第十二章 アンカラ政府誕生

 


 

 

 

 

イギリス軍の国会強襲から、かろうじて逃れることが出来た民族主義の議員は約30名。彼らは、沿岸の小船に飛び乗って、命からがら小アジアへと旅立った。この上は、ケマル・パシャしか頼れる者はいない。

 

「皇帝は、議会の無期休会を宣言しました」アンカラに辿り着いたベキル・サミ議員は、涙ながらにケマルに報告した。「皇帝に裏切られた以上、もはやこれまでです。トルコの民主主義は、もう終わりです」

 

「何を言うのだ!」ケマルは叱咤した。「いつか、こうなることは分かっていた。これからが始まりなのだ!」

 

その言葉を象徴するかのように、占領下の首都から次々に有為な人材がやって来た。

 

陸軍省に詰めていたイスメット大佐は、居合わせたフェヴジ少将とともにビルの窓から飛び降りて敵の目をくらますと、一緒にアンカラへの逃走に成功した。親友イスメットはこれまで、ケマルのためにイスタンブールの情勢を内偵していたのだった。そして、名戦略家イスメットと軍政の専門家フェヴジの合流は、やがてケマルの運動を成功に導く導火線となる。

 

優秀な同志の参加によって力づけられたケマルは、いよいよ決意した。

 

今度こそ、オスマン帝国皇帝と西欧列強との正面対決は避けられない。

 

彼は、占領軍への攻撃命令を各地に発したのであった。

 

まずは、トルコ各地の鉄道を管理するイギリス人弁務官と、それを護衛するために各市町村に駐屯している少数のイギリス部隊が標的である。カラベキルやアリー・フアトの軍勢は迅速に動き、これら弱体な敵を各個撃破し、弁務官たちを捕虜にした。彼らは、マルタ島に収監された国会議員と交換するための貴重な人質要員になるだろう。

 

次の攻撃目標は、西欧列強の進駐軍である。

 

この当時、トルコの固有の領土内には、「サイクス=ピコ協約」など戦時中に決められた縄張りに従って、西欧列強の軍隊が駐留していた。

 

イギリス軍は、イスタンブール周辺に加えて、サムソンやトラブゾンなど黒海南岸の沿岸都市に5万名(国会強襲に際して臨時動員された兵力を加えるなら12万名)。

 

フランス軍は、シリアに隣接するアナトリア南部のキリキア地方(アダナ、マラシュ市など)に3万名。

 

イタリア軍は、ロードス島とその北方に隣接するアナトリア南西部(アンタリア、コンヤ市など)に5千名。

 

ギリシャ軍は、アナトリア西部のスミルナ市とその周辺地域に2万名。

 

総計で10万7千といわれる外国の軍勢が、トルコに居座っているのだった。

 

ケマルは、マラシュ市のフランス軍を最初の標的に選んだ。その理由は、フランス軍の後背地シリア(結局、フランスの植民地になった)で、大規模なアラブ人の反乱が起きたからである。ファイサル王子が率いるアラブの人々(その多くは、もともとオスマン帝国の将兵)は、第一次大戦の結果、独立国を持てると信じてトルコを裏切った。しかし、その希望はフランスによって奪われたのだから、激怒した彼らが反旗を翻すのは当然であろう。慌てたフランス軍は、キリキア地方に駐屯させていた軍を、次々にシリアに転出させて行ったのである。

 

ケマル軍3万の総攻撃は、現地ゲリラやアラブ人と連絡を取り合った上で敢行され、油断していたキリキアのフランス軍は、あっという間に包囲されてしまった。

 

 

 

 

 

「なんだって!」アレクサンドル・ミルラン仏首相は、情報将校の報告に唇をわななかせた。「もう一度、もう一度言いたまえ」

 

「マラシュに駐屯していた我が軍は、敗走いたしました。死傷者300、捕虜になった者は1000名を越えております」若いフランス人将校は、白い顔を激しく緊張させて報告を繰り返した。

 

ミルランは、同室のロイド=ジョージを睨み付けた。ここは、パリ講和会議の席上なのであった。

 

「英首相閣下、確かあなたは、『トルコには山賊しかいない』と太鼓判を押しておられたが、これはいったいどういうことですかな?我が正規軍を敗走させる実力の持ち主が、どうして山賊なのでしょうか」

 

するとロイド=ジョージは、頬を真っ赤にして怒鳴った。

 

「我が英国情報部は、何をしていたのだ!莫大な国家予算を貰っていながら、トルコの実情を把握できなかったとは、何という無能。恥を知れ!」

 

ミルランは、相手の剣幕に鼻白んで、それ以上は突っ込めなくなった。

 

他者に責任転嫁して誤魔化すのは、ロイド=ジョージの得意技なのだった。

 

急いで会議を退席したミルランは、外相ジョルジュ・ピコを首相官邸に呼び寄せた。彼は命じた。トルコと停戦協定を結んで、捕虜を返してもらうようにと。

 

フランスは、もはやイギリスとロイド=ジョージには付いていけないと感じていた。ミルランは、3月のイスタンブール占領すら道義的に嫌悪感を抱いたのだ。第一、先の大戦で疲弊しきったフランスには、中東で新たな戦争を始める余裕などない。

 

「シリアの保持すらおぼつかないのに、トルコ領キリキアなど話にならない。そんな場所、我が国の国益には何の足しにもならぬわ」フランス首相は、執務机の上に頬杖をついた。

 

 

 

 

 

イタリアも、フランスと良く似た立場だった。

 

この国が、第一次大戦で協商国側についた理由は、オーストリア帝国の領土を獲得できると信じたからだった。イギリスとフランスは、確かにそれを実現させると言明した。しかしその後、アメリカ大統領が「民族自決」を言い出したために、イタリアが欲した領土は、すべてユーゴスラビアとかアルバニアとか名乗る新しい国のものになってしまった。これは、裏切りに他ならない。何のために、経済をガタガタに疲弊させてまでして、愚かな戦争に参加したのだろうか。

 

仕方ないので、トルコの領土で我慢しようとしたら、やっぱりアメリカやイギリスが屁理屈を言い出した。その結果、イタリアが獲得できたのは、ロードス島とその北に広がる小アジア南西部のみ。エーゲ海の島々もスミルナも、みんなギリシャのものになってしまった。どうしても納得が行かない。不公平だ。

 

そんな中、ケマル派ゲリラの反撃作戦が開始された。小アジア南西部の都市コンヤ周辺で戦闘が起き、厭戦気分の強いわずか2個大隊のイタリア軍は、成すすべもなく敗走したのである。

 

これを見たイタリア政府は、フランスと同様、ケマルに休戦を求める使節を送ることに決めた。

 

イタリア外相カルロ・スフォルツァ伯爵は、かねてよりトルコに同情的だった。彼はイギリスやギリシャを敵視しており、将来のためにはむしろトルコとの関係を強化するべきだと考えていたのだ。

 

その上で、イタリア本国の国威と経済力を高めなければならない。さもないと、政権が持たない。

 

伯爵は、心配そうにミラノの空を見つめた。

 

そこでは、右翼の大立者ベニト・ムソリーニが、政府を転覆させるべく画策を重ねているのだった。

 

 

 

 

 

1919年末から1920年夏にかけて、ケマルは、アンカラを訪れたフランスとイタリアの外交使節と数度にわたって会談した。

 

その結果フランスは、トルコ軍が鹵獲した武器弾薬のトルコ軍への無償引渡しを条件に、捕虜を全員釈放してもらう約束を取り付けた上でマラシュ周辺から後退した。

 

イタリアは、コンヤ周辺からの撤退を条件に停戦協定を取り付けた。

 

また両国とも、3月のイスタンブール占領はイギリスの独断専行であって、自分たちはいっさい無関係だとケマルに言明したのである。

 

こうして、フランスとイタリアは、トルコの分割政策から脱落したのであった。

 

しかし、それでもパリでは、トルコを分割解体するための国際条約作りが急ピッチで進められていた。英首相ロイド=ジョージは、国際条約を完成させてこれをトルコ皇帝に承認させることが出来れば、ケマル一党も屈服するだろうと考えていたのだ。

 

フランスとイタリアは、すっかり白けていたが、表向きはこれに同調する態度を示していた。彼らは、この時点ではイギリスと敵対したくなかったからである。しかし、ピコ外相やスフォルツァ外相は、密かに交渉の経緯や国際情勢の裏事情について、アンカラのケマルに内報し続けた。両国は、今ここでトルコに恩を売っておけば、いずれ通商上の特権を得られるだろうと皮算用したのである。

 

いわば「二重スパイ」とも言える立場の両国から貴重な情報を得て、ケマルの自信は高まった。彼は、西欧列強の心がバラバラであり、しかも、トルコに向かって行使できる軍事力すらおぼつかないことを知ったのである。

 

西欧列強の植民地政策は、すでに行き詰まりを見せ始めていた。「民族主義」の波が中東全域を覆い、この激流はもはや止められそうにもない。フランスとイタリアは、それに気づき始めていた。しかし、最大の植民地帝国であるイギリスは、それに気づかなかった。いや、気づきたくなかったのだ。それを認めることは、大英帝国の栄光が終焉することを意味したからである。

 

 

 

 

 

イスタンブールで夕日が沈むころ、アンカラでは新たな太陽が昇りつつあった。

 

ケマルは、積極的に軍事行動を進め外交活動を強化する一方で、権利擁護同盟の影響圏内で再び総選挙を行った。イギリスに拉致されて欠員となった議員を補充するためである。ここで新たに立候補したのは、もともと抵抗運動を組織していたゲリラのリーダーたちであったから、新しい議会は民族主義一色に染め上がった。

 

そして、イギリスによる逮捕を免れた既存の議員88名は、ケマルの呼びかけに応えて全国各地からアンカラに集合し、そして新たに選出された198名の議員たちに合流した。しかし、アンカラには286名もの人数を収容できる建物が無いので、議会は公民館の庭園、すなわち野外で立ったままで行われたのである。降り注ぐ陽光の下でも、愛国者たちの議論は熱気を帯びる。

 

4月23日、「大国民議会政府」と名乗った彼らは、国家評議会議長にケマル・パシャを任命した。また、11人の閣僚からなる内閣を立ち上げたが、最初のうちは「首相」を設けず、ケマル自身はあくまでも議長の地位に留まった。これはスルタンカリフ、というよりも議会内の保守派に気を遣っての措置である。

 

最初の閣僚は、次のとおりであった。

 

外相ベキル・サミ、内務相キャミ、宗教相ムスタファ・フェフミ、国防相フェヴジ、参謀総長イスメット、公共事業相イスマイル・ファジル、財務相ハキ・べヒチェ、司法相ジェマルディーン、通産相ユースフ・ケマル、厚生相アドナン博士。

 

ケマルは、かえって仕事がやり易くなった。なぜなら、ヒュセイン・ラウフやカラ・ヴァースフら旧「青年トルコ党」の実力者は、ことごとくマルタ島に送られてしまったからである。ここに、彼の膝元の抵抗勢力は、ほとんどが沈黙した。イギリスの暴挙は、ケマルにとっての追い風となったのだ。

 

ケマルは、この情勢を受けてついにカラコルを解散させた。その代わりに「国民擁護団」を結成し、これを完全にアンカラ政府に従属させたのである。これは、タラートやエンヴェルらの海外からの干渉を排除するための布石であった。

 

ここにアンカラ政権は、名実ともにイスタンブール政府からも「青年トルコ党」からも独立した単独の政府となったのである。

 

新しい議員たちは、もはや皇帝にもイスラムの長老にも、何の期待も幻想も抱いていなかった。アンカラ新政府は、イスタンブール政府の存在を全面的に否定し、従来の「国民誓約」に加えて次のような声明を発したのである。

 

 

一、トルコの主権者は、あくまでも国民である。

 

二、外国人の虜囚であるスルタンカリフには、今や何の能力も無いものと見なす。従って、スルタンカリフと彼の議会によって出された命令は、すべて無効である。

 

三、外交や内政に関する諸権利は、アンカラ政府のみにある。従って、国際会議に参加し国際条約の締結を行うのはアンカラ政府である。立法、行政、司法に関する諸権利もアンカラ政府にある。徴税権ももちろんである。

 

四、アンカラ政府は「国民軍」を擁する。その交戦権は、議会にある。

 

五、スルタンカリフは、彼が甘んじて屈服している強権から解放され次第、可及的速やかに、議会が定めるやり方で、憲法に準拠してその地位を定められるだろう。

 

 

ケマルは、この声明を発した後、両目を閉じて沈思した。

 

予想される皇帝の反撃は、彼にとって恐るべきものだったからだ。

 

「これからが、真の正念場だ。これを乗り切れるか否かで全てが決まるだろう」