第十四章 セーブル条約締結

 


 

 

 

 

「ケマル派の滅亡は、時間の問題だな」

 

ロイド=ジョージ英首相は、満足げに部下の報告書を見回した。

 

皇帝軍、ギリシャ軍、フランス軍、アルメニア軍は、アナトリアの各地でアンカラ政府を圧迫している。クルド人諸部族も優勢だ。

 

勝利を確信した彼は、止めの一撃を放った。

 

1920年8月10日、パリ郊外のセーブルの街に、西欧列強とイスタンブール政府の外相が集まった。いよいよ、国際条約が締結されるのだ。

 

終戦後2年間にわたって検討されてきた対トルコ条約は、「セーブル条約」と呼ばれる。これは、戦争中に列強の間で取り交わされた秘密協定をそのまま反映させたものであった。すなわち、その骨子は「トルコの分割と解体」に他ならない。

 

イスタンブールの皇帝政府が、最初にこの条約の調印を迫られたのは、6月上旬であった。テヴフィク・パシャ内閣は、あまりにも過酷な内容にショックを受け、必死に先送りを図ったのだが、政府そのものがイギリスの人質になったような状況下では結局、時間の問題にしか過ぎない。

 

イスタンブール政府は、8月に入ってとうとう屈服したのであった。

 

 

 

 

 

セーブル条約の背景について説明する必要があるだろう。

 

第一次大戦の終結後、協商国軍の敗戦国に対する戦後措置は、異常に残酷で厳しいものだった。パリ講和会議は、敗者に鞭を打つ算段に他ならなかった。

 

それは、勝者たちの復讐心の強さに加えて、「民族自決」という原理が強く打ち出されたことによる。アメリカ大統領ウイルソンが、多民族から構成される「帝国」は、民族ごとにバラバラに解体されるべきだと主張したのだ。

 

しかし、言い出しっぺのアメリカは、ウイルソンが病気になったこともあって、あまり積極的に講和会議にコミットしなかった。その結果、「民族自決」の理想は、英仏の復讐の道具として悪用されたのである。

 

こうして、オーストリア=ハンガリー帝国はズタズタに解体され、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビアが新たに誕生した。かつて支配民族であったオーストリアのドイツ人は、ウイーン周辺の小さな平野の住民に貶められたというわけだ。その反面、たとえばボヘミアのチェコ人は、300年ぶりに祖国を回復できたことになる。彼らの気長な大義は、ようやく勝利を掴んだのだ。

 

ドイツは、戦犯として巨額な賠償金を押し付けられたのみならず、やはり「民族自決」の美名のもとに、その領土の2割を周辺諸国に割譲させられた。

 

また、協商国軍を途中で脱落した旧ロシアについては、やはり領土を大幅に奪い取り、バルト三国やポーランドやフィンランドを完全に独立させたのである。

 

しかし、この解体はしばしば政治的思惑から恣意的に行われ、必ずしも客観的ではなかった。たとえば、新生ポーランド領内には、多くのドイツ人やロシア人が取り残されたままであった。また、新生ユーゴスラビアは、ギリシャ正教徒のセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人、そしてイスラム教徒のマケドニア人などから成る、多民族かつ多宗教のモザイク国家であった。いったい、これのどこが「民族自決」なのだろうか?

 

こうした措置が、後の第二次世界大戦や、現在まで続く様々な民族紛争の根本的原因になったことは周知の史実である。

 

さて、トルコに対してはどうだったか。

 

 

 

 

 

セーブル条約は、全部で433条にも及ぶ長大な文書である。イギリスが、過去の商業契約書を参考にして大急ぎで作ったためか、 非常に読みづらい、雑文としか言いようのない代物である。そして、その内容は、トルコに対する驚くべき悪意に溢れていた。

 

その中で、重要な条項をかいつまんで説明しよう。

 

まず、領土について。

 

西欧列強は中東地域を奪い取り、これらを分割して独立国にすることとなった。トランスヨルダン王国(後のヨルダン)、イラク王国、アラブのヒジャーズ王国(後にサウジアラビアに吸収されてしまう)らが、こうして歴史に登場することになった。ただし、これらの国々の独立はあくまでも形式的な物であって、その実態はイギリスの属国ないし植民地に過ぎなかった。

 

次に、シリア(レバノン含む)全土を奪い、これをフランスの植民地とした。

 

結局、アラブにシリアとパレスチナを委ねるという「フサイン=マクマホン協定」は無視されたのである。また、パレスチナにユダヤ人の国を築くという話は立ち消えになり、「バルフォア宣言」も無視された。それでもイギリス政府は、ユダヤ財閥の顔を立てるため、パレスチナへのユダヤ人の入植を「奨励する」行為で違約を糊塗しようとしたのだが、これはアラブの不信感を煽るだけの結果に終わった。

 

続いて、この戦争で大きな被害を蒙ったアルメニア(トルコ東部)を、「民族自決」の美名のもとに、旧ロシアやトルコから切り離して独立国にした。

 

さらに、トルコ東南部に住むクルド人にも大幅な自治権を与えることになった。

 

この段階で、オスマントルコ帝国の領土は、アナトリアの西部と中央部、そしてバルカン半島の東南端(トラキア)に限定されてしまったわけだ。

 

しかし西欧列強の野心は、トルコ人が住むトルコ本土にも及んだのである。

 

「民族自決」の原則は、ここでは完全に無視された。

 

イタリアは、ロードス島とドデカニス諸島に加えて、地中海に面したアナトリア西南部(アンタリア)を獲得した。そこにはイタリア系住民は存在しない。フランスは、シリアに隣接するアナトリア南部(キリキア)を獲得した。そこには、フランス系住民など住んでいない。さらに、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡を「国際管理区域」と名づけ、ここには主にイギリス軍が居座った。ここも、イギリス人は生活していない。

 

ギリシャは、エーゲ海の島々とトラキア(ヨーロッパ側のトルコ領)の多くに加えて、スミルナ市周辺を獲得した。正確に言えば、5年間の委任統治の後に住民投票でスミルナ周辺の帰属を決める予定になった。この地にはギリシャ系の住民が多かったから(といっても、住民の5割くらいだが)、これは珍しくまともな決定だ。

 

こうして・・・オスマントルコ帝国に残された領土は、わずかにイスタンブール市とアナトリア中部の不毛な高原地帯のみとなる。

 

・・・その総面積は、日本の九州地方程度でしかない。

 

侮辱と屈辱は、それだけに止まらない。

 

軍備について。

 

オスマン帝国陸軍は、わずか5万人に制限された。海軍は、黒海の沿岸警備艇以外は保有できないこととされた。

 

通商について。

 

トルコの関税自主権は奪われ、外国商人に治外法権が認められることになった。これによって、通商環境は西欧諸国に一方的に有利になる。「不平等条約」だ。

 

さらに、イギリス、フランス、そしてイタリアは、オスマン帝国の国家予算と借款を共同で管理することとなった。トルコ政府は、自国の財政にすらタッチできなくなったというわけだ。

 

ここに、トルコという国家は、もはや再起不能の三流国に貶められたのである。

 

皇帝メフメット6世は、こんな屈辱的な条約に調印したのだった。

 

 

 

 

 

協商国軍最高司令官フォッシュ元帥は、セーブル条約を一読してうなった。

 

「これは、平和への脅威になる。この非情な条約をトルコに呑ませようとするなら、27個師団(約32万5千人)の軍事力が必要となるだろう!」

 

厭戦気分に溢れ、経済危機にある西欧諸国には、とてもそんな軍事力を捻出する余裕は無かった。

 

それでも、セーブルに座すロイド=ジョージ首相の鼻息は荒かった。

 

「フォッシュ元帥は、敵を過大評価しておる。すでに、ケマル派は敗れたのも同然だ。ギリシャ軍とアルメニア軍とクルド部隊による挟撃で、アンカラは近いうちに陥落するだろう。我々が、新たに人命とカネを犠牲にする必要はどこにもない」

 

豪語する英首相の傍らで、嬉しそうにうなずいたのは、ギリシャ首相ヴェニゼロスだった。彼は、ギリシャ軍がケマル派を打倒すれば、その褒章としてアナトリア中部まで獲得できるという密約を、ロイド=ジョージと交わしていたのである。彼らは、トルコ人国家を地球上から消滅させようと考えていたのだ。

 

彼らの様子を冷ややかに見つめていたのは、フランス首相レイモン・ポアンカレだった。

 

「よりによって、セーブルの街でこんな剣呑な条約を調印するとはね」

 

「それは、どういう意味ですか?」ヴェニゼロスが振り向いた。

 

「セーブルの名産は、いったい何だと思いますか」

 

「・・・陶器でしょう?」

 

「壊れやすくて、もろい」フランス首相は、含み笑いを浮かべた。

 

ロイド=ジョージとヴェニゼロスは、憤然としてポアンカレを睨んだ。彼らは、何がなんでもセーブル条約をトルコに呑ませる腹だったからだ。

 

睨みあう彼らの横を、死人のように蒼白となったトルコ代表団がよろよろと歩き去った。彼らは、たった今、祖国の死刑執行命令書にサインしたのである。

 

 

 

 

 

セーブル条約締結の第一報が届いたとき、ケマルは農業学校の執務室で硬直した。

 

彼は、微動もせず物思いにふけり、やがて両眼に涙をいっぱいに溜めた。

 

「西欧列強は、とうとう祖国を滅亡させたのだ」

 

フランスからの外交情報で、ある程度の内容は知っていたが、国際条約の酷さがこれほどとは思わなかった。白人列強はトルコ民族を人間扱いしていない。

 

「なぜだ!」

 

彼は、執務机の前に立ち上がった。

 

「アジア系の有色人種だからか。イスラム教を報じる異教徒だから悪いのか。工場を持たない農業国だから駄目なのか。だから我々には、静かに平和に生きる権利が無いというのか。幸せになってはいけないというのか!間違っている、間違っているぞ!」

 

議長の怒号を聞きつけて、イスメットやフェヴジやアリフが執務室に駆けつけた。

 

「目に物を見せてやるのだ。後悔しても遅いぞ。貴様らが間違っていることを思い知らせてやるからな!」

 

ケマルは、全身を怒りの炎にして猛り狂った。

 

しかし彼の政府は、カネも武器もなく、多くの兵士が離反しているのが現状なのだった。どうやって、西欧列強に思い知らせることが出来ようか。

 

イスメットたちは、重いため息をついた。

 

しかし、アンカラ政府の最大の武器は「国民」である。民意を忘れない政府は、絶対に最後に勝つ。そして、国民は彼らのもとに帰ってきたのである。

 

 

 

 

 

トルコ国民は、とても信じることが出来なかった。

 

スルタンカリフが、外国人の言いなりになって祖国の死刑執行命令を了承するなど、あってはならないことだった。

 

「信じられない」「俺たちの国は、これで本当に無くなってしまうんじゃないか」「キリスト教徒たちの奴隷になるなんて」「何百年も前からオスマン帝国の臣民だったギリシャ人やアルメニア人やクルド人が、どうして我々よりも偉くなるのさ」「訳が分からねえ!」

 

町で森で畑で草原で、人々は噂をし合った。彼らの視線は、自然とアナトリア中央部に集まる。頼りになるのは、もはやケマル・パシャだけだ。

 

これを受けて、アンカラ政府はすかさず声明を発した。

 

「我々は、セーブル条約をいっさい認めない。皇帝とイスタンブール政府は、占領軍の虜囚であるため、あのような非道な条約に無理やりサインを迫られたのである。我々はこの状況を実力で打破し、そして不当なセーブル条約を撤回させてみせる!」

 

こうして、衆望はアンカラ政府に集まった。彼らは「法敵」なんかじゃない。むしろ皇帝こそが「法敵」じゃないか。ケマル・パシャは、祖国の救い主に相違ない。

 

アナトリア各地で、イスタンブール政府の法的見解に基づく宗教的狂熱は急激に沈静化した。「カリフ擁護軍団」に属して戦っていた農民や漁民は、次々に軍を離れて故郷に帰って行った。アンカラ政府の膝元でも、敵対行動を取っていた武装農民やゲリラたちが武器を捨て、あるいはケマルの「国民軍」に寝返ったのである。イスラム原理主義者たちも、危険な蠢動を止めた。

 

「アンカラ政府に止めを刺す」はずのイギリス首相の政策は、またしても逆効果になったのだ。白人優位思想に凝り固まるロイド=ジョージは、白人の手による国際条約こそが金科玉条の魔法の杖だと信じきっていた。しかし、その考えはすでに時代遅れになっていた。彼は、それに気づくことが出来なかったのだ。

 

こうして、アンカラ政府に対する西方からの軍事圧力は大幅に軽減されたのである。

 

租税収入も集まり、志願兵の数も増えた。逃亡兵は原隊復帰した。また、西部のゲリラ集団が、ことごとくケマル派に寝返ったため、領内の治安も飛躍的に向上した。

 

「暗夜の中に、ようやく光明が見えてきたぞ・・・」

 

自信をつけたケマルは、予備兵力の全てを東方へと送った。東部戦線で攻勢をかけるためである。

 

 

 

 

 

1000年ぶりに独立国を持てたアルメニア人には気の毒だが」ケマルは、自分が作成した攻撃命令の電報をじっと見つめた。「君たちは、イギリスに加担して我々を攻撃するのみならず、同盟国ソ連との連絡線を遮断しようとしている。悪いが、消えてもらうしかない」

 

攻撃指令は、エルズルムに飛んだ。

 

「お任せあれ!」増援を得て勇気百倍のカラベキル将軍は、アルメニア軍に対する反撃作戦に出た。

 

1920年9月、トルコ領に侵攻していたアルメニア軍は各地で崩れ立った。

 

資金と物資不足のトルコ軍であっても、名将カラベキルの指揮下で対アルメニア戦に集中できるなら負けはしない。1030日にカルスを奪回し、11月にはトルコの「固有の領土」を東に越えて、アルメニア領ギュムリュまで陥落させたのである。アルメニアが誇る「青年師団」は惨敗を喫し、この過程で、またしても無辜のアルメニアの民衆が略奪や虐殺の犠牲となった。

 

「イギリスの援軍は、いつになったら現れるのだ!」

 

アルメニア独立国のヌバルパシャ大統領は、亡国の危機を前にして、イラクに接する南の国境を切なげに見た。

 

しかし、開かれた国境は北側だった。ソビエト連邦の赤軍が、突如としてアルメニア領に侵攻したのである。

 

アンカラ政府とソ連は、領土問題を巡って対立してはいたが、アルメニア独立国を邪魔に思う感情では利害が一致していたのである。アルメニアは、ギリシャとともにトルコを挟み撃ちにしているつもりだったが、いつの間にか自分がトルコとソ連に挟み撃ちにされていたのだった。

 

これを憂慮したのは、アメリカ合衆国である。ウイルソン大統領は、アルメニア独立国の領土を保全した上でアメリカの委任統治領にしたいと、改めて国際連盟に申し出た。この提案が、世界平和のためになると信じて。しかし、アメリカがこのとき提案したアルメニア国の領土は、どういうわけかセーブル条約で決められた領土よりも遥かに広かった。ロイド=ジョージ英首相は、これを知って仰天したと言われる。そして、アルメニア独立国の領土は、現実にはすでに地球上のどこにも存在していなかったのだ。

 

アメリカの無知さと無邪気さは、アルメニア国の助けにはならなかった。国家は崩壊し、閣僚はみなペルシャに逃れた。

 

12月2日、勝ち誇るソ連軍は、エレヴァン市で「アルメニア社会主義ソビエト共和国」を成立させたのである。ここにアルメニア民族は、ソ連邦内の一共和国としてのみ、その存続を許されたのであった。

 

セーブル条約は、締結後わずか4ヶ月で実効を失った。

 

 

 

 

 

アルメニア独立国が、ソ連軍によって止めを刺されるのを確認したケマルは、東部から2万の兵力を引き抜いて南部方面軍を編成し、11月からキリキア地方でフランス軍に対する攻勢に出た。

 

これまでフランス軍と戦っていたのは、キリキア地方の住民たちからなるゲリラ部隊だった。しかし、ドフイ将軍指揮下のフランス正規軍2万の攻撃は容赦なく、アンテプ市を巡る攻防では、ゲリラに7000人の戦死者が出るほどだった。この街は、後にガージーアンテプ(英雄のアンテプ)と改称される。

 

しかし、ケマル軍が駆けつけると形勢は逆転した。アンカラ政府軍は、ゲリラの残党と合流して地形を生かした遊撃戦を展開。ソ連から支給された砲兵隊を活かし、敵の陣地を遠巻きにして砲弾の雨を降らせたのだ。

 

キリキアに展開していたフランス軍は、もともとセーブル条約の条項に従って進撃して来ただけなので、戦意の乏しい彼らは、強力な敵の正規軍から予期せぬ猛攻を受けて大いに動揺した。そんな彼らには、本国からの増援部隊も得られない。

 

敵の動揺を見たケマルは、彼らを遠巻きに包囲することで自主的な撤退を迫った。この戦線は、膠着状態のまま、翌年3月に停戦協定が交わされて休止する。

 

同じころ、アンタリアのイタリア軍も、ケマル派ゲリラの猛攻を受けて海岸線に追い詰められていた。兵力不足のイタリア軍は、セーブル条約を実力で実現させるための軍事行動に参加しておらず、なんとなく「様子見」でアナトリア南西部に駐屯していたのである。このような中途半端な政治姿勢は、前線の将兵に無用な苦労を強いるだけである。結局、イタリアもフランスの態度に便乗し、再び和平の使節をアンカラに送るのだった。

 

時を同じくして、アリー・フアトの第20軍団は、西部のゲリラ集団を吸収しながら西進し、マルマラ海を望むイズミト市に到達した。この海を渡れば、イスタンブールはすぐそこだ。

 

さらに東部戦線では、カラベキルがクルド人部隊を撃破することに成功していた。

 

アンカラ政府は、わずか3ヶ月前には瀕死の状態だった。それが今では、アルメニア、クルド、フランス、イタリアを撃破し、しかも皇帝軍を解体した上で吸収し、国土の回復を指呼の間に望んでいるのだった。

 

彼らの前に立ち塞がるのは、もはやイギリスとギリシャの二勢力のみである。

 

あまりにも非道なセーブル条約の締結は、トルコ民族の愛国心に火を点けて大爆発させたのだった。

 

 

 

 

 

アンカラ政府が攻勢に打って出たころ、同盟国ソ連も好調の波に乗りつつあった。

 

この当時のソ連は、大方の予想を裏切り、イギリスが仕掛けた包囲網を次々に破り躍進していた。赤軍は、コルチャック提督率いるオムスクの白軍を打ち破り、シベリアに跋扈する日本軍とチェコ軍を東へと追い返したのである。

 

続いて、1920年7月にポーランドに侵攻した。しかしこの軍事行動は、首都ワルシャワの直前で名将ピウスツキに阻まれて挫折し、戦線は膠着状態となる。ソ連が、対アルメニア戦でケマルに協力したのは、この時の反省があったからである。やはり、強敵は挟み撃ちにして倒すのに限る。

 

ちなみに、ソ連がポーランドを倒すのは、このときから19年後、ナチスドイツとの挟み撃ちに成功してからの事であった。

 

ともあれ、国土の防衛成功が見えてきたソ連は、領内のイスラム教徒に対する姿勢を少しずつ硬化させて行った。社会主義の理想とイスラム教は、もともと相容れないものだからである。

 

モスクワで活躍するエンヴェルは、こうした空気を露骨に感じて苛立った。とりあえず、ここは祖国に帰って新規蒔き直しをしたい。

 

「生意気なケマルの鼻を明かしてやりたいな」彼は、叔父ハリルにこぼした。

 

「それは、時間の問題だ」叔父は、笑みを返した。「東部軍のカラベキル将軍の威信は、アルメニアに対する戦勝で増している。つい先ごろも、クルド人の反乱を部族同士で内訌させた上で鎮圧した。彼は、今やケマルに取って代われる権威を獲得したと言えるな」

 

「うん、カラベキルの副官キャーズムは、俺の妹婿だしな」

 

エンヴェルは満足げにうなずいた。エルズルムの東部軍集団(第16軍団から発展)の幹部クラスは、そのほとんどがエンヴェルのシンパであったから、彼はカラベキル将軍を篭絡してケマルを倒そうと考えていたのである。

 

「そのキャーズム大佐からの報告によれば、アンカラ政府の国会議員のみならず、西部のゲリラ部隊の中にも、社会主義に共鳴する者が出始めているようだ。これも使えるな」

 

「うん、ナージム議員やアドナン博士も社会主義者だし、ゲリラの大勢力を率いるチェスケス・エトヘムもソ連に共鳴しているらしいな」

 

エンヴェルとハリルは、これまで培ったソ連とのコネを使えば、アンカラ政府内の社会主義者を篭絡できると踏んでいた。

 

1920年末のアルメニア独立国の崩壊は、陸路で国境を接しさせることでトルコとソ連の関係を緊密にした。その結果、ケマルの前にかえって「社会主義思想の伝播」という恐ろしい敵が登場したのである。そして、その背後には、常にエンヴェルの影があった。

 

・・・終わることのない、逆境の悪夢である。