第二十七章 民主主義を目指して

 


 

 

 

 

192910月、ウォール街から発した世界大恐慌という名の大暗雲が世界を覆った。

 

この暗雲は全世界の資本主義国家に大ダメージを与え、このダメージがそのまま悲劇的な第二次世界大戦に直結するであろう。

 

トルコ共和国は、外資導入を頑なに拒絶する姿勢が幸いして、それほどの経済的打撃を受けなかった。しかし、輸出先の購買力の急激な低下は、各種産業や国家歳入にマイナスの影響を及ぼさざるを得ない。輸出用穀物の価格下落は、商人や農民の窮乏化を招き、やがて深刻な社会不安となった。

 

しかし、共和人民党による一党独裁が長く続くこの国の政情は、すでに党組織の「官僚化」を招いていた。救いを求める市井の生の声は、尊大ぶる役人や党細胞によって、無視されたり握り潰されたりしたのである。

 

1930年の春、久しぶりに全国遊説に出たケマル大統領は、こうした実情に気づき、深く憂慮した。このままでは、政府と国民感情が遊離してしまう。

 

その年の8月、ケマルは私邸にイスメットやフェヴジを招き、ある腹案を示した。

 

「治安維持法と独立法廷を廃止した上で、一党独裁制を停止しよう。そして、この国を本物の民主主義国家にしよう」

 

「野党を作るのですか」イスメット首相は、さすがに首をかしげた。

 

政権与党が、政策的に野党を作るなんて話は聞いたことがない。

 

ケマルは言った。「今日の共和人民党は、その絶対的な権力に安住し、国民の心を忘れかけている。そして、党がひとたび腐朽官僚組織に堕落してしまえば、善意の顔をして無意識に巨悪を働くようになる。これを防ぐためには、議会内に敵対的な野党を設けて、与党の政策を厳しく批判して緊張感を持たせるのが一番だ」

 

「なるほど」フェヴジはうなずいた。「そうなれば、経済恐慌によって生じた国民の不満を上手に逸らすことができますね」

 

ケマルは、盟友によって半ば図星を指されて鼻白んだ。

 

もう一人の盟友イスメットは、しばらく考えていたが、慎重に切り出した。

 

「私は反対です。共和国の抜本的構造改革は道半ばで、しかも世界大恐慌で民衆の活力は衰えています。このような中で敵対的な野党を設けてしまったら、国内の混乱はかえって激しくなるのではないでしょうか?」

 

「それは、そうかもしれない」ケマルはうなずいた。「しかし、野党による批判を受けなければ、与党は自分たちの弱点に気づくことが出来ない。そのことはむしろ、これからの抜本的構造改革に対する阻害要因になるだろう」

 

イスメットは口を閉じた。大統領は、人の助言を素直に受け入れるような人物ではない。

 

「・・・誰に結党させるのですか?」フェヴジが、おそるおそる訊ねた。

 

「フェトヒが良いと思う」

 

「なるほど」二人は顔を見合わせてうなずいた。彼なら信頼できる。

 

 

 

 

 

元首相のアリー・フェトヒは、5年前の「進歩主義者共和党」を巡る政争に敗れて以来、フランス大使としてパリにいた。たまたま、休暇のためにアンカラに帰っていたところを、ケマルに呼び出されたのである。

 

「また僕を、政治の道具に使うのか」

 

フェトヒは、ため息をついた。大統領とは士官学校以来の幼馴染である彼は、二人きりのときは遠慮がない。

 

「『進歩主義者共和党』のときは迷惑をかけたね。あのときは、カラベキル一派を潰す以上、彼らによって首相に擁立された君を左遷せざるを得なかったのだ」ケマルは、控えめに語る。

 

「君は、生真面目でケジメを重んじるからな。もっとも、パリ生活はマルタ島の牢獄よりは、ずいぶんとマシだけどね」フェトヒは冷ややかに笑った。「ともあれ、僕の人生は、政党がからむ度に海外に出されることの繰り返しだ」

 

「今度は、もう海外に出さないと約束するよ。そこで、もう一肌脱いでもらいたい。君しか、頼れる者はいないんだ」大統領は、じっと旧友の瞳を覗き込む。

 

「しばらく、考えさせて欲しい」フェトヒは、そう言って官邸を辞去した。

 

彼は、歩いてチャンカヤ丘を降りながら考えた。大統領の計画は、理論的には優れていると思う。確かに、野党のいない政権与党は、堕落して無能になることだろう。しかし、複数政党制をやるためには、ある程度の政情の安定が不可欠である。また、トルコ国民の民度の高さも要求される。

 

「時期尚早ではあるまいか」

 

しかし、独裁者のケマルは、もう実施を決定していた。この人は、何でも自分で決めて、何でも自分でやらなければ済まない性質の持ち主である。そして、彼の政策はこれまで全て的中して来た。だが、そこに慢心があったことは否定できない。

 

8月12日、こうして、「自由共和党」が誕生した。

 

党首はフェトヒ。最初の党員は、共和人民党の中の不満分子15名である。この人たちは、ケマルの信頼を受け、なおかつ、イスメット首相の仕事の進め方に異議を唱える議員であった。この中には、アドナン・メンデルスの若き日の姿もあった。

 

「政党ごっこか」フェトヒは、諦め顔で吐息をついた。「だが、やるからには徹底的にやるぞ。ケマルの党を潰す気で行くぞ」

 

 

 

 

 

フェトヒが作成した党綱領は、実に見事なものだった。「外資の導入」、「官僚統制の撤廃」、「民間企業の優先(自由主義経済)」、「直接選挙制の導入」、「婦人参政権の承認」などの主張は、与党の綱領に立派に対抗しうるものだった。

 

突然のライバル出現に狼狽した共和人民党の幹部たちは、一党独裁の特権に甘え何の努力もせず堕落しかけていた自分たちの実情に気づいた。そこで彼らは、綱領を見直し、新たな構造改革を模索する政党への回帰を始めた。ここまでは、ケマル大統領の目論見どおりであっただろう。

 

しかし、一党独裁によって押さえ込まれていた民衆の鬱憤は、大統領の想像以上に大きかった。彼らは、複数政党制の導入は、自分たちの意見や不満を自由なやり方でぶつける捌け口が出来たものだと速断したのである。

 

9月初旬、イズミル(旧スミルナ)を遊説したフェトヒは、大勢の熱狂的な民衆に迎えられた。あまりに加熱した街の空気を恐れた警官隊は、民衆を取り締まろうとしたのだが、そのやり方が「治安維持法」時代そのままの横柄で傲慢なものだったため、激怒した人々は投石などで抵抗した。これに警官隊が発砲して死傷者が出ると、多くの民衆がデモ行進を始め、ついには政府系の新聞社に焼き討ちをかける事態に発展。結果、何十人もの逮捕者を出す顛末になってしまった。

 

これを知ったケマルは、急いでアンカラから駆けつけた。民衆に発砲した警官隊を厳しく叱責したため、イズミルの知事と警察署長は、並んで辞表を提出したのである。

 

「大統領、これが民主主義でしょうか」フェトヒは暗い眼をして訊ねた。「警官隊は、我々新党の議員たちまで逮捕しようとしたのですよ」

 

「ここ数年の独裁制のせいで、官僚組織は『自由』の意味を忘れてしまったのだ。まあ、時間の問題だろう。きっと、そのうち民主主義に慣れてくれるさ」ケマルは、まだまだ楽観的だった。

 

10月の地方選挙では、自由共和党が512議席中30議席を獲得した。微々たる議席数ではあるが、これまで独裁体制を敷いていた共和人民党は大きな脅威を感じた。

 

この選挙において、自由共和党は、全国各地で与党シンパによる選挙妨害を受けた。そのことでフェトヒが議会で非難を行うと、与党議員は「祖国反逆罪法」でフェトヒを逮捕するべきだと叫ぶ始末。次にフェトヒが、財政管理や経済政策に関する与党の無能さを糾弾すると、イスメット首相が顔を真っ赤にして怒り出し、党主同士が激しい議論の応酬を始め、これを契機に議会の各所で議員同士が怒鳴りあい殴り合う事態に発展した。中には、激高して拳銃を振り回す者もいる。

 

ケマル大統領は、この様子を議長席の上からじっと見ていたが、やがて失望のため息をつくと、厳粛な面持ちで議会を休会させた。

 

どうも、彼が期待していたものとは何かが大きく違うようだ。

 

そして混乱は、イズミル市や議会の中には留まってくれなかったのである。

 

 

 

 

 

ケマルは、10月の地方選挙に先立って、あらゆる報道管制を撤廃し、トルコ各地で自由な議論を行うことを可能にさせた。彼は、「自由共和党」の実験を、祖国の民主化への貴重な第一歩にしたかったのである。

 

しかし、これはパンドラの箱を開ける行為であった。

 

国中で、かつて封印され忘却されたはずのドグマが、後から後から溢れ出したのである。

 

もともと民衆は、一党独裁下で言いたいことも言えず、しかも世界大恐慌で不況に見舞われたために鬱憤が溜まりきっていた。まさに乾燥した森である。これに無造作に火を放ったのが、これまで日陰に追いやられ野に潜んでいた、青年トルコ党の残党、社会主義者、宗教原理主義者たちであった。

 

デモ、ストライキ、さらには各地で武装集団が蜂起した。

 

最大の反乱は、イズミル近郊メネメンでの、狂信僧シェイフ・メフメットによる宗教原理主義蜂起であった。この暴動は、コンヤ、アダリヤ、ブルサにまで波及した。

 

しかも、これに呼応してシリア国境でアルメニア人のゲリラ組織が蜂起した。東南部の山岳地帯では、再びクルド人も立ち上がった。

 

警官隊や小規模の軍は、とても全国規模の騒乱に太刀打ちできない。

 

この情勢を見て、チャンカヤの官邸では大統領が眉間に皺を寄せて沈思した。彼は、己の試みが大失敗に終わったことを認めざるを得なかったのである。

 

ケマルは、1117日、悲痛な表情でフェトヒを呼び出すと、野党の解散を要請した。

 

「大統領、不本意な結果となってしまい申し訳ありません」

 

「フェトヒ、君のせいではないよ。君のせいでは」ガージーは、放心した表情で言った。「悔しいが、また私が出るしかないのだ」

 

フェトヒが自由共和党の自主解散を宣告すると同時に、全土に戒厳令と報道管制が敷かれた。そして、正規軍に出動が命じられたのである。

 

「灰色の狼」の遠吠えを聞いた民衆は、借りてきた猫のように大人しくなった。蜂起した民衆の多くは、大統領が自ら野党を作って与党を苦しめたことから、ガージーが暴徒側に味方してくれるものと勘違いしていたのである。そんな彼らは、建国の英雄である「灰色の狼」に逆らうことだけはしたくなかったのだ。

 

こうして3週間以内に、民衆の支持を失った反乱はあっという間に鎮圧され、復活した独立法廷は、またもや数千人の逮捕者と数十人の絞首刑者を出したのであった。

 

ともあれ、独裁制という名の傘の下で、秩序は再び回復され、人々は正業に戻ることが出来たというわけだ。

 

 

 

 

 

大統領は落ち込んでいた。

 

これは、彼にとって初めての敗北だったからだ。

 

ギリシャも西欧列強も社会主義もエンヴェルも、彼の敵ではなかった。スルタンもカリフもウレマーもトルコ帽も太陰暦もアラビア文字もユダヤ財閥も、彼の敵ではなかった。ケマル・パシャは、すべてを打ち倒してきたのだ。しかし、祖国の民主主義だけは実現不可能だった。

 

もっとも、独裁者が国権を発動して民主主義を行おうというのは、本来的におかしい。民主主義というのは、権力者によって上から作られるのではなく、民衆が発意して下から持ち上げるのが普通なのである。そういう意味では、「民主主義を作り出せる」と錯覚したケマルの傲慢さに全ての責任があるのだろう。

 

しかも、この事件に懲りたフェトヒは、あらゆる官職を辞して隠遁生活に入ってしまったから、親友に迷惑をかけっぱなしのケマルの心は大きく傷ついた。

 

「イスメットの言ったとおり、民主主義は時期尚早だったようだ。民度が十分に上がるまでは、国民には勉強と仕事に励んでもらおう。それまでは、政治は私が一手に握るしかない」

 

大統領は、その後の数ヶ月の間、ずっと不機嫌そうに黙りこくっていたと伝えられる。

 

しかし、線香花火のような束の間の自由共和党の活動は、決して無駄には終わらなかった。共和人民党に、政権与党としての厳しい自覚を促したからである。

 

共和人民党は、党内の腐敗代議士を大幅にリストラし、若き有能な人材を大幅に登用するなどのリニューアルを行った。また、民衆の声を積極的に聞くことで、かつてのような官僚的な腐敗を起こさないように努力したのである。

 

それでも、民主主義化を諦め切れない大統領は、気骨のありそうな12名の議員に命じて与党の「ご意見番」になってもらった。彼らは、与党内部にいながら与党の政策を批判する義務を負うのである。しかし、この制度はあまり実効を持たなかったらしい。まあ、同じ政党の中だから当然であろう。

 

ともあれ、1931年5月、党綱領が拡張整備された。ここでも、亡き自由共和党の見事な綱領が、プラスの影響を与党に与えている。

 

共和人民党の「六本の矢」は、次のことを謳っていた。すなわち、「共和主義」、「政教分離主義(世俗主義)」、「国民主義(単一民族主義)」、「人民主義(四民平等主義)」、「革命主義」、「国家企業主義」である。

 

これらは、1937年には憲法にも明記されるようになる。

 

 

 

 

 

「六本の矢」のうちの「国家資本主義」、すなわち「社会主義的な計画経済」は、世界経済恐慌下においてトルコ経済を守るための重要な柱であった。

 

同時期のドイツや日本の経済が、なまじ「自由主義」に固執したために破滅し、軍閥の暴走を招いた事実を想起すると、トルコの対応の素早さと的確さは興味深い。もっとも、民度が未成熟のトルコでは、建国当初から国家主導型の経済体制だったので、この路線の実行が容易だったことも忘れてはならないのだが。

 

1930年、「トルコ共和国中央銀行」が、資本金1500万リラで設立された。初年度の歳入1億9630万リラのこの国営銀行は、193110月には、発券銀行としても活動を始め、公定歩合の決定などを通してトルコ近代産業の発展に大貢献する。

 

これに前後して、計画経済のノウハウが、ソ連より伝えられた。

 

ソ連は、レーニンの死(1924年)後、スターリンがトロツキーを海外に追放することで(1927年)、専制的な独裁政権へと姿を変えていた。しかし、抜本的構造改革というのは、トルコもそうだが、優秀で強力な独裁者が主導したほうがうまく行くケースが多い。そして、スターリンは祖国を大工業国に改造しようと考えて、「五カ年計画」を発動したのであった(1928年)。これは、多くの民衆の辛苦の上に拠りつつも大成功を収め、ソ連は世界恐慌などどこ吹く風、いつしかアメリカに次ぐ世界第二位の重工業国に躍進していたのであった。

 

そんなスターリンは、以前からトルコとケマルに好意を抱いていたので、「反帝国主義の同志」に対し、巨額の融資を与えた上で五カ年計画のノウハウを提供したのである(1932年5月)。

 

ケマルは、スターリンの好意に深く感謝した。

 

ソ連からの融資は破格の好条件だったし(800万ドルを無利息で20年償還)、しかも背後からは国際金融界の厭な臭いもしないので、そのまま受け入れた。

 

しかしトルコは、「五カ年計画」については、もっぱら民衆生活に直結する軽工業の分野で行おうとし、生産財と消費財の生産を最優先した。平和外交を国是とする共和国は、戦艦や戦車といった重兵器を必要としなかったからである。

 

こうして、1934年5月からトルコ版「五カ年計画」が始まった。ロシアからやって来た顧問団は熱心に仕事を進め、その結果、化学工業、製紙業、鉄鋼業、陶磁器製造業、綿織物工業が大発展した。不況による農産物の輸出価格の下落に苦しんでいた農民は、工場勤務で収入を得られるようになって大いに喜んだ。

 

また、ケマルの指示によって、「農業銀行」(19世紀設立)が、貯蔵庫を用いた在庫品売買による「価格調整機能」を発揮できるようになったため、農産物の価格は安定し、いつしか国民の不安と不満は解消されていたのである。

 

この国が、後の第二次大戦で中立を保てた理由の一つがここにある。

 

ところで、ソ連が「五カ年計画」を重工業中心で行ったことは、世界の歴史を大きく変える結果に繋がった。なぜなら、もしもこの政策がなければ、ソ連は後のナチスの猛攻を防ぎ切ることは出来ず、ロシアはドイツに滅ぼされていたかもしれないからだ。ここで、「五カ年計画」の成功は、ナチスの侵略軍をロシアの大地から叩き出すのみならず、その後のソ連をアメリカに拮抗する世界の覇者へと押し上げる結果をもたらしたのである。ところが、ますます重工業に傾斜したこの国は、成層圏に人工衛星が山ほど浮かぶのに、民衆は長い行列を作らなければ石鹸すら買えないような社会に堕落し、ついに体制の崩壊を招いてしまうこととなる。

 

その間、トルコは軽工業の分野で「五カ年計画」を行ったので、その経済発展は地味なものとなったけれど、民衆が生活必需品を簡単に買えるような便利な当たり前の国になった。

 

ここに、スターリンとケマルという、二人の独裁者の個性の違いがうかがえて興味深い。