8月9日(水曜日) トプカプ宮殿、帰国

 


 

朝の散歩

トプカプ宮殿

空港へ

帰国

 


 

 朝の散歩

 

早く寝たせいか、6時半に起きてしまった。

 

しばらくテレビでニュースやバラエティなどを見てから、最後に一目、金角湾を見ようと朝の散歩に出た。ブラブラ歩いてシルケジ駅に出て、そこでトラムに乗った。ガラタ橋を渡る車窓から金角湾やガラタ塔を眺め、新市街に入ってトプハネ駅でトラムを降りた。そして、ここで昔の大砲工場跡(オスマン帝国の強さの原動力だった)や、いくつかのジャーミーを見学したのであった。

 

大砲工場跡

 

 

朝日の中、今度は歩いてエミノニュに向かう。ガラタ橋の上で、しつこい絵葉書の売り子たちにからまれて難渋したりしたが、朝日に輝く金角湾を満喫してホテルに戻った。

 

いつものように朝食を取ってから、フロントに「私に旅行会社から連絡ありませんか?」と聞いてみた。旅行会社が空港までの迎えを寄越す手はずなのに、未だに何の連絡も無いのである。何時に、どこで待てば良いのかも分からない。昨日、ラマザンに聞いてみたけれど、彼も何も知らないし連絡も受けていないという。「日本トラベル」、なんて出鱈目な会社だろうか。もう二度と使わないぞ!

 

ともあれ、飛行機の出発時間は午後3時なので、お昼までは時間の余裕がある。午後12時までホテルのロビーで待ち、それでも誰も迎えに来ないようなら、自力で空港まで行けば良いのだ。空港までの経路はガイドブックで調べて分かっているから、何の問題もない。

 

そう結論したので、チェックアウトの手続きをしてから重い荷物をフロントに預ってもらい、手荷物を抱えてトプカプ宮殿に向かった。本当は、ここへは昨日の午後に行く予定だったのだけど、あの宮殿はなぜか火曜が定休日だったので断念したのだった。

 

断念といえば、当初はエディルネやブルサといった郊外の街にバス旅行をする予定であった。ラマザン一味とウダウダしているうちに、今回の旅程の中で郊外に行く時間の余裕を失ってしまったのだった。だからといって、ラマザン一味を恨む気持ちは無いけどね。むしろ、恩義を感じているほどである。

 

こうして、ギョルハネ庭園の門を潜ってトプカプ宮殿に向かった。その途中、考古学博物館前の捨てられた大理石のそばに、猫の親子がいるのに気づいた。昨日のパンの食べ残しをどうしようかと悩んでいた矢先なので、大理石に腰掛けて猫にパンをやった。そのせいで母猫が俺に懐くものだから、2匹の子猫も俺に体をこすりつけて甘える。うわー、可愛いな。超絶的に可愛い!俺はもともと「犬派」の人なのだが、「猫派」に転向するのも悪くないかな。周囲の通行人は、3匹の猫とたわむれる異様な東洋人を奇妙な表情で見る。まあ、そりゃあ、そうだろうねえ(笑)。でも、俺は昔から、子供と小動物に弱い人なのだ。

 

 

 

トプカプ宮殿

 

さて、猫と遊ぶのにも飽きたので、トプカプ宮殿に向かうこととする。

 

3日前の早朝に訪れて無人だった前庭は、今日は観光客の群れで一杯だ。朝9時から、みんなご苦労様。などと言っている場合ではない。急いで入場しないと、バスに乗った団体観光客が大増員となって混雑することだろう。

 

チケット売り場に行くと、日本語が出来る青年が話しかけてきた。恐らく、フリーでやっているガイドさんだろうけど、俺には今回は時間制限があるので、その旨を言うと彼は静かに去って行った。なかなか上品で物分りが良くて結構である。

 

チケットシステムは、ドルマバフチェ宮殿に似ているが、セラームリクと宝物館の券を前庭で買い、ハレムの券は場内で買うようになっていた。どうせ今回は、ハレムはパスである。そこで、セラームリクと宝物館の入場券(合わせて22YTL)を買って、所持品検査を受けた後で中に入った。送迎門を出た入口付近には、音声解説付きトランシーバーを貸すブースもあったが、今回は時間がないだろうから止めておいた。

 

目を前に向けると、そこに広がっているのは四方を高い壁に囲まれた「第二庭園」。美しい木々や芝生に包まれた広壮な庭だ。左手の壁際に立つ大きな建物が、かつてスルタンが居住していたハレムだろう。その複合建築の中でひときわ目立つのが、周囲を睥睨する監視塔(「正義の塔」)である。

 

 

この庭のあちこちの壁際には小さな部屋がいくつもあり、それぞれが武器や織物の展示場になっているので、これを見ているだけで時間が経つのを忘れてしまう。

 

「第二庭園」の最奥にある幸福の門を抜けると、「第三庭園」になる。さっきの庭よりやや小振りの第三庭園は、やはり高い壁に周囲を囲まれている。壁際の部屋がそれぞれ展示場になっている構造は、さっきの庭と同じである。

 

庭の真ん中にはスルタンの謁見の間や図書室などがあったが、中で展示されていたのはキリムなどの織物であった。

 

それよりも興味深かったのは、この庭園に入って左手の壁沿いにある博物館であった。歴代オスマン帝国皇帝を描いた肖像画や細密画をはじめ、衣装や武器などが見事に陳列されていたからだ。

 

細密画(ミニアチュール)の多くは、最後のカリフ・アブドルメジド2世が所蔵していたもののようだ。そこには、オスマン帝国の偉大な先祖や栄光が描かれている。アタチュルクによってスルタン制を廃絶された最後のカリフは、こういった形で過去を追憶し自尊心を満たしていたのだろうか?自作の登場人物のことなので、いろいろな感慨を抱いてしまった。

 

その他の展示品の中で目を引いたのは、日本から贈られた甲冑である。英語で書かれた説明を読むと、これは日本初のトルコ通である山田寅次郎が、明治政府に要請されてスルタン・アブドルハミト2世に寄贈した逸品であるらしい。山田寅次郎は、拙著『アタチュルク』に何度か登場する人物であるから、これまた感慨深いものがあった。

 

 

「第三庭園」の最奥の門を潜ると、「第四庭園」だ。ここは壁に囲まれていない、一種のテラスになっている。宮殿の最北端であるこの庭の右側には、ボスポラス海峡を一望に出来る展望レストランがあった。レストランには用が無いけれど、この辺りは高台になっていてかなりの眺望が得られるのが楽しい。美しい風景を楽しみながら、様々な建築物を楽しんだ。特に、バーダット・キョシュキュと呼ばれる建物の青いイズニックタイルの美しさには息を呑んだ。金色屋根のイフタリエも楽しいし、噴水も綺麗だった。

 

ドルマバフチェ宮殿より、こっちの方が楽しいな。自由行動できるし。などと考えつつ、元来た道を引き返した。

 

見学を忘れてならないのは、「トプカプの秘宝」である。ここには、有名な「トプカプの短剣」をはじめ、世界最大のダイヤである「スプーン屋のダイヤモンド」が展示されているのだから。しかし、第三庭園右翼の宝物館は、案の 上の大行列だった。時計を気にしつつ行列に加わったのだが、意外と動きが早いのでスイスイと中を見学できた。最大の目玉である「短剣」や「ダイヤ」は、やはり凄かった。86カラットのダイヤなど、あまりに大味すぎてダイヤに見えないのだが、やはり「世界最大」だけに独特の風格がある。ここでは写真撮影禁止だったのが残念である。こんなのをプレゼントしたなら、どんな女でも落ちるだろうな(笑)。

 

宝物館を出ると、いつのまにか庭園内は団体観光客で埋まっていた。これからが、ちょうどツアー客で混み合う時間帯らしい。こうなると、うまく時間を外して観光したのは大正解である。

 

第二庭園に戻ると、幸福の門の前に大太鼓が設置されていて、スタッフが動き回っていた。どうやら、ここでもメフテル軍楽隊をやるらしい。俺は、もう2回見たからどうでも良いけどな。

 

それから、この庭の右手の陶磁器の展示場を見て、昔の厨房跡も見た。結果的に、宮殿内を時計回りに制覇した形である。

 

そのまま出口に向かうと、入口付近に宮殿を精巧に表現した模型があることに気づいた。なるほど。本当は、最初にこれを見て全体構造を把握してから観光するべきだったのだな。

 

その横の壁には、オスマン帝国の最大領土図が貼られていた。昔は、この国はこんなに大きかったのだ。イラク、シリア、レバノン、ヨルダン、エジプト、リビア、ギリシャ、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、旧ユーゴスラビア、ハンガリー、クリミア半島。みんな、昔はトルコだったんだよね。諸行無常とは、このことか。

 

 

こうして、土産物屋を冷やかしつつ外に出た。大満足である。

 

最後に「BLUE ART」に顔を出そうと思ってスルタン・アフメット方面に歩いていくと、聞き覚えのある音楽とともに、前方からメフテル軍楽隊が進んできた。ちょうどこれから、宮殿内で演奏するのだろう。周囲の観光客と一緒になって、彼らの行進を至近距離から接写しまくり、ついでにデジカメを録画モードにしてXDカードの残りを使い切った。これは、おそらく一生の宝物になるだろう。

 

 

空港へ

 

さて、皇帝の門からアヤ・ソフィアの横に出て、ブルーモスク前の庭園を経て「BLUE ART」に入ったところ、店の1階にはメスートが一人で座っていた。ラマザンは他所で商談中であり、メフメットは2階で商談中とのことである。

 

メスートは、昨日は家族で海水浴に行ったらしい。道理で、健康的に日焼けしている。不愉快になったのは、またもやカネの無心を始めたことだ。なんでも、2日前に俺に貰った小遣いを、紛失するか盗まれたのだという。その分を、俺に補償しろと言うのだ。「なんで、お前のドジを俺が補償しなきゃならないんだ!」などと議論しているうち、メスートの話が全て作り話であることが分かった。俺は、甘ったれが嫌いだが、嘘つきはもっと嫌いだ。

 

怒りをこらえつつ、「悪いけど、12時までにホテルに帰らなければならないから、俺はもう行く。ラマザンたちによろしく伝えてくれ」と話していると、2階からメフメットが降りて来た。やがて戸外からフェイヤスも帰ってきたので、2人に礼を言って別れを告げた。

 

戸外へ出ると、メスートが追ってきて「空港まで、荷物持ちをさせてくれ」と言ってきた。「いらないよ」と突っぱねていると、フェイヤスが状況を察知してメスートを店に連れ戻そうとした。こうなるとさすがにメスートも諦めて、ポケットからキャンディーを一掴み取り出して俺にくれた。なんとも、子供っぽい餞別である。そして俺に抱きつくと「俺のこと忘れないでくれよな!」と耳元でささやいた。俺は男と抱き合う趣味はないのだが、これが最後だから抱き締めて、「忘れないぜ!」と言ってやった。

 

それにしても、メスートの金満主義は、トルコのイスラム文化がアメリカの下品な物質文明(カネが全て&道徳は二の次)に染まりつつある予兆なのではないだろうか?そんな嫌な予感を必死に振り払う。

 

ラマザンに会えなかったのは心残りだが、こっちは時間が無いのだから仕方ない。まっすぐホテルに帰ってフロントに問い合わせたところ、やっぱり旅行会社からの連絡は入ってないという。これはいよいよ、自力で空港に行くしかないかな。

 

それでも、荷物保管所から所持品を回収すると、読書しながらロビーで1215分まで待つことにした。いかん、時間切れだ。トラムの駅に向かうとしよう。そう思って腰を上げかけたとき、トルコ人の精悍なオジサン(青年?)が駆け込んできた。彼こそが、旅行会社のお迎えであった。ああ良かった、ほっとしたぜ。

 

ホテルの前には大型のバンが停まっていた。これ、ずいぶんと使い込んでいるけど、10人は乗れるんじゃないか?だけど、乗客は俺一人である。

 

快適に走り出したバンの運転席から、気さくなオジサンは「滞在中に、トルコ語はどれくらい覚えたの?」とか英語で聞いてくる。俺が「『ありがとう』という言葉が、なかなか覚えづらいね」などと応えていると、オジサンは「空港への途中で親戚を一人乗せるから、寄り道させてね」と言い出した。おいおい、ただでさえ渋滞しているみたいだけど、飛行機のチェックインに間に合うのか?とにかくトルコ人は「家族愛」が強いので、家族のためなら仕事も犠牲にする人々なのである。オジサンは、ある建物の前でしばらくバンを停めた。しかし、誰も現れない。彼が携帯電話で先方にコンタクトしたところ、親戚の予定はキャンセルになったことが判明した。そういうわけで、相変わらず俺一人を乗せた大型車は、再び空港に向かって走り出す。

 

なんとか、午後1時過ぎにアタチュルク空港に到着した。俺がオジサンに「テシェッケル・エデレム」と礼を言うと、「なんだ、ちゃんと『ありがとう』って言えるじゃん!」とオジサンも喜び、こうして笑顔で別れを告げた。

 

空港の荷物検査は非常に厳しく、ズボンのベルトや靴まで脱がせられたが、それ以降は順調に手続きが進み、無事に出発ロビーに入り込んだ。

 

安心すると腹が減ったので、昼飯に「バーガーキング」に行ったのだが、定番メニューの「ワッパー(ハンバーガーとポテトとドリンクのセット)」が、なんと13YTL1300円)もする。普通は500円程度のはずなので、「嘘だろう」と思って何度もメニューをチェックしているうち、店の兄ちゃんに「さあ、どうぞ」と誘導され、結局、割高のワッパーを注文することになった。

 

バーガーキングは、日本には存在しない店なので、海外で見かけるとついつい利用したくなる。しかし、世界チェーンのハンバーガーショップにしてこんなに相場が違うとは驚きだ。高い関税でもかかっているのだろうか?トルコでこの手の外資系フランチャイズが流行らない理由は、まさにここにあるのかもしれない。

 

ともあれ、久しぶりのワッパーを満喫し(割高だったが)、その後、お土産のラク酒のボトルを首尾よく免税品店でゲットした。

 

この時点で、小銭もお札もほぼ使い切ったので、両替の必要は無い。言い忘れていたが、トルコの貨幣は紙幣も硬貨も全種類に「アタチュルクの顔」が描かれている。「他に偉人はいないのかい!」と突っ込みたくなるけど、アタチュルクはそれだけの偉人ということであ ろう。

 

こうして、ドーハ行きのカタール航空の飛行機に首尾よく乗り込んだのであった。

 

 

帰国

 

午後3時10分、定刻どおりに飛び立った飛行機の背後で、イスタンブールの赤屋根がどんどん遠くなって行った。いろいろあったけど、良い国の良い街だったなあ。

 

4時間の飛行の後、エアバスはドーハに到着。例によって例のごとく、関空行きが出発する午後1040分までをロビーでの読書三昧で潰す。まあ、往路のときに比べれば退屈な待ち時間は少ない。

 

時間が近づいたので関空行きの出発ラウンジに行くと、当たり前といえば当たり前だが、日本人が大勢並んでいた。うわー、醜い!老若男女を問わず、なんという醜い生き物たちなのだ。もしかして、ドーハで「全日本ブサイク・コンテスト」でも開催されていたのだろうか?マジでそんなことを思うくらい、日本人のブサイクさに打ちのめされた。なにしろ、吐き気がしたくらいだ。そのうち、「ああ、平均的な日本人の容姿って、もともとこの程度だ」と達観して慣れたため、吐き気だけは収まったのだが(笑)。

 

なんでこんな感情を持ったかといえば、結局はトルコ人(特に女性)の容姿が美しいからである。旅行中は自分の顔なんか見ないし、他の日本人にも会わないので(並木さんは例外だが、彼女は割合と美人だった)、トルコ人の美しい容姿に脳が順応しちゃったのである。だから、平均的な容姿を持つ日本人の群れを久しぶりに見たときに、脳が拒絶反応を起こしてしまったと、そういうわけだ。

 

ううむ、自分の母国民を「ブサイクの群れ」と定義せざるを得ない俺って、何と不幸なのだろうか(泣)。これが本当の、「ドーハの悲劇」である(笑)。

 

ともあれ、午後1040分の飛行機は定刻どおりにドーハを出発。往路と同様、読書と睡眠に明け暮れているうち、いつのまにかカタール航空のエアバスは関空の上に差し掛かっていた。時刻は午後2時で、晴天下の大阪湾がはっきりと見える。しかし、神戸新空港と関空の距離の近さは驚くべきである。なんでこんな近い場所に国際空港が2つも必要なのか、さっぱり理解できないぞ。そのうち、上空で着陸態勢に入った飛行機同士が、ごっつんごっつん衝突するんじゃないかと、本気で心配になってしまった。

 

定刻どおり、午後2時50分に関空到着。1週間ぶりの日本だが、何も変わっていない。急げば3時30分の羽田行きキャンセル待ちに間に合ったのだが、せっかくだから関空を観光しようと思って、予定通り1910分の便を待つことにした。

 

だが・・・・関空は、本当に詰まらなかった。こんなに無味乾燥で詰まらない場所だとは思わなかった。綺麗といえば綺麗ではあるが、無機質的で人間的な潤いがまったく無いのである。もっとも、最近の日本の建築物は、みんなそうである。失望し、キャンセル待ちにチャレンジしなかったことを、深く後悔した。しかたないので、ポークカレーを食ってから(久しぶりのブタさんだ!)ベンチで読書三昧に明け暮れた。

 

やがて、時間が来たのでカタール航空とANAの共同運航便に乗って羽田に帰り、京急線に乗って家に帰った。まあ、成功した旅行だったと言えるだろう。

 

今回の最大の心残りは、バスや電車に乗ってイスタンブール郊外の街に行けなかったことである。次回は、アンカラ行きも視野に含めたリベンジを検討するべきであろう。

 

それでも、「アタチュルクの故地めぐり」という大目標は、少なくともイスタンブール市内においてはほぼ完遂された。

 

キリム4枚は無事に実家に届いたし、その他の土産物も友人たちにそれぞれ配った。ラク酒はKゼミの合宿で後輩たちにほとんど飲まれ、余った分を実家に持ち帰ったら「不味い」とか言われて流しに捨てられた(泣)。

 

ラマザンとはその後電話で話して、日本で会おうという話も出たのだが、結局それっきりである。メスートには一度メールしたけど、返事が来ないので放ってある。

 

ところで、良く人に聞かれるのが、「小説を書き終えてから取材に行っても無意味じゃないの?」という質問。

 

答えは「否」である。

 

小説の執筆で重要なのは、物語の構成力と想像力である。下手な先入観は、想像力の邪魔になる可能性が大きい。特にトルコの場合、現在のトルコと1920年代のトルコとでは、とても同じ国とは思えないほどの変貌を見せたはずなのだ。それなのに、現在の美しく優しく楽しいトルコのイメージを潜在意識に焼きつけたままで、1920年代のトルコを描くことが出来るだろうか?また、今回の旅行ではギリシャ人に酷い目に遭わされたわけだが、こうしたギリシャに対するマイナス感情を基にして、あの当時の国際関係をリベラルに描くことが出来るだろうか?答えは「否」である。

 

だから俺は、『アタチュルク』のときも『ボヘミア物語』の時も「事後取材」に行ったのであった。

 

もっとも、『ボヘミア』のときは、書く前に一度チェコに行っていて、その経験がプラスに作用している側面もある。

 

そう考えると、「事前」の取材も、あんまり深く突っ込まない限りは有用なのかもしれぬ。これは、なかなか悩ましい問題なのであった。

 

 

終わり