第十一章 帝国議会の終幕

 


 

 

 

 

ケマルの政治勢力が、アナトリアで日増しに拡大している頃、これに発奮したベルリンの三巨頭は新たな冒険に乗り出そうとしていた。

 

1919年の9月、彼らはベルリンのモアービト刑務所で、一人の政治犯と出会った。その政治犯の名はカール・ラデック。国際的社会主義者である彼は、1919年1月のベルリン社会主義者蜂起の黒幕であった。このとき「スパルタクス団」リーダーのカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは、蜂起の渦中で暗殺されてしまったのだが、なぜかラデックだけが生き残り、刑務所で生活しているのだった。

 

そこには、ドイツ政府の高度な政治判断があった。

 

ドイツ政府は、密かにソ連と同盟を結ぼうと考えていた。その橋渡し役として、高名な社会主義者ラデックには利用価値があったのだ。しかし、ラデックは服役中の囚人だから、彼の代わりに手足となってベルリンとモスクワを往復してくれる人材が必要だった。それも、イギリスやフランスの目につかない人物が。

 

この謀略の黒幕は、ドイツ参謀本部のゼークト将軍である。彼は、大戦末期にイスタンブールに赴任していたので、青年トルコ党の三巨頭と面識があった。彼は、亡命トルコ人たちを秘密の外交官として利用しようとしたのである。三巨頭のカール・ラデックとの会見は、ゼークト将軍の秘策なのであった。

 

もちろん、亡命三巨頭は、単なるお人よしではない。彼らは彼らなりに、この秘策に自分たちの夢を重ね合わせたのである。

 

ドイツとソ連とトルコには、もともと共通の利害がある。三国とも、第一次世界大戦で敗戦国となり、しかも英仏列強から残酷な仕打ちを受け続けているのだ。この三国が密かに協力しあい、窮境を打破するのは、むしろ当然のことと言えた。

 

また、三巨頭は、自分たちが三国間のパイプとなることが祖国の愛国者たちに対する間接的な援護射撃になると考えた。彼らは、しきりにケマルに手紙を出して連帯を呼びかけたのである。シヴァスで苦闘するケマルは、余計な干渉に半ば苛立ちながらも、彼らの友情には感謝の返事を書いた。

 

エンヴェルはそれだけではなく、自らの「汎トルコ主義」の理想実現のためソ連の力を借りようと考えていた。この時期のソ連は、中央アジアで「汎イスラム」ないし「汎トルコ民族」の運動を盛り立てようとしていた。中央アジアの異教徒たちを味方につけることは、イギリスの包囲網を破る上で極めて有効な手段だからだ。それを知ったエンヴェルは、積極的にソ連のために働こうと考えたのだ。

 

1919年の秋以降、ジェマルとエンヴェルは、それぞれ偽名を用いてモスクワへと旅立った。タラートは、ベルリンに残ってこの運動の纏め役となる。

 

ただし、両国の間に横たわるポーランドがイギリス側についていたため、モスクワに入る手段は、船でバルト海を経由するか、飛行機を用いるしかなかった。

 

ここで、ジェマルは海路を用いてバルト三国経由でモスクワ入りしたのだが、エンヴェルは敢えて飛行機に挑戦した。さすがに、楽天的で冒険好きのエンヴェルだけのことはある。

 

しかし、ドイツ軍部が極秘開発中のユンカース長距離輸送機は欠陥品だった。

 

1度目は、ドイツ領を出る直前に墜落。パイロットは即死したのに、客席のエンヴェルは無傷でベルリンに帰って来た。

 

2度目は、リトアニア領に不時着し、不審人物として現地刑務所に収監されたものの、ドイツ人工作員の手引きで脱走に成功した。

 

3度目は離陸して10分後にエンジントラブルで墜落。飛行機の胴体と翼はバラバラになったが、乗員は奇跡的に全員無事だった。

 

4度目も離陸してすぐに墜落。この当時のドイツの技術力は、この程度だったのだろうか。

 

それでも、命を落とさずにベルリンに帰って来られたのだから、エンヴェルは幸運といえば幸運な男だったのかもしれない。

 

驚くべきは、5度目のモスクワ行きも飛行機にチャレンジしたことである。勇気があるというのか、懲りない性格である。この飛行機は珍しく順調に飛行したものの、ラトビア政府に発見され、領内に強制的に着陸させられた。エンヴェルは、現地刑務所に3ヶ月拘留された後、ベルリンに逃げ戻って来た。

 

結局、彼がモスクワ入りしたのは、船と汽車を用いた6度目のことであった。時に1920年8月である。

 

鑑真和上もびっくりの大冒険なのであった。

 

 

 

 

 

英仏の諜報網は、さすがに三巨頭の動きに気づいたが、その狙いまでは分からなかった。まさか、ドイツとソ連を結び付ける秘密同盟の使節だとは、夢にも思わなかったのである。

 

彼らは、スパイを放ってエンヴェルらを逮捕させようと狙ったのだが、戦後の予算不足ゆえスパイの質と量を落とさざるを得ず、企ては全て失敗に終わった。

 

一方、ドイツ参謀本部のゼークト将軍は、エンヴェルたちの必死の働きに満足していた。

 

敗戦国ドイツは、民主的なワイマール共和国に生まれ変わった。しかし、領土と巨額な賠償金を奪われ、軍備も大幅に制限された。その上、「スパルタクス団」などの社会主義者たちは、大規模な反乱を起こして街を血の海に変えて行く。

 

戦前の栄光を知る者たちは、惨めな祖国の姿を前に、屈辱に喘いでいたのである。

 

ドイツ軍部は、虎視眈々と復讐の機会を狙っていた。そんな彼らが着目するのは、ソ連である。

 

国際的に孤立していたソ連も、ドイツとの提携を模索していた。ソ連は、国内の反共勢力のみならず、イギリスとポーランド、さらには日本やチェコに攻められて苦しんでいたのである。

 

もしもドイツとソ連が協力体制を結ぶことが出来れば、互いの国力や軍事力を、極秘のうちに強化できるだろう。

 

そして、ゼークトの最も有能な手駒が三巨頭だった。才気あふれるトルコ人たちは、ベルリンとモスクワ間を取り持って、両国の交渉の進展に貢献したのである。

 

「エンヴェル・パシャは、彼の夢『汎トルコ』に生きれば良い」ゼークトは微笑んだ。「我がドイツは、あくまでも現実に生きる。そして、世界最強のドイツ軍は、完全復活を果たし、やがて再び英仏に雪辱戦を挑むだろう。そのときは、トルコも再び盟友となるだろう」

 

彼の机の前には、いくつもの民間右翼政党のパンフレットがあった。ドイツ軍部は、民間の右翼政党を背後から操って政権を握る青写真を描いていたのだ。

 

そのパンフレットの中には、創設後間もないナチス党の名前もあった。そして、その党員の中に、軍部から送り込まれたアドルフ・ヒトラー伍長がいた・・・。

 

 

 

 

 

エンヴェルがモスクワ行きで悪戦苦闘しているころ、トルコでは総選挙が実施されていた。

 

191912月、「国民誓約」を政策目標(マニフェスト)に挙げる「アナドル=ルーメリア権利擁護同盟」が、皇帝の幇間である「自由と連合党」に圧勝し、第一党になったのである。アナトリアから選出された議員175名のうち116名が、権利擁護同盟からの立候補者だった。

 

「やったぞ!」快哉を叫ぶケマルと仲間たち。

 

一般のトルコ人は、日増しに強まる占領軍の圧迫、特にギリシャの暴行に大いに憤激していた。そんな彼らが、権利擁護同盟を支持するのは当然であった。

 

各市町村に設えられた投票所に、純朴な町人や農民たちが列を作って並んだ。

 

「ケマル・パシャなら、また5年前のようにイギリスを追い払ってくれる」

 

「非道なギリシャ人どもに、思い知らせてくれるはず」

 

「そして、お気の毒なスルタンカリフ様を救い出してくださるだろう」

 

こうした民意に自信を強めた権利擁護同盟は、いよいよ皇帝臨席の正規の国会開催をイスタンブール政府に要求したのである。これは、民族主義者たちが大義名分と伝統的権威を同時に獲得し、合法的に占領軍を追い払う大チャンスだ。

 

占領軍は思わぬ事態に狼狽し、それ以上に皇帝がうろたえた。独裁志向の強いメフメット6世は、このままでは自分が議会の傀儡にされてしまうのではないかと恐れたのである。彼は議会に操られる大きな帝位より、外国の保証を受けられる小さな帝位を愛していた。

 

ここで、皇帝の懐刀とも言うべきダマト・フェリトが助言した。「国会をイスタンブールで開くことにすれば、占領軍の圧力で議会を弱めることが出来るのではないでしょうか?」

 

「なるほど」皇帝は笑顔でうなずき、「新たな定期国会は、あくまでも首都イスタンブールで開催されるべきだ」と権利擁護同盟に訴えたのである。

 

「これは、罠だ」アンカラの街に滞在中のケマルは言った。「国会は、占領軍に邪魔されない自由な街で開催されるべきだ。皇帝は、自らの意志で首都を抜け出して来るべきなのだ。私のこの信念は変わらぬぞ」

 

しかし、カラ・ヴァースフやヒュセイン・ラウフをはじめとする旧「青年トルコ党」幹部たちは、ケマルのこの頑なな姿勢を批判した。

 

「正規の国会が、首都で開催されるのは当然のことだ。スルタン陛下の主張は、まことに筋が通っている。それを拒んでいるうちは、我が権利擁護同盟とその政策が、この国の第一党になったことを国民に理解してもらえないですぞ」

 

ケマルは、彼らの意見を注意深く聞いた。

 

確かに、理には適っている。

 

ケマルと彼らの考え方の違いは、皇帝に対する信頼の強弱であり、占領軍に対する甘えの深浅であった。そして「権威」不足の今のケマルには、皇帝の善意を信じる議員を押さえることが出来なかった。

 

こうして、1920年1月の定期国会は、首都イスタンブールで開催されることになったのである。

 

 

 

 

 

議員たちが次々にイスタンブールに去って行く最中の19191227日、ケマルと仲間たちは、アンカラの街に本拠地を移すことにした。

 

かつてアンキラと呼ばれていたアンカラは、古代ローマ帝国の時代から栄える歴史の古い街である。四囲を山々に囲まれた広大な盆地は、古代から良質の天然水を産すること知られ、また、四方に道路が伸びる交通の要衝でもあった。

 

この地は1402年、勃興間もないオスマントルコ帝国と東方の覇者チムール帝国が、一大決戦を戦った古戦場でもある。この時、オスマン軍は壊滅的敗北を喫し、皇帝バヤジットが捕虜となる有様だった。それでもオスマン帝国が滅亡を免れたのは、チムールの戦略目標が東方の制覇にあったためだ。彼が、止めを刺さずに全軍を率いて明朝(中国)討伐に向かったため、オスマン帝国はかろうじて命脈を保ったのである。

 

ケマルは、因縁のこの地に権利擁護同盟の本部を置くことにした。アナトリア中央部のここなら外敵の侵攻に対処しやすいし、各地への通信連絡も容易だ。しかも、皇帝権力や宗教勢力からの干渉も遮断できる。

 

ただし、当時のアンカラは、人口わずか2万人の田舎町に過ぎなかった。

 

ケマルは、イスタンブールに手紙を送り、母や姉夫婦をこの地に呼び寄せることにした。彼には予感があった。いつか必ず、イスタンブールとは流血の関係になるだろうと。

 

彼は、踊り子のザラにも手紙を書きかけた。ペラ地区には多くの愛人がいるが、忘れられない面影はザラだけだ。彼女は、真剣に自分を心配してくれるから。しかし、途中で書くのをやめた。大都市の繁華街で生計を得る女が、アナトリアの田舎町で暮らしていく手段はない。かといって、彼女と結婚する気はさらさら無かった。

 

「まあ、なるようになるだろう」

 

今のケマルには、大好きな酒や夜の女のことを考える余裕はほとんど無かった。刻一刻、山積みとなった問題の対処に追われている。

 

それにしても、多くの議員に去られたのは、権利擁護同盟にとって大打撃であった。一般の民衆からすれば、皇帝の招きに応じようとせずアンカラに残った少数の議員たちは、無法な山賊のように見えるだろう。下手をすると、大義名分も民意も失われてしまう。ケマルは、「執務多忙につきイスタンブールに行けない」という口実を設けるため、この微妙な時期にアンカラに移転したのであった。

 

「ヒュセインもヴァースフも、そのうち思い知るだろう」ケマルは、宿舎に選んだ農業学校の私室で、アリフとレフェトに語った。「皇帝の真意はともかく、占領軍の影響下で『国民誓約』を決議するのは、無謀以外の何物でもない。彼らは、事態を楽観視しすぎているのだ」

 

「みんな、フェトヒ少将のような目にあうのでしょうか?」アリフは頬を引き締めた。「マルタ島に島流しでしょうか?」

 

「もっと悪いかもしれないぞ」ケマルは眼を光らせた。「殺されるかもしれない」

 

「そうなったら、パシャはどうしますか?」レフェトが唾を呑み込む。

 

「戦うしかないだろう。カラベキルとアリー・フアトが頼りだ。首都のイスメットにも来てもらおう。陸軍省勤務のフェヴジとも話がついているし、トラキアのタヤル将軍も、もう一押しで味方につく」

 

「また戦争ですか」アリフは吐息をついた。

 

「これが、最後の戦争だ」ケマルはつぶやいた。彼も本当は、戦争はもう懲り懲りなのだった。だが、仕方ない。黙って奴隷にされるよりは、戦って死んだほうが良い。

 

「援軍は、期待できませんか?」レフェトが吐き出すように言った。「外国は、我が国の状況をどう思っているんでしょうか」

 

「シリアのアラブ人は、我々に好意的だ。アフガニスタンやペルシャも、味方につくかもしれない」

 

アリフとレフェトは肩を竦めた。とても、白人列強との戦いで頼りになるとは思えない。

 

ケマルは、執務机の便箋受けに目をやった。最上段に乗っているのは、ベルリンのタラートからの手紙だった。ジェマルとエンヴェルが、モスクワに向かったとの内容だ。

 

「祖国の天敵、ロシアに加担しようとは、なんという無節操な奴らだ」ケマルはつぶやいた。「と、最初は思ったが、冷静に考えればこれは妙手かもしれない」

 

彼は、手紙を手に取った。

 

ソ連との同盟は、唯一の魅力的な打開策であった。

 

 

 

 

 

1920年が明けると、イスタンブールに全国各地から国会議員が集まってきた。

 

定期国会に出席するためである。その中には、ヒュセイン・ラウフやベキル・サミ、そしてカラ・ヴァースフとそのシンパもいる。

 

彼らは、敗戦後の不安からついに解き放たれ、今や新たな希望に胸をいっぱいにしていた。

 

「国民誓約」。

 

トルコには民族自決権があり、独立国家として立派にやって行けるはず。占領軍による治安の維持なんてもう要らない。彼らには、速やかにおさらば願おう。そして我々は、スルタンカリフを師と仰ぐイスラム世界初の立憲民主主義国家として再生するのだ。

 

彼らの考えは、まったく正しかった。

 

しかし、正しい考えが常に通るほど、この世の中は成熟していない。この世界は道義や善意に溢れてはいない。そんなものは、簡単に廃れてしまう。

 

議員たちは、国会の中でケマル・パシャの姿を探した。祝福の言葉を捧げようと思って、トルコの救世主の姿を求めた。

 

しかし無駄だった。

 

ケマルとその親しい仲間たちは、アンカラに腰を据えたまま動かなかったのである。そもそも、昨年に出された皇帝による「ケマル逮捕命令」は、未だに撤回されていなかったのだ。

 

1月12日、定期国会は皇帝メフメット6世の正式開会宣言で幕を開けた。9週間にわたる会議の開幕である。続いて、ケマルからの歓迎メッセージの電報が、ヒュセインによって読み上げられた。奇妙なことに、これは政権与党の党首が不在の国会なのである。

 

何人かの議員は、皇帝にケマルへの恩赦を願い出た。あるいは、ケマルをこの国会の議長に任命してもらおうとした。議長になれば、逮捕を免れるからである。しかし、皇帝はこれらの要求を黙殺した。いつものように、両目をぎゅっと瞑って。

 

それでも、国会の大会議場に集う200名を越える議員たちは、2月の第2週、満場一致で「国民誓約」を承認した。満座の熱狂は、すさまじいばかりだった。彼らは信じていた。この理想に、皇帝は共鳴してくれる。イスラムの長老も心を合わせてくれる。そして、一緒に占領軍に立ち向かってくれるだろうと。

 

確かに、国会の最上段に座る皇帝と、その横に座るイスラムの長老は、終始上機嫌だった。いや、確かにそう見えた。この時ばかりは。

 

国会の熱狂は、地方に波及した。各地で占領軍に対するゲリラ戦が活発になり、アナトリアに駐留するギリシャ軍やフランス軍やイタリア軍の中には、予期せぬ大損害を蒙る部隊も出てきたのである。イスタンブールでも、イギリス軍の兵器庫が何者かに襲われ、大量の銃器が強奪された。

 

この情勢を前に、フランスとイタリアは及び腰になった。もはや、トルコの分割解体は不可能なのではないか?速やかに、占領軍を撤退させたほうが良くはないか?フランスとイタリアは、長期に及ぶ第一次世界大戦で、国内経済が疲弊しきっていた。彼らには、トルコととことん張り合う気力など無かったのである。

 

イギリス国内でも、世論が割れた。明らかに、トルコ民族主義者たちの主張である「民族自決」に大義があるからだ。それに、イギリスだって、戦争で疲弊していることには変わりない。

 

しかし、ロイド=ジョージ英首相は、頑なだった。彼は、ダーダネルスとボスポラス両海峡を支配し、世界の一大ターミナルを掌握することこそ大英帝国の国益だと信じていたのである。彼は、弱気になったフランスとイタリアを叱咤した。そして、パリでなおも続く講和会議の席で、トルコ分割を最終決定する国際条約を練ったのである。この条約をトルコ皇帝に押し付けさえすれば、「トルコ分割」政策こそが国際的な大義となり、イスラム教徒の山賊どもが吼える幼稚な「民族自決」など、どこかに消し飛んでしまうだろう。

 

この理不尽な野望に反対できる唯一の大国はアメリカだった。

 

しかしアメリカは、自国が提案した「国際連盟」が成立したことに安心してしまい、1920年1月にはパリ講和会議から離脱していたのである。当時のアメリカは、モンロー主義を取っていて、あまりヨーロッパのことに口出ししたくないのだった。

 

こうして、独走状態になったイギリスの野望は、新たな悲劇を生むことになる。

 

トルコ人を蔑視する彼の政策は、越えてはならない一線を踏み越えた。

 

 

 

 

 

1920年3月16日、イスタンブールの臨時国会は、熱意に燃える議員たちでいっぱいだった。彼らは、租税政策と農業政策について議論を交わす予定だった。

 

午前10時、海岸を散歩していた市民たちは驚愕した。マルマラ海に網を投げていた漁民たちは狼狽した。

 

兵員を満載した輸送船が、ダーダネルス海峡を抜けて突進して来たからだ。桟橋に横付けした甲板から、完全武装のイギリスの兵士たちが次々に波止場に駆け下りて整列と点呼を始める。それが終わり次第、軍靴を高らかに鳴らしながら国会議事堂と陸軍省に向かって走り去った。

 

この日、動員されたイギリス軍は、陸軍2個師団、海兵1個大隊と補助兵力を含め、総勢10万人を超えたと言われる。

 

国会に乱入した兵士たちは、「ケマル派」と見なされる議員たちに襲い掛かり、問答無用に逮捕したのである。別の一隊は、陸軍省を占拠して、同じく「ケマル派」と見なされた軍人や官僚たちを逮捕し、機密書類を押収した。これに抵抗した者は、容赦なく射殺された。

 

「何が起きたというのだ」国会に出席していたヒュセイン・ラウフ議員は、2人の若いイギリス兵に銃を突きつけられながら、この事態の意味を図りかねていた。なぜ、平和で民主的な国会に外国の軍隊が攻め込んで来たのか。とても、常識では考えられない。

 

彼は、上座を見た。

 

皇帝は、イギリスの兵士たちに笑顔を向けていた。イスラムの長老も同じだった。皇帝は、イギリス軍の指揮官に向かって唇を動かした。その動きは、「ありがとう」と読み取れた。

 

「そうだったのか・・・」

 

ヒュセインは唇を咬んだ。

 

皇帝は、議会制民主政治など、もともと望んではいなかったのだ。ケマルの言ったとおりだったのだ。

 

彼の頬を、悔し涙が後から後から彩った。

 

この日、150名を超える議員、将校、高級官僚が拘留され、囚人同然にイギリスの輸送船に押し込められた。その行き先は、「植民地の政治犯」専用の牢獄が置かれたマルタ島であった。イギリス政府は、すでにトルコを自国の植民地と見ていたのである。

 

メフメット6世は、「暴徒の群れから救い出してくれたこと」をイギリス政府に深く感謝し、そして4月11日、帝国国会の無期休会を宣言した。この瞬間、オスマン帝国の議会政治は永遠に崩壊したのであった。

 

・・・貧ずれば鈍ずるとは、このことだろうか。

 

一方、劣悪な環境の中を海に揺られて2日間、ヒュセイン・ラウフやカラ・ヴァースフら虜囚たちは、ようやく地中海に浮かぶマルタ島に到着した。ヴァレッタ港の波止場に、あたかも荷物のように引きずり出される。

 

ヒュセインは、久しぶりの陽光に霞む目を大きく見開いた。

 

向こうの桟橋から降りてきた囚人たちに見覚えがある。誰だっけ、ああ、思い出した。エジプト(イギリスの委任統治領)で出会ったザクルール議員だ。彼はエジプト独立運動の指導者になったと噂に聞いていたが、そうか、彼も政治犯になったというわけか。

 

ヒュセインは笑った。

 

ようやくこの世の真実の一端に到達したぞ。

 

これが、「太陽の沈まない帝国」イギリスの正体なのだった。

 

意に染まない者に暴力を加え、そして犯罪者に仕立て上げて隷属させる。それこそがイギリスの栄光の正体なのだった。