第二十五章 日本との友情

 


 

 

 

 

1927年の半ばになると、人々は次第に改革の効用を理解するようになっていた。

 

「西洋帽って、便利だよね。簡単に折りたたんでカバンに入れられるし、鍔がついているから雨風や日光を防ぎやすいもの。どうして、今までフェズなんか被っていたんだろう。あんなの、かさ張るだけで、何の役にも立ちはしない」

 

「それよりも西暦だよ。種まきや収穫の時期が、カレンダーを目安にすれば簡単に分かるようになったんだ。今までの暦だと、春夏秋冬と月日がまったく噛み合ってなかったから、農作業や放牧には何の役にも立たなかったけどな」

 

「断食月(ラマダーン)も、毎年9月と言いながら、その年によって夏だったり冬だったり。真夏の断食は正直言って辛かったけど(水も飲めないから)、暦が変わったおかげで、いよいよあの辛さから解放されるんだな」

 

「いやあ、本当に便利な世の中になった」

 

「ほら、仕立屋のマグダが歩いてきたよ」

 

「今まで気づかなかったけど、すごい美人だよな。髪は金色だったんだなあ」

 

「近頃は、女たちが素顔で街に出るようになったから、目の保養になって良いよね」

 

「これで大統領も、街の美女に唾をつけやすくなったわけだ」

 

「実は、それが目的の改革だったりして」

 

「あははは、そういえば、酒の売買も解禁になったらしいな。国の専売事業になると聞いたけど」

 

「酒豪の大統領が、いかにもやりそうな改革だねえ」

 

「さあ、次はどんな改革だろうな!」

 

 

 

 

 

ケマルは、執務の暇を見てはアンカラ郊外の「農業試験所」で過ごした。

 

ここは、小麦、大麦、ライ麦をはじめとした穀物の品種改良をし、様々な実験農場を営むための施設だった。

 

完璧主義者の大統領は、土いじりも自分でやらなければ気が済まなかった。種まきや作付けなどを農学部の教授や学生たちと共に行い、いろいろな意見を出し合った。

 

「私は、少年のころ、伯父が営む農地に手伝いに行かされたものだ。あのころ嗅いだ、香ばしい土の臭いを思い出すよ。懐かしいな」

 

率先して鍬入れをする大統領の姿は、研究員たちを発奮させた。

 

研究成果はみるみる上がり、乾燥し赤茶けたアナトリアの大地は、品種改良で強くなった穀物によって、次第に緑の絨毯に覆われて行ったのである。

 

収穫は増え、そして安定した。

 

これを見た農民たちは、勧業銀行から資金を借りて、積極的に農地開拓を行うようになった。そんな彼らを助けたのは、農地と農地を有機的に結ぶ鉄道網だ。豊作地域の余剰食糧は凶作地域に速やかに運ばれ、いわゆる豊作貧乏や飢餓から人々を救ったのである。

 

農地面積は、1920年の1829000ヘクタールが、1938年には6338000ヘクタールに増大していた。穀物の収穫量は、1920年の849000トンが1938年には6802000トンになっていた。綿花、菜種、タバコ、イチジク、ブドウなども、約15年間で5倍以上の伸びを示した。

 

こうして、わずか15年で、トルコは食糧の輸入国から輸出国へと躍進したのである。トルコの農民は、飢えに悩まされるどころか、生産物の輸出によって貯金を蓄える余裕さえ出来た。こんなことは、何百年来無かったことだった。

 

「ガージーは、神様のようなお方だ」農民たちは、心の底からケマルに感謝を捧げるのであった。「ガージーに足を向けては寝られない」

 

トルコの農民たちは、今でも小麦のことを「ガージーの麦」と呼ぶ。

 

21世紀のどこかの東洋の島国は、食糧自給率が40%に満たないというが、少しはこれを見習ったらどうだろうか?

 

 

 

 

 

農業だけではない。

 

トルコ人は、かつて外国人に委ねていた商業と工業を、自分たちで営み始めたのだ。

 

最初のうちは試行錯誤に基づく失敗が多かったが、ケマルは国家資本を用いて民間の商工業者を手助けした。赤字になりそうな事業は国家が運営するが、利益が見込めそうな事業は民間に委ね、国家がそれを支援する。これは、明治維新のときに日本が採用して成功した手法である。

 

それと平行して、優秀な学生たちを国費でヨーロッパに留学させ、先端技術を学ばせた。これも、明治維新を参考にしたと思われる。

 

しかし、「国民の幸せ」を最優先するケマルは、日本のような「富国強兵政策」は採らなかった。彼は、軍需などの重工業ではなく、国民の生活に直結する軽工業に重点投資したのである。

 

1924年に設立された勧業銀行は、民間資本の蓄積のためにフル稼働した。

 

そして、1927年の「産業奨励法」により、政府に認可を受けた企業は、10ヘクタールまでの土地が無償で供与され、公共料金が無料となる上に免税特権などの様々な優遇措置を受けられることになった。

 

以上の結果、農具や工具、紡績、砂糖(原料は甜菜)やセメントといった事業が、長足の成長を遂げたのである。1926年には2万5000トンだった砂糖の生産量は、1952年には163000トンになった。1928年には8万トンだったセメントの生産量は、1952年には100万トンを超えていた。

 

1928年からは、各地に強力な火力発電所が建設され、工業力の成長を大いに助けた。

 

そして、アフガニスタンやペルシャといった周辺諸国は、トルコの成功に感銘を受けて、次々に留学生を送り込んできた。

 

何よりも、トルコ国民は、日増しに良くなっていく生活水準に喜び、政府を称える声が市井に溢れ出たのである。

 

「私のやり方は、決して間違っていなかったのだ」ケマル大統領は、執務室の窓から、華やかさを増したアンカラ市を満足げに見渡した。

 

景気回復とそれに伴う未来への希望は、出生率の増加と人口の急増をもたらし、それが新築ブームをもたらした。何しろ、10年足らずで人口が300万人も増えたのだ。大統領官邸の周囲にも次々に新しい家が建った。大工や左官が、チャンカヤ丘と市街を忙しそうに往復する様子が見える。

 

やがて彼は、執務机の写真立てに目をやった。そこには、救国戦争当時の仲間たちや母の遺影に混じり、精悍な東洋人の写真が飾られていた。

 

ケマルは、改革の前途の重さに挫折しそうなときは、この東洋人の写真を眺めて闘志を鼓舞するのが常だった。

 

「明治天皇睦仁どの」

 

ケマルは、写真の中で微笑む、東洋の偉大な帝王の名を親しげに呼んだ。

 

そして、最近ひんぱんに訪れるようになった日本の客人たちを懐かしく想い起こした。

 

 

 

 

 

日本政府は、明治維新以来、白人列強との外交関係を最優先にしていた。そのため、大正時代に入っても、欧米の9ヶ国にしか大使館を有していなかったのである。

 

しかし、トルコ共和国が英雄的な大統領に率いられて長足の進歩を遂げていると聞き、トルコと外交関係を樹立した上で、貿易の可能性を探ろうと考えたのであった。

 

1925年3月に、イスタンブールに大使館を設置。これは、日本国で10番目の、そしてアジア地域では初めての大使館である。11月に赴任した小幡酉吉(ゆうきち)大使は、さっそくアンカラにケマル大統領を訪ね、その印象を書き残している。

 

「大統領の風采は、背丈割合に高く巌丈の体格なるがごとく、眼険大に眉と相迫り、眼光は炯々として光るも頬やや落ち、頬骨高く顔色いささか憔悴蒼白すこぶる意思堅剛、神経質らしき相貌なり。音吐は荘重強みある語気にて平生無口の人らしく見ゆ。余、これまで多くの内外人と握手を交わしたるも、真にその偉大さを肉感したるはケマル大統領と支那(中国)の袁世凱の二人なるを感ず。とにかく、尋常人にあらざるが如き印象を得たり」

 

また、トルコの国情については、大統領の政教分離政策を大いに称え、国民がいかに大統領を信頼し尊敬しているかを、驚きを持って書き記している。

 

肝心の貿易についても、小幡の精力的な活躍のお陰で良好に進展した。当時の日本は、関東大震災などで大きな経済的打撃を受けており、新たな貿易ルートに活路を見出そうとしていたのである。

 

1925年に設立された「日土貿易協会」は、日本一のトルコ通である山田寅次郎を理事長に招き、トルコとの貿易の仲介を開始した。日本からの輸出品は、繊維製品、製茶、工芸品など。トルコからの輸入品は岩塩、綿花、羊毛、羊皮などであった。

 

1933年、イスタンブールに出張中の山田理事長は、ケマル大統領から「共和国建国記念式典」の招待状をもらった。1029日は、ちょうど共和国成立から10周年の記念日なのである。山田は、喜んでアンカラ行きの汽車に乗った。

 

その日は、朝から盛大な観兵式が行われ、夜は各国大使や政府要人や名士を総攬した大晩餐会が開催された。

 

パーティーの最中、黒いモーニング姿の大統領は、笑顔で山田に語りかけた。

 

「山田先生、私を覚えていらっしゃいますか?」

 

「いいえ」日土貿易協会理事長は、きょとんとして首を振る。

 

「イスタンブールで日本語の教鞭をとられていたころ、私は少壮将校の一人として日本語を教えていただきました」

 

「ああ」山田は微笑んだ。

 

もう30年も昔のことだ。あのころの山田は、イスタンブールのペラ大通りで貿易商を営む青年だった。仕事の合間に日本語の先生をしていたのだが、オスマン帝国将校の顔など一々覚えていない。ただ、妙に眼光の鋭い長身の青年がいたことを思い出した。もしかすると、あれがケマル大統領の若き日の姿だったかもしれない。

 

若いころからトルコの魅力に取り付かれた山田は、しかし、政府がらみの裏の仕事もやっていた。あの当時、彼が日本政府に依頼された使命とは、日露戦争に備えてロシア黒海艦隊の動静を見張ることだった。日本海海戦の前夜、ガラタ地区の借家に双眼鏡を抱えて立て篭もった山田は、バルチック艦隊に合流するべくボスポラス海峡を抜けた黒海艦隊の艦船の種類と隻数を漏らさず東京に通報し、それがあの大勝利に直結したのであった。早い話、山田はスパイだったのである。

 

ケマルは、そのことを知っていたのだろうか。にこやかに、日本の海軍大佐と会見したときの模様を語り始めた。

 

 

 

 

 

それは、1926年9月のこと。

 

山本英輔海軍大佐は、親善友好のために練習艦「出雲」と「八雲」を率いて七つの海を越えた。「出雲」と「八雲」は、日露戦争でバルチック艦隊を撃破した装甲巡洋艦である。さすがに、20年の歳月は殊勲艦を型落ちにせざるを得ず、現役を引退した2艦は、水兵に軍艦と海を教えるための練習艦になっていたのだった。

 

山本大佐は、イスタンブールに入港すると、さっそく小幡大使に面会してケマル大統領との接見を依頼した。大佐は、英雄の呼び声高き大統領との会見を心待ちにしていたのだ。

 

チャンカヤの官邸に東洋の客人を迎えた大統領は、山本から日本海海戦の物語を興味深く聞いて、こう言った。

 

「私は、日本を近代化の先輩だと思っています。日本海海戦の結果をシリアの兵舎で聞いたときは、我が事のように喜びました。トルコ人は、みんなそうです。日本に勇気付けてもらえなければ、今日のトルコの姿はなかったでしょう」

 

山本大佐は、ケマル大統領から強烈な印象を受け、次のように書いている。

 

「モーニングを着て、時計の鎖をチョッキの上ポケットに騎兵型に付け、ハンカチの端を上着のポケットから覗かせた彼は、骨格逞しき一個の偉丈夫である。彼を特長づけるあくまで濃い眉、鋭い眼、相手の足許から上へ見上げる癖、白人に近いまでに見ゆる白皙な顔、やや赤みを帯びた健康そうな双頬、薄い唇を固く結んで顎の細く突き出た男性的姿態。一見すると彼は全身、意思の結晶のようである。そして、爛熟の極に達した旧都(イスタンブール)を捨てて、砂漠のごとく荒涼たるアンカラに鍬をとるにふさわしい風雲児であります。

本年48歳(実際は45歳)のケマルは、過去十五年間にバルカン第一次、第二次の戦争、世界大戦と引き続いた戦争の惨禍に、疲弊しつくした国内の情勢を達観し、ロシアを初め隣邦諸外国と平和的外交態度に出て、教育、鉄道、衛生、産業等鋭意内治に専念し、往年師団長としてガリポリ半島に英仏連合軍を粉砕した意気をもって、新興トルコの運命を開拓していくであろう事を、私は信じて疑わぬのであります」

 

この山本の期待は、まさに寸分たがわず実現されるであろう。

 

 

 

 

 

ケマルと旧交を温めた山田は、再び汽車に乗ってイスタンブールに帰った。

 

車窓の田園風景は、オスマン帝国時代とは比べ物にならない。農地は増え、工場も増え、何よりも人々の幸せそうな笑顔で満ちている。

 

彼は、イスタンブールの風景を次のように活写している。

 

「昔のトルコの男子はトルコ帽、女子は白い顔隠しをしていたが、今では男はヨーロッパ人同様の帽子を、女は外国服になり、顔を包むなどは昔の写真で見るくらいで、また令嬢たちも昔は人目を避けたのに今では街頭で隊伍を組み、旗なぞを押し立てて闊歩しているのを見て、その推移の甚だしさに一驚した。これはもとより政体の変化と、大戦後外来の刺激のためであるが、昔を知る私にとっては全く隔世の感があった。ようやく通行人のトルコ語の話を聞いて、初めてトルコへ来たことに気のついたくらいである。しかしこれは、ケマル・パシャの出現によって国運の進展を促したためであろう」

 

山田寅次郎は、帰国後も日本とトルコの友好親善のために働き続け、1957年に91歳で他界する。

 

ところで、トルコ人は今でもたいへんな親日家である。

 

その理由は、彼らの近代化が日本から学んだお陰で成功し、そのことを建国の英雄ケマルが良く語っていたからであろう。

 

日本人は、そうした誇り高き歴史を良く自覚し、もっともっと国際親善に生かしていくべきだと思う。