第二十章 オスマン帝国の滅亡

 


 

 

 

ロンドンでは、保守党党首アンドリュー・ボナー・ローが、10月8日に有名な演説を行っていた。

 

「大英帝国は弱体化し、もはや単独では世界の警察官となる能力がない。海峡地域を守ろうとしたロイド=ジョージ首相の闘志は認めるが、フランスやイタリアやアメリカが協力してくれない以上、あの地の防衛は絶対に不可能だった。我が国は、今後ともこのような世界情勢が続くなら、アメリカを見習って孤立主義に入ることだろう。ドイツの戦後処理からも手を引くかもしれぬ・・」

 

この演説の趣旨は、セーブル条約から真っ先に離脱したフランスや、国際連盟から撤退したアメリカに対する批判である。しかし、これはロイド=ジョージの強硬策に対する疑問表明にもなっており、それ以上にボナー・ローの政権奪取への決意表明でもあった。

 

しかし、ロイド=ジョージ首相は強気だった。彼は、ムダンヤで「野蛮で好戦的な」トルコが休戦に応じたのは、イギリスが強硬姿勢を崩さなかったからだと思い込んでいた。彼は、ランボールドとブイヨンの尽力によって成立したあの休戦協定を、自らの外交政策の勝利だと信じ込んでいたのである。

 

しかし、国民はそうは考えなかった。ここにも、政治家と国民感情の遊離の図式がある。厭戦気分に溢れるイギリス国民は、祖国を新たな戦争に引きずり込もうとしたロイド=ジョージに対して、深刻な不信感を抱いたのだった。

 

この情勢を前に、保守党はついにロイド=ジョージを見捨てた。連立内閣は崩壊し、再び総選挙が始まったのは1115日。その結果、第一党はボナー・ロー率いる保守党。第二党は労働党となった。そして、保守党内閣の成立を見た国王ジョージ5世は、ボナー・ローを新たな首相に指名したのである。

 

ロイド=ジョージの自由党は、野党の第一党にもなれなかった。そして、首相の座は彼の前から永遠に姿を消したのであった。

 

「俺は、トルコ人に敗れたのか」失脚した元首相は、呆然としてつぶやいた。「俺は、有色人種の異教徒に完敗を喫したのだ。まさか、こんなことになるなんて信じられん。いったい、どうしてなんだろう」

 

ロイド=ジョージは、白人優位主義という名の「夢想」によってその身を滅ぼした。

 

・・・時代の波は、彼の隣を猛スピードで追い抜いてしまったのである。

 

チャーチルも、選挙区のダンディーで再選を果たせなかった。「世界の一大ターミナル」の確保に執念を燃やす彼は、「海峡危機」に際してロイド=ジョージの戦争政策に協力したため、選挙民の支持を大幅に失ったのであった。

 

「ムスタファ・ケマルは、知っているのかな」チャーチルは、葉巻を握りつぶしながら秘書に語った。「あのトルコ人は、イギリスの内閣を二度も叩き潰し、このウインストン・チャーチルを二度も失脚させたのだ。気づいてないのなら、奴に教えてやりたい。お前は世界の歴史を永遠に変えたのだと。この世界から、帝国主義を無くすという深甚な大事業を成し遂げたのだと。奴は、知っているのだろうか、自分の本当の偉大さを」

 

そういうチャーチルが、この20年後、ナチズムという名の新手の帝国主義からヨーロッパの民主主義を守り抜くという大事業を成し遂げるのである。彼は、もちろん自分のそんな運命など知りはしない。今のチャーチルは、選挙に敗れて議席を失った屈辱感に沈むのみであった。

 

 

 

 

 

イギリス本国で政変が起きているころ、トラキアに駐屯していたギリシャ軍3万は、本国へ向けて撤退を開始していた。

 

トルコの「固有の領土」は、トルコ人の手に取り戻されたのである。

 

ケマルは、イスタンブールとトラキアの軍政官に盟友レフェト大佐を任命した。彼がマルマラ海を越えてスタンブル地区に着任したのは、1019日である。3年ぶりのイスタンブールは、ガージーの偉大な勝利を称える横断幕とトルコの三日月の国旗によって埋め尽くされていた。

 

「ありがとう!」「よくやってくれました!」「君たちは英雄だ!」

 

歓呼する沿道の人々に手を振りながら、レフェト大佐は陸軍省に入った。

 

このころ、皇帝メフメット6世は、ドルマバフチェ宮殿から手狭なユルドゥズ宮殿に移っていた。レフェトが会見を求めると、皇帝は喜んで会ってくれた。

 

「良くやってくれたぞ。君たちは、オスマン帝国の誇りだ」と、老人は目を輝かせる。「外国の邪悪な侵略者たちを、良くぞ追い払ってくれたな。このような偉大な勝利は、帝国発足以来、初めてではなかろうか」

 

「ありがたきお言葉」レフェトは、苦笑をこらえつつ応えた。

 

2年前は、我々を法敵と呼んで処刑を命じたくせに、今はなんという言い草だろうか。これが、噂に聞く貴種の延命策というものか。

 

「そういえば、スイスのローザンヌで新たな国際会議が開かれるそうだな」皇帝は、ふいに思いついたかのように言った。「我が政府からは、大宰相テヴフィク・パシャを代表として送ろうと思うが、どうじゃ」

 

レフェトは、驚いて顔を上げた。この人は、まだこの国の主権者のつもりなのか。

 

「陛下に申し上げます」実直な大佐は声を高めた。「これ以上、国民の怒りを煽るのは、御ためになりませぬぞ」

 

「国民の怒りじゃと。いったい、どういう意味じゃ」ぽかんと口を開ける。

 

「・・・もう、退位なされませ」そう言い捨てると、レフェトは後ろを見せて退出した。これ以上、老いた権力者の相手をするのは、あまりにも辛すぎたのだ。

 

 

 

 

 

しかし、1027日に国際連盟から送られてきたローザンヌ会議の招待状は、イスタンブール宛とアンカラ宛の2通であった。

 

これは、イギリスがトルコ国家の分裂を策したというよりは、単なる事務手続き上の問題だったろう。国際的には、イスタンブール政府とアンカラ政府が両立しているのがトルコの実情だったのだから、両方に招待状を出すのが当然ということになる。

 

しかし、これを知った議員たちと民衆は激怒した。トルコの国土が回復されたのは、すべてケマル・パシャと自分たちの必死の奮戦の賜物である。皇帝メフメットは、国民同士を宗教的情熱で殺し合わせた上で、セーブル条約という祖国の死刑執行書に調印しただけじゃないか。

 

市井で、怒りの声が巻き上がった。

 

「ふざけるな!」「どうして、外国と手を組んで俺たちを裏切った皇帝の政府が、今さらこの国の代表になれるんだよ!」「あたしたちには、ガージーがいれば十分なのに!」「許せない!あんな皇帝は追放してしまうべきだ!」「いや、死刑にするべきよ!」

 

この情勢を受けて、11月1日、大国民議会にケマルの動議が提出された。

 

灰色の狼は、このチャンスを狙っていたのである。

 

「スルタン制とカリフ制を分離し、そして前者を廃止する」

 

議会は動揺した。600年にわたる歴史的伝統を破壊しようというのだから。

 

多くの議員は、恨み重なるメフメット6世を退位させることには賛成だった。しかし、スルタン制そのものを廃絶するのはあまりにも恐れ多いと考えていた。また、「青年トルコ党」時代の立憲君主制政体にこだわる保守的な議員たちは、スルタン制を維持することが絶対的に必要だと考えていたのである。

 

かくして、議場は騒然となる。

 

このころ、ようやくアンカラに「国会議事堂」が完成していた。これは急造のレンガの建物だが、286名の国会議員を収容するのに十分な面積を持っている。大勢の議員たちがあちこちで議論の花を咲かせる様子を、独裁官はじっと見つめていた。

 

やがて、この問題を議論するため別室に「宗教問題委員会」が集まり、議員資格を持つ聖職者たちが活発な議論を始めた。しかし、その内容はあまりにも教条的だった。

 

「ウマイヤ朝カリフとアッバース朝カリフの相違うんぬん」「カイロからオスマン朝が譲り受けたカリフ位は、法的にはスルタン位と切り離せないうんぬん」「スルタン制は、それ自体がトルコ民族の歴史であるうんぬん」「スルタン制が無くなれば、残された国民は何を頼るべきなのかうんぬん」

 

不毛な議論を2時間も聞いていたケマルは業を煮やし、ついに椅子の上に立ち上がって叫んだ。

 

「諸君、主権とスルタン制は、そもそも実力によって奪取されるものである。オスマン朝の一族は、武力によってトルコ国民の主権とスルタン制を奪取し、このようにして奪い取ったものを600年にわたって維持してきた。しかし、今やトルコ国民は簒奪者に待ったをかけ、主権とスルタン制を実際に自分の手に取り戻したのだ。これは、もはや成し遂げられた事実である。議論すべき問題は、スルタン制と主権を国民に委ねるか否かではない。それはすでに成し遂げられた事実なのである。問題は、それをどういう形にするかということに過ぎないのだ!」

 

「し、しかし」聖職者代表が反論を試みたが、ケマルは遮った。

 

「国民は皆、すでにそれを理解している。理解できていないのは、国民の気持ちを思いやらない一部の特権階級だけだ。君たちが、そういう一団だというのなら、やむを得ない。何人かのクビが飛ぶことも有り得るだろう!」

 

宗教大臣が立ち上がり、厳粛な面持ちで発言した。

 

「ガージー、今の説明で良く分かりました」

 

アンカラ政府の最も重要な綱領は「国民主権」である。そして、国民主権を突き詰めて考えるなら、それは必然的にスルタン制の廃止に行き着くのである。アンカラ政府とスルタン制は、決して両立できない対立概念なのだった。ケマルの演説は、半ば脅迫を用いながらも、それを議員たちに分からせたのである。

 

この議論の結果を受け、本会議場でフェトヒ議長が立ち上がって挙手による決議を取ったところ、圧倒的多数で「スルタン制の廃止」が決定された。

 

これに反対して挙手しなかった少数の議員は、それを聞きつけた民衆によって、後にリンチに遭ったと言われる。

 

その夜、大勢のアンカラ市民たちがケマルの官邸の前に集まり、「ガージー万歳」を連呼した。民衆は、スルタン制の廃止を心から喜んだのであった。考えてみたら、ここ数百年もの間、皇帝と大臣たちは私利私欲にふけるばかりで、国民のためになることを一つもしなかった。国民は、他に選択肢が無いものだから、仕方なしに権力に屈服していたのである。でも、今は違う。彼らにはガージーがいる。そしてガージーは、国民のことをいつも第一に考えてくれる人なのだ。

 

イスタンブールでも、民衆が決起した。いくつものデモ隊がユルドゥズ宮殿の周囲を練り歩き、イスタンブール政府の御用新聞社を焼き討ちし、声高に皇帝政府の退陣を求めたのだった。

 

イスタンブールに駐留する外国の軍隊は、ただの傍観者となっていた。もはや、誰も皇帝とその政府を助けてはくれない。

 

11月4日、テヴフィク・パシャ内閣は総辞職を行った。そしてオスマン帝国の官報は、この日を境に発行を停止したのである。

 

この翌日、大勢の兵士を連れて宮殿に入ったレフェト大佐は、皇帝の前でスルタン制の廃止を宣言した。こうしてメフメット6世の世俗的権力は剥奪され、その事実は協商国にも承認されたのであった。オスマン帝国の当主だった老人は、今やカリフの地位だけを許される小さな存在に成り下がったのだ。

 

最後の皇帝は、両目をぎゅっと瞑ってこの屈辱に耐えていた。

 

オスマントルコ帝国は、ここに滅亡したのである。

 

600年も存続し、かつては三大陸に足をかけた巨大王朝にしては、あまりにも呆気なさ過ぎる最期であった。

 

 

 

 

 

11月の最初の金曜日、礼拝の時報係は叫んだ。「みなさん、今日からカリフに専念されることになったメフメット様のために祈りましょう!」

 

これを聞いた元皇帝は、惨めな気分を味わった。もはや彼は、イスラムの教祖でしかないのだ。礼拝の最中、彼は周囲の信者たちの視線が怖かった。民衆は、彼のことをバカにして軽蔑しているのに違いない。なぜなら、彼は負け犬なのだから。

 

メフメットは、その世俗的地位を失うことによって、生まれて初めて「民衆」を意識するようになったのだ。なんという皮肉であることか。

 

聖務を終えてユルドゥズ宮殿に帰った彼は、もう2度と金曜礼拝には出たくないと思った。そこで、イスタンブールに駐屯していたハリントン将軍に手紙を送ったのである。

 

「我が身の危険を考え、英国当局に保護を求める。この街からできるだけ早く、余を移してもらいたい」

 

1117日は雨だった。

 

金曜礼拝が始まる数時間前、ユルドゥズ宮殿から2台のイギリス軍籍の救急車が走り出した。その先頭車両には、黒いこうもり傘を握り締めた小柄な62歳の老人がいた。

 

桟橋では、ハリントン将軍が緊張感に身を包まれながら救急車の到着を待っていた。やがて、水しぶきを巻き上げながら到着した車は一台。先頭車両は、どこかで後落していた。

 

「レフェト大佐に捕まったのか!」

 

ハリントンは、拳を握り締めた。しかし、これは杞憂だった。30分ほど遅れて、先頭車両がようやく到着したのである。途中でタイヤがパンクして、雨の中の修理に手間取ったのだという。

 

胸を撫で下ろすイギリス人の前に、救急車の中から息子に手を取られた老人が姿を現した。後ろに続く宦官は、全財産を詰めた黒いトランクを2つ抱えている。

 

「陛下をマルタ島にお連れします」イギリスの将軍は、敬礼をした。

 

「どこでも良い。よろしく頼むよ」老人は、上目遣いで卑屈な笑い方をした。

 

戦艦マラヤに乗り込んだ一行は、船窓から雨に煙る美しい都市を望見した。もう2度と、この街には帰って来られないだろう。

 

「将軍にお願いがある」客室に立つ老人は、ハリントンを上目遣いに見た。「ハレムには、わしの可愛い妻が5人残っている。どうか、連れ出してもらいたい」

 

「善処します」イギリス人は、そう言いつつ首をかしげた。イスラム教は一夫多妻制を認めてはいるが、4人までしか妻帯できないのではなかったか?

 

ふと見やると、老人はトランクの一つを宦官に開けさせて、底までびっしりと詰まった宝石類の手触りを楽しんでいる。

 

「ああ、この人は」ハリントンは、深い吐息をついて思った。「カリフにさえ、なれない人だったのだ」

 

戦艦マラヤは、ひときわ大きな汽笛をあげ、ダーダネルス海峡目指して進んで行った。

 

軍政官レフェト大佐は、スタンブル地区の陸軍省の窓から、その様子を眺めていた。彼の前には、雨で濡れ鼠になったスパイが立つ。スパイは、メフメットの逃走について上官に報告していたのだった。つまりレフェトは、何もかも承知の上で元皇帝を逃がしたのである。もちろん、これはケマルと打ち合わせの上での行動である。

 

「陛下、我々は、その気になればあなたを法廷に突き出して処刑することも出来たのですぞ。しかし、オスマン帝国の最後の皇帝をそのような形で処罰するのは、国家の恥にしかなりません。だから、あなたを逃がすのです」

 

レフェトは、雨で濡れる窓をじっと見つめつつ、低い声でつぶやいた。

 

おりしも、礼拝の時間を告げる時報係の呼びかけ(アザーン)が響き渡った。イスタンブールの民衆は、カリフがいなくなったことを程なくして知るであろう。

 

この翌日、アンカラ政府は、外国に逃亡したメフメット6世のカリフ位の剥奪を認め、その従兄弟アブドルメジドを新たなカリフに選出する決議を行った。

 

ケマル・パシャは、こうして最強のライバル、オスマントルコ帝国を打ち倒したのである。