第一章 ダーダネルス海峡の狼

 


 

 

 

 

亜麻色の陽光によって穏やかに暖められる青い海面に、北アフリカから渡る優しい風が黄色い砂塵を少しずつ振り掛けていく。

 

ここはエーゲ海。かつて、ゼウスやアポロンやアテナといったギリシャの神々が降臨した美しい海だ。

 

エーゲ海の東には、ゴツゴツした陸地が広がっている。ヨーロッパ人は、古くからこの陸地を「アジア」と呼んでいた。そして、この陸地からエーゲ海に突き出している握り拳のような巨大な半島を「小アジア(アナトリア)」と呼んでいた。

 

巨大な半島小アジアは、北方の黒海と西方のエーゲ海と南方の地中海によって、三方から海に囲まれている。その北西の端で、ダーダネルスとボスポラスという名の2つの狭い海峡によってヨーロッパ大陸と隔てられている。

 

エーゲ海の航海者が、狭隘なダーダネルス海峡を東に抜けると、マルマラ海という内海に出る。この小さな海の北岸はヨーロッパのトラキア地方、南岸が小アジア(アナトリア)である。北岸には美しき都イスタンブールが置かれ、美麗なモスク(ジャーミー)の群れが訪れる者の目を楽しませてくれる。眺望を楽しみながらマルマラ海をさらに東に進むと、ボスポラス海峡がある。この海峡を北東に抜ければ、そこに広がるのが黒海だ。

 

エーゲ海から黒海を繋ぐこの長大な水道は、ヨーロッパとアジア、そしてロシアを連結する大動脈だ。ここは太古から、経済と文化の一大ターミナルとなっていた。

 

紀元前7世紀、この地の遊牧民を隷属させたギリシャ人は、至近にアジアを望む要地に都市を築き、これをビザンチウムと名づけた。これは、黒海沿岸の交易基地とギリシャ本土とを結ぶ重要拠点であった。

 

紀元前1世紀、この都市をギリシャから奪ったローマ帝国は、やがて紀元後4世紀に至ってここに遷都した。時のローマ皇帝の名にちなんでコンスタンチノープルと改称された都市は、15世紀半ばにイスラム勢力に占領されるまで、ローマ帝国の文化とキリスト教東方正教会の伝統を頑固に守る要塞であった。ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の栄光は、すなわちコンスタンチノープルの栄光と同義であった。

 

しかし20世紀初頭の今、この世界の一大ターミナルを掌握するのは、約450年前にビザンチン帝国を滅ぼしてこの地を奪ったオスマントルコ帝国であった。キリスト教の大聖堂は、全てイスラム教のモスクに作り変えられ、そしてイスタンブールと俗称されるようになったコンスタンチノープルは、偉大なスルタンが統べる巨大帝国の首都として世界史に君臨していたのである。

 

1915年の春、その栄光は今や過去のものになろうとしていた。

 

ダーダネルス海峡の入口は、5隻の戦艦を中核とするイギリスとフランスの60隻の大艦隊に包囲されていた。猛烈な艦砲射撃の後、無数の舟艇が一斉に海峡の北岸に殺到し、第一陣4万人の兵士を砂浜に吐き出した。

 

世界の一大ターミナルは、再びキリスト教徒の掌中に返り咲こうとしていたのである。

 

 

 

 

 

これは、オスマントルコ帝国の滅亡と近代トルコの再生の物語である。

 

この物語の読者は、白人列強の「帝国主義」が、アジアの大地に挫かれる姿を見るであろう。そして、彼らがもたらした絶望的な廃墟の中から、新たな近代国家が誕生し成長するドラマを体験するであろう。

 

そのために、まずは断末魔のオスマントルコ帝国について説き起こさなければならない。

 

20世紀の初頭、かつて三大陸に足をかける強勢を誇った巨大帝国は、急速に衰退の道を辿っていた。

 

中央アジアの強力な遊牧民トルコ族を中心に、武勇に物を言わせて領土を拡大したのが16世紀。壮麗王スレイマン大帝の栄光の時代を過ぎ、立ち止まってその身を振り返れば、黒海北岸に広がる領土はロシア帝国の朝食、アフリカ北部の領土は西欧諸国の昼食、バルカン半島の領土はオーストリア=ハンガリー帝国の夕食に過ぎなかった。西欧列強とロシアは、互いに牽制し合いながらも、数百年の歳月をかけてこの魅力的な好餌を貪り食らい、その身をズタズタに引き裂いたのだ。

 

20世紀初頭のオスマン帝国に残された領土は、小アジア全土とバルカン半島の東南端(トラキア地方)、そして中東地域(今日の国名で言えば、シリア、レバノン、ヨルダン、イラク、イスラエル、そしてアラビア半島の沿岸部)のみであった。

 

北アフリカの領土は、とっくの昔にイギリスとフランスとイタリアに分け取りにされている。黒海北岸とコーカサス地方には、ロシアの鷲の旗が翻っている。バルカン半島の大部分は、西欧やロシアに唆されて独立したルーマニア、ブルガリア、セルビア、ギリシャらが占拠して、かつての支配者オスマン帝国に対して敵意の炎を燃やしていた。

 

そんな中で始まったのが、悪夢のような第一次世界大戦(19141918年)である。

 

落日のオスマン帝国には、もはや白人列強と総力戦を戦い抜く体力など残されていなかった。しかし、様々な偶然や陰謀や外交的手違いの累積の後、満身創痍の老帝国は、ドイツやオーストリアと同盟を結んで(これを中央同盟国という)、イギリス、フランス、そしてロシア(これを協商国ないし連合国という)との絶望的な全面戦争に突入する羽目に陥ったのであった。

 

そして1915年4月、イスタンブールを守る最後の要衝であるダーダネルス海峡北岸ガリポリ半島の砂浜は、イアン・ハミルトン卿率いるイギリスとフランスの遠征軍によって完全に埋め尽くされていたのである。

 

 

 

 

 

オスマントルコ帝国第5軍の陣地は、ガリポリの砂浜を見下ろす丘陵地帯にあった。

 

司令官のリーマン・フォン・ザンデルス将軍は、稜線の上で愛馬に鞭をくれつつ懸命に敵情を視察した。

 

ダーダネルス海峡を挟むヨーロッパ側の陸地であるガリポリ半島は、東西に細長い上唇のような形をしている。

 

斥候の報告によれば、イギリス本国軍4万とフランス軍2万はガリポリ半島西端に位置するセレス岬の5箇所に分散上陸し、イギリス自治領軍2万はセレス岬より遥かに東に寄ったガパテベ北側の入江(後にアンザック入江と呼ばれる)に上陸したという。

 

フランス軍の一部は、ここから南方に位置する小アジアの西岸(ダーダネルス海峡の下唇)に上陸したらしいが、あそこの戦略的重要性は乏しいから単なる陽動作戦だろう。

 

で、我がトルコ軍6万は半島の入口(すなわち最東端)に集中配備されているわけだが、これをどのように振り分けるべきか。

 

ドイツ参謀本部から派遣されたこのベテラン将校は、忠実な同盟国の首都防衛を任せられていた。しかし、彼の指揮下にあるのは、士気が低く近代軍制の何たるかも分かっていない有色人種の群れだ。見ろ、哀れなイスラム教徒どもは、狼狽して軍営の中を走り回るのみ。ああ、ここに我が忠勇なるプロイセン軍人の一個小隊でもいてくれたらな。

 

ザンデルスが、絶望のため息をつきたくなったちょうどそのとき、長身のトルコ人将校が駆け寄ってきた。金髪碧眼で色白のすらりと整った目鼻立ち。濃い眉の下で銀色に光る鋭い眼光は、ムスタファ・ケマル大佐だ。寄せ集めの兵士から編成された第19師団の師団長だ。仕事振りは極めて優秀なのだが、無口でいつも何を考えているのか分からない奴。容姿はヨーロッパ人に近くても、心はアジア人って奴。

 

「ザンデルス将軍、守れますぞ」ケマル大佐は、良く通る流暢なフランス語(当時の国際語)で述べた。「イギリス軍は、とっくに揚陸作業を終えたというのに、なおも砂浜に居座って時間を無駄にしております。また、部隊ごとに無意味に分散しているので、大軍とはいえ、統一的な軍事行動を行い得ないものと推察します。ここは、塹壕戦術で各個撃破を狙いましょう」

 

「グート(よし)」ザンデルスは馬上からドイツ語で応えた。さすがに、我がドイツ軍制を良く学んでいるじゃないか。「君の第19師団は、ガパテベ北入江の敵に当たれ。我が主力は、その間、セレス岬の敵を叩く。敵を海岸に釘付けにしろ。やがて、イスタンブールから援軍が駆け付けるまでの辛抱だ」

 

「ヤヴォール(了解しました)」敬礼したケマルは、後ろを見せて走って行った。

 

彼はドイツ人が嫌いだったが、ザンデルスの能力と人物は信頼していた。

 

前線に駆けつけたトルコ人の大佐は、脅えて三々五々と逃げ走る守備兵を叱咤激励して手元に止めると、イギリス植民地軍の進路と予想される丘陵地帯に幾重にも塹壕を掘らせた。人間は、作業に没頭しているうちは恐怖を忘れるものだ。仕事をすることで、トルコ兵の動揺はたちまち収まったのである。

 

「この戦いの鍵は、高地だ。高地の確保だ」ケマルは、作業を監督しつつ直感的に認識していた。「敵に高地を渡してはならない」。

 

一方、奇襲上陸に成功したイギリス軍は、海岸線で尚もモタモタしていた。彼らの作戦行動が遅滞したのは、支給された地図が現実の地形に照応していなかったためであった。彼らは、砂浜がこんなに狭く、海岸線からすぐに丘陵が始まることを知らなかった。また、この地の砂浜と丘陵は、しばしば深い谷によって互いの連絡を遮断されているのだった。

 

オスマン帝国を蔑視していたロンドンの大本営は、この国の正確な地図を入手する努力を怠ったのである。こうした愚行のしわ寄せは、全て、名もない前線兵士に覆いかぶさる。

 

それでも彼らの攻撃は、トルコ軍が士気を高め、心を落ち着ける前に行われていれば成功していただろう。当初の奇襲効果と自らの兵力不足は、最初のうちはトルコ兵たちを大いに動揺させていたのだから。

 

「祖国を守れ、トルコを守るのだ」ケマル大佐は、急造の塹壕陣地を駆け回った。「お前たちが、最後の盾だ。最後の壁だ。ここが破れたら後がない。祖国はキリスト教徒どもの奴隷に落ちるだろう。私も陣頭に立って戦うぞ」

 

トルコ兵たちは、今までドイツ将校にバカにされながら調練を積んで来た。自分たちがこの前線に送られたのも、キリスト教を奉じるドイツの異教徒の勝手な都合だと思って白け気分であった。同胞であるはずのトルコ人の将校は、みな異教徒の腰巾着に成り下がったのだと思って失望しきっていたのである。しかし、そうじゃない。ケマル大佐を見ろ。トルコ人将校だって、やるときは祖国のために頑張ってくれるじゃないか。

 

ケマルの目は、尋常ではない光り方をした。動物にたとえるなら、暗夜で獲物を求める灰色狼といったところか。この目に射られた兵士は、体内に不思議な自信が湧き起こるのを感じるのだ。

 

闘志を燃やしたトルコ兵たちは、塹壕の中で機関銃や小銃を構えて海岸線に向き合った。もともと、トルコ兵はタフで粘り強く、防御戦に強いと言われて来た。その本領、いよいよここに発揮である。

 

「敵兵の上半身が現れたら、水平射撃を浴びせろ。敵の隊列がひるんだら、一斉に突撃して海岸線に追い落とせ。味方には塹壕があるが、敵は丸裸だ。落ち着いて戦えば、必ず勝てるぞ!」ケマルは、白皙の相貌を共に塹壕に伏せる兵士たちに投げた。「メッカへの祈りは、その後だ!」

 

イスラム教は、日5回の「祈り」を信者に要求する。そして、活動時間が不規則になりがちな軍務に就く兵士たちも、アラーに忠実でありたい者が多かった。異教徒である合理主義者のドイツ人教官が、彼らを軽蔑する所以である。

 

この当時のオスマントルコは、未だに政教一致の社会であった。そしてイスラム教は、人生で最も大切な事柄は「信仰」なのだと教える。そのためオスマン帝国の臣民は、政治よりも経済よりも軍務よりも、まず自分の信仰を優先させてしまうのであった。これが、オスマン帝国衰退の最大の原因であったと言えよう。

 

しかし、宗教を斜視するケマルのような合理主義者にとって、このような慣習は無縁のことである。彼は、宗教的儀式よりも目先の勝利を絶対視した。

 

炎天下の太陽の下、ようやくイギリス自治領軍が丘陵を登って来た。青く広がるエーゲ海を背景に、黄色い砂浜から岩だらけの高地へ伸びる無数の黒い鉄兜の列は、陽炎の中でゆらゆらと揺らめいた。

 

「今だ!」

 

ケマルの号令一下、塹壕線から放たれた激しい水平射撃が彼らを無情に撃ち抜き、予想外の待ち伏せ攻撃に、オーストラリア人たちの戦列は大いに乱れた。

 

「援護射撃を!」急を知った海岸線の士官は、伝令兵に叫ぶ。

 

雨のような砲弾が、海岸線に並んだ大砲からも海面に並んだ軍艦からも吐き出された。

 

「伏せろ!」ケマル大佐がすかさず叫ぶ。

 

トルコ兵は、砲弾が空気を切り裂く音を聞きつけるや、塹壕に飛び込んで身を潜めた。高地の輪郭に沿って巧妙に掘られた塹壕は、敵の海陸からの猛射から、兵士たちをがっしりと守ってくれる。

 

「イギリスの大砲も、意外とたいしたことないぞ!」降り注ぐ土砂と砂埃で真っ黒になった兵士たちは、敵の射撃が止むと陽気に声を掛け合った。

 

自信を持ったトルコ兵は、敵兵が進撃を再開したなら塹壕越しに水平射撃を加え、そして銃剣を抱えて飛び出して激しく白兵戦を交えるのであった。

 

「話が違うぞ!」「トルコ兵は少数だし軟弱だから、すぐに逃げ散るはずじゃなかったのか!」「あれは本当にトルコ人なのか?」「ドイツ人の間違いなのでは?」

 

オーストラリア兵は、高地の奪取を諦めて海岸線へと後退して行った。

 

「勝利だ!」「アラーよ!」「感謝します!」

 

汗みどろのトルコ軍兵士は塹壕の上に跪き、めいめいメッカの方角に向かいアスルの祈りを始めた。西に傾きつつある陽光は、優しく彼らを照らす。敬虔なイスラム教徒を祝福するのにふさわしいのは、むしろ月光なのかもしれないが、ここは贅沢を言っていられない。ケマルは、満足げに忠勇な部下たちを眺め回し、そして会心の笑みを浮かべた。

 

一方の英仏連合軍は、予期せぬ反撃を受けて呆然としていた。

 

「こんなはずでは」遠征軍司令官ハミルトン卿は、額に縦皺を浮かべ、そして本国に援軍を要請したのである。

 

そして、もともとこの作戦に乗り気ではなかった彼は、奇襲効果が失われたと見るや、海岸線に塹壕を掘り全軍をその中に立て篭もらせてしまった。観戦武官として日露戦争に参加したことのある彼は、塹壕で機関銃を構える士気高き敵の怖さを知り抜いていたのだ。

 

しかし、海岸線では真水の補給が出来ないから、兵士たちはたちまち飲み水に困った。しかも、狭いところに栄養不良の不衛生な男たちが密集したものだから赤痢が蔓延する。ハミルトン将軍は、このような事態が起きることまでは予想していなかったのである。

 

その間、イスタンブールからトルコ軍の増援が続々と駆けつけ、この狭隘な半島は、やがて両軍合わせて50万の兵士が繰り広げる殺戮の修羅場と化すのであった。

 

 

 

 

 

「戦略は正しい。ただ、やり方が下手糞なのだ」

 

ウインストン・チャーチル海相は叫んだ。ここは、ロンドンの大本営。

 

「海軍が、緒戦で機雷を恐れずに海峡本体に突入しておれば、また、ハミルトン卿が塹壕に閉じこもらず犠牲を恐れず果敢に突貫しておれば、今ごろコンスタンチノープルは我が手にあったはずだ」

 

「後知恵なら、なんとでも言えるぞ、ウインストン」ホレイショ・キッチナー陸相は、疲れ気味の両眼を、せっかちにしばたかせた。「これからを考えよう、これからを」

 

イギリス政界は、イスタンブール(彼らはコンスタンチノープルと呼んだが)をこの世界大戦の最重要拠点と見なしていた。

 

強敵ドイツ軍は、西部戦線でも東部戦線でも付け入る隙をまったく与えない。ヨーロッパの戦線は、膠着状態のまま一向に動こうとしなかった。しかも、我が同盟国ロシアは、トルコにダーダネルス海峡を封鎖されたため、西側諸国との連絡を断ち切られて孤立状態にある。

 

ここでイスタンブールを占領し、このヨーロッパとアジアを結ぶ一大ターミナルさえ手に入れれば、ロシアを梃入れ出来るし、バルカン半島に大軍を上陸させてドイツの脆弱な下腹部を衝く戦略が可能となる。参戦を迷っているギリシャやルーマニアも、きっと味方についてくれるだろう。ひいては、この第一次世界大戦を圧勝のまま短期に終わらせることが出来るはず。

 

ガリポリ半島は、イスタンブールへ入るための門であり、そしてダーダネルス海峡の上唇に当たる要衝だ。ここを制圧し、高地の上に重砲を設置すれば、ダーダネルス海峡沿いに置かれたトルコ軍の要塞を狙い撃ちにして沈黙させることが出来る。その後で、待ち構えていた地中海の大艦隊が一気に海峡を突破し、イスタンブールをマルマラ海から砲撃しつつ陸兵を揚陸させるのだ。これで、トルコ帝国の死命は決せられる。

 

「この作戦は、絶対に正しい。失敗させてはならんのだ」チャーチルは、呻くように言った。

 

こうしてイギリスの増援部隊が、続々と欧亜の境界に殺到したのである。

 

8月6日、ストップフォード中将率いる5個師団10万人は、ガパテベ入江北方のスブラ湾に上陸した。しかし、彼らの前に立ちはだかったのは、またしてもムスタファ・ケマル大佐率いる第19師団であった。

 

スブラ湾には、当初、わずか1500名のトルコ兵しかいなかったのだが、急を知ったケマルの指示によって急速に増強され、上陸正面の丘陵地帯に縦深陣地が築かれた。さらに、急造の砲兵陣地にかき集めた大砲から撃ち出されるドイツ製の巨弾が、無防備な海岸線のイギリス軍を大いに苦しめたのである。

 

これを支援すべき英仏艦隊は、救援に駆けつけたドイツ軍のUボートの雷撃によって2隻の戦艦を撃沈されたため、恐れをなしてエジプトに避退してしまっていた。

 

スブラ湾のイギリス軍は、仕方なく、海岸線に塹壕を掘ってその中にうずくまった。結局、5個師団の増強は、ガリポリ半島の戦局を変える決め手にはならなかったというわけだ。

 

「トルコ軍が、ドイツ軍並みの戦闘能力を持つなんて聞いていないぞ!」沖に浮かぶ駆逐艦内で指揮を執るストップフォード中将は、誰に対するともなく毒づいた。

 

やがて彼は、「無能」の烙印を押され更迭されることとなる。

 

そして、誰もが意外だったことに、トルコ軍が築いた防衛線は、まさに鉄壁なのであった。

 

 

 

 

 

ムスタファ・ケマルは、自分を不器用な人間だと思っていた。それに、神経質で辛抱の足りない癇癪持ちだとも自覚していた。

 

少年時代は、コーランを暗記するのが嫌で何度も授業を脱け出し、劣等生の烙印を押された。母は一人息子を高位聖職者にさせたかったのに、その意志に逆らって陸軍幼年学校から士官学校に進んだ。軍服の「かっこ良さ」に憧れたからである。それでも、ここでは歴史や数学に優秀な成績を収め、先生からケマル(完全な人)というあだ名を貰ったのだが。

 

しかし、その後がうまくない。

 

士官学校で欧米人の教官に学んだ彼は、近代化が進むヨーロッパの実情を知るにつけ、オスマン帝国の後進性と腐敗ぶりを深く憂慮した。そこで、陸軍大学時代に「ヴァタン(祖国)」という名の政治改革を志向する秘密結社を主催したのである。しかし、これはたちまち皇帝の秘密警察に嗅ぎ付けられ、解散に追い込まれた。彼自身も逮捕されたが、彼が学生でなければ、きっとこのとき処刑されてしまったことだろう。幸運にも「若気のいたり」ということで、2ヶ月で釈放してもらえたのである。

 

しかし、彼はダマスカス(現シリア)の閑職に左遷され、これで出世の道は断たれた。それでも、酒と夜の女に溺れる爛れた日々の合間に、ルソーやモンテスキューの著作を中心に読書に励み、世界情勢や社会思想や世界史に関する知識を増やしたのだが。

 

その後も憂国の志冷めやらぬ彼は、マケドニア(バルカン半島)に転任した後、学友アリー・フェトヒの紹介で大手政治結社「統一と進歩委員会(青年トルコ党)」に加盟した。しかし、ここでは有力者たちと話が合わずに傍流に落ちた。「青年トルコ党」がクーデターで政権を握ったのはその直後のことである。もしもあのとき、党の実力者たちと折り合いよく出来ていれば、一介の下級将校としてヨーロッパや中東各地の駐在武官をたらい回しに回された挙句、こうして危険な最前線に配属されることもなかっただろうに。

 

考えてみれば、異性に対しても不器用だ。酒場女にはモテるけど、34歳にして独身だし決まった恋人もいない。

 

「俺が上手に出来るのは、軍務だけだな」ケマルは、自嘲気味にそう思った。「今ここで上手に出来なければ、俺は人生の負け犬ということだ」

 

彼は、故郷テッサロニキのことを想った。

 

彼が生まれた都市は、第一次バルカン戦争(1912年)の結果、ギリシャ領になってしまっている。彼は、母ズベイデの憂いを含んだ横顔を想った。他家に嫁いだ姉マクブラのことを想った。幼くして父を亡くした独身の彼にとって、他に失うものは無い。

 

だが、兵士たちは違う。多くの者が、妻子と家庭を銃後に置き捨て、心を残しながらここにいる。今の彼は、こうした多くの生殺を握る立場だ。彼らを殺すことが出来るのか。彼らを死地に追い込む命令を下せるのか。・・・いや、彼らが守るべき家族は、あくまでも「トルコ」でなければならない。祖国のために命を捧げるのが、臣民の勤めなのだ。たとえこの戦争の大義に幾多の疑問があろうとも、その事実には変わりない。だから彼は、兵士たちに向かって叫ぶのだ。

 

祖国のために死んでくれと。

 

ケマル大佐の気迫と熱い思いは、最前線という死地において数万の兵士たちに伝染し、兵士たちは必勝の信念に身を焦がした。

 

英仏連合軍は、上陸から4ヶ月が経過しても、砂浜から橋頭堡を広げることが出来なかったのである。

 

 

 

 

 

8月8日、カパテベ入江前面のサリバイール高地に布陣していたケマル大佐は、セレス岬のザンデルス将軍に呼び出された。

 

「何の用だろうか」

 

ケマルは、何事につけ他者に干渉されるのが嫌いだった。ザンデルスは比較的、自由にやらせてくれるから良いが、彼とて官僚である。上層部から無茶なことを言われ、それを部下に押し付けることは当たり前と思って覚悟しなければならない。

 

しかし、高地の上の赤茶けたテントの中で待っていたのは、熱意に目を輝かせたザンデルスの姿だった。ドイツのベテラン将校は、ケマルの敬礼を受けた直後、一通の命令書を彼に手渡した。

 

「今日から、ガリポリ半島の指揮権の全てを君に委ねる」

 

意外な事態にケマルは呆然として、ザンデルスと命令書を交互に見た。一師団長にしか過ぎないトルコ人の彼が、本当に15万の兵力を総覧させてもらえるというのだろうか。

 

「イギリス軍は、ここ一ヶ月を作戦の山と見ているだろう」野戦用のシートから立ち上がったザンデルスは、ケマルの両肩に手を置いて語る。「やがて、決戦が始まる。決戦に際し、トルコ軍はドイツ人である私ではなく、能力のある一人のトルコ人によって率いられるべきなのだ。そして、君しか適任者はいない」

 

ケマルは、しばし呆然とした。こんなに高い評価を人から受けたのは、生まれて初めてだった。そして、ザンデルスの言葉は続いた。

 

「ケマル大佐、私はこれまでトルコ人を正直、バカにしていた。オスマン帝国のこれまでの『構造改革』は、ヨーロッパから借款を得るための狂言だと思い込んでいた。しかし、それは違った。『構造改革』の一環として全土で展開された西欧式教育は今や、科学的な合理的精神に裏打ちされた愛国心溢れる若き人材を大量に輩出するに至ったのだ。その代表が君だよ、大佐。今こそ、その真価を世界に示すべきときだ。もう誰にも、君の祖国を『瀕死の病人』などと呼ばせてはならない」

 

ケマル大佐は潤む目で上官をしっかと見つめ、そして大きくうなずいた。

 

祖国の運命は、今や彼の双肩にかかったのである。

 

彼は、後にこう回想している。

 

「正直、勝てる自信は無かった。せめて、負けない戦をするだけだった」

 

 

 

 

 

8月10日、増援を得て強化され、30万人に膨れ上がったイギリス軍の総攻撃が、全戦線で開始された。

 

狭い半島は、互いに殺し合う男たちによって瞬く間に埋め尽くされる。

 

コジャチメン高地では、わずか1ヤードの取り合いで豪雨のように血が流れ、軍団長代理ケマル大佐は、自らが前線に飛び出して銃剣を振るった。部下たちは大いに奮い立ち、そしてイギリス軍は後退した。丘の上に残されたのは、両軍の兵士の死体の山である。その多くに、すでに真っ黒なハエがたかっていた。

 

「みんな、良く頑張ったぞ」

 

ケマルは、泥まみれの顔の中で瞳だけを光らせながら兵士たちを激励して回った。

 

兵士たちは、呆然と互いの顔を見交わす。多くの戦友が、この一戦で地上からいなくなっていた。トルコ歩兵第57連隊は、この戦いで全滅し去っていた。戦場が、生命を無造作に奪い去る寒々しい場所だということを、兵たちは改めて痛感した。

 

そのとき、伝令兵が後方の台地から駆け降りて来た。

 

「ジョンクバユル高地が、ついに敵に奪われました!」

 

「なんだと」

 

ケマルは、血と汗にまみれた軍服を振るわせた。

 

ジョンクバユル高地は、最も重要な戦略要地であった。この高地の陥落は、全線の破滅を招きかねない。この上に重砲を据えつけられたなら、ダーダネルス海峡沿いのトルコ軍要塞は、狙い撃ちにされてたちまち破滅するだろう。そして、海峡を制圧されたなら、イスタンブールもオスマン帝国もおしまいだ。

 

ここが正念場だ。戦いの天王山が来た。

 

「反撃に当てられる有効な予備兵力は、もはや残っていませんぞ」副官のアリフ少佐は、手元に広げた戦況図を見てうめいた。

 

ケマルは、コジャチメン高地の戦場跡を見つめながら言った。「正面のイギリス軍は、退却したばかりで、すぐには出て来られない。ここをがら空きにして、第19師団全軍で高地の奪回に向かうのだ。戦略予備隊も全てかき集めろ」

 

「しかし、それではこの戦線が手薄になりますぞ」

 

「これは、賭けだ」ケマルは、忠勇な副官を見つめた。

 

休息も取らず、第19師団の残存兵力7千名は、丘陵伝いに西に進んだ。負傷兵たちは、次々に力尽きて後落する。しかし、残った兵士たちはケマルを信じていた。この地獄を生き延びるためには、ケマルに付いて行くしかないと思い定めていたのだ。

 

ジョンクバユル高地を占拠していたのは、オーストラリアとニュージーランドの連合部隊であった。いわゆる「ANZAC部隊(Australia and New Zealand Army Corps)」は、イギリス連邦で最強と謳われた猛者たちである。ただし、高地の斜面が急すぎて、未だに彼らの砲兵は到着していなかった。その兵力は2万名だが、高地の各所に分散している。

 

双眼鏡から目を離したケマルは、後方を振り返ると、泥と埃にまみれた部下たちの顔を見回した。後方から駆けつけた戦略予備隊や途中で吸収した敗残兵を交え、今や1万5千名となった兵たちは、信頼のこもった眼差しを指揮官に向けて来る。長身精悍の勇敢な若き師団長、いや、軍団長代理は、今や彼らの唯一の希望の星であった。

 

「味方の援護砲撃の後、一斉に突撃を敢行する」ケマルは、忠実な部下たちの心を銀色の眼光で射た。「私は、諸君に戦えとは言わぬ。一緒に死んでくれ」

 

彼は、部下とともに死ぬ覚悟だった。この決戦は、自らが先頭に立たなければならないと思い定めていたのだ。しかし、指揮官自らが戦場に出るなど、当時のトルコではそもそも異例だった。普通は、安全なところで地図を見ながら偉そうに命令するだけなのである。

 

「この人は違う!」「この人なら絶対に勝てる!」

 

埃まみれの兵士たちは、指揮官の気迫と覚悟を知って、全身を大きく武者震いさせた。

 

兵士というものは、独特の嗅覚で有能な指揮官を見抜く。そして、一度深い信頼を寄せたなら、その指揮官のためにとことん命を賭けるのである。

 

砲弾不足の味方の砲撃は、線香花火のような貧弱さだった。しかし、丘の上に占位する協商国軍将兵に、いくばくかの動揺を与えたことは明らかだった。

 

「私に続け!」

 

ケマル大佐は、拳銃を頭上にかざし、先頭に立って突撃した。

 

「うおおーー」

 

雄たけびをあげた第19師団と戦略予備隊の将兵は、銃剣を前にかざして一斉に突っ込んだ。

 

浅黒い肌を持つトルコ兵たちは、茶色の軍服の上にお椀を逆さに伏せたような戦闘帽を被っている。白い肌のANZAC兵たちは、カーキ色の軍服の上にカウボーイハットのような戦闘帽を被っている。

 

いつも、ひなげしの花に満ちているこの美しい丘は今、茶色とカーキ色の軍服によって覆われた。

 

突然の猛襲に驚いたオーストラリア、ニュージーランド混成軍は、機関銃を乱射してこれを食い止めようとした。しかし、間もなく白兵戦に入る。至近距離で刺突と殴打を繰り広げる上では、近代装備の充実度も補給の潤沢度も関係ない。人間の数と体力と勇気の勝負あるのみだ。そして、精強と謳われたANZACも、終日の激闘の連続で疲労困憊していた。

 

「主なるアラーよ!」「我らを助けたまえ!」

 

トルコ兵たちは、絶叫しながら銃剣を振り回す。

 

陣頭に立つケマルは、降り注ぐ銃弾に臆することなく、自ら機関銃座に飛び込んだ。モーゼル拳銃で、銃剣を手に取ろうとした2人の敵を続けざまに撃ち倒す。

 

1時間の死闘の末、2000の遺棄死体を遺しANZACは壊走した。トルコ軍の損害は1000に満たない。

 

「ここに、祖国は救われた。諸君の奮闘に感謝する!」丘の中央でケマルが叫ぶと、部下たちは大歓声でこれに応えた。

 

やがてトルコ軍兵士は、血と泥にまみれたジョンクバユル高地に跪き、めいめいメッカの方角に向かい祈り始めた。

 

時刻を確認しようとしたケマルは、腕時計を見て苦笑した。

 

彼の腕時計は、敵の銃弾を受けて粉砕されていたのだった。

 

 

 

 

 

英仏連合軍は、その後も2度にわたって高地の奪回を目指したが、いずれの試みもケマルの奮戦の前に死体の山を築くだけの結果に終わった。

 

今や、ガリポリ半島は鉄壁の要塞と化し、協商国軍30万人はヨーロッパ側の海岸線にしがみ付く蟻の群れのようだった。

 

トルコ軍が頑強に高地を守り抜いたため、ダーダネルス海峡のトルコ軍要塞と機雷源は未だに健在である。そして、イスタンブール突入が不可能と知った協商国軍の大艦隊は、エーゲ海で切歯扼腕するオブジェと化していた。

 

それどころか、6ヶ月を越える激闘を経てみれば、すでに協商国軍の戦死者と傷病兵は延べ20万人にも上っている。

 

もはや、作戦の失敗は明らかであった。

 

1916年正月、冬のエーゲ海が荒海の顔を見せ始める前、協商国軍は全てを諦めガリポリ半島からの撤退を開始した。

 

アンザック入江では、撤退の順番を待つ一人のオーストラリア兵が、手帳に次のように書き、砂浜に銃弾で留めておいた。

 

「長くお世話になった。ここは、全て君たちトルコ人のものだ。オーストラリアより愛を込めて」

 

トルコ軍は、捕虜に人道的に接し、また海岸の病院船を一度も砲撃の対象にしなかったので、オーストラリア兵は敵に対して畏敬の気持ちを抱いていたのである。なお、この手紙を拾ったトルコ軍将校は、これを生涯の宝物にしたという。

 

「トルコがここまでやるとは、まったくの誤算だったわい」ロンドンのチャーチル海相は、吸いかけの葉巻を指で握りつぶした。

 

彼がテーブルの上に開いた新聞には、従軍記者の社説が翻っていた。

 

『ムスタファ・ケマル大佐の指揮は、烏合の衆に過ぎなかったトルコ兵を、旅順要塞攻略の日本兵の強さに変えた。我が軍の最大の誤算は、トルコ軍に近代兵法を知悉した英雄が存在することを知らなかったことである』

 

「ムスタファ・ケマルか」チャーチルは、社説に目をやってつぶやいた。「俺をクビにしたトルコ人。その名は忘れないぞ」

 

ガリポリ作戦の失敗を受けて、作戦責任者のチャーチル海相は辞職し、続いて保守党のハーバート・アスキス内閣そのものが世論の支持を失い倒壊した。

 

しかし、これは落日のオスマン帝国に更なる試練を与える結果となる。

 

アスキスに代わった自由党連立内閣のデヴィッド・ロイド=ジョージ首相は、有色人種と異教徒に対して病的な偏見を抱く人物だったからである。

 

しかし、多くのトルコ国民はそのことを知らない。首都防衛の大成功を喜び、連日のお祭り騒ぎであった。彼らのヒーローは、何と言ってもムスタファ・ケマル大佐だ。特にジョンクバユル高地での彼の獅子奮迅の敢闘振りは、今では国民の伝説となっていた。

 

首都での戦勝祝賀パレードの後、ケマルは少将に昇進し、パシャ(オスマン帝国での貴人の称号)を名乗ることを許された。皇帝メフメット5世から勲章を授与された瞬間、ケマルは本当に誇らしかった。命がけで努力して来たことが、生まれて初めて報われた形だった。

 

しかし彼は勇気を振り絞り、式典の席で大宰相サイード・ハリムに提言した。

 

「戦争を終わらせましょう。そして、ドイツと手を切りましょう」

 

「なんだって」英雄の意外な言葉に、温厚な大宰相もポカンと口を開ける。

 

「このままでは、祖国は必ず敗北します。ダーダネルス海峡で敵に痛打を与えた今が、最大のチャンスです。今なら、英仏は和平に応じるでしょう」

 

周囲の閣僚たちは白け気分に陥り、そして英雄に冷たい視線を注いだ。どうして、勝ったというのに和平を求めなければならないのだ?

 

「やはり、駄目か」堕ちた英雄は低くつぶやき、そして悲しげに首を左右に打ち振った。

 

終わりの見えない不毛な大戦争は、ますます激しさを増して行く。

 

首都で白眼視された若きパシャの新たな任地は、困難な戦場コーカサスであった。