8月6日(日曜日) イスタンブール新市街

 


朝の散歩

ドルマバフチェ宮殿

ベシクタシュ

ギリシャ人の襲撃

軍事博物館

イスティクラル通り

ガラタ塔


 

朝の散歩

 

またもやアザーンの声で眼が覚めたので、朝の散歩に出かけることにした。

 

今回は、海ではなくて山の方。具体的には、トプカプ宮殿やギョルハネ庭園を見に行くことにした。そこで、ホテルを出て昨日と逆方向の左へと進むと、沿道の左側に、程なくしてギョルハネ庭園の入口が見えてきた。石造りの門を潜ると進路は2つ。右の道は緩やかな上り坂。左の道は平坦な並木道。どうやら、右がトプカプ宮殿への抜け道で、左がギョルハネ庭園ということらしい。左側には監視所があり、警備員が数名うろついていた。なんとなく怖くなったので、右側の道を上って行くことにする。

 

無人の監視所を通り過ぎて右折すると、立派な建物が見えてきた。そのうちの一つが「考古学博物館」だ。いずれ訪れる場所なので、ここで道順が分かったのはラッキーである。さらに進むと、「トプカプ宮殿」入口の正面に出た。まだ朝6時なので、博物館にも宮殿にも入れるわけがない。そこで、しばらく宮殿の前庭を散歩した。

 

やがて好奇心にかられて東進し、海を目指した。宮殿観光用の駐車場を抜けて、細いあぜ道を下って行ったのだが、南北に走る鉄道線路に阻まれて、マルマラ海までは行けないことが判明。諦めかねてウロウロ歩き回るうちに、兵営の前に出てしまった。歩哨の青年兵士は、自動小銃を肩に担いでいる。「テロリストと誤解されてはかなわない」と思っていたら、青年兵は「道はこっちじゃなくて向こうだよ」と笑顔で手を振りつつ教えてくれた。トルコ人は親切だ。

 

どうやら、トプカプ宮殿のこちら側からは、海には行けないらしい。そこで、元来た道を引き返して考古学博物館の前に来たところ、歩哨所の警備員が厳しい顔でこっちに向かって来た。誰何されるのかと思いきや、「この博物館は9時開館なので、まだ入れませんよ」と英語で教えてくれた。知っているよ。ともあれ、トルコ人は親切だ。

 

結局、ギョルハネ庭園の入口まで戻り、警備員に挨拶しながらこの庭園に入った。ギョルハネ庭園は、トプカプ宮殿の付属庭園である。かつてはオスマン帝国の皇帝や大臣が散歩したこの場所は、今では市民公園になっている。まっすぐな舗装道路が南北に伸びる左右に、鬱蒼と茂る樹木や、芝生に囲まれた噴水が置かれているのだ。まだ早朝なので、たまにジョギングする若者を見かけるくらいだったが。

 

どんどん歩いているうちに、北側の出口が見えてきた。この付近の右側は小高い丘になっていて、木製のベンチが置かれたお洒落なカフェになっている。まだ開業前のカフェに侵入し、そこからのマルマラ海の眺望を楽しんだ。美しい朝日を浴びて、海面は光り輝いている。時間があれば、後でここのランチを楽しむことにしよう。

 

庭園の北口から外に出ると、すぐ右手が兵営の入口になっていた。ここは、俺が先ほど迷い込んだ兵営の反対側の出入口という訳だろう。自動小銃を抱えた歩哨を横目にしつつ、どんどん北に進むと、自動車道(ケネディ通り)に突き当たる。これを横断歩道で渡ったところが海浜公園になっていて、そこに巨大なアタチュルクの銅像が立っていた。

 

 

 

銅像のアタチュルクは、顔を輝かせながら海に向かって歩き出した姿をしている。おそらく、実際のアタチュルクが生前にそういう姿を見せたのだろうな。海浜公園の清掃員の仕事振りを観察しながら、黒い銅像と海面を交互に眺めた。今日は、新市街を中心に「アタチュルクの故地巡り」をする予定だったので、なかなか幸先が良いぞ。

 

そのまま、自動車道沿いに西に歩いた。華麗なシナゴーグ(ユダヤ寺院)の横を通り、エミノニュ付近を散歩してから、昨日と同じ道順でホテルに戻った。このとき、途中で見かけたジェトン売り場でジェトンを3枚買った。ジェトンというのは、トラムや地下鉄に乗るためのコインである。アクビルが入手出来なかったので、こういう原始的(?)な方法を用いないと公共交通機関に乗れないのだった。ちなみに、ジェトン1枚は1.3YTL(約130円)である。これ1枚でどこまでも乗れるので、長距離を行くには安上がりだ。

 

ホテルの朝食に行くと、メニューは昨日とほとんど一緒だった。ただ、フルーツヨーグルトの中身はスイカではなくてキウイだった。ヨーグルトだけは日替わりらしい(笑)。まあ、パンとチャイがあるだけで、俺は十分に幸せなのだが。

 

腹ごしらえが出来たので、さっそく出発する。最初の目的地は、ドルマバフチェ宮殿だ。

 

 

ドルマバフチェ宮殿

 

トラムのシルケジ駅まで歩いてから、そこでジェトンを改札口に投入して駅のホームに立った。欧米の国々と違って、トルコのトラムの駅に入るためには、ホームの前端と後端に設置された自動改札機のどちらかを経由しなければならない。トラムの駅であっても、プラットホームの周囲に柵が巡らされているからだ。こういうところは、日本の公共交通機関の仕組みと同じである。定期的に巡回している検札官に捕まらないかぎり、半永久的に無賃乗車しまくれるチェコやハンガリーやオーストリアとは大違いなのである。

 

銀色に輝くトラム車両は、かなり新しくて快適だった。車両の造りは、日本の世田谷線の新型車両に良く似ている。ただ、次の停車駅の案内版が、完全にLEDで電光表示されるので、その点では日本のよりも優れていると感じた。

 

車内は、通勤途中のビジネスマンやOLで一杯だったが、エミノニュ駅でかなり空いた。みんな、ここから船や地下鉄に乗り換えるのだろうか。トラムはこの駅を出てから北上し、ガラタ橋で金角湾を越えて新市街に入った。トラムの窓から眺める朝の金角湾も綺麗だな。新市街に入ったトラムは、ボスポラス海峡沿いにベシクタシュ通りを北上する。俺は、トプハネ駅、フンドゥクル駅を経て、終点のカバタシュ駅まで乗り続けた。ここが、ドルマバフチェ宮殿の最寄り駅なのだった。

 

しかし、日本で入手した旅行ガイドでは、このトラムの終点駅はフンドゥクルになっていて、カバタシュまでの路線は延長工事中ということにされていた。イスタンブールは、日々成長を続ける都市なので、出版社のリサーチが間に合わないのだろうか。

 

カバタシュ駅は、地下鉄やバスやフェリー(主にアジア側行き)への接続もあるので、駅前の広場は割合と開けている。空を見上げると、天候は快晴で実に気持ちよい。

 

駅の近くに「アクビル」と大書されたブースを見つけたので買いに行ったのだが、ブースのオジサンは首を横に振って売ってくれなかった。在庫払底なのか、それともこのブースはチャージ専用だったのか?それは不明だが、どうも今回のアクビル入手は難しそうだ。

 

海岸沿いに北へ歩くと、小ぶりなモスクの向こう側にドルマバフチェ宮殿の正門が見えて来た。腕時計を見ると、時刻は8時50分。ここの開館時刻は9時だから、我ながら見事な時間の計算ぶりである。

 

ドルマバフチェ宮殿は、オスマン帝国後期のスルタンの御座所である。ちなみに、オスマン帝国前期の御座所が、早朝に散歩したトプカプ宮殿だ。トプカプはアラビア風のイスラム建築だが、ドルマバフチェの方はフランス風の西欧建築だ。19世紀に入って西欧化の構造改革を開始したとき、スルタン・アブドルメジド1世が建立させたのがドルマバフチェ宮殿なのだ。ボスポラス海峡に向かって聳え立つ白亜の宮殿の美しさは、道沿いからも容易に観望出来た。

 

 

この宮殿は、アタチュルク以来、政府が外賓を迎える施設になっている。つまり、現在でも生きている政府の施設なのだ。そのため、自由観光は許されておらず、ここを見学するためには必ずガイドツアーに参加しなければならない。

 

空港にあるような探知機で厳重な荷物検査を受けてから、前庭に入った。花が咲き乱れる美しい前庭は、すでに欧米や中国からの旅行者たちで一杯だ。美麗な正門の隣に料金所がある。ガイドツアーは、「セラームリク(政府施設)ツアー」と「ハレム(スルタンの居住区)ツアー」の2種類あるのだが、両者のセットもあって、それだと料金が割引(16YTL)になる。俺は、もちろん英語版のセットツアーを申し込んだ。料金所の窓口で渡された入場券は、種類ごとに異なる色になっており、それぞれに紐がついて、これを各自のカバンに結べるようになっていた。これを見て、係員が入場者を類別するというわけだ。

 

9時少し前になると、正門が開いて白いヘルメットを被った衛兵の群れが現れた。ヨーロッパの伝統施設(バッキンガム宮殿など)で良く見られる衛兵交替式だ。観光客が大喜びで写真撮影をする中、無表情な衛兵たちは小銃を上げ下げしつつ儀式を行っていた。

 

 

それが済むと、いよいよ宮殿が観光客に開放されるときが来た。正門を抜けて、噴水つきの美麗な池にかかった橋を渡ると、セラームリク本館の玄関が見えた。

 

玄関の前には数人の係員がいた。彼らは観光客の人数を数えると、トランシーバーを用いて情報収集をした。それから、英語ツアーとスペイン語ツアーとトルコ語ツアーの時間割を素早く決めて、玄関前に置かれた小さな黒板にチョークで書いた。最初のトルコ語ツアーが9時10分出発で、次の英語ツアーが9時20分出発。これらの時間割は、毎日、その場で臨機応変に決めるのだろう。

 

観光客は、宮殿を汚さないように、靴にビニールの覆いをしなければならない。ゴムの付いた簡素なビニールだったが、なかなか丈夫で快適な造りになっていた。北京の故宮博物館でも同じ様なビニールを使ったが、こっちはすぐに外れたり破けたりする欠陥品だった。やはり、トルコの方が中国よりも技術が洗練されているということだろうか?

 

付近を散歩して、海を眺めたりして時間を潰す。そうこうするうちに時間が来たので、靴にビニールをつけて、玄関から中に入った。ロビーで待機する英語ツアーの観光客は、全部で20名くらい。そのほとんどが欧米系の白人だった。

 

やがて、奥の部屋から現れたガイドは、黒髪で浅黒い肌をした若い女性だった。その容姿は、日本人がイメージする典型的なトルコ美人だ。ベリーダンスの衣装がすごく似合いそうなこの女性は、流暢な英語を操る愛嬌満点の人だった。きっと、この宮殿のガイドの中ではエース格なのだろうな。

 

ゾロゾロと、ムカデのように列を作って部屋から部屋へと回った。俺は、こういう不自由な観光は嫌いなのだが仕方ない。せっかくだから、ガイドの女性と仲良くなりたかったのだが、他の客が邪魔をしてダメだった(泣)。客の中に、一人で来ているエジプト人(セム系の顔だったから、多分エジプト人だろうと判断)のオバサンがいて、明らかに「歴史マニア」と思われる質問をガイドにしまくっていた。また、幼い少年を連れた太ったアメリカ人のオジサンは、「10年前に訪れて感動したので、息子を連れてまた来ちゃったよ」などと幸せそうに話していた。

 

解説を聞きながら、ヨーロッパ風の美麗なシャンデリアや食器や調度品などを見ていると、19世紀のトルコが必死にヨーロッパの猿真似をしていたことに気づいて痛々しくなる。いわゆる「チューリップ時代」は、明治期の鹿鳴館時代と似ていたのかもしれない。そう考えると、日本とトルコが良く似た歴史を辿っていることで親近感を覚えてしまう。

 

 

宮殿のあちこちの壁に、オスマン帝国の栄光をテーマにした絵画が飾ってあった。本当は、こういうのをじっくりと眺めたいのだが、ムカデの列は足早に進むし、後ろからは別の団体が急接近するから、諦めて先を急がざるを得ない。ううむ、欲求不満になるぜー。

 

セラームリクの最奥の部屋は、蔵書たっぷりの小さな図書室になっていた。「スルタンにも、勉強家がいたのか」と意外に思っていると、ガイド嬢が「ここは最後のカリフ、アブドルメジド2世の図書室です」と解説を始めた。「アブドルメジド2世は、カリフでしたがスルタンではありませんでした。その理由は、ちょうど彼の治世のころに共和国が誕生してスルタン制が廃止されたからです」。

 

うん、俺は良く知っているよ。自分の著作の中で、詳しく書いたからね。最後のカリフは、芸術家肌の文化人として有名だったらしいが、こういう図書室を見ると納得できる。このカリフは、しかし最後はアタチュルク大統領と対立して国外追放にされてしまう(1924年)。この事件は、イスラム史に冠たる「カリフ制」の消滅を意味した。そういった知識を基礎にして最後のカリフの遺物を眺めると、いろいろと感慨深いのである。

 

1階中央の大ホールが、「セラームリク・ツアー」のラストだった。超巨大なこのホールは、かつてのオスマン帝国が外国からの来賓を迎え、国事セレモニーを開催する場所だっただけに、金ぴかで絢爛豪華だった。さすが、オスマン帝国はバチカンやハプスブルク帝国を凌駕する大国だったのだなあ。

 

ガイド嬢は言う。「このホールは、アタチュルクにも深い縁があります。彼が有名な『私がトルコだ!』の大演説を行ったのはこのホールですし、逝去した後に棺が安置されたのもここなのです」。

 

あれ?そうなの?「私がトルコだ」の演説って、アンカラかイズミルでやったのかと思ってた。もしかして、著作に嘘を書いたかな?

 

帰国してからチェックしたところ、大丈夫であることが判明した。『アタチュルク』は、自信が無い箇所はわざと曖昧に書いている本なので、こういう場合は意外とセーフなのだった。でも、冷や汗を かいた(汗)。

 

お土産屋を抜けて、海に面した庭に出た。これで、「セラームリク・ツアー」は終わりだ。ガイド嬢はみんなに別れを告げた後で、「なんか疲れちゃったけど、まだ朝の一回目なのね。頑張らなくちゃ」などと呟いていた。人間的で愛嬌のある人だったなあ。だが、本当に優秀なプロフェッショナルは、みんなこんな感じなのかもしれぬ。

 

さて、次は「ハレム・ツアー」だ。庭の標識に従って、敷地の奥(左手)へと進めば良い。なお、「セラームリク・ツアー」で打ち止めの人は、ここから右手に歩けば正門に戻れるようになっている。こうして仲間たちの列は、ここで左右に分かれるのであった。

 

ドルマバフチェ宮殿は、セラームリクとハレムの二対の建物から成る。両者を連結するのが、2階の渡り廊下と1階の大ホールだ。本当は、セラームリクから渡り廊下か大ホールを抜ければ簡単にハレムに行けるのだが、ツアーを2つに分ける都合上、いったん客を全て庭に出したというわけだろう。

 

そこで、剪定された木々を愛でつつ奥へと歩き、ハレムの玄関口に到着した。ここでも係員が客の人数を数え、トランシーバーの助けも借りて、素早く時間編成を行った。黒板にチョークで書かれた文字を見るに、どうやら必要な人数が集まるまで30分待つ必要があるようだ。そこで、近くの喫茶店でジュースを買って、ガイドブックなどを読みつつベンチで時間を潰した。

 

やがて時間になったので、靴にビニール袋をつけて玄関から入った。今度のガイドは白人風の容貌の女性だったが、オバサンになりかけたくらいの年齢で、英語力もガイド能力もさっきの女性に及ばなかった。やはりセラームリクのほうがメジャーなので、優秀な人材は向こうに回されるのだろう。ハレムは、要するにスルタンや妻妾の居住区なので、そんなに見栄っ張りでバブリーな宝物は置いていないから、観光資源的にマイナーなのだ。実際、このツアーは、スルタンやその家族の居室や遊戯室、寝室、風呂場を次々に見て回るだけの内容だった。

 

じゃあ、どうして「ハレム・ツアー」に参加したのかって?その理由は、単純である。ここに、アタチュルク逝去の部屋があるからである。自分の小説の主人公が死んだ場所くらい、自分の目で確認したいものなのだ。

 

で、アタチュルクの部屋は、ハレムの奥の方にあった。つまり、セラームリクに隣接した区画である。アタチュルクは、イスタンブールに滞在するときは必ずドルマバフチェ宮殿のハレムに住んだのだが、何十部屋もある中から、わざわざ最も狭い3部屋を選び、ここに住んだのだという。3部屋とは、すなわち執務室、寝室、バス兼トイレである。驚いたことに、この3部屋を足し合わせた面積は、俺の現在の下宿よりも狭いくらいである。部屋に置かれた調度品も、驚くほど質素である。貧困から身を起こし、艱難辛苦の末に大統領になった人物なのに、この質素ぶりは本当にすごい。

 

アタチュルクは、1938年に公務でドルマバフチェに滞在中に逝去した。彼が亡くなったのが、まさに俺が見ている寝室のベッドの上である。トルコ国旗が飾ってある小さな質素なベッドを眺めていると、この人物の壮絶な生き様を想って落涙しそうになった。やはり、現在でも国民から崇拝され、諸外国から賞賛され続けている人物だけのことはある。

 

 

「英雄」と呼ばれるような人物は、みな、こうあるべきだと感じた。

 

それはさておき、自分が著した小説の主人公の逝去の場を訪問できるというのは、実に楽しいことだ。これだから、外国を舞台にした歴史作家は止められないのだ。

 

その後は、ムカデのようにゾロゾロと隊列を作りながら、スルタンや妻妾の部屋を見て回った。やっぱり、セラームリクに比べると単調で面白くないな。まあ、もともとアタチュルクの部屋を見るのが目的だし、その目的は達成されたのだから大満足である。

 

こうして、「ハレム・ツアー」は終わった。ドルマバフチェ宮殿には、もう用が無い。ブラブラと中庭などを散歩しつつ正門に向かう。次の目的地は、ここから北に位置する繁華街オルタキョイだ。昨夜、絨毯屋のメフメットさんが推薦していた繁華街は、賑やかで楽しい場所らしい。そろそろお昼だから、ここで食事を摂る心積もりもあった。

 

 

ベシクタシュ

 

ベシクタシュ通りを、北に向かって歩いた。ボスポラス海峡に沿って南北に走るこの道には、政府系の施設が多い。自動車道の左手はずっと小高いフェンスになっているのだが、それに沿って巨大なアタチュルクの写真パネルが貼られまくっていた。昨日、ミニアチュルクで見たのと同じ写真が多かったけど、イスメット・パシャと談笑していたり、養子の男の子とヨットで遊んでいたりと、意外にプライベートな写真も充実していて興味深かった。

 

しかし、オルタキョイまでは、歩くとかなりの距離であることが判明。暑いし腹も減ったので、途中で諦めて、ベシクタシュ桟橋まで引き返した。

 

ベシクタシュ市場の雑貨屋で、水泳パンツを発見。もしかすると明日、ラマザンたちと海水浴に行くかもしれないので、ここで調達しておくことにした。店には老人と少年(おそらく、親子か祖父孫だろう)がいたのだが、2人とも英語が出来なかったので、ボディランゲージで用を足した。15YTLってことは1,500円。ラマザンの話では、トルコの水泳パンツの相場は20YTLらしいので、なかなか得な買い物だったわけだ。

 

それから、ベシクタシュ桟橋に入ってレストランを探す。「エフェス・ビール」のポスターを山ほど貼ったレストランがあったので、酒に釣られて(?)、この店に入った。オープンエアの席についたら、お昼の時間を微妙に外したせいか、先客は男の団体一組だけだった。この店は英語オーケーだったので、英語版メニューを頼りに、エフェス・ビールとキョフテを注文する。キョフテというのは、羊肉のハンバーグである。日本のトルコ料理屋では食べたことが無かったので、どんな味なのか楽しみだ。

 

ボスポラス海峡を行き来する船を眺めながら、ビールをチビチビやっていると、パン籠とともにキョフテの皿が来た。ついでに、ウェイターの青年は塩コショウやケチャップのビンも持ってきてくれた。皿には小さいハンバーグが5切れほど入っている。プレーンで食べても十分に美味いし(トルコ人は、元・遊牧民だけに、羊肉料理は得意中の得意なのだ)、パンやビールにも良く合う味だ。言い忘れていたが、トルコのパン(エキメッキ)はたいへんな美味である。たいがいの店では、無料サービスで大きなパン籠が付いてくるので、メインディッシュよりもむしろそっちが楽しみだったりする。

 

食べながら、気配を感じてふと足元を見ると、一匹の猫がこっちを見上げていた。野良猫にしては毛ツヤが良いので、どっかの飼い猫だろうか。俺の目をじっと見つめ、そして大きな口を開けた。何か食わせろと言うのだろう。ずいぶん、人に慣れた図々しい奴だな。

 

ハンバーグを細かく切って、その一切れをやってから、テーブルに目を戻す。足元の気配が去らないのでもう一度地面を見たら、猫はまだ口を開けてこっちを見上げてやがる。もっと欲しいってか?無視して、しばらくキョフテとビールの味を楽しんで、それからまた下に目をやると、猫はまったく同じポーズで口を大きく開け続けていた。根気のある奴だぜ。それで、また一切れ、また一切れとハンバーグを小さく切って食べさせた。結局、5切れのうち1切れ分は猫の胃袋に納まった計算だ。俺も、たいがいお人好しだねえ。

 

ともあれ、ビールも料理も美味かった。満腹したのでカードで勘定を頼んだところ、ウェイターに「引き落としが出来ない」と言われてしまった。仕方なしにキャッシュで支払ったのだが(12YTLだから問題ない)、やはり絨毯の買いすぎが響いているのだろうか?もしかすると、カード会社に連絡したほうが良いのかもしれぬ。

 

などと考えつつ、次の目的地タクシム広場を目指す。ドルマバフチェ宮殿の前を通ってカバタシュ駅に戻り、ここから地下鉄を利用するのが最も早道のようだ。トルコの地下鉄も試してみたいし。

 

カバタシュの地下鉄の切符売り場で、意思疎通に少し手間取ったのだが、地下鉄もトラムと同じジェトンで乗れることが判明。今朝、買い溜めしておいたジェトンの1枚で自動改札を抜けてホームに立った。驚いたことに、この路線は一駅間しか結んでいないのだ。カバタシュからタクシムまで、かなりの急坂だからであろう。ケーブルカーのような形をした二両編成の車両に乗り込むと、銀のステンレスの車両は真新しい臭いがした。この路線自体が、開通して間もないのだ。そして、あっという間にタクシム駅についた。

 

 

ギリシャ人の襲撃

 

タクシム駅では、別路線の地下鉄(新市街の北郊行き)との連絡もあるのだが、俺は自動改札と階段を経て地表に出た。

 

タクシム広場は新市街のランドマークだけに、たいへんな人ごみだ。観光バスやトラムが引っ切り無しに行き来する中、無数の人々がごった返している。これほどの人ごみを海外で見るのは、中国の北京以来かもしれない。さすが、トルコはアジアの一部であるなあ。

 

環状道路の中央に小さな公園があり、そこに銅像が立っている。イスラム風の意匠の建物の中に、アタチュルク(当時はムスタファ・ケマル)を先頭にした救国戦争の戦士たちの銅像がずらっと列を組んで並び、今にも前に踏み出そうとしているのだ。これは、ギリシャとの最終決戦を決意したケマルたちの姿だ。この後、彼らは必死の奮闘の末にギリシャを打ち破り、祖国の独立を達成したのだから、この群像はトルコ民族の記念碑なのである。

 

 

「こういうのを見て、ギリシャ人はどう考えているのだろうか?」と考えながら、軍事博物館(アスケリ・ミューゼシ)を目指して、共和国通りを北へと歩いた。実は、トルコ人は今でもギリシャ人と仲が悪い。ラマザンやメフメットは大人だから、あまりはっきりと口にしないが、メスートくんは「ギリシャ人は、人間じゃない。獣と同然だ!」などと言い捨てている。そういえばラマザンも、「トルコとギリシャの仲が良かったことなんて、歴史の中に一回もないよ」と呟いていた。

 

ここは、トルコ在住のギリシャ人の話も聞いてみたいところだな。そういった考えにふけっているうちに、赤信号の車道に踏み出してしまった。すると、「危ない!」と英語で言って、色黒の小柄な青年が俺の体を背後から引き戻してくれた。お礼を言ってから、歩きながらしばらく話をしたところ、彼はアントニオという名のロードス島出身のギリシャ人だという。

 

これは、天の配剤かもしれぬ。そこで、あれこれと英語で質問をしているうち、アントニオは自分が経営している喫茶店が近くにあるので、コーラを一杯飲まないか?と誘ってきた。

 

俺は、これまで何度も一人で海外旅行をしてきたが、危難に遭ったことは一度もない。その理由は、人並みはずれて直観力が優れているからである。今回も、頭の中で危険信号がガンガンと鳴り響いた。これは、間違いなく罠である。しかし、「トルコ在住のギリシャ人の本音」を聞く機会は、めったに無いだろう。っていうか、この機会が最後かもしれぬ。それに、時計を見ると昼の1時20分だし、この辺りはヒルトンやインターコンチネンタルが並ぶ高級地域である。となれば、せいぜいコーラ1杯5千円とか、その程度ふっかけられるだけだろうと俺の理性は甘く判断した。今回初めて、直感よりも理性を重んじてしまったのだ。

 

そこで、アントニオの誘いに乗って、共和国通りに面した地下の薄暗い店に入った。すると、入口近くのロビーには、薄絹を纏ったロシア系(と思われる)若い女性が20人ばかり。喫茶店じゃないじゃん!っていうか、なんで昼間からキャバクラが開店しているんだ!

 

素早く店内を見回すと、明らかにギリシャ系と思われる男性店員が5人いるようだった。俺とアントニオは、奥のテーブルに差し向かいに座ってコーラを注文した。意外なことに厨房はここから丸見えなので、店員の挙動は全て分かる。ペットボトルからグラスに注ぐコーラには、どうやら薬物は混入されていないようだった。どうやら、最悪の事態は避けられそうである。それでも、コーラは舐めるように少しずつ飲んだ。少しでも変な味がしたら、吐き出すための算段である。

 

すると、ロシア人(実際にはウクライナ人)のキャスト2人が我々のテーブルに割り込んで座り、勝手に酒を飲み始めた。うわー、まずい。まずい。

 

俺は冷静を装って、女性たちやアントニオと友好的な世間話を展開した。さりげなく、ウクライナやギリシャに好意を持っていること、イスタンブール旧市街にトルコ人の友人が大勢いること、貧乏人なのでカネが無くて困っているなどの情報を、真偽取り混ぜて彼らにインプットした。また、女性たちの豊満ボディを眺め回しつつ、「この店は気に入ったので、いったん出直して夜にまた来ますよ」と言いまくった。

 

やがて、俺はアントニオに向けて、「どうして、あなたはイスタンブールに住んでいるのですか?ギリシャ人は、本当はトルコが大嫌いなんでしょう?」と質問を投げた。

 

するとアントニオは、表情を険悪に変えてこう述べた。「俺は、トルコもイスタンブールも大嫌いだ。ギリシャ人は、みんなそうだ!だけど、この街にいればカネになる。カネのために仕方なしにやっているんだよ!」。これは、おそらく数少ない彼の本音だっただろう。

 

これで、俺がここに来た目的は完遂されたわけだ。

 

腕時計を見て、「帰るから」と言うと、それを待ち構えていた黒服がお勘定書を突き出した。なんと、6000YTLと書いてある。日本円で60万円!一瞬、顔面蒼白になったが、こいつらバカじゃないの?旅行者がそんなカネを持ってるわけないじゃん!と思うと、心に余裕が出来た。このバカどもを騙してやろう。

 

俺は、海外旅行では常に財布を3つ以上持つ。1つは衣類を詰めたボストンバックの最奥に隠し、1つは腰の内側に紐で垂らした隠しポケットに入れておく。本当の大金(主に日本円)やカード類は、みんなこの2つに分散して入れておくのだ。そして、ズボンのポケットには、通常、両替済みの現地通貨を1万円程度入れておく。俺は、こちらの財布を取り出すと、中身をテーブルの上にぶちまけた。午前中にそれなりに使ったから、この財布の残金は全部で、約70YTL(7千円)程度だ。

 

「これしか持っていません!これが全財産です。これで勘弁してください!」。そして席を立とうとしたら、黒服5人が一斉に襲い掛かって俺を押さえ込んだ。「奥の部屋で、じっくりと話しましょう」と、一人が言う。

 

これは、まずい。殺されるかもしれぬ。でも、考えてみれば、俺が死んでも別にどうってことはない。現世で遣り残したことは無いし、俺が死んだって悲しむ者も困る者も一人もいやしない。だったら、殺されたって良いじゃん。そう思うと、妙に冷静になり、ベラベラと「全財産がわずか7千円であり、カード類も全てホテルに置いて来た」ことを丁寧に説明した。やはり、日本で英語学校に通っていて良かったなあ。

 

そのうちアントニオが、「この日本人は、俺の友人なんだから、手荒な真似はするな!」と、英語で黒服に向かって言い出した。英語で言ったということは、これは俺に聞かせるための言葉だろう。どうやら、ヤマは越えたようだ。もっとも、この後しばらくアントニオと黒服の間で言い争いがあった。黒服たちは、俺をこのまま放免することに反対だったのだろう。

 

しかし結局、70YTL(7千円)の支払で勘弁してもらった。いや、帰り際にアントニオが、20YTL(2千円)をお情けで返して寄越したから、実害は5千円程度だった。アントニオは、根っからの悪人では無かったのかもしれぬ。

 

5千円か。コーラ代としては割高だけど、キャバクラに行ったと思えば安いじゃん(笑)。個人的に、ロシアンパブは嫌いじゃないし(笑)。

 

それにしても、恐ろしい経験だった。海外旅行で、初めて生命の危険にさらされたぞ。だが、無事に済んだということは、かえって良い経験をしたとも言える。よしよし、この経験を次回の小説のネタとして使うとしよう。

 

とりあえず、財布に20YTL残っているわけだから、隠し財布の中の日本円を両替しなくても軍事博物館に行けそうだ。そこで、そのまま共和国通りを北へ向かって歩いた。しかし、沿道にはパトカーや警官の姿が目立つ。それなのにさっきの店は、上に「PUB」と大書した看板を載せて、大通りに向かって大きく入口を開けているのが不思議だ。よく無事でいられるな。何か、当局との間に裏取引でもあるのだろうか?そういうわけで、「ぼったくり」の件を警官に言いつけるのは止めておいた。たかが5千円のことだし、やぶ蛇ということもある。

 

 

軍事博物館

 

大通りをそれから10分ほど歩くと、ようやく右側に「軍事博物館」の入口が見えて来た。ここには、オスマン帝国からトルコ共和国に至るまでの、あらゆる武器や軍事資料が眠っているのだ。

 

この博物館は、軍事基地に隣接して建てられているせいか、係員はみんな軍属か軍人だった(服装で分かる)。最初の入口で、ドルマバフチェ宮殿の時と同様にカバンを探知機に通さなければならないのだが、これはテロ対策なのだろう。トルコ共和国に恨みを持つのは、ギリシャ人やクルド人だけではない。イスラム原理主義者も、虎視眈々とテロのチャンスを窺っている。逆に考えるなら、観光施設や繁華街の至るところに警官や軍人がウロウロしているから、そういった場所の方がむしろ安全なのかもしれない。

 

関門を潜ると中庭だ。緑に覆われた中庭には、いろんな兵器が野ざらし状態で展示されている。近代的な大砲のそばに、かつてコンスタンチノープルを陥落させたメフメット2世の大砲とその弾が置いてあった。塩野七生さんの小説では随分と大きいように描かれていたが、身近に見るとそうでもない。これでも、あの当時(15世紀)としては大きかったのだろうか。

 

 

本館の入口を探すのに手間取り、基地のほうに入り込みそうになって兵隊に注意されたりしたが、なんとか本館の中に入って(関門のすぐ右手の建物だった)、入場料を支払った。どうやら、カバンは全てクロークに預けなければならず、カメラの持ち込みは別料金になるらしい。少し悩んだけれど、財布の中身に自信がないからカバンごとクロークに預けることにした。後で、ちょっぴり後悔することになる。

 

博物館の中は、無数の鎧兜、馬具、刀剣、弓矢で埋め尽くされていた。オスマン帝国が、初期のころは純粋な騎馬民族であったことが良く分かる。やがてイエニチェリなどの歩兵軍団が発達し、銃砲類が普及していく。あちこちに貼られた壁画には、史上有名なオスマン帝国の戦いの様子が描かれているのだった。

 

歴史に名高い、コンスタンチノープル攻防戦(1453年)の展示もあった。コンスタンチノープル市の防備と包囲陣が大きなジオラマ模型で再現されていたが、ミニアチュルクで見た展示に比べると出来はあまり良くなかった。この戦いのとき、ビザンチン帝国軍が金角湾封鎖に用いた鉄鎖の展示もあった。これは、なかなか貴重である。ああ、カメラを無理してでも持ち込めば良かった。

 

その後は、時代順に武器や防具の展示を見て回る。この博物館は、この種の物品系の展示物は非常に多いのだが、図表や地図などの説明が乏しいので、だんだんと飽きてくる。省エネのためなのか、見学者がボタンを押さないと電気が点かない展示室も多くて、すごく面倒くさい。「アタチュルクの部屋」というのがあったが、本人が生前に使っていた生活雑貨や手帳や写真立てなどがケースに入っているだけだったので、期待していたよりも面白くなかった。

 

全体に、兵器などの「ハード」は充実しているのだが、年表や図表などの「ソフト」が弱い博物館である。武器・兵器マニアは喜ぶかもしれないが、歴史マニアには向かない場所かもしれない。

 

そう考えつつ時計を見ると、もうすぐ3時である。3時30分から、この博物館の最大の名物イベント「メフテル軍楽隊の演奏」が始まるから、大ホールの方向に移動したほうが良いだろう。

 

でも、2階階段の上り口の標識を見ると、「第一次大戦」「救国戦争」と書いてある。うわー、面白そう。よし、30分で何とかするぞ!

 

勇んで2階に上ると、まずは廊下の壁際にオスマン帝国末期の宰相や将軍たちの肖像画が並んでいた。中には知っている名前もあるから、なんとなく嬉しくなる。

 

「第一次大戦コーナー」は、ガリポリ半島戦の巨大ジオラマや勲章や軍服などがあるだけで、あまり面白くなかった。

 

「救国戦争コーナー」は、意外に充実していて勉強になった。エンヴェル・パシャの肖像画や写真や遺品。タラート・パシャが、ベルリンで暗殺される時に着ていたという血染めの服。ギリシャ軍によって大量虐殺された、トルコの老若男女の死体の山のモノクロ写真。こういうのを見ると、拙著『アタチュルク』で書かれた事件は現実の出来事だったのだなあ、と今さらながら感慨にふけってしまう。

 

救国戦争の英雄たちの横顔についても、いろいろ展示されていた。

 

キャーズム・カラベキル将軍コーナーでは、彼が戦争中に愛娘とやり取りした肉筆の手紙や各種ポートレート、そして大勝利(VSアルメニア)の末にカルスに入城する騎乗姿の壁画などが飾ってあったので、カラベキルのファンなら感涙ものである(『アタチュルク』の読者の中には、カラベキル・ファンもいるらしい(笑))。

 

レフェト・ベレの石膏仕立ての胸像や写真を見ると、実際の彼って、細面で神経質そうな人だったのね。著書の中では違うイメージで書いたので、これはちょっとマズかったかも!

 

アリー・フアトの写真。彼って、実はすげえイケメンだったんじゃん!アタチュルクよりハンサムなんだな。著書では、そんな風には描写しなかったかも(汗)。

 

フェトヒ・オクヤルの写真。彼は、真面目で誠実で理知的な雰囲気で、完全に想像していたとおりの風貌だった。

 

・・・実を言うと、俺は小説を書く際に、各要人の顔を完全にチェックしていなかったのである。資料不足が最大の原因だったのだが、救国戦争の英雄(アタチュルクの同志)の中で顔立ちをちゃんと把握した上で書いたのは、アタチュルクの他にはイスメットとカラベキルだけだった。我ながら、いい加減である。でも、必ずしも間違った描写になっていないのが(レフェトは微妙だったわけだが)救いであろうか?

 

博物館をゆっくり歩きながら、救国戦争の英雄たちの顔を見ていくと、共通の特徴に気づく。物凄く頭が良さそうで、しかも目が綺麗なのである。みんな、未来をしっかりと見据えたような、自信満々の輝く眼差しをしている。なるほど、私利私欲を投げ捨てて、国のために逆境に耐えた人々は、こういう顔立ちをするものなのか。

 

翻って、今の日本の政治家や高級官僚の顔立ちや眼差しを思い出すと。・・・暗くなるから止めよう(泣)。

 

2階の最奥は、朝鮮戦争やキプロス紛争の展示だった。日本では意外と知られていないが、朝鮮戦争で中国義勇軍の人海戦法を食い止めたトルコ軍の奮戦ぶりは偉大なのである。キプロス紛争は、今でも未解決の政治問題であり、トルコ共和国の国際的地位に様々な影響を与えているので、評価をするのは時期尚早であろうか。

 

さすが、NATOで6番目と言われる軍事強国だ。などと、現代の兵器や軍制の展示を眺めつつ頷いている場合ではなかった。もうすぐメフテルの開演時間である。足早に階下に降りて、1階最奥の大ホールを目指した。

 

大ホールは、500人くらい収納できそうな大きさだ。映画館のような構造で、案の定、巨大スクリーンが正面にあり、今しもメフテル軍楽隊に関する英語の映像解説が始まったところだった。オスマン帝国の戦跡とメフテルの活躍について、10分程度の説明をしたところで、スクリーンが壁ごと上方にスライドしていった。壁が無くなると、そこは博物館の裏庭(つまり屋外)になっていて、そこに待機して並んでいたメフテルが楽器を鳴らしながらホールに行進して来た。なかなか、凝った仕掛けである。

 

しかし、彼らの演奏は、意外と面白くなかった。昨日、ミニアチュルクで見たやつのほうが、自然体だったし迫力もあって良かった。こっちのは、この博物館の「定番」なので、奏者もマンネリ化して覇気を失ってしまったのかもしれない。まあ、俺の「感じ方」だけどね。

 

30分くらいで演奏が終わったので、大ホールを出て、未見だったメフテル関係の展示(楽器など)を見学した。もう、用はない。元来た順路で入口に戻り、クロークでカバンを返してもらって外に出た。

 

「救国戦争」の展示は面白かったな。総合的に考えるなら、この博物館に来て良かったと言えるだろう。

 

 

イスティクラル通り

 

次の目的地は、イスタンブール最大の繁華街と言われる「イスティクラル通り」である。ここで、本やCDやお土産を買う算段である。そのためには、まず日本円をトルコリラに両替しとかなければならないので、せっかくだから高級ホテルを目指した。

 

共和国通りを少し南に戻って、狭い路地を左折するとホテル・ヒルトンが見えて来た。舗装道路はそのまま地下駐車場へと連絡しているから、徒歩の人は、ホテル入口まで小道を大きく迂回しなければ辿り着けない構造になっている。このホテルには、車を利用しない俺のような貧乏人は来ないのだろうな(泣)。

 

正面入口の回転ドアを通ると、荷物検査機が1台置いてあった。ここでも、テロ対策だろうか?俺は、無視してロビーへと進んだのだが、係員は見咎めようとしなかった。ここでは、明らかにクルド系やイスラム原理主義者系と思われる怪しい人物だけを検査するというわけだろう。確かに、ここを通る人を全て検査にかけていたら、高級なお客さんに嫌がられてしまうからね。

 

広壮で綺麗なロビーに入ると、受付の美しいトルコ女性が、満面の笑顔と綺麗な英語で「御用は何ですか?」と聞いてきた。さすが、高級ホテル。従業員の質も応対も、他とは段違いだわい。「両替できますか?」と聞いたら、「部屋番号を言ってください」との応答。さすがにこのレベルの高級ホテルだと、宿泊客以外には両替してくれないのか。「外来者です、ごめんなさい」と言ったら、「どういたしまして」と屈託のない笑顔で応える。さすが、高級ホテルの受付嬢は、良く教育されているぜ。でも両替には失敗したわけだが、まあ良い。甘えついでに奥に進んで、ロビーの窓からボスポラス海峡の全景を楽しんだ。

 

イスタンブール新市街は、旧市街に向かって北から南に垂直に突き刺さるような形状の半島だ。その中央部は、南北に細長い丘陵になっている。そして、この丘陵の東側の斜面に立っているのが、このホテル・ヒルトンというわけだ。つまりここは、小高い場所から俯瞰的にボスポラス海峡を眺めることが出来る景勝地なのだった。次回は、このホテルに泊まりたいなあ。

 

景色にも飽きたので、外来者にも両替してくれるようなチープなホテルを目指して、タクシム広場に向かった。タクシム広場は、夕方だというのに相変わらずの人ごみだ。まあ、今日は日曜日だからね。

 

ここには、イスタンブールでは珍しいことに、マクドナルドとセブンイレブンが1件ずつあった。トルコは、かなり以前からアメリカ文化を受容しているはずなのに、中国や東欧よりも外資系のチェーン店やフランチャイズが少ないのは奇妙である。もしかすると、地場産業を保護するために国策でそうしているのかもしれない。

 

イスタンブールを歩いて感じたのは、この国の産業が、家族単位の小規模事業を中心にしている点である。だから皆、家族愛や近所づきあいをとても大切にする。映画『男はつらいよ』や『ALWAYS三丁目の夕日』で描かれたような世界である。そう考えるなら、外資系の大規模チェーンやフランチャイズは、むしろこの社会では排斥されるべきなのかもしれなかった。

 

日本は、「自由」の美名のもとに外資系や大規模なフランチャイズ経営を野放しにした結果、地場産業が全国規模で壊滅してしまった。どこもかしこも同じ様な雰囲気の系列店や郊外型スーパーに埋め尽くされ、潤いが無くなってしまった。親戚もご近所も、どうでも良くなってしまった。人よりも、物のほうが大切になってしまった。そしてこの傾向は、ますます酷くなるのだろう。

 

日本は、少しくらいトルコを見習ったほうが良いのではないか?

 

などと哀しく考えつつ、タクシム広場に面した何軒かのホテルをハシゴして、サボイ・ホテルの受付でようやく1万円の両替に成功した。ここ以外のホテルは、たまたま種銭を切らして対応してくれなかったのである。日曜の夕方だったとはいえ、やっぱり高級じゃないホテルはダメだなあ。

 

ようやく財布の中にYTLが充実したので、イスティクラル通りに向かった。円形のタクシム広場からはいくつもの道路が放射状に広がっているので、慣れないと方向感覚が麻痺して戸惑うのだが、イスティクラル通りには小型のトラムが走っているので、広場からトラムの線路を辿っていけば、この通りに入り間違えることはない。

 

大勢の若者で賑わうここは、イスタンブールで最もポピュラーな繁華街である。お洒落なブティックやカフェや雑貨屋が通りの両側に建ち並ぶ。

 

石畳の中央にはトラムの線路が敷かれているのだが、あちこちで土木作業員によって掘り返されており、どうやら全面的に修復中のようだった。そういうわけで、ここは歩行者天国になっていた。

 

 

俺は、せっかくだから「アタチュルク」関係の書籍を購入したいと考えて、沿道の本屋を片端から見て回った。トルコの本屋は、中国などと同様にCDショップと併設されている場合が多い。また、複数フロアにまたがる場合は、最上階にカフェが併設されていることが多い。なかなかお洒落な造りかたである。

 

アタチュルクの伝記書は、どの店にも必ず置いてあるのだが、最もポピュラーと思われるものは、日本円で4000円の豪華装丁の超巨大本であった。値段はともかく、こんな大きな本はボストンバッグに入らないし、持ち歩くには重すぎるので、購入を断念したのであった。

 

新刊本の中で人気筋なのは、「ラティフェ」というタイトルの豪華装丁本であった。表紙は、馬にまたがった麗人の写真。なるほど、アタチュルクの妻となり、わずか数年で離婚したラティフェ・ハヌンの伝記本なのだった。何か、新事実でも書かれているのだろうか?非常に興味をそそられたのだが、本の中で用いられている文字はすべてトルコ語だったので、これまた購入を断念した。

 

結局、3軒目の本屋で、子供向けと思われるアタチュルクの伝記漫画を発見したので、これを購入することにした。嬉しいことに、英語版とかフランス語版とかスペイン語版とか、外国向けヴァージョンが充実していた。定価25YTLのところ、12YTLのディスカウント価格で提供されていたのも嬉しい。英語版を購入し、これで目的は達成されたわけだ。その後、沿道のお菓子屋でお土産用のお菓子を数箱買った。

 

意気揚々と南を指してまっすぐ歩いているつもりが、目の前にタクシム広場が現れたので仰天した。どこかの店から出たときに、北と南を間違えて、元の道を引き返してしまったのだ。イスティクラル通りはアップダウンが激しいし沿道に似たような店が多いので、簡単に方向感覚が狂ってしまうので要注意である。「やれやれ」と思いつつ、疲れた足を引きずって、再び南へ向かって同じ道を歩く。

 

イスティクラル通りは、南北へ延びる稜線の最高峰に沿って走っている。そのため、この通りから左右に延びる小道は、みんな海に向かって東西へ降りて行く形になっている。イスタンブールは、つまりほとんど丘陵によって構成されている都市なのである。こういう事は、実際に自分の足で歩いて初めて気づくのだ。

 

途中の小さな広場で、学生たちがアタチュルクの顔写真が載ったビラを配って何か叫んでいた。おそらく、日本でいう「右翼」みたいな人たちなのだろう。あの少年少女たちは、「アタチュルクの理想を思い出せ!」とか、そういうことを叫んでいるのに違いない。さすがに、外国人である俺のところにはビラは配られなかったけどな。

 

そうこうするうちに、道のどん詰まり(イスティクラル通りの南端)に着いた。驚いたことに、どん詰まりは断崖絶壁なのである。そこから、金角湾の眺望を見渡せたのだが、海へと続く斜面が工事中だったので、あんまり面白い眺めではなかった。

 

このどん詰まりの左側が、テュネルの駅になっていた。これは「世界最短の地下鉄」と言われているのだが、要するに地下を走るケーブルカーである。これに乗れば、左方向(つまり東)に向かって最短距離で丘を駆け下り、ガラタ橋の袂に到達することが出来る。しかし、わずか一駅間を結ぶこのテュネルに乗ると、その中途に位置するガラタ塔をスルーしてしまうことになる。それはもったいないので、ここは歩いて斜面を下ることにした。

 

 

ガラタ塔

 

イスタンブールを歩いていてすぐに気づくのは、この街には食堂が無闇に多い点である。どこの街路にも、必ず簡単なロカンタやレストランがある。食糧自給率が100%を越える国の余裕であろうか?日本では想像も出来ない食の豊かさである。トルコの地(アナトリア)が、人類の歴史の中で、常に過酷な争奪の対象になった理由が良く分かる。

 

そういうわけで、ガラタ塔へ続く沿道のほとんどが、簡素な料理屋で埋まっていた。美味そうな臭いが左右からプンプンするので、誘惑を振り切るのがたいへんだ。食の芳香に覆われる狭くて急な坂道を中ほどまで下ったところにガラタ塔の表示があったので、その場所を右に入る。すると、巨大な石造りの円筒が見えて来た。これが、新市街最大のランドマーク、ガラタ塔である。

 

旧市街から新市街を眺めた場合、真っ先に目に入るガラタ塔。これは、ビザンチン帝国の時代にジェノヴァ商人が築いた見張り台である。交通の要衝であるこの地を押さえたビザンチン帝国は、ダーダネルスとボスポラスの両海峡を通過する商船から、巨額の「みかじめ料」をせしめて発展した。そんな中、さらなる発展を目指すジェノヴァ商人たちは、ビザンチン皇帝に願い出て、当時の新市街一帯を租借地としてここに居住したのである。しかし彼らは、ビザンチン帝国最後の戦い(1453年)では中立の立場を保ち、メフメット2世のオスマン艦隊が、陸路から新市街の後ろ側を横切って金角湾に入るのを傍観した。ガラタ塔は、戦いの役に立つことはなく、対岸の阿鼻叫喚を見守るのみだった。

 

などと太古に思いを馳せながら、塔の入口を探し当てて展望台に登るための料金を見ると、なんと10YTLもする。なんで、こんなに高いんだ?一瞬、引き返そうかと思ったけど、せっかくここまで来たのだから、心を鬼にして窓口で料金を支払った。

 

ガラタ塔はかなりの高層建築なのだが、上階までエレベーターを使うことができる。もちろん、これは近年になって設置されたエレベーターだが、なかなか快速で快適だった。エレベーターの終点から最上階までは、内壁沿いに螺旋階段で上がる。階段を上った最初のフロアは、喫茶店になっていた。コーヒーでも飲もうかと思って料金表を見たら、無闇に高いので止めにした。さらにもう1階分上ると最上階に達する。そこは、パブレストランになっていた。案内によれば、ここで夜からベリーダンス・ショーが見られるらしい。さすがに食指が動いたが、夜のイスタンブールは帰路が危なそうだ。今日は、昼間から命の危険にさらされたわけだし。そこで、塔からの展望だけで我慢することにする。

 

最上階の内壁の一角から、展望台に出ることが出来る。これは、外壁に沿って塔を一周できるバルコニーになっていて、大勢の観光客で溢れかえっていた。回廊は狭いので移動に難渋したが、実に素晴らしい眺望に心から感動した。10YTLの価値は十分にある。ここから撮ったデジカメ写真は、俺の生涯の宝物の一つとなるだろう。

 

 

用も済んだので、エレベーターで塔を降りた。再び、食堂が乱立する路地に戻り、そこからまっすぐ歩いてガラタ橋の入口に達した。

 

ガラタ橋の両脇の欄干は、相変わらず大勢の釣り人によって占拠されている。長い竿を金角湾に向かって投げるオジサンたちのバケツの中身は、釣果で一杯だ。そんな海の中を、海水パンツで泳ぐ若者もいる。釣り針に引っかかるんじゃないかと心配だ。

 

そんな牧歌的な風景を楽しく眺めながらガラタ橋を南側に渡り、イエニ・ジャーミーの横を抜けてエジプシャン・バザールにやって来た。その入口に、「ITIMET」というヨーグルト専門店があるので、心引かれて入ってみた。店舗面積は狭いのだが、乳製品のみならず、ハチミツやお菓子も売っていてアットホームな雰囲気が気に入った。そこで、アイラン(ヨーグルトドリンク)の大き目のプラスチックボトルを1.2YTLで買った。500ミリリットル容器なのに120円なのだから、やはり「食」は日本とは比較にならないくらいに恵まれているのだなあ。

 

それから、ホテル目指してブラブラ歩くうち、「taza」という名のパン屋が目に止まった。面倒くさいから、今日の夕飯はパンにしよう。そこで、店先でピザパンとゴマパンを指差して若い男女の店員に紙袋に包んでもらった。すると、青年店員が「どこから来たの?」と英語で聞いて来たので、「日本だよ。日本って知ってる?」と答えた。すると青年は「おお!日本の人ですか」と喜んで、相棒にそれを教えると、お勘定をしていた美女店員も嬉しそうに微笑んだ。別れ際に、二人で一生懸命に手を振ってくれたのが良い想い出だ。さすがトルコは親日の国だなあ。でも、料金はまけてくれなかったなあ(笑)。

 

もっとも、トルコのパンは非常に安い。どこの店でも、一個1YTL100円)なのだ。それなのにボリューム満点で美味なのだから、トルコの台所事情は、日本など比較にならないくらいに恵まれていると言える。

 

ホテルの部屋に入ると、ベッドの上でゴロゴロしながら、アイランを飲みパンを齧りつつ、アタチュルクの漫画本を読み始めた。あれ?なんか違和感が。おお!なんてこった!文字がフランス語だ!間違えて、フランス語版を買ってしまったのだ!

 

イスティクラル通りの本屋では、数ヶ国語版が同じ場所に平積みになっていた。その中で「最も汚れていない奴」を見繕ったところ、それがたまたまフランス語版だったということらしい。ううむ、ドジをこいた、明日、英語版を入手しに行かねばならぬ。

 

そういうわけで、その日は食事を終えて早めに寝た。