第二十二章 伝統への挑戦

 


 

 

 

 

1923年のイスタンブールは、人間のごった煮と化していた。

 

ロシアからは、ソビエトの弾圧に耐えかねた旧貴族やユダヤ人たちが、それこそ数万人単位で逃げて来た。この人たちは、前途に夢を持つことも出来ず、虚ろな眼差しをして、トランク一杯に詰めた家財だけを頼りに、トルコの首都の桟橋で次の船が来るのを待っていた。

 

ギリシャ語を話すトルコ人、トルコ語を話すギリシャ人も、引っ切り無しに現れた。これは、トルコ政府がギリシャ政府と取り決めた「住民交換」に基づく人の動きである。両国政府は、将来の紛争の種を無くすため、それぞれの国内に居住する相手国人を交換することにしたのである。スミルナの大虐殺を経験したギリシャ人は、今や100万人規模でバルカン半島への道のりを辿った。ギリシャからも、50万人のトルコ人がアナトリアへの道筋を辿る。そんな彼らは、家財一式をカバンにつめて、南京虫と虱を我慢しながら、イスタンブールの木賃宿で船を待っているのだった。

 

厳しいようだが、「民族自決」を本気で考えるなら、ここまでやる必要がある。前述のように、一つの土地には複数の民族が入り混じって住んでいるのが普通なのだから、地図の上に線を引くだけではなく、人間まで移動させなければ本当の「民族自決」にはならないのだ。第一次大戦後の列強がこうした努力を怠ったため、後に第二次世界大戦やボスニア紛争、そして中東紛争やクルド人問題が起きたのである。そういう意味では、「住民交換」を断行したトルコとギリシャの賢さは、特筆されるべきであろう。

 

そんな喧騒の中、ケマル・パシャは、お忍びでペラ地区の居酒屋キリムに来ていた。

 

相変わらずの簡素な丸テーブルの向こうに座るのは、薄絹を纏った踊り子だ。

 

「ザラ、痩せたね。苦労したんだろ」

 

「まあね。カリフ擁護軍団の原理主義者に、反イスラムと呼ばれて殺されそうになったときは、いよいよ年貢の納め時と思ったわ。幸い、ねんごろになったイギリス軍の士官が助けに入って匿ってくれたの。しばらくはそいつの宿舎にいたけれど、国に帰ってしまったからね。またベリーダンスを始めたってわけ」艶めいた黒髪の女性は、紫煙を巻き上げる。「まだ生きていられるのが不思議ってものよ。これも、ガージーのお陰」

 

「俺も、生きていられるのが不思議なくらいだ」ケマルは、この女性にはなんでも素直に話してしまえる。「何度、もう駄目だと思ったか分かりやしない。カリフ擁護軍団にギリシャ軍10万。今思い返しても、背筋が凍りつくほどだ。我ながら、良く勝てたな」

 

「すごいよね」ザラは微笑んだ。「もう、カリフ擁護軍団もギリシャ人もいなくなったんだよ。イギリス人もフランス人もイタリア人も、みんないなくなった。そういえば、売国奴の皇帝さんは、今ではイタリアのサン・レモで生活しているんだってね」

 

「そうとも、今やトルコは、トルコ人だけの国になったんだ。もちろん、ユダヤ人やアルメニア人やクルド人もいる。ギリシャ人の中には、母国への移住を拒否して残った者がいる。でも、俺はこの人々をみんな『トルコ人』と定義するつもりなんだ」

 

「ちょっと強引な気もするけど」ザラは笑った。「単一民族国家の完成ってわけね」

 

「そうとも。近代化のための第一の柱は達成されたんだ」

 

「第二の柱も、実現させるつもりでしょ?」女は、目を光らせた。

 

「そうとも」男は、ラクのグラスを拳の中で回しながら、厳粛な面持ちでうなずいた。

 

第二の柱とは、すなわち「政教分離」である。これは、「救国戦争」以上に困難が予想される大事業である。ガージーは、前途を思って武者震いした。

 

「今夜は、3年ぶりの再会を祝してとことん飲もう。君の家に行ってもいいだろう?」

 

「あなた、結婚したんじゃなかったっけ?」

 

「固いこと言うなよ。柄でもない」

 

「それもそうね」ザラは満面の笑顔の中で、悪戯っぽく赤い舌を出した。

 

甘い夜は、こうして更けていく。

 

 

 

 

 

新しいカリフ、アブドルメジド2世は、男も惚れる好人物だった。

 

前任者メフメット6世と同じ血を引くとは、とても思えない。

 

西欧式の高い教養、全身から溢れ出る気品。

 

カリフが、美麗な白馬に乗ってアヤ・ソフィアに現れたとき、参拝に来た数万の信徒は心からの祝福の声をあげた。カリフは、ウシュキダルの礼拝に出席するさい、黄金色の船でマルマラ海を渡った。沿岸に集う信徒たちは、あまりの美しさに涙を流したという。

 

西洋画を得意とする54歳のカリフの客間には、香気を放つキャンバスがいくつも並べられている。表敬訪問にやって来たケマルは、カリフの好意によって肖像画のモデルとなった。イスラム教は、「人間を芸術的に表現すること」に否定的なはずだが、西欧的教養に溢れるカリフは気にしないようだった。そして、完成した素描はまさに芸術品だった。

 

「素晴らしい」ケマルは、キャンバス上の自分を見てため息をついた。「パリの美術展に作品を出展されるおつもりはありませんか?トルコ政府は全面的に協力しますよ」

 

35歳のとき、静物画がルーブルに展示されたことがあるんですよ」貴人は、照れながら言う。

 

「本当ですか。それは、すごい」ケマルは、素直に声を上げる。

 

「でも、今の私は」アブドルメジドは、上品で柔和な声で言った。「イスラムのカリフです。3億の敬虔な信徒たちを教え導く以外、興味はありません」

 

「その尊いお言葉を、全世界に知らせてあげたい」ケマルは微笑んだ。

 

アブドルメジドの言葉に嘘は無かった。芸術家肌の教養人であるカリフは、世俗の権力にはまったく興味がなかったのである。彼は、絵画とバラ栽培とペルシャのミニアチュールの収集が出来れば、それだけで幸せだった。

 

しかしケマルは、客間に飾られたいくつもの肖像画に抜かりなく目を走らせた。ヒュセイン・ラウフ、ベキル・サミ、カラ・ヴァースフ、カラ・ケマル、カラベキル、アリー・フアト、そしてレフェトとアリフの顔もある。

 

カリフを慕い、カリフを崇める者たちは、政府内に増える一方だった。彼らは、間違いなくガージーの敵となるだろう。

 

すでにケマルは、「カリフ制の廃止」を視程内に入れていたのである。「政教分離」を達成し、トルコを近代国家にするために、それは不可欠の道筋であった。

 

アブドルメジドは、そんなこととは露知らず、上品で柔和な表情で救国の英雄を見つめるのだった。

 

 

 

 

 

「俺は、独裁者になる必要がある」

 

アンカラに帰ったケマルは、幾度もの煩悶の末、そう結論せざるを得なかった。

 

今のトルコ議会は、無数の小粒な政党によって百家争鳴の状態だ。立憲君主制主義者、社会主義者、宗教原理主義者、青年トルコ党の残党。これら、立場をまったく異にする議員たちの議論に任せていたら、いつまで経っても構造改革は進まない。

 

つい先ごろも、「トルコの政体を共和制とし、首都をアンカラに遷したい」というケマルの談話が新聞に発表されると、議会は大混乱に陥り、その責任を取る形でフェトヒ首相が辞任するという一幕があった。ケマルの意見に反対な者が多いのは構わない。それこそが民主主義だから。しかし、有効な反対提案が出てこないのでは意味がない。抵抗勢力は、百家争鳴で確たる意見を持たないくせに、ケマルに文句だけ付ける。そのような民主主義なら、停止する方が国民のためになるだろう。

 

しかし、気が重かった。ルソーやモンテスキューに憧れる彼は、民主主義の信奉者だったからだ。だが、今のトルコでそれをやるのは無理だ。そのことは明らかだった。

 

「こうしよう。俺は、構造改革が達成されるまでの独裁者になろう。そして、トルコ国民が十分に成長したなら、俺は自らその地位を降りよう」

 

決意を固めたケマルの前に、ついに機会が訪れた。

 

抵抗勢力となることが予想されるヒュセイン、カラベキル、アリー・フアト、ヴァースフ、アドナン博士らが、行政視察のために一斉にアンカラを離れたのである。

 

1020日、ケマルは、チャンカヤ丘の上に建てた官邸に内閣の閣僚全員を呼び寄せた。その中には、彼が心から信頼するイスメットやフェヴジやフェトヒの顔もある。

 

「君たちに、大臣職を辞職してもらいたい」

 

議長の意外な言葉に、閣僚たちは動揺した。

 

「その間、私はこの家に立てこもって姿を見せない。そうなると、百家争鳴の議会は、閣僚を選出することが出来ず混乱状態になるだろう」

 

「ムスタファ」フェトヒ元首相は、引きつった声をあげた。「いや、議長、あなたはいったい何を考えている!」

 

「君が想像しているとおりのことだ」ケマルは、旧友の瞳をじっと射た。「だが、俺を信じてくれ。今は、そう言うしかない」

 

「私は信じます」イスメットが叫んだ。「パシャの行為は、たとえ後世の非難を浴びようとも、必ず国民の幸せとして跳ね返った。我々は、そのことを何度も何度も見てきたから、だから信じます」

 

「やりましょう、ガージー」フェヴジが、己の両膝を強く叩いて言った。「国民の幸せのために、どこまでも行きましょう!」

 

「ありがとう、諸君」ケマルは、頬を引き締めた。

 

この翌日、内閣が総辞職を行い、人民党が新たな閣僚を出さない旨を宣告すると、案の定、小粒な政党ごとに細かく分かれる議員たちは混乱状態に陥った。互いにいがみ合う彼らは、つまらない事で口論に陥り、新政府を組織しなおすどころか殴り合いを始める始末だ。

 

混乱が長引き、誰もが焦燥に陥った1028日、イスメットが議場に登壇し、そしてケマル・パシャによる調停を提案したのである。もはや、ガージーの権威でしか事態を収拾する手段はないと思われたからだ。

 

こうして議員代表団は、チャンカヤの丘を登る。

 

しかし、ガージーは首を縦に振らない。

 

悄然として丘を降りた議員代表団は、国会議事堂の中で飽きもせず口論と乱闘を繰り広げる仲間たちを見て、深い挫折感を味わったのである。

 

この翌日、二度目の議員団がチャンカヤで頭を下げ、「どうか、国民の義務を捨てないでください」と哀訴した。

 

ケマルは、腰を上げる意思を示した。ただし、その条件は、「自分の提言の全てを議会が無条件に受け入れ、それを最終的なものにすること」。議員たちは、解決を焦るあまりこれに同意した。そして、ケマルに要求されるままに文書をもって確約したのである。

 

こうして官邸を出たケマルは、議会の入り口で人民党の仲間たちと合流した。イスメット、フェヴジ、フェトヒらは、互いに顔を見合わせて強くうなずいた。ガージーは彼らとともに登壇し、そして満座に告げた。

 

「この難局は、諸君の能力不足によって生じた悲劇である。そして、この悲劇は現在の政府形式の根本的欠陥から生じている。現在の議会は、立法権と行政権を同時に行使しようとしているが、これは誤りだ。右手と左手が、互いに押さえ合っていては政治にならない。そこで私は提言する。議会は、従来どおり立法権を司るが、行政権はその全てが大統領に与えられるべきであると。トルコは、行政権すべてを総覧する大統領をいただく共和国に生まれ変わるべきなのである!」

 

議員たちは、騒然となった。あまりに意外な成り行きだった。

 

ケマルは、かまわず続けた。「トルコ国家の政体は共和制である。共和国は議会によって管理され、議会は大臣を通じて各省庁を監督し、そして大統領を選出する。大統領は国家元首であり、閣僚会議と議会を主宰し、首相を議員の中から選出する。閣僚名簿は、大統領によって議会に提出されその承認を受ける!」

 

議員たちは、何も言い返せなかった。彼らには、この筋道だった提言にぶつけられるようなヴィジョンが無かったからである。そもそも、ケマルの提言に逆らわないよう、すでに文書で確約してしまっている。

 

「ガージーの提言について、採決を行います!」フェトヒが叫んだ。

 

その結果は、賛成158、反対ゼロ、棄権若干名であった。

 

時に19231029日午後8時30分。

 

トルコ共和国が正式に誕生した瞬間である。

 

引き続いて大統領選挙が行われた。

 

午後8時45分、なし崩し的にケマルが大統領に選出された。初代大統領ケマルは、イスメットを首相に指名し、彼を新政府の首班に任命したのである。

 

ヒュセイン、アリー・フアト、カラベキルが急を知って駆けつけたとき、すでに大統領選挙は終わっていた。彼らは抗議をしたが、もはや手遅れだった。

 

その夜のうちにこの報は全国の国民に知らされ、各地で祝砲が打ち上げられたのである。

 

「トルコ共和国、ばんざーい!」「ジュムフリエット(共和国)って、どういう意味なんだい?」「知らないよ、でも、ガージーが大統領になったんだ。それで十分」「で、ジュムフルバシュカヌ(大統領)って、なに?」「大統領っていうのは、国で一番偉い人のことだ。なら、決して悪いようにはならないさ!」「そうだな、灰色の狼のやることに絶対に間違いはないもの」

 

国民は、この流血を伴わないクーデターに完全に納得していた。彼らは、心の底からケマルを信じていたからである。

 

こうしてケマル・パシャは、議会を経て「合法的な独裁者」となった。

 

 

 

 

 

ヒュセイン・ラウフの怒りは、ついに頂点に達した。

 

「成り上がりの田舎者は、あの飲んだくれの破戒者は、ついに祖国の独裁者になったか!ムソリーニの同朋になったか!」

 

「青年トルコ党」の幹部だった彼は、もともと立憲君主制を志向しており、スルタン制の廃止にも反対だった。あれは、彼が外遊している隙に勝手に議会が決めたのである。そのことも腹立たしいが、それ以上に頭に来たのは、ローザンヌ会議の代表が、彼ではなく貧相な軍人イスメットに決まったことだ。しかもイスメットは、首相(当時)であったヒュセインの頭越しに、勝手にケマルと図って重要事項を決めるのが常だった。ヒュセインは、あの重要な国際会議において完全に蚊帳の外に置かれてしまったのだ。彼には、自分がもっとコミットしていれば、「海峡問題」でイギリスに妥協せずに済んだという強烈な思い込みがあった。

 

しかも、いよいよ「アンカラの飲んだくれ」は本性を顕して独裁者となった。それに加えて、国家の首都を、カリフの座すイスタンブールから自分の家があるアンカラに移すという冒涜行為を行ったのだ(1013日)。

 

「あいつを倒さない限り、トルコに未来はない!」

 

そう思い定めたヒュセインは、ドルマバフチェ宮殿に入り浸った。ヴァースフやカラベキル、アリー・フアトら、程度の差はあれケマルに反感を抱く者たちも、ヒュセインに習った。彼らが輪になって囲む貴人はカリフ、アブドルメジドである。

 

ケマルの旧い友人であるアリフとレフェトも、いつしかこのサロンの一員となっていた。彼らの場合、ケマルに対する反感からというよりは、一人の敬虔なイスラム教徒として、人間的魅力に溢れるカリフに惹かれてのことだった。しかし、首都がアンカラに定められたことは、敬虔な彼らを不安にさせた。カリフが住むイスタンブールを、単なる一都市に位置づけるのは、明らかな冒涜行為だったからだ。彼らは、「友情」と「信仰」の深刻なジレンマに悩まされたのである。

 

ヒュセインは、そんな彼らを巧みに誘った。アンカラの飲んだくれは、神聖なカリフを滅ぼそうとしているのだ。ケマルはやはり「法敵」なのだと。

 

イスラム教は普通の宗教ではない。人生の全てを、尊い教えのために捧げなければならない。人生の意義は、アラーのためにある。アラーの前では、愛情も友情も犠牲にしなければならない。こうして、信仰心に篤いアリフとレフェトは、カリフを守るために旧友と戦う決意をしたのであった。

 

ヒュセインにとって都合の良いことに、カリフ・アブドルメジドはケマルに対して悪感情を抱くようになっていた。大統領に宮廷費用の増額を要請したところ、けんもほろろに拒否されたからである。陳情に赴いたシェイフェル・イスラム(イスラムの長老)は、分厚いコーランを額にぶつけられて、大きなタンコブをこさえてイスタンブールに戻ってきた。国家財政の貧弱さに悩んでいたケマルは、能天気な口調でカネをねだる聖職者の態度に激怒したのであった。

 

カリフのサロンは、こうして「反ケマル派」の温床となった。彼らは、ケマルが不当な手段で国家を乗っ取ったことを非難し、彼の品行の悪さを大々的に宣伝して人気を落とそうと謀ったのである。

 

しかし、これは全く効果がなかった。

 

トルコ国民は、ケマルが大統領になったことを心から喜んだのだ。その大統領が、好色で酒好きであると聞いても、別になんとも思わなかった。かえって、「たのもしい」と感じる者が多かったくらいだ。

 

裕福な家庭でエリートとして生まれ育ったヒュセイン・ラウフには、こうした民衆感情がまったく読めなかったのである。

 

 

 

 

 

ヒュセインの策動を見て、ケマルは「カリフ擁護軍団」の悪夢を思い出した。

 

あれは悲惨だった。同じ国民同士が、お互いを「法敵」呼ばわりして、斬首したり焼き殺したりしたのだから。

 

イスラム教は信徒の人生全てを拘束するから、イスラム教に基づく憎悪はまったく手が付けられなくなる。狂信者は、命に代えても「法敵」を倒そうとするだろう。

 

なにしろ、アリフとレフェトの2人が敵に回るほどなのだ。ケマルがイスタンブールからサムソンへの長い旅路に出たとき、心から感激して同行してくれた2人なのに。

 

だからこそ、彼は「カリフ」を無くさなければならなかった。

 

アブドルメジド自身は、野心を持たない好人物かもしれない。しかし、カリフという社会的地位は、それだけで野心家や狂信者やはぐれ者を吸引する強力無比の磁石となる。そして、外国が侵略行為を仕掛ける時の好都合な梃子となる。

 

しかも、カリフの背後にいるウレマーら宗教勢力は、間違いなく国政に干渉して、「聖典コーラン」と律法を盾にとり、すべての近代化を挫折させようとするだろう。かつて、オスマン帝国を骨の髄から弱らせたように。

 

決意を固めた大統領は、得意の遊説を始めた。彼の味方は、あくまでも国民である。彼は、オスマン帝国の歴史を語りながら、カリフ制とイスラム体制の悪をしきりに強調した。

 

「オスマン帝国の時代、カリフとイスラムの長老が唱えた聖戦の名のもとに、多くの若者が砂漠の果てで命を落とす日々が続きました」「宗教が政治に嘴を挟む行為は、文化や技術や経済の発展を阻害し、人々を貧困に追いやり不幸にするだけです」「3年前、外国に魂を売り渡したカリフの暴威は、我々全部を殉死寸前にまで追い詰めたばかりです」

 

ケマルの言うことはすべてが事実だったので、国民は次第に大統領の主張に耳を傾け始めたのであった。

 

しかし、カリフ制の廃止というのは、スルタン制の廃止とは次元がまったく違う。

 

スルタン制は、しょせんはトルコ内部の話である。総人口1000万人の国家の中で、600年間続いた王朝をどうするかという話である。

 

しかし、カリフ制はもっと深い。これは、全世界3億人のイスラム教徒がからむグローバルな問題なのである。7世紀の偉大な預言者マホメッドの時代から延々と続く、イスラム世界全体の大問題なのである。

 

ケマルは、慎重の上に慎重にならざるを得なかった。

 

こういう場合、焦って先に動いたほうが負けになる。

 

勝負を決めたのは、ヒュセイン陣営の軽挙妄動であった。

 

 

 

 

 

アブドルメジドは、カリフとして、全世界のスンニ派イスラム教徒と連絡を取り合っていた。彼の最も親しい文通相手は、インドのアガ・カーンとアミール・アリーである。

 

192312月5日、トルコ国内の不穏な情勢を知ったアガとアミールは、カリフ制の存続を支持する内容の手紙をイスメット首相に送った。しかし、この手紙の内容は、イスタンブールのカリフサロンに漏れていた。ヒュセインは、側近リュトフィに命じてその内容を新聞三紙に配信したのである。彼は単純に、カリフ制擁護の世論を煽る材料として都合が良いと判断したのであった。

 

だが、ケマルはこのときを待っていた。イギリス植民地に住むアガとアミールを「イギリス帝国主義者の手先」だと決めつけ、彼らが手紙で国内の混乱を煽った真意について「イギリスが再びトルコの分割占領を狙う前兆だ」と論断したのである。

 

「ふざけるな!」カリフもヒュセインも仰天した。「言いがかりもはなはだしい!」

 

しかし、世論はケマルに味方したのである。

 

3年前、イギリスに魂を売り渡して祖国を裏切ったメフメット6世の悪夢は、未だに人々の胸に生々しかった。彼らは、また同じことが起きるのではないかと恐怖したのだ。

 

この恐怖は、必ずしも杞憂ではなかった。ヒュセインとケマルの対立は、第二の宗教戦争に繋がる可能性が極めて高かったからだ。ケマルは、インド人の手紙を巧妙に利用して、この恐怖の種を未然に摘み取ろうとしたのである。権謀の臭いをさせながらも、国民の生存本能に強く訴えかけたのである。

 

ケマルは、速やかに独立法廷を設置した。そして、早くも12月8日、新聞三紙がインド人の手紙を公表した行為を「祖国反逆罪法」に抵触するとして検断。逮捕された新聞社の責任者たちは、さんざん絞られた挙句に翌年1月2日に釈放された。その間、ヒュセインの側近リュトフィは、やはり独立法廷で裁きを受け、5年の懲役刑を言い渡された。

 

ケマルの猛烈な攻勢に、ヒュセインは震え上がった。そんな彼のもとに、首都から召還状が届いた。「速やかにアンカラの人民党中央委員会に出頭して、共和国と大統領に忠誠を誓いたまえ。さもないと、議員資格の剥奪と国外追放が君を待っている」。

 

彼は、恐怖を全身に漂わせながら、この命令に従わざるを得なかった。

 

ヒュセインのサロンは、こうして呆気なく崩壊したのである。

 

やがて議員たちと軍に対する根回しが完了し、いよいよ時が来た。

 

1924年3月3日、アンカラの共和国議会は、挙手による圧倒的多数で「カリフ制の廃止」を決議したのである。これに伴い、シェフェル・イスラムもウレマーも廃止された。メドレセ(ウレマーを養成する宗教学校)もシャリーア(宗教法廷)も閉鎖された。

 

3月4日の早朝、ドルマバフチェ宮殿に踏み込んだ憲兵隊は、アブドルメジドを容赦なく連れ出すと、スイスまでの旅費と当面の生活費が詰まったトランクを渡して、オリエント急行の客席に押し込んだ。イスラム世界で最後のカリフは、この悲劇が続く間、呆然として何の感情も見せることが出来なかった。すべては、悪夢の中にいるかのようだった。彼は、夢遊病者のようだった。

 

イスタンブールに残されたオスマン朝の残りの皇族も、この2日後に全員が国外追放となった。歴代皇帝が、せっせとハレムで励んで作った子孫は数百人もいた。彼らは、何をするでもなく、毎日を国費で養われて送っていた。それが、いきなり追放である。彼らの中には、追放先の海外で石鹸売りや墓守に身を落とした者も多かったという。

 

ケマルは、容赦しなかった。

 

イスラム世界に冠たるカリフ制は、一瞬にして消滅したのであった。

 

実に、あっけない最期であった。