第二十一章 ローザンヌの勝利

 


 

 

 

 

黄色い枯葉が冬の訪れを告げるころ、ガージーが恋に落ちたらしいという噂は、政府要人の間に静かにゆっくりと広まった。

 

41歳にして、ようやくふさわしい女性を見つけられたのだ」イスメットは、心から幸せそうに語る。「良かったなあ。ガージーは、大酒飲みのヘビースモーカーで、ものすごく不規則な生活を送っているから、そのうち参ってしまうんじゃないかと心配で。奥さんが来れば、少しは生活も変わるだろうね」

 

「でもさ」アリフは首をひねった。「ガージーにふさわしい女性なんて、本当にいるのだろうか?彼は、あまりにも偉大すぎるよ」

 

「そこは、男と女の機微ってものだろう」嬉しそうに語るフェトヒは、牢獄生活の精神的な後遺症から解放されたばかりだ。「男と女は、必ずどこかで結ばれるように出来ているのさ。そこが、主なるアラーの偉大さってものだ」

 

噂のケマルは、政務の合間に足しげくスミルナの邸宅に通っていた。ラティフェと会うのが、無上の楽しみだったのである。

 

小さな体と小さな容貌。印象的な大きな瞳。引き締まった美しい唇。そして、内に秘められた芯の強さ。そんな彼女は、ルソーとヴォルテールを読みこなし、シェークスピアも諳んじるたいへんな教養人だ。だからこそ、24歳になっても適当な男性に出会えず、独身を守っていたのに違いない。

 

ケマルは、そんな素晴らしい女性に出会えるなんて、これまで夢にも思っていなかった。会うたびに、想いは募るばかりだ。

 

熱情に溺れる二人は、シャンパンで乾杯し、カードを楽しみ、そしてヨーロッパ式の舞踏会に足しげく出かけた。

 

「君のご両親は、いつスミルナに戻ってくるの?」

 

「戦争を恐れて、スイスの別荘に篭りきりなんです。でも戦争は終わったし、もうすぐ寒くなるので、きっとすぐに帰ってくると思いますわ」

 

「そうしたら、きちんとご挨拶したいね」

 

「・・・ガージーのお母様は、今はアンカラに?」

 

「最近、病気がちなんだ。君のことを話したら、ぜひ会いたいと言うのだけれど、スミルナまでは遠い」

 

「良ければ、あたしが会いに行きましょうか」

 

「そうしてくれると嬉しいな」

 

二人は、夜会服を着て肩を寄せ合い、いつまでも幸せに包まれて踊り続けるのだった。

 

 

 

 

 

愛するラティフェの前では、一人の男に過ぎない。

 

しかし、この人物は、今ではイスラム世界の大英雄なのだった。

 

諸外国は争ってトルコと国交を結びたがり、要人たちは競ってケマル・パシャの知己になりたがった。

 

アフガニスタンとカージャール朝ペルシャは軍事同盟を求め、インドネシアやマレー半島諸国は贈答品を寄越し、エジプトとインドの革命家はイギリスから独立するのに手を貸して欲しいと頼み込み、シリアのアラブ人指導者はフランスを追い出したいからと、似たようなことを言ってきた。また、「汎イスラム」の思想家たちは、キリスト教徒に対する「イスラム十字軍」を発起し、その最高司令官にガージー・ケマル・パシャが就任するべきだと主張した。

 

しかし、ケマルはそんなことに興味はなかった。

 

イスラム世界だけではない。ハンガリーやチェコスロバキアやポーランドといった新興諸国は、トルコの「民族自決」を心から喜び祝電を打った。

 

ソ連も、アンカラに大物を積極的に送り込んできた。アゼルバイジャン出身の高名なソビエト政治委員フルンゼは、ガージーに土産物の極上キャビアとグルジアワインを振舞いながら、「万国のプロレタリアートの団結のため、ともに帝国主義と戦いましょう」と胸を張って提案した。

 

しかし、ケマルはそんなことに興味はなかった。

 

彼は、フルンゼに言った。

 

「我がトルコ国民は、十分に賢い民族です。なぜなら、自分たちの国の中で自分たちが幸せになることに専心するからです。世界中の人々がトルコ人のように生きるなら、世界はきっと平和になるでしょうに」

 

これは、露骨な社会主義批判である。いや、「汎イスラム」思想に対する批判でもあった。そして、これから祖国の歩むべき道を、高らかに宣言するものだった。

 

ケマルは、一切のイデオロギーにも対外戦争にも全く興味がなかった。なぜなら彼は、「トルコ国民の幸せ」を心から願っていたからだ。国民の幸せのためには、イデオロギーや夢想で彼らを狂わせることも、戦争行為に巻き込むことも否定されるべきなのである。

 

ケマルの独特の政治思想は、「ケマリズム」と呼ばれる。そして、しばしば「ケマリズムには夢が無い」と言われる。しかし、国家や国民が見るべき「夢」とはなんなのだろうか?それは「麻薬」なのではないだろうか?

 

この時期の彼の印象的な演説がある。オスマン帝国とスルタンカリフ制を非難した演説である。

 

 

「・・・はっきりと言うが、カリフ、またはどのような肩書きをもつ人間だろうが、新しく建設されたトルコの独立や活動、運命について干渉は許さない。

 

カリフは、全イスラム世界という広範囲なものに基礎を置く神聖な使命を果たさなければならないのだろう・・・。

 

しかし、トルコ国家には、そのような常軌を逸した使命を果たす能力はない。

 

数世紀にわたり、我々の国家は誤った観念の影響下にあった。そして結果は一体何だったか?周囲一帯の、数百万人の死だ。

 

みなさんは、ご承知か?アナトリアの息子たちを何人、イエメンの灼熱の砂漠で死なせたのか。アフリカにおける権益を維持するために、シリア、エジプト、イラクを保有するために、我々はいかなる損害を蒙ったのか。その結果をご承知か?新しいトルコの人民には、もはや自分の存在と繁栄以外を考える理由など存在しない。もう他国の人々に与えるものは一つもないのだ!」

 

 

これは、反帝国主義と民族主義の権化、ケマル・パシャの真骨頂とも言える演説である。

 

 

 

 

 

トルコとの新たな平和条約を定めるための国際会議は、もともとイタリアのヴェネチアで行われる予定であった。しかし10月末、右翼の大物ベニト・ムソリーニが「ローマ進軍」で政府を乗っ取ったことからイタリア国内の情勢が不穏になり、急遽、スイスのローザンヌで開催されることに決まったのである。

 

交渉のテーブルにつくのは、英仏伊、ギリシャ、そしてトルコである。全権として日本、ドイツ、ユーゴスラビア、ルーマニア、そして開催国スイスも参加する。

 

トルコ代表に選ばれたのは、首相ヒュセイン・ラウフでも外相ユースフ・ケマルでも練達のベキル・サミでもなく、意外なことに参謀総長のイスメット将軍であった。これは、ケマルが独断で決定したのである。

 

ヒュセインもユースフもベキルも、プライドを傷つけられて激怒したが、ケマルは取り合わなかった。この困難な交渉を乗り切るためには特殊な個性が必要で、その適任者はイスメット以外に有り得なかったからである。

 

トルコ人は、直情径行ですぐに白黒をはっきりさせたがるため、基本的には外交向きの民族ではない。しかしイスメットは、例外的に腹芸が出来て「灰色」を呑み込める男だった。また、彼は中途半端な西欧式教養を持たないため、白人列強に対するコンプレックスと無縁だったのだ。その点で、教養人のヒュセインやユースフ、ベキルらに優越すると思われていた。

 

19221120日、モーニングを纏った小柄なトルコの将軍は、ローザンヌの山荘で、にこにこと笑顔を湛えながら列強の外相に挨拶した。

 

アジアの国が、西欧列強に国際条約を武力で撤回させるのは、歴史上初めての快挙である。それゆえ、列強のエリートたちは内心では憤懣やるかたなく、トルコに対して最初から激しい敵意を見せていた。彼らは、外交という名の戦場で、未熟なアジア人を叩き潰してやろうと狙っていたのだ。

 

しかし、彼らの前に姿を現したイスメットは、実に意外な人物であった。大きな耳と大きな鷲鼻に挟まれた大きな丸い目は、あどけない調子でクリクリと良く動く。小柄で痩せた貧弱な体躯は、思わず同情を寄せたくもなる。

 

イギリスのカーゾン外相は、一目見て笑った。「これは、ネズミ男だ。こんなのがトルコ人の代表なのか」

 

しかし、イスメットは見かけどおりの人物ではなかった。ケマルとともに、ありとあらゆる辛苦を味わい、死山血河を乗り越えてきた筋金入りの勇者なのだった。有色人種を蔑視する白人列強は、先入観に邪魔されて、そのことを見抜けなかったのである。

 

この時点で、外交という戦いの第一ラウンドは、トルコの勝利に輝いたと言って良い。西欧列強は、イスメットに油断して簡単に手の内を見せた。イスメットは、にこにこ愛想良く笑いながらも、彼らの手の内を全て記憶して忘れなかった。

 

そして、イスメットは決して主張を曲げなかった。彼は、命に代えても「国民誓約」を厳守する決意であったのだ。

 

議論の席でカーゾン卿が、大英帝国の国益について大声で1時間もまくし立てた時、イスメットは笑顔でそれを聞いていたが、やがてこう言った。

 

「すみません、私は右の耳が遠いので、閣下のお話を半分しか理解できませんでした」

 

カーゾンは、激怒のあまり物も言わずに退出したのだった。

 

したたかなイスメットは、この会議中、水面下でギリシャとの和睦を模索した。ギリシャ代表ヴェニゼロス首相は、国際会議に呼ばれたものの、ほとんど蚊帳の外に置かれていた。英仏外相は、トルコ相手に無様な敗北を喫したギリシャに対し、あからさまに冷たかったのだ。そんな中、イスメットは、ヴェニゼロスに積極的にコミットしたのである。

 

「隣国同士、これからは仲良くしなければなりませんな」

 

「イスメットどの、あなたは我々を許してくれるのか?」

 

「許すも許さないも、我々は、西欧列強の野心の被害者同士じゃないですか」

 

「ありがとう。本当にありがとう」

 

ヴェニゼロスは、目に涙を浮かべて小柄なトルコ代表の手を取った。

 

こうしてギリシャは、将来の友好条約の締結を前提に、この会議でトルコを全面的に応援することを約束してくれたのである。

 

それだけではない。イスメットは、フランスやイタリアの外相と個別に面談を重ねることで、イギリスを疑心暗鬼に陥らせた。たとえば、「モスル油田(重要な係争地)は、イギリスよりもフランスに領有させたいな」などと、ぼそっと口走ったのである。こうした術策の前に、もともと呉越同舟だった協商国は、互いに猜疑の目を走らせ、その交渉能力を減退させて行った。

 

新生トルコは、外交という名の戦場でも圧倒的な強さを発揮したのであった。

 

 

 

 

 

イスメットがスイスで奮闘しているころ。

 

ケマルの母ズベイデは、アンカラで重病にかかっていた。それは、医者も見離す不治の病であった。

 

「もう長くはないんだろう」母は、病院のベッドの上から息子に話しかけた。

 

「母さん、弱気になるなよ」ケマルは、枯れ木のようになった病人の手のひらを両手で握り締めた。

 

思えば、何一つ親孝行が出来なかった。自分ほど、親不孝な息子はいないのではないか。

 

「どうせ死ぬのなら」母は、じっと息子の目を見た。「ラティフェさんに会ってから死にたい。スミルナに行きたい」。そして、ベッドの上に起き上がりシーツを被るのだった。

 

医師団も、乾燥した極寒のアンカラよりは、エーゲ海に面した大都市スミルナに移ったほうが病人の健康に良いと告げた。医療設備の面でも、アンカラは明らかに貧弱であった。

 

「分かったよ、母さん。海を見ておいで。元気になったら、一緒にエーゲ海を旅行しよう」

 

しかしケマルは、政務の都合でどうしても一緒には行けなかった。護衛隊長のサリフに委細を頼み込んだ彼は、寒さに震える母をスミルナ行きの汽車に乗せるところまで見送ったのである。

 

翌日、カルシュヤカ駅にズベイデを出迎えたのは、誰でもないラティフェだった。彼女は、近くにある彼女の別荘に恋人の母を迎え入れると、献身的な看病を行った。

 

「あなたは、噂どおりの人だね」老いた母は、ラティフェの白い手を握った。「あたしの息子は、いつのまにか英雄ってことになったけど、頑固で短気で怒りっぽくて、自分勝手で反骨精神旺盛で、放っておくと糸が切れた風船みたいになるんだ。誰かが、そばに付いてないと、自分で自分を滅ぼしかねないんだ」

 

「分かりますわ」ラティフェは、老女の青白い額をタオルで拭った。

 

「息子のことを、よろしく頼みますよ。どうか、守ってあげてね」

 

「ええ、ええ」

 

「一目だけでも、孫の顔が見たかったよ」

 

病人は微笑み、そして目を閉じた。

 

ズベイデの葬儀は、スミルナで行われた。姉夫婦とともに駆けつけたケマルは、墓前で静かに落涙した。

 

「母の死に目に会えないなんて、俺は親不孝者だ」

 

「お母様は、きっとそんな風には思っていないわ」ラティフェは、ケマルの背を撫でた。「最後まで、あなたのことを心配していたもの。あなたは、誇らしい最高の息子だったのよ」

 

「母は、何よりも君に会えたことが嬉しかったんだと思うよ」ケマルは、優しい視線を投げた。「母の願いは、息子の結婚だったのだから」

 

ケマルは、最後まで母の面倒を見てくれた女性にプロポーズをした。

 

 

 

 

 

トルコ軍は、ムダンヤ休戦協定の締結以来、大規模な復員を始めていた。

 

ケマルという人物の偉大さは、まさにこの点にある。彼は「無敵の軍司令官」、そして「ガージー」として絶大な声望を獲得したにもかかわらず、自分の最大の武器であるはずの軍を縮小したのである。彼は、二度と戦争をやらない決意なのであった。なぜなら、戦争はどんな形であれ、「国民のためにならないから」である。この勇気と決意は、尋常ではない。

 

しかし、当然ながら逆風が吹いた。軍の縮小はケマルの権力の弱体化を意味し、それは「抵抗勢力」の強化に直結する。しかもケマルは、戦争終結にともなって議会から「非常大権」を奪われたため、今では単なる一議員となっていた。それでも、ガージーの声望は多くの議員たちを引き付け、いつしか「権利擁護委員会(通称、第一グループ)」と呼ばれる200名からの与党を形成していたのであった。

 

これに対し、ケマルを憎むカラ・ヴァースフは、1922年7月以来、63名から成る野党を結成していた。「第二グループ」と呼ばれる彼らは、ケマルを追い落とすための動議を議会に提出したのである。

 

彼らは、ケマルの議員資格そのものを剥奪しようとした。12月2日、彼らは「5年間選挙区に居住していない者には議員資格を与えない」旨の選挙法改正案を提議したのである。その標的は、あからさまなまでにケマルであった。ガージーは、選挙区であるエルズルムどころか、トルコ国内のどこの地にも、5年連続で居住したことがないのである。しかし、それは彼が浮浪者だったからではなく、国事に奔走した結果のやむを得ぬ事情であった。誰もが、それを知っているはずなのに。

 

この提議は、もちろん議会を通らなかった。

 

その翌日、チャンカヤ丘の官邸を訪れたカラ・ヴァースフは、ケマルに引退を勧めた。

 

「ガージー、もはや戦争の季節は終わりました。後のことは我々政治家に任せて、悠々自適の生活を送ったらいかがですか?美しい婚約者を大切にしてあげてくださいよ」

 

ケマルは、卑劣なやり方で彼を潰そうとした鷲鼻のヴァースフに対する憎悪を抑えながら、静かにこう応えた。

 

「戦争の季節は終わったというのか?それは大きな間違いだ。本当の戦争は、これから始まるのだから」

 

「それは、どういう意味です?」

 

「武器を取って人を殺し、街を破壊する戦争は終わっただろう。しかし、より困難な戦争はこれから始まる。国を豊かにし、国民を幸せにするための創造の戦いだ。私は、これを成し遂げるまでは引退するわけにはいかない!」

 

「そうですか、良く分かりました」ヴァースフは、怒りを抑えながら客間を退出した。

 

12月6日、ケマルは「第一グループ」を正式に政党に昇格させる意思を示した。「人民党」の誕生である。彼は、このとき以来、軍服を脱いで文民となった。彼は、戦いの舞台を政治の現場に移したのである。

 

そして、彼の言ったことに間違いはなかった。本当の戦いは、これからなのだった。

 

トルコは、ここ12年の戦争によって破滅的な打撃を受けていた。

 

「固有の領土」の総人口は1000万。戦病死で失った男性の数は250万。寡婦が、女性人口の3割を超える州が10もある。さらに、これまで商工業の担い手だったアルメニア人とギリシャ人は、国土からほとんど姿を消していた。今やトルコは、貧しい農民と牧童だけの国になってしまったのだ。

 

戦争によるインフラの破壊もすさまじく、特にギリシャが焦土作戦をやってのけたアナトリア西部は、文字通りの壊滅状態であった。

 

経済破壊も深刻だった。企業家の多くが海外に脱出し、対外貿易は事実上ストップし、しかも、ここ数年の破滅的なインフレによって、貨幣価値はゼロに等しくなっていた。

 

新生トルコは、あたかも廃墟のような様相を呈していた。

 

人々は、貧困にさいなまれ、飢えと病気に苦しみ泣き叫ぶ。

 

ケマル・パシャは、このような祖国を救わなければならなかった。

 

 

 

 

 

そんな中、ケマルとラティフェは、1923年1月に正式に結婚した。

 

しかし、新郎には新婚生活を楽しむ余裕などなかった。

 

彼は、新妻を家に置き去りにし、「人民党」の党首として全国遊説を開始しなければならなかったのだ。

 

この党のマニフェストは、次のようなものだった。

 

一、国民主権。

二、スルタン制廃止の不変。

三、国内の治安維持。

四、裁判の迅速化。

五、税制などの経済社会改革の実施。

六、徴兵期間の短縮と軍人の安全の保証。

七、傷病兵、退役者、寡婦、孤児への援助。

八、官僚機構の改革と知識人の登用。

九、公共事業のための合弁事業の奨励と民間企業の保護。

 

これがいわゆる「9原則」である。

 

1923年4月11日、遊説を一段落させたケマルは、議会に「祖国反逆罪法」を提案した。すなわち、「議会の合法性に異議を唱えたり、あるいはスルタン制の復活を主張する行為を、祖国への反逆とみなし独立法廷で裁くことが出来る」という法案である。「第二グループ」は猛反対したが、これは多数決によって15日に可決決定された。ケマルは、保守勢力がスルタン制を復活させる危険性を、十分に見抜いていたのである。

 

この法案が可決されると、ケマルは議会の解散を宣言した。その結果、6月から7月にかけて全国総選挙が実施されたのであった。

 

この選挙では、「第二グループ」が大きく議席を減らした。ケマルが、カラ・ヴァースフを攻撃する内容の遊説を仕掛けたからである。彼は、正々堂々と復讐を遂げたのだ。

 

しかし、人民党は議席の過半数を取ることが出来なかった。その理由は、ケマルの強引なやり方に反感やライバル心を持つ保守主義者や社会主義者たちが、次々に小粒な野党を立ち上げて、地縁に基づいて票を大きく分散させたからである。この選挙の結果、新生トルコ議会は、雨後の竹の子のように、小粒の政党が幾十も並び立つ不安定なものとなってしまった。

 

ケマルは大きな誤算をしていた。トルコ国民の民度は、マニフェストを正しく理解して投票できるほど成熟してはいなかったのである。そもそも、国民の識字率は10%に満たないのが実情だから、とても「民主主義」を行える段階ではなかったのである。

 

それでも人民党は最大議席数を獲得し、第一党の座だけは確保した。この政党の党首はケマル、書記長はレジェップ、議員団長はフェトヒだ。8月11日からの新議会は、ケマルを議長、アリー・フアト(モスクワから帰って来た)を副議長として順調に発足したのである。

 

しかし、新しい議会は肝心のことを決めることが出来なかった。すなわち、新しいトルコの政体をどうするのか?

 

ケマルとその仲間たちは「共和制」を考えていた。すなわち、全ての国家主権を国民に委ね、国家の代表者を全国選挙で決定する政体である。

 

しかし、多くの議員はむしろ「立憲君主制」を考えていた。彼らは、カリフを国の中心とし、その下に内閣を置く体制を志向していたのだ。そんな彼らの中には、むしろスルタン制の復活を狙う議員も多かったのである。

 

多くの政党が乱立して百家争鳴状態の議会は、政体という基本的なことすら決定出来なかったというわけだ。

 

「こんなはずではなかった」ケマルは頭を抱えた。

 

執務室で思い悩む夫の姿を、新妻ラティフェは、寂しげに遠くから見守ることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

その間、ローザンヌでは、長かった国際会議がようやく終息に向かおうとしていた。

 

歴戦の巧者イスメットは、西欧列強を手玉に取って、ほぼ完全な勝利を収めたのである。

 

まず領土について。

 

トルコは、まず「固有の領土」を全面的に確保した。すなわち、アナトリアと東トラキアの完全な領有が認められたのである。この結果、アルメニア独立国とクルド人の自治権は完全に忘却された。

 

次の争点となったのは、周辺地域の帰属である。

 

イラク北部のモスルが、大きな問題となった。イスメットは、良質な油田を持つこの地を「固有の領土」だと主張したのだが、カーゾン卿がどうしても譲らなかったのである。石油が欲しいのは、イギリスだって同じだからだ。激しい議論の末、結局、モスルはイラク(イギリスの委任統治領)の領土ということになった。しかしトルコは、25年間にわたって、この油田の収益の10%を獲得する権利を手に入れた。また、イギリスに、クルド人を唆してトルコに反乱を起こさせないよう確約させた(しばしば裏切られるが)。

 

トルコとシリアの境界も問題となった。イスメットは、トルコ系住民が多いハタイ地区を「固有の領土」だと主張したのだが、シリアで困難な民族問題を抱えるフランスは、どうしても妥協を嫌がったので、この問題は1930年代終盤まで継続した(その後、最終的にトルコが勝利する)。

 

「海峡地域」も争点となった。イギリスは、この地を「非武装の国際管理地域」にすることに固執した。彼らは、世界の一大ターミナルを、どうしても諦め切れなかったのである。喧々諤々の議論の末、ここではイギリスの主張が通った。しかし、イスタンブール市の武装は認められたし、国際管理委員会の常任理事はトルコ政府になったので、これはトルコにとってそれほど大きな妥協ではなかった。

 

次に、不平等条約について。

 

西欧列強は、カピトレーション(不平等条約)の復活を要求した。彼らは、第一次大戦が始まるまで、トルコ領内において治外法権と関税自主権を確保していたのである。しかし、イスメットは断固としてこれを拒絶した。ローザンヌ会議で最も困難な争点となったのはこれである。あまりにも紛糾したため、2ヶ月の中断を余儀なくされる局面もあった。しかし、5年間の現状維持など多少の留保はあったものの、イスメットの必死の頑張りのおかげで、カピトレーションは正式に廃絶されることが決まったのである。

 

なお、このトルコの勝利は、日本全権大使・林権助が、過去の経験をもとにイスメットに助言を与えたお陰だったとも言われる。昔の日本は、国際外交を左右できるほどの優秀な国だったのである。今となっては夢のようだが。

 

対外債務について。

 

協商国がトルコ国家の財政管理権を握るという方針は、激論の末に撤回された。そして、オスマン帝国時代の債務7800万ポンドの返済については、現政権の自主性に委ねられた。ケマルは、愚直にこれを返済し続けるから、この人物が基本的に生真面目な性質の持ち主だったことが良く分かる。

 

もちろん、トルコ国家の軍備制限は完全に撤廃された。

 

以上、100%の結果ではないものの、新生トルコは「国民誓約」を全世界に承認させたのであった。彼らは、ドイツにさえ出来なかった、「悪しき国際条約の撤回」に成功したのである。そして彼らは、白人列強の「帝国主義」を完膚なきまでに打ち負かしたのだ。

 

8月23日、アンカラ議会は反対票14のみでローザンヌ条約を批准し、市井の人々は落涙し互いに抱き合って喜びを分かち合った。

 

192310月2日、最後の協商国軍(ハリントン将軍のイギリス近衛一個大隊)がトルコを永遠に去った。この瞬間をもって、トルコの対外戦争は完全に終結したのである。

 

ローザンヌの勝利は、有色人種が白人列強の植民地化の野望を実力で粉砕したという点で、世界史上の大快挙だ。そして、この日を境に、15世紀以来の悪しきグローバルスタンダードであった「帝国主義」は、衰退の一途を辿り、やがて完全に消滅するのである。

 

トルコの勝利は、すなわち人類の勝利なのであった。大義の勝利なのだった。

 

インドや中東、アフリカ、東アジアなど、白人列強の植民地の住民は、大いに発奮した。インドのガンジー、ペルシャのレザー・ハーンらは、自らの独立運動に大いに自信を持った。そういう意味で、トルコの救国戦争は、そしてケマル・パシャは、世界史的な存在なのだと断言出来る。

 

しかしケマルは、驕ることなく国民に布告した。

 

「我々は軍事力によって成功を勝ち取ったけれど、それによって祖国の真の救済が成し遂げられたわけではありません。これまでの勝利は、未来の勝利のための地ならしに過ぎません。軍事的勝利に慢心せず、科学や経済における新しい勝利の準備をしましょう」

 

ケマルの戦いは、これからが本番なのだった。