第十三章 悪夢の包囲網

 


 

 

 

 

1920年の断食月(ラマダーン)に際して、メフメット6世は新たな趣向を考えた。

 

彼は、断食月が始まってから最初の金曜礼拝(セラームリク)に、白馬に乗って颯爽と現れたのである。アヤ・ソフィアに集う敬虔な信者たち1万人は、60歳の皇帝の意外な若々しさに歓声を送った。

 

なお、断食はイスラム教の重要な儀式である。イスラム暦の第9月、新月から次の新月までの一ヶ月間、日中は飲み食いをしてはならないという儀式なのだ。断食月の間は、日の出から日の入りまで本当に何も口に入れることが出来ない。そのため、肉体労働は事実上休業になるし、オフィスも3時間勤務体制になる。みんな、太陽を見つめつつ腹をグウグウと鳴らしながら生活するのである。その代わり、夜になったら一日分の食事を腹に詰め込むのだから、かえって健康に悪そうだ。

 

異教徒から見たら、実にバカバカしい儀式である。しかし、これはイスラム教の哲学からすれば理に適っているのだ。イスラム教は、人間は常に神に感謝していなければならないと教える。だからこそ、あえて日中の空腹と喉の渇きに耐えることで、食事が出来ることの幸運と神の有り難さを思い、それと同時に、貧しい人々の苦労にも思いを馳せるのだ。カネとモノの魅力に心を食われた現代の日本人には、とても理解できない考え方であろうけど。

 

話を戻すと、皇帝がポピュリズム的な振る舞いで民衆の心を掴んだのは、単なる酔狂ではない。彼は、憎きケマル一派を打倒するため、「宗教戦争」を起こそうと考えていたのだ。イスタンブール市民の宗教心を煽ったのは、そのための伏線に過ぎない。

 

礼拝を終えてドルマバフチェ宮殿に戻ったメフメット6世は、大宰相に返り咲いたばかりの寵臣ダマト・フェリトが用意した皇帝勅書に満足げにサインした。

 

それは、ケマル・パシャの軍籍を剥奪し、そして彼とその同調者に欠席裁判での死刑を宣告する内容であった。

 

皇帝は、占領軍の高等弁務官ジョン・ド・ロベクに語った。

 

「ケマルはトルコ人ではありません。顔を見れば分かるとおり、あれはセルビアの山賊の血を引くゴロツキなのですよ。トルコ人みんなが、あのような輩だと思われたら心外です」

 

さらに(太陽暦の)5月8日、イスラムの長老は荘重な面持ちで法的見解(フェトワー)を発した。これは、俗世のトルコ帝国が発した法令ではなく、神聖なるカリフが全世界のイスラム教徒へ向けて発した通達を意味する。

 

法的見解はこう言った。

 

「ケマル・パシャとその一党は、アラーに対する反逆者であるから、敬虔なイスラム教徒は反逆者を地上から抹殺すべきである!」

 

この瞬間、アンカラの「大国民議会政府」の一同は、皇帝の権威のみならず全世界3億人のイスラム教徒を敵に回したことになる。

 

法的見解は、いわば、皇帝の伝家の宝刀であった。

 

前述のように、オスマントルコ帝国は政教一致の社会であった。これは、イスラム教の戒律や法的見解が、俗世の政治に優越することを意味する。つまり、政治の現場でどんなに立派な法案を通したとしても、イスラムの長老による鶴の一声で全てが無効にされてしまうのだ。たとえば、裁判官が法廷で殺人犯に有罪宣告したとしても、イスラムの長老の法的見解がそれを否定すれば、殺人犯は無罪となるという奇妙な社会がイスラムなのだった。

 

こんなことをやっているから、オスマントルコ帝国は衰退を止めることが出来なかったのである。だから今、西欧列強に分割されかけているのである。

 

しかしながら、己の既得権益の維持しか頭にないメフメット6世とイスラムの長老には、そんなことはどうでも良かった。

 

ケマルに襲い掛かる最大の難敵は、西欧列強の軍事力ではなかった。600年にわたって続いて来た祖国の悪しき伝統なのである。

 

4月30日、ケマル一党を抹殺するために、皇帝の旗の下で「カリフ擁護軍団」が結成された。アナトリア西北部に強勢を誇るチェルケス人酋長のアフメット・アンザブルの兵団が、この「カリフ擁護軍団」の主力となった。彼の下に集った信心深い農民や漁民たちは、法敵ケマル一味を皆殺しにするまでは家に戻らない決意であった。

 

この情勢を前に、アンカラをはじめ、大国民議会政府の勢力圏内でも、多くの民衆が離反した。彼らは軍務を解き、そして納税を拒否した。ひどい場合には、山岳地帯に立てこもってゲリラや山賊になった。信仰心の篤い純真な者ほど、激しい闘志でケマルの敵に回ったのだった。

 

 

 

 

 

「予想はしていたが」ケマルは、悔し涙を浮かべた。「皇帝はここまで腐っていたのか。同じトルコ人同士をわざと殺し合わせるなんて、それでも国家の責任者と言えるのか」

 

しかし、気を取り直した彼は、かねてよりの手はずどおり、宗教相ムスタファ・フェフミに命じて大国民議会に心を寄せる聖職者152名を招集し、アンカラ政府サイドの「法的見解」を発布させたのである。その内容は、「イスタンブールの皇帝とイスラムの長老は、占領軍の虜囚なのだから、彼らの発した法的見解は無効である。むしろ、虜囚となった皇帝を救出することこそ真のイスラム教徒の義務である。そして、君側の奸ダマト・フェリトは、国籍を剥奪されるべきである」と言うものだった。

 

幹部クラスの動揺は、なんとかこれで押さえ込めた。しかし、アンカラの法的見解は、民衆や兵士たちに対しては、ほとんど役に立たなかった。ケマルの知恵も、600年の伝統を持つカリフの威信の前には、蟷螂の斧だったのだ。

 

こうして、各地で「カリフ擁護軍団」と「ケマル派」が血みどろの殺し合いを開始した。宗教がからむ争いは常にそうだが、この殺し合いは酸鼻を極めた。特に、宗教的狂熱に犯された「カリフ擁護軍団」の蛮行は凄まじく、ケマル一味と見なした者を斬首し、あるいは生きたまま焼き殺すのだった。

 

これに乗じて、1920年6月19日、スミルナのギリシャ軍が東進を開始した。これは、ロイド=ジョージと、ギリシャ首相ヴェニゼロス間の密約に基づく軍事行動であった。ギリシャ軍は、「カリフ擁護軍団」と歩調を合わせ、瞬く間にブルサなどの重要都市を占領する。これに呼応して、イギリス軍もアナトリア西北部や黒海南岸に展開した。 シリアの「反乱」を鎮定したフランスも、この動きに同調して再びキリキア地方に侵攻した。

 

これを迎え撃つべきアナトリア西部の軍事組織は、まだアンカラ政府のもとに一元化されていなかった。小規模な遊牧民のゲリラが、相変わらず勝手に行動していたのである。しかも、その多くが「カリフ擁護軍団」に内通していた。これでは、列強の攻勢の前に一たまりもない。

 

焦るケマルは、アリー・フアトの第20軍団に命じてコンヤ方面に展開する「カリフ擁護軍団」の主力を討伐させた。しかし、新編成の第15師団と第24師団は、行軍中に戦わずして壊滅した。部隊内部に、寝返りが続出したからである。

 

一方的に押されまくる味方の有り様に、ケマルと仲間たちは意気消沈した。これで、ただでさえ乏しい新政府の権威が、ますます低落することは必定だった。

 

脅威は西だけではない。アンカラの東方では、新しく誕生したアルメニア人の独立国が、イギリスから武器援助を受けて敵対行動に出ていた。彼らは、同胞を虐殺した恨み重なるトルコ人を決して許しはしなかったのだ。

 

この情勢を見て、クルド人の諸部族も反乱に立ち上がる。

 

エルズルムに座すカラベキル軍は、必死にアルメニア軍とクルド軍を押さえ込んだのだが、さすがの名将も兵力不足ゆえ、防戦一方の情勢だ。

 

今や大国民議会政府は、皇帝とイギリスとフランスとギリシャとアルメニアとクルドによって、万力のように四方八方から締め付けられていた。トルコの愛国者たちは、イギリスが設えた巨大な檻の中で息も出来ずに苦しんでいた。

 

ケマルは、心労のあまり夜も眠れなくなった。深酒はますますひどくなり、しかも食事が喉を通らない。色白の顔はますます白くなり、頬はこけた。

 

「祖国は、全世界から孤立している。このままでは、蟻のように圧し潰されてしまう。こうなったら、なりふり構わない。なんとしてでも同盟者を見つけなければ」

 

彼は、5月にモスクワに派遣した外交特使ハリル・パシャに手紙を書いた。ソ連との同盟条約の締結を急いでくれるようにと。

 

しかし、エンヴェルの叔父であるハリル・パシャは、とっくにケマルを裏切っていたのである。

 

 

 

 

 

「裏切り」という言葉を使ったが、もともとアンカラ政府は同床異夢の集団であった。

 

愛国者たちの共通項は、「占領軍を国外に叩き出したい」という願望一点のみである。それ以外のこと、たとえばトルコ国家の将来の政治体制をどうするかについては、百家争鳴状態であった。

 

たとえば、「青年トルコ党」の残党は立憲君主制を復興したいと思っていたが、議員の中には共和制を志向したり、アメリカの委任統治を期待したり、あるいはソ連と組んで社会主義をやりたい者たちがいた。

 

こうした混乱は、リーダーであるケマル議長が、はっきりと自分の政見を口にしなかった事にも原因がある。ケマル自身は、共和制主義者であり、政教分離主義者であり、自力再生主義者であった。しかも、戦争が終結したらスルタン一族を海外に追放したいと考えていた。しかし、こうした考えはあまりにも革命的だったため、これを公にすると、却って議会を混乱させ、アンカラ政府の力を弱めてしまう恐れがある。だから彼は、自分の政見を口に出来なかったのである。

 

成功した反乱、すなわち革命は、しばしば景気の良いスローガンを最大の武器とした。フランス革命の場合は「人民の自由と平等」、ロシア革命の場合は「万国のプロレタリアートの団結」、明治維新の場合は「尊皇攘夷」。しかし、こうしたスローガンは、革命の成功後に裏切られるのが普通である。フランス共和国はナポレオンという「皇帝」を抱くようになったし、ソ連は専制帝国に堕したし、明治政府は攘夷をやめて開国した。なぜなら、スローガンそのものが、最初から実現不可能な「夢想」だったからである。しかし、同床異夢の人々が団結して膨大なエネルギーを発揮するためには、接着剤あるいは興奮剤として、しばしば巨大な「夢想」を必要とする。

 

かつて、エンヴェルが「青年トルコ党」で権勢を振るい人望を集めた理由は、彼の持論である「汎トルコ主義」が、こうした意味での「夢想」だったからである。

 

これに対して、ケマルという革命家のユニークな点は、「夢想」を提示しようとしなかったことである。彼が人々に提示するのは、たとえば「国民誓約」のような、悪く言えば官僚的で事務的な条文に過ぎなかった。この傾向は、終生、変わることがないだろう。

 

ケマルは現実主義者だったため、最初から実現不可能な「夢想」を考案することが出来なかった。そして、生真面目な性質の持ち主だった彼は、自分が信じることが出来ない夢想を、政策的に他人に提示しようとは思わなかったのだ。彼は、あまりに聡明で、あまりに誠実だったのである。

 

しかし、そのことがアンカラ政府内に恒常的な不協和音をもたらしたのは皮肉である。

 

不協和音の原因は、実はケマルの人柄にもあった。

 

ケマルは、お世辞にも「人徳者」とは言えない性質の持ち主だった。独断専行の傾向が強く、人の意見を素直に聞かないから、プライドの高い議員たちは腹を立てた。無口でいつも不機嫌そうだし、冗談の一つも言わないから、しばしば周囲に不要な緊張感を振りまいた。しかも短気で怒りっぽく、叱ることはあっても褒めることは滅多になかった。

 

そういうわけで、ケマルに好意を持たない議員の数は意外に多かった。彼らはしばしば、陽気で社交的なカラベキル将軍の周囲に集まり、あるいは海外の亡命三巨頭と連絡を取り合っていた。

 

ハリル・パシャは、こういったアンカラの空気を良く知った上で、ケマルを裏切ったのである。

 

 

 

 

 

ところで、ハリル・パシャは、大戦末期のオスマン帝国東部方面軍の最高司令官を務めた人物である。オスマン帝国軍の最後の大戦果といえるバクー占領も、彼の功績であった。

 

しかし、彼はアルメニア人大虐殺に関与していたため、戦後は戦犯に指定されイスタンブールの刑務所に監禁された。ところが、不屈の闘志を持つ彼は、そこを脱走してバクーに逃れ、混乱期のロシアでレーニン政権に協力し「トルコ共産党」を立ち上げたのである。その後、ケマルの新政府に着目した彼は、山賊やゲリラに紛れてアナトリアに入り、いつしかアンカラ政府の要人となっていたのだ。

 

ケマルが、そんなハリルをソ連への使者に抜擢したのは、彼の持ち前のバイタリティと、ロシアでの人脈の厚さに期待をかけたからだ。

 

しかし、ハリルは心中密かに「青年トルコ党」の復興を狙っていたのだ。ケマルに対する忠誠心など、最初から持ち合わせていなかった。

 

イギリス海軍の監視網をかい潜って黒海を小船で北に渡った彼は、1920年5月23日、モスクワ到着。ソ連の要人たちと折衝する傍ら、5月27日にドイツから到着した三巨頭のジェマル・パシャと密談を重ねた。

 

「俺は、早くトルコに帰りたいよ」

 

砂糖宮と呼ばれる来賓館の一室で、ジェマルが愚痴を言う。

 

「もう少しの辛抱ですよ」ハリルは胸を叩いた。「私は、アンカラ政府の外交特使として、これからソビエト政府に資金融資と武器援助を求めます。その見返りに、アルメニア独立国に対する共同戦線を提案します。この事業にジェマル閣下がコミットすれば、アンカラ政府内でも閣下の声望は高まるでしょう。成り上がり者のケマルを追い落とし、再びあなた方三巨頭がトルコを牛耳る日は近いですぞ」

 

「そうか」ジェマルは、久しぶりに笑顔を見せた。「もうすぐ、君の甥のエンヴェルもモスクワに現れる。飛行機が、また墜落しなければの話だが。そうしたら、みんなでこれからのことを相談しようじゃないか」

 

この当時のソビエト政府は、四方からイギリスや日本やチェコや白軍に攻められて国際的に孤立していた。そんな彼らは、喜んでアンカラ政府を承認し、「国民誓約」に納得してくれたのである(6月3日)。これが、大国民議会政府が国際的に承認された世界最初の例であった。

 

しかし両国の関係は、それ以上にはなかなか進展しなかった。レーニンもトロツキーも、ケマル・パシャなる人物について何の知識も持っていなかったから、どこまで信頼したら良いのか分からないからだ。

 

ここで、ジェマルが出しゃ張った。かつてオスマン帝国海相であったこの高名な人物は、ソビエトの要人に向かって、アンカラ政府が「青年トルコ党」の再生であり、「汎トルコ思想」の使徒であり、しかも社会主義思想を受け入れる用意があるなどと好き勝手を言いまくったのである。

 

「誰が、ジェマルに外交を任せると言った?」知らせを受けて、ケマルは激怒した。「彼は、アンカラ政府とは何の関係もない部外者じゃないか。しかも、嘘を付きまくるとは、いったいどういうつもりなんだ?ハリルの奴は、何をやっている!」

 

ケマルは、三巨頭の中では最もジェマルと親しかった。しかし、彼のために国策を誤るわけにいかない。そして明敏なケマルは、ジェマルの暴走を知った時点でハリルの裏切りにも気づいたのであった。

 

これ以降、彼は信用できる腹心に直筆の書状を持たせ、モスクワとの直接交渉に当たらせることにしたのである。この日以来、ジェマルはもちろんハリルまで、アンカラ政府の政策の蚊帳の外に置かれることとなってしまった。そして、ケマルはわざわざジェマルに手紙を書いて、「あなたには、アンカラ政府を代表する権利はない」と釘を刺したのである。

 

「俺は、もう祖国への凱旋を諦めたよ」ケマルに叱られて、ジェマルはしょんぼりとハリルに語った。「こんなことなら、焦って変な口出しをしなけりゃ良かったな」

 

「まったくですな」エンヴェルの叔父は、むすっと応えた。

 

かつてオスマントルコ帝国を牛耳った三巨頭の一人でありながら、あまりにも不器用なジェマルの本質を、ハリルは痛切に思い知ったのである。

 

やがて8月10日、アナトリアから、アンカラ政府の外務委員として外相ベキル・サミがモスクワに到着した。

 

裏切り者のハリルは、正式にお払い箱になったというわけだ。

 

 

 

 

 

1920年8月、モスクワのクレムリンでは、要人たちがトルコ対策で議論を重ねた。

 

「ケマルという者は、社会主義者なのか?」

 

軍事人民委員レオ・トロツキーは、曇った丸眼鏡を布で拭きながら言った。

 

「社会主義者だというなら、援助してやらぬでもないが」

 

トロツキーは、「世界共産主義」という思想を持っていた。すなわち、全世界にソビエトの理想を輸出し、全世界の国々を社会主義体制に改造してしまうのが彼の夢なのだ。そんな彼は、社会主義者以外を援助するのは気が進まなかった。

 

しかし、民族問題人民委員のヨシフ・ジュガシビリは、より現実的な考えを持っていた。

 

「ケマルが社会主義者かどうかは、この際、問題となりません。問題は、アナトリアの民族主義勢力が、イギリスの邪悪な包囲網に対抗しうる即戦力だという点です。ケマルのトルコが味方につけば、我が国の西南方面の安全保障に極めて有益でしょう」

 

「しかし、スターリン(鉄の人)よ」トロツキーは、ジュガシビリのあだ名を呼んだ。「彼が反共思想の持ち主だとしたら、我が国は潜在的な敵を強化することになるぞ」

 

「それは、まだまだ先の話です」現実主義者のスターリンは言う。「後のことは、当面の危機を乗り切ってから考えましょう」

 

こうして、ソビエト政府とアンカラ政府の予備交渉が始まった。ソビエト外務人民委員チチェーリンとトルコの外相ベキル・サミは、まずはソ連とトルコの将来の国境線の画定から議論を始めたのである。

 

両国が陸路で接するコーカサス地方は今、ロシアの内戦に付け込んだアジア系諸民族が暴れ回り、しかも、いつの間にかアルメニア独立国が出来てしまっているから、これらを制圧するための協力関係の樹立が急務なのであった。

 

しかし、ソ連の要求はあまりに強欲だった。

 

「ワンとビトリスの2県を寄越せだと」アンカラのケマルは、ベキル・サミからの定期報告書を読んで唖然とした。「つまり、固有のトルコ領を、援助の見返りにソ連に併合させろということか!」

 

新生アルメニア独立国は、地図の上では、コーカサス南部からトルコ東部に跨る広い面積を誇っている。もっとも、トルコ東部にはカラベキル将軍の軍団が頑張っていて、アルメニア政府の威令はここには全く及んでいなかったのだが。少なくとも、西欧列強が描いた地図の上では、 ワン県もビトリス県もアルメニア領ということになっていた。

 

しかし、ソ連は強欲にもその部分まで寄越せと言って来たのだ。トルコが資金や武器の援助が欲しいというなら、その代わりに領土を寄越せということだ。なお、この領土は、「国民誓約」の第二条が謳っている三州とは別件である。

 

「足元を見おって」ケマルは舌打ちした。「ロシア人は、やはり信用できぬ」

 

こうして、1920年度の交渉は頓挫した。

 

そんな中、エンヴェル・パシャがようやくモスクワに到着した。

 

事態は、広大なロシアの大地を舞台にますます混沌とする。

 

 

 

 

 

エンヴェルは、8月14日、汽車でモスクワに入り、迎賓館「砂糖宮」に腰を据えた。ここは、かつて砂糖商人の宿舎だった広壮な屋敷である。

 

彼は、この屋敷で叔父ハリルや同志ジェマルと旧交を温めると、中央アジア各地から集まってきた「汎イスラム」の理想を掲げる政治家たちと積極的に会談して回った。

 

この時期のソ連は、宿敵イギリスを苦しめるため、こういった活動家を大いに支援していたのである。モスクワは、「汎イスラム」ないし「汎トルコ」の揺籃の地と言えた。そういう意味で、エンヴェルにとってモスクワは本当に素晴らしい場所だった。なお、「汎イスラム」と「汎トルコ」は、中央アジアにおいては同義であった。なぜなら、中央アジアの人々は、おおむねイスラム教を奉じるトルコ系民族だったからである。

 

かくして、中央アジアにトルコ民族の聖地を築こうとするエンヴェルの人生の夢は、ますます激しく燃え上がるのであった。

 

9月、エンヴェルは同志たちとともに汽車に乗ってバクーに入った。ここで、「東方イスラム民族大会」が開催されるからである。彼は、はりきって演説しようと思っていたのだが、アルメニア人の参加者たちが「我々に大虐殺を加えた戦犯を演台に立たせるのか!」と抗議したため、しかたなく代役に原稿を読ませたという。

 

エンヴェルは、己の理想を追求するだけでなく、現実的な政治の世界でも活躍の場を広げようとした。まずは、ドイツとソ連の仲介をしなければならない。

 

渉外と理財に天才的な才能を持つエンヴェルは、ハリルやジェマルと力を合わせて闇市場でブラックマネーを掴み、そしてドイツからソ連へと武器の輸入を始めたのである。これには、ドイツもソ連も大いに喜んだ。

 

この情勢を見たドイツのゼークト将軍は、軍部内に「R特務機関」を密かに設けた。これは、ソ連との秘密取引を推進する組織である。彼は、ベルサイユ条約で保有を禁止された戦車や飛行機をソ連に持ち込み、この地で実験や改良を行い、そして野外演習を行った。これが、後の「電撃戦」の母体となる。第二次大戦の萌芽は、すでに大きく育ちつつあったと言えようか。

 

さて、武器事業に成功したエンヴェルは、確保したドイツ製武器や資金の一部をアンカラに回そうと試みた。ケマルに恩を売り、あわよくば英雄として祖国に復帰しようとの算段である。

 

「エンヴェルだと」ケマルは、ライバルからの恩着せがましい手紙を開封して絶句した。「彼は、いつの間に闇金融業者に転職したのだ?」

 

ケマルとしては、ここでエンヴェルの力を借りるのは気が進まなかった。膝元の「青年トルコ党」残党が、再び発言力を回復するからである。景気の良いスローガン(すなわち「夢想」)を提示しないケマルは、人望ではエンヴェルに劣っていた。ケマルは、そんな自分の危うい立場を良く自覚していたのだ。

 

しかし、背に腹は変えられない。

 

アンカラ政府の資金難は深刻だった。

 

皇帝から「法敵」とされたケマル一派は、領内の徴税権をほぼ失っていたからである。

 

 

 

 

 

アンカラ政府の初代蔵相ベヒチェが残した資料によると、1920年度においてケマルが自由に出来た国会議長費は1万8千リラ、国防予算は2千8百万リラ、外務省予算は30万リラであった。

 

これがどれだけ貧弱かといえば、先の大戦中にイスタンブールを訪れたドイツ皇帝が、ガリポリ戦の勝利を祝ってエンヴェル陸相に渡した金1封が5万リラだったことからも分かる。しかも、ここ数年はインフレ傾向にあったから、貨幣価値は日増しに下落しているのであった。

 

兵器の不足も、極めて深刻な問題であった。

 

トルコには武器工場が一つも無かったので、もともと貧乏なアンカラ政府は、小銃すら自力で調達することが出来なかったのである。

 

つい最近、オスマン帝国航空隊が味方についてくれたのだが、稼働できる飛行機はわずかに1機・・・。しかも、その交換部品すら存在しない有様だ。

 

アンカラ政府が外国から必要としたのは、第一に資金援助、第二に武器援助である。そして、ソ連との外交関係とエンヴェルによる支援は、窮地に立つ今のケマルにとって唯一の希望なのであった。

 

しかし、アンカラ政府がソ連との関係を深めている事実は、政治的に大きなマイナスをもたらした。これを見た皇帝とイギリス政府が「ケマルは、ボルシェビキの回し者になった」との政治宣伝を行えたからである。社会主義は「宗教の否定」を謳っているので、敬虔なイスラム教徒である多くのトルコ国民は、一斉に激怒しケマルを憎んだのだった。

 

こうして、「カリフ擁護軍団」はますます強勢となる。

 

事実、ケマルはソ連の歓心を買うために、政府内での社会主義者の活動を大幅に容認していた。ただし、これは彼の本意ではなかった。ケマルは、実は、社会主義を否定していたからである。

 

彼は考えた。「あれは、『夢想』に過ぎない。貧しい労働者だけの国なんて有り得ない。ソ連はいずれ、硬直しきった腐朽官僚制に堕すだろう」

 

しかしケマルは、ソ連との特殊な関係上、決してその考えを公表出来なかったのである。敬虔なイスラム教徒を敵に回す彼にとって、これは実に不幸なことであった。

 

こうしてアンカラ政府は、領土を巡るソ連との交渉が頓挫したことによって、より一層の窮地に陥ったことになる。

 

エンヴェルによる援助も、事務作業の大幅な遅れや様々な手違いによって、1920年度中は実効を持たなかった。

 

状況は、日増しに絶望の二文字を深めていくのであった。

 

 

 

 

 

1920年8月のある日、数人の婦人たちの訪問を受けたケマルは、宿舎として使っている農業学校に彼らを迎え入れた。

 

宿舎の周囲は、完全武装の兵士たちが緊張感を漲らせて見張っている。今や「法敵」となり「社会主義の回し者」となったケマルは、イスラム原理主義者たちの暗殺の格好の標的だったから、どんなに身辺を警戒しても、やり過ぎということはない。婦人たちも、厳格な身体検査の後に、ようやく議長のもとに通されたのである。

 

婦人たちを客室に迎え入れたケマルは、ソファの上で憔悴しきった笑顔を引きつらせた。いつも服を着たまま眠るので、スーツの汚れと臭いが、婦人たちの前で気恥ずかしかったのだ。

 

とりあえず「暮らし向きはどうですか?」と言葉をかけたが、これは愚問だったろう。4人の婦人たちは、いずれも疲れきり痩せ細っていたからだ。咳払いをした主は、客たちを椅子に座らせて、静かに耳を傾けた。

 

「あ、あたしたちは、議長さまに伺いたいことがあって、ここに参りました」先頭に立つ栗色の目をした婦人が、おずおずと切り出した。「あたしたちは、どうしても殉教しなければならないのでしょうか?」

 

二人目の小柄な婦人は言った。「あたしたちは、みな未亡人です。あたしの夫は、ガリポリ半島で戦死しました」

 

ケマルは、ガリポリという言葉に、ぴくっと耳を動かした。

 

「あたしの息子は、昨年の流行病で死にました」三人目の長身の婦人は、目に涙を溜めて語る。「どうしても薬が手に入らなくて、お医者も診てくれなくて」

 

「もう、人が死ぬのはたくさんです」四人目の鷲鼻の婦人は、血を吐くように叫んだ。「だけど、このままだと遅かれ早かれ、みんな殉教してしまいます。どうしても死ななければならないなら、どうかあたしたちに、その理由を教えてください!」

 

彼女たちは、「反乱」の意味を問うているのだった。

 

ケマルは、しばし沈思した後、小さな声でこう応えた。

 

「異教徒の奴隷となって生きるくらいなら、殉教したほうがアラーも喜びます。そういうことです」

 

婦人たちは、一瞬のち、ハンカチを鼻に当ててすすり泣いた。

 

ケマルは立ち上がり、窓の外を見た。三日月が彩る月桂樹の横で、歩哨が疲れた表情でタバコを契っている。

 

「トルコ国民は、みな殉教者になるのだろうか。もはや、すべての望みは絶たれたのだろうか」暗い目をしてつぶやいた。

 

彼は、「セポイの反乱」(インド)や「太平天国の乱」(中国)の末路を思い浮かべた。このままでは、「ケマルの反乱」もその同類項として歴史に名を残すことだろう。

 

「明治維新は出来ないか。日露戦争にはならないか・・・」

 

アンカラ政府は、全世界から見放され、しかも四方八方から軍事力を受けている。そして、資金も兵員も武器も、権威でさえも、何一つ持ち合わせていなかった。

 

しかし、そんな彼を救ったのは、意外なことにイギリスの失策なのだった。