・ソフィアの裏側(北側)に広がるのが、トプカプ宮殿というわけである。

 

アヤ・ソフィア自体は、寺院としての機能を停止し、1934年から「博物館」になっている。したがって、この時間帯からの見学は無理である。そこで俺は、外観の写真だけ撮って満足した。メスートは、「アヤ・ソフィアは、そんなに広くないのに入館料10YTL1000円)も取るから暴利だ。こんなところ行く必要ない」などと悪口を言うのだけれど、博物館の入館料が高いのは日本だって同じだから、俺は特に何も感じなかった。だいいち、歴史マニアの立場からは、アヤ・ソフィア見学を外すことは絶対に出来ないだろう。明日以降、内部を訪れることに決めた。

 

 

キリム

 

こうして、俺とメスートは「BLUE ART」に戻った。美麗な絨毯やキリム織に囲まれた半地下の1階店内では、奥のガラステーブルに座るラマザン氏と、その隣のソファに座る日本人女性が待っていた。並木さんというこの女性は、店員ではなくて、たまたま居合わせたラマザンの友人だという。年齢不詳だが、この美女は間違いなく俺よりは若いだろう。

 

メスートがラマザンに言いつけられて厨房で入れてくれたチャイ(トルコ紅茶)を楽しみながら、しばしの談笑モードに入る。その後、ラマザンは絨毯の営業モードに入った。ふむふむ、やはりそれが目的だったか。とりあえず、みんなで2階に上がって、この店が誇る様々な逸品を見せてもらったところ、絨毯やキリムのみならず財布やハンドバックも扱っているので、いろいろと楽しめた。俺は、並木さんをこの店の「サクラ」なのかと思っていたのだが、彼女はほとんど何の機能も果たさなかったので、少し心を許す気になった。

 

最初は冷やかしのつもりだったのだが、ラマザンが見せてくれる品々はどれも素晴らしかったので、何か買って帰りたくなった。そこで、並木嬢の意見も聞きつつ、上等のキリムを4枚選んで、値段交渉に入った。交渉次第で値段が大きく動くのは、イスラム文化の特徴なのである。

 

ラマザン氏は電卓を叩きつつ、「これは、日本の三菱商事に売る予定の品々です。三菱商事が、大塚家具などに転売したこれを店頭で買ったなら120万円になります。しかし、私のところでは、あなただけ特別に、仕入原価に少し上乗せしただけでお譲りしてあげます。ただし、この店のことを、あなたの出版物やホームページ(歴史ぱびりよん)で宣伝してくださいね。それが、安くお譲りする条件です。さて、この品々について、仕入原価に直売マージンを上乗せすると42万円になります。これが、さらに値引いて幾らになると思いますか?」と、巧みな日本語でまくし立てる。さすがは、やり手の社長さんだ。

 

すると並木さんが、何を考えたのか「35万円!」と叫んだ。

 

ラマザン氏は彼女を睨んで、「38万円と言おうと思ったのに!仕方ない。35万円で良いです。並木、後で私に3万円奢ってくださいね」と悔しそうに言った。もしも並木さんがサクラだったとすれば、とてつもなく無能なサクラということになる(笑)。

 

こうして、上等なキリム織4枚を格安でゲットした。おそらく、ラマザン氏の言うように、この取引によるこの店の儲けは微々たるものだったろう。俺は、カードで支払いを済ませた品々を、DHLで日本の実家宛てに空輸してもらうよう手配した。喜んだラマザンは、キリム織の上等な財布を俺にプレゼントしてくれた。

 

時計を見ると夜7時になっていて、店の窓外の空はそろそろ暗くなりかけていた。するとラマザンは、「お腹すきませんか?よければ、一緒に夕飯に行きましょう」と言い出した。時差ぼけで食欲は無いのだが、せっかくなので誘いに応じることにした。並木さんも同行するという。

 

 

ガラタ橋のカフェテリア

 

3人でラマザンの車に乗り込んだものの、当初はどの店に行くか、まったく決めていなかった。だから最初のうちは、当ても無いドライブだ。ブルーモスクとアヤ・ソフィアの間を東に抜け、坂道を下って海に達する。ケネディ通りをマルマラ海沿いに南下して、道なりに進路を西に変えた。

 

ラマザンが「並木、あなたのせいで3万円も損したんだから、寿司をごちそうしてくださいよ!『豊』(イスタンブールで最も美味い寿司屋)に行きたいな!」と言うと、並木さんは「三浦さんはトルコに来たばかりなんだから、そんなの食べたくないですよね。やはりトルコ料理ですよね」と巧みに逃げた。

 

そういうわけで、ガラタ地区のレストラン街に出かけることになった。ケネディ通りを西進していた車は、イエニカプ桟橋で右折してアタチュルク通りを北上した。すると、道を横切る巨大な石橋が目に入った。これが有名な「ヴァレンス水道橋」である。これはビザンチン帝国の時代に、ユーゴスラビア方面から首都に水を引くために造られたローマ式の上水道なのであった。イスタンブールという都市は、どこに行ってもこういうのがゴロゴロしていて本当に物凄い。歴史マニアにとっては、感涙ものである。

 

さて、旧市街を縦断した車は、アタチュルク大橋で金角湾を北に渡り新市街に入った。環状通りを南東に回りこみ、ガラタ地区に入る。ガラタ桟橋近くの立体駐車場に車を停めると、3人は夜の海風の中をガラタ橋に向かって歩いた。

 

この街の構造について解説すると、イスタンブール市は南西の「旧市街」、北西の「新市街」、東の「アジア側」の三区画によって構成されている。この3つの区域は、それぞれ海によって隔てられている。旧市街と新市街を南北に分かつのが「金角湾」、旧市街とアジア側を東西に分かつのが「マルマラ海」、新市街とアジア側を東西に分かつのが「ボスポラス海峡」である。このうち、金角湾とボスポラス海峡には、いくつもの橋が架かって各市街を連結しているのだが、マルマラ海には橋が無い。つまり、旧市街とアジア側を行き来するには、舟運に頼る他ないのである。これを改善するため、現在、マルマラ海に地下トンネルを掘っているところである。

 

BLUE ART」にいた我々は、旧市街の東端から西の大通りに移動し、それから北上してアタチュルク大橋で新市街に入り、そこからさらに東へ移動して、新市街東端のガラタ橋に到着したのであった。

 

ガラタ桟橋の周辺は、夜だというのに賑やかだ。数え切れないくらいのレストランが並び、客引きが声をからしている。名物のサバサンドを売る屋台があって興味を引かれたが、並木さんが「あの臭い、たまらない」と拒否反応を示したので、足早にスルーした。

 

やがて我々は、ガラタ橋に北側から入った。この橋は、旧市街と新市街を南北に結ぶ中では、金角湾の最東端に位置する橋である。その西側に架かる大きな橋が、先ほど車で南から北へと渡ったアタチュルク大橋というわけだ。

 

さて、ガラタ橋は二層構造になっていて、上層は車や人やトラムが渡る道路だが、下層はすべてシーフードレストラン街になっている。海に面したこのレストラン街は、息を呑むほどの絶景を提供してくれるロマンチックで華やかな場所である。外国人観光客があまり訪れない穴場だと思うので、読者諸氏にぜひお勧めしたい。

 

我々は、ラマザンの推奨で「ガラタ橋のカフェテリア」という店に入った。伝統的なトルコ料理とシーフードの店である。客の顔ぶれは、ほとんどトルコ人の家族連れだった。俺はビール(エフェス・ピルゼン)を頼んだのだが、ラマザンと並木嬢はソフトドリンクを頼んだ。ラマザンは酒をまったく嗜まないのだが、それは恐らく、彼が真面目なイスラム教徒だからであろう。

 

乾杯の後、伝統的なトルコの前菜を3皿頼んだ。カニコロッケも小魚の酢漬けもイカフライも、すこぶる美味だった。時差ぼけじゃなければ、もっと味を楽しめたはずなので残念だ。すると、ウェイターが巨大な皿を掲げて現れた。皿の上には、様々な種類の魚、貝、カニ、エビが生のまま横たわっている。この中には養殖ものもあるので要注意だが、好きなのを選んだら、それを調理してくれるというのだ。ラマザンは、マスの一種と思われる獲り立ての白身魚を選んでくれた。

 

 

 

 

俺は、二杯目に注文したラク酒を呑みながら、巨大な白身魚を大いに味わった。ラマザンは、「ラク酒が好きな日本人に出会ったのは、あなたが初めてです」と笑う。そこで俺は、店の片隅のポスターを指差した。そのポスターは、アタチュルクがラク酒のグラスを右手に持ってポーズをつける絵だったので、おそらくは酒造会社の宣伝用なのだろう。そして、「トルコ国民は、今でも本当にアタチュルクを尊敬しているのですか?」と、核心に触れる質問を投げた。ラマザンは間髪入れず「私は、パンツにアタチュルクの顔を貼っています。それくらい尊敬しているんです」と答えた。俺と並木さんが反応に困っていると、「パンツの話は冗談ですよ」と大笑した。この人は、下品なギャグが大好きなのである。なんだか、質問の趣旨をはぐらかされた形であるが。

 

それから、歴史の話題になった。実はラマザンは歴史マニアで、彼の自宅の一室は歴史書で埋め尽くされているほどだという。この席では、主として「オスマントルコ帝国の栄光」が話題になったのだが、ラマザンは「日本人とオスマン帝国の話で盛り上がれるなんて、本当に楽しい」と大はしゃぎだった。しかし、「トルコ共和国」の話題については、ラマザンはあまり語りたがらなかった。日本でもそうだが、本当の歴史通は近代史について語りたがらないのである。なぜなら、近代史はあまりにも生々しいため、自分の知識を再確認するのが辛いからである。実を言うと、俺も同じだ。俺も、あまり日本の近代史を人に語りたくない。もっとも、俺の場合は日本史そのものが好きじゃないのだが(笑)。

 

並木さんは、ノーマルな人だったので、横で静かに話を聞くばかりだったのだが、「ラマザンが歴史好きだなんて知らなかった。あたしの前では、少しもそんな話題出さないじゃない」と拗ねた。するとラマザンは、「話題の通じない人に、こんな話をしても無駄じゃないか。いやあ、日本語で歴史の話をしたのは十年ぶりですよ」と俺にウインクした。なるほど、歴史通というのは、海外で外国人の信頼を得る上で極めて有用なのだった。

 

並木さんは、定職を持たずにブラブラしている人らしい。昔風の言い方をするなら「グルービー」って奴だろうか?バブル崩壊の時に死滅したのかと思っていたら、残党がいたわけね(笑)。トルコ来訪はこれが二度目だという。彼女が初めてトルコに来て「BLUE ART」を訪れたとき、ラマザンの営業攻勢をかわすために「貧乏な韓国人の振りをした」というのが、二人の良い想い出話になっていた。ともあれ、定職が無いのだから好きなだけ海外をブラブラしていられるわけで、「帰りの飛行機は、いつにしようかなあ」などと呑気なことを言っていた。うらやましい限りである。

 

店の片隅には巨大な液晶モニターがあり、今しもガラタサライ(イスタンブールのチーム)とアンカラ(もちろんアンカラのチーム)の対決がテレビ放映されていた。トルコ人は、みんなサッカーが大好きなのだ。しかしトルコのサッカーは、完全な地縁主義であって、異郷のサッカーチームを応援することは有り得ないのだという。ラマザンは、「アンカラはガラタサライに決して勝てません。なぜなら、この試合はイスタンブールのスタジアムで開催されているからです。もしもガラタサライを負かしたら、アンカラの選手たちはこの地のファンに襲撃されて生きて帰れなくなるから、わざと負けるに違いないのです」と、怖い冗談を言った。まあ、それだけ熱狂的ということだろう。

 

すると、トルコ民謡を奏でる二人組の楽団が現れた。彼らは、テーブルを回って巧みな演奏を聞かせる。ラマザンは曲に合わせて歌いつつも、「彼らはジプシーです」と言った。顔立ちからは、ジプシーとトルコ人の区別は難しいけどな。

 

やがて食事も終わったので、みんなで旧市街の夜景を背景にして記念撮影をした。なお、支払は全てラマザンがやってくれた。親切な人だ。

 

それから、彼は車で俺をホテルまで送ってくれた。明日、リコンファームの手続きをしてくれるという。ラマザンと並木さんは、車で去って行く。これからどこへ行くのだろう?まあ、余計な詮索はしないほうが良い。

 

もう、夜の10時だ。質素なホテルにショルダーバックを置き、シャワーしか付いていない浴室で安らぐと、そのままベッドに横になって爆睡した。

 

それにしても、初日から想定外の大冒険であった。

 

前途は洋々である。