第二十八章 トルコの父

 


 

 

 

 

1930年代は、次々に改革が打ち出された年だった。経済がそれなりに回復し、国民感情が安定したため、大統領は再び年来の抱負の実現に取り掛かったというわけだ。

 

まず、1931年に度量衡の改正があり、西欧式の「メートル法」が取り入れられた。

 

1932年に入ると、休日が従来の金曜日から日曜日に改められた。この結果、官公庁は土曜日の午後から月曜日の朝まで休館となる。また、年の初めは、イスラム式の7月16日(マホメッドがメディナに移住した日)から西欧式の1月1日に改められた。1日の始まりは、太陽が昇った時ではなく、午前0時になった。

 

これらの改革は、言うまでもなく、欧米や日本と円滑な商取引を進め、外交関係を打ち立てて行く上で大きく貢献したのである。

 

次に大きな目玉になったのが、「創姓法」である。1934年6月、トルコに住む全ての国民が、「姓」を持つことを義務付けられたのだ。

 

前にも述べたことだが、当時のトルコ人は姓を持っていなかった。親から貰った名前に「あだ名」が付くだけだったのである。ムスタファ・ケマルのケマル、アリー・フェトヒのフェトヒ、キャーズム・カラベキルのカラベキルは、みな「あだ名」であった。これだと、戸籍や納税台帳が出鱈目になりやすく、近代国家としては不備である。

 

そこでケマルは、国民の識字率が十分に高まったこの年に、全国民に一気に「創姓」を義務付けたのであった。

 

姓のつけ方は、原則として自由であった。「あだ名」が気に入っているなら、「あだ名」を姓にすればよい。そこでカラベキルは、従来どおりにキャーズム・カラベキルと名乗った。

 

自分の住んでいる場所や自分の好きなものを姓にしても良い。そこでイスメットは、議会に贈ってもらう形で、イスメット・イノニュと名乗った。イノニュは、言うまでもなく「救国戦争」で彼が活躍した戦場の名前である。彼は、あの勝利を終生、誇らしく感じているのだった。

 

フェトヒ・オクヤル、フェヴジ・チャクマク、レフェト・ベレ、レジェップ・ぺケル、アリー・フアト・ジェベソイらは、大統領がどんな名前を選ぶのか注目した。しかしケマルは、従来どおりムスタファ・ケマルを通すつもりらしい。

 

「いくらなんでも、ムスタファ・ケマルじゃ詰まらない」「議会から、姓をプレゼントするというのはどうだ?」「でも、ふさわしい姓を選ぶのは難しいぞ」「ガージーは偉大すぎる」「この国の父親みたいな存在だからな」「おお、それだ!それで良いじゃん!」「どれ?」

 

そういうわけで、大統領に議会から「アタチュルク」という名前が贈られた。アタチュルクというのは、「トルコの父」という意味である。

 

ケマルは、仲間たちの好意を大いに喜んだ。彼は、アラブ風のムスタファという名を捨てて、このときからケマル・アタチュルクを名乗るのである。

 

 

 

 

 

トルコ共和国は、共和人民党のマニフェストに乗っ取って、寡婦への援助政策を続けていた。戦災孤児に里親をつけ、その家庭に経済援助を与える政策も進めていた。

 

どうしても里親が見つからなかった子供は、男子1名と女子6名。

 

引き取り手が付かなかった理由は、アルメニア人やクルド人など、少数民族の子供だと思われたから。そこで、この子たちは、ケマル大統領その人が引き取った。彼が、民族問題にリベラルな態度を持つ人物だったことがここからも分かる。といっても、大統領は多忙の身なので、官邸の一室に乳母や家庭教師を呼び、大きくなったら学校の寄宿舎に入れるような育て方しか出来なかった。自然、里親と養子の間には情を通わせる機会が少ない。

 

それでもケマルは、海外の要人を招いて晩餐会や舞踏会を催すときは、養子たちも呼んで華を添えようとした。独身で実子のいない大統領は、こういう手段でしか「家庭の憩い」を他者に表現できなかったのである。それでも、顔つきも肌の色も違う子供たちは、ある意味で新生トルコの見果てぬ理想の体現者なのかもしれなかった。

 

ある晩の舞踏会で、末娘のサビハが養父にダンスを申し込んだ。

 

「サビハは、何歳になったんだっけ?」モーニング姿のケマルは、白いドレス姿の養女とスローダンスを踊りながら、ぎこちなく話しかけた。

 

「来年で17歳です」栗色の髪の少女は、物怖じしないでしっかり目を見て応える。

 

「ずいぶん、大きくなったんだな」

 

ケマルは、くっきり整った意志の強そうな顔立ちを見回した。確か、ブルサ生まれだったと思うが、なるほど、アルメニア系かもしれない。養子に迎えたときは7歳だった。子供の成長を見ると、自分の年齢のことをいろいろと考えてしまう。

 

「ババ(お父さん)とゆっくりお話が出来るなんて、これが初めてかしら」

 

「そうだったかな」ケマルは微笑んだ。踊りながらでは、ゆっくり話すどころではあるまい。「何か、私に話したいことがあるのかな?」

 

「相談に乗って欲しいことがあるの」

 

「どんなことだろう。遠慮なく言ってごらん」

 

「あたし、飛行士になりたいの」

 

ケマルは踊りを止めて、娘の碧眼を覗き込んだ。

 

「あたし、飛行機を操縦したいんです」

 

白いドレスの少女は、初めて恥ずかしそうに白い歯を見せた。

 

 

 

 

 

イスラムの因習を嫌うケマル大統領は、「男女同権」を早くから主張していた。

 

実は、イスラム教はもともと男女の平等を謳っているのである。しかし、「女性は夫や親以外の男性に素顔を見せてはならない」という戒律の存在が、結果的に女性の社会進出を大きく制限し、イスラム圏の女性たちの多くは、いつしか専業主婦に収まることを余儀なくされていたのだった。

 

ケマルは、このような状況を打破したいと願っていた。そんな彼が、養女の願いを拒否するはずがない。こうしてサビハは、トルコ空軍に入って飛行気乗りの勉強をする運びとなったのである。このご時世、飛行機に乗ろうと思えば軍人になるしかないからだ。

 

1930年代のトルコでは、女性の社会進出が続いた。イスラムの桎梏から解放された女性たちは、今では洋服を着こなし、工場やオフィスで男顔負けの仕事振りを見せているのである。女性が軍人になっても少しもおかしくない空気が醸成されていたのだ。

 

こうした情勢を受けて、トルコ議会では、かつて自由共和党が提唱した「婦人参政権」に関する議論が盛んになっていた。それだけではなく、女性に公務員や弁護士といったあらゆる職業を自由に選べる権利を付与しようというのである。

 

この議論の最も強力な提唱者は、他ならぬケマル大統領だった。女性の力を認める彼は、女性を男性と完全に対等の地位まで引き上げようと志したのだ。

 

すでに一党独裁制は完成し、保守的な抵抗勢力は一掃されているから、話は簡単だ。

 

ケマルは、議会で演説した。

 

「進歩に飢えている国民は、その人口の半分を放っておくわけにはいきません。トルコ人は強い国民になろうと誓いました。我々の妻や娘たちは、我々が国に尽くし国の運命を導くのを助けることでしょう。トルコの安全と名誉は、彼女たちに委ねられているのです」

 

こうして193412月、全国の女性に、完全な婦人参政権と職業選択の自由が与えられたのである。

 

たちまち2人の女性がアンカラ家庭裁判所の判事となり、4人の女性がイスタンブール市議会の議員に選出された。続いて、1935年の選挙で17名の女性国会議員が誕生した。

 

これは、実は世界史的な偉業なのである。この当時、日本はもちろん、スイスでもフランスでも、婦人参政権は様々な形で制限されていた。日本などは、第二次大戦が終わって戦後時代を迎えるまで、女は男に隷属する存在としか思っていなかったのである。

 

同時に、「青少年の保護」も打ち出された。工場勤務などでの最低賃金や就労時間を法制化することで、若者に対する資本家の搾取を制限したのである。

 

トルコ共和国の人権政策が、いかに進んでいたかが良く分かる。これはやはり、伝統や慣習に囚われることなく現実主義的な改革を進めるアタチュルク大統領の力量なのであろう。

 

それにしても、一党独裁のアジアの新興国家が、世界で一番、人権擁護に熱心だったという事実は、歴史に特記されるべき不思議さかもしれない。

 

 

 

 

 

「残された最大の改革は、農地解放だ」ケマルは、信頼を寄せる閣僚たちに語った。「我が国の農業は、昔から大地主が大勢の小作人を雇う形で行っている。そのため、構造改革や文明化の恩恵は、大地主に厚く小作人に薄くなっている。貧富の差や教育水準の差も激しくなっている。これを野放しにしていたら、祖国はいつまでも真の民主主義国家にはなれないだろう。これを何とかしなければならない」

 

閣僚たちは、押し黙った。

 

話題に上った大地主たちの多くは、「青年トルコ党」時代から改革派のシンパであった。トルコ共和国の母体である権利擁護同盟やカラコルも、大地主たちの支援を得られたからこそ今日の成功があるのである。しかも、一党体制とはいえ、彼らは共和人民党の重要な票田でもある。そういうわけで、政治家たちは、大地主を怒らせるような改革はなるべく避けたいのだった。

 

もちろん、アタチュルクもそのことは知っていた。彼は閣僚たちの消極的な態度を見て、景気が本格的に回復するまでは、改革を先送りする決断をせざるを得なかったのである。

 

それでも、ケマルは祖国の前途を楽観するようになっていた。

 

「あと10年だな」大統領は、秘書官長ソヤックに語った。「あと10年で、私はすべての権力を手放して引退できるだろう。トルコは複数政党制の民主主義国家に生まれ変わり、すべての国民が幸せを実感できる国になるだろう」

 

「まだ53歳なのに、引退を考えるなんて」ソヤックは笑った。「いつまでも現役で頑張っていてください、アタチュルク」

 

「もう十分だよ」大統領は、寂しげに笑って遠い目をした。「それに、私はそう長くは生きられないだろう」

 

彼は、肝硬変を患っていた。

 

大の酒好きであるアタチュルクは、滅多に食事を取らず、簡単なオードブルとエジプト豆をつまみにしてラク酒を呷り、睡眠時間の平均はわずか4時間だった。若い士官たちを集めて、夜の9時から朝の9時まで、徹夜で飲み明かすことも多かった。それなのに、執務はきっちりとこなしたのだから、これで体を壊さないほうがどうかしている。

 

侍医はしばしば諫言したのだが、ワンマンの大統領は一向に聞き入れようとしない。虫の居所が悪い時、拳銃を振り回しながら小うるさい侍医を官邸中追い回したという逸話もあるくらいだ。

 

ソヤックは、ため息をついた。

 

ケマル・アタチュルクは、生きたいように生き、死にたいように死ぬのであろう。

 

 

 

 

 

1936年のある日。農業試験場で土いじりをする大統領は、朝からそわそわと落ち着かなかった。無闇に、スイス製の腕時計に目をやる。

 

午前10時、秘書官ソヤックがメルセデスを運転して試験場に現れ、作業衣のケマルを捕まえると、半ば無理やり車に押し込んだ。

 

残された研究官や農学部の学生たちは、顔を見合わせた。

 

「なんだ、あれ」

 

「医者に連れて行くのかな?」

 

「でも、アタチュルクも、まんざら嫌そうな感じじゃなかったよ」

 

「あれじゃないかな。ほら、空軍の」

 

「ああ、そうか」

 

アンカラ空軍基地では、サビハ・アタチュルク曹長が茶色の飛行服に身を包み、基地司令官の訓示を受けていた。

 

「女性の単独飛行は、我がトルコ空軍の、いや、アジアの歴史に未だかつてない快挙として永遠に語り継がれることであろう。必ずや成功させて、我が民族の偉大さを全世界に知らしめてほしい」

 

丸々と太った司令官の二重顎を見ながら、サビハは退屈を感じていた。彼女は、民族の栄誉にも祖国の偉大さにも興味がなかった。鳥のように自由に空を飛んでみたいだけ。

 

教官から最後の細かい指示を受けたあと、少女はソ連製のイリューシン練習機に駆け寄った。そして、応援に駆けつけた同輩たちやマスコミ関係者に明るく手を振ると、単座式のコックピットに足取りも軽く乗り込んだ。

 

後は、マニュアルどおりに練習どおりにやれば良いだけだ。スイッチを捻って燃料をエンジンに送り込み、レバーを入れればプロペラが回転を始める。小刻みな蠕動が全身を包み、やがて複葉機は前へと滑り出す。初めての単独飛行でも、少しも恐くなかった。

 

ふわっと、空気の上に乗る。

 

深い蒼色が、視界いっぱいに覆いかぶさる。

 

続いて、赤茶けたアナトリアの大地と底なしの深き青空に包み込まれる。

 

「これが、あたしの国。これが、あたしたちの世界」

 

次第に高度を上げつつ旋回するイリューシンの中、サビハは大声で叫び出したくなった。そして、空と大地に包まれて踊り出したくなった。

 

地上では、新聞記者やラジオ局が大騒ぎし、空軍将校たちも肩を叩きあって成功を祝福した。アジア初の女性飛行士の誕生だ!

 

「もういい、降りて来い」教官は、無線に向かって何度も口走りそうになった。しかし、イリューシンは水を得た魚のように空気の中を楽しげに泳いでいる。「よし、とことん飛んでみろ」やがて教官は、笑顔で小さくつぶやくのだった。

 

高度600メートルから見た世界は、小さくそして儚かった。農家がある。工場が見える。蟻のように小さく見える人々は、厳しくも優しい地球に抱かれて健気に生きている。

 

「ババにも、この景色を見せてあげたい。ババなら、どう思うだろう」

 

サビハは、執務に明け暮れている養父のことを想った。ふと地上に目をやると、小さな丘の上に黒塗りのメルセデスが停まっている。もしやと思って高度を落とすと、顔見知りのソヤック氏が車の横に降り立って、満面の笑顔で手を振ってくれているのが分かった。後部座席に誰かが座っている。降りてくればいいのに。手を振ってくれればいいのに。

 

でも、それをしないのが彼女の養父なのだ。

 

サビハは、コックピットから身を乗り出して車に向けて手を振りながら、同時にイリューシンの翼を左右にパンさせると、空軍基地に向かって高度を下ろして行った。

 

「おめでとう、サビハ」メルセデスの後部座席から双眼鏡を覗いていたケマルは、幸せそうに低くつぶやいた。

 

思えば夢のようだ。15年前、トルコ国民はボロボロの服に身を包み、慢性的な飢餓にさらされ、しかも白人の奴隷にされる寸前であった。それが今では、若い女性が飛行機を乗りこなせるような社会になったのだ。

 

「みんな、あなたのお陰ですよ、アタチュルク」ソヤックは、大統領の心を読んだかのように穏やかに言った。

 

「まだ早いけど」ケマルは笑った。「一杯やりに行きたい気分だな」

 

「喜んで、お付き合いします」秘書官は、満足そうにハンドルを握った。「でも、一杯だけですよ」

 

「ははは」哄笑した大統領は、車窓から広大な青空を振り仰いだ。

 

 

 

 

 

1936年、ヨーロッパが、いや、全世界が戦争という名の暗雲に包まれようとしていた。

 

ムソリーニ率いるイタリアは、地中海の島々やアルバニアを急激に軍事化し、しかもエチオピアに対して侵略戦争を開始していた。

 

ヒトラー率いるナチスドイツは、国際連盟を脱退し、非武装地帯であるはずのラインラントに軍を駐留させた。

 

スペインでは、フランコ率いるファシスト軍が、社会主義者たちと血みどろの内戦を戦っていた。

 

トルコにとっての当面の脅威は、イタリアだった。ムソリーニは、15年前のギリシャの怨念が乗り移ったかのように「ローマ帝国の再興」を叫んでいる。この言葉を額面どおりに受け取るなら、かつてローマの領土であったアナトリアは、イタリアの侵略の対象になりうる。地理的に見ても、海路を用いればトルコとイタリアは至近に位置するから脅威は大きい。

 

しかし、このピンチをチャンスに変えるところが、老いても変わらぬケマルのセンスだ。彼は、ファシズムの台頭に脅えるイギリスやフランスとの関係を強化し、彼らを勇気付け、その見返りに「海峡問題」での妥協を要求したのである。

 

7月、スイスのモントルーで開催された国際会議で、ローザンヌ条約の改訂が行われた。その結果、ダーダネルスとボスポラス両海峡に代表される「世界の一大ターミナル」は、国際管理委員会から解放されて、完全にトルコ共和国の主権下に入ったのである。

 

「国民誓約」は、ここに完全な形で実現されたのであった。

 

勢いに乗るケマルは、フランスがシリアを形式的に独立させたのを好機と見て、シリア国境のハタイ地区に関する領土問題を蒸し返した。しかしこれは紛糾し、いたずらに軋轢を増やすだけの結果となった。

 

「脅しが足りないかな」ケマルは、それでも余裕だ。「我が国がドイツとの関係を強化すれば、フランスは脅えて妥協するだろうか」

 

もともと、トルコはドイツと仲が良かった。ケマルがヨーロッパに派遣した留学生を最も多く受け入れてくれたのがドイツだし、トルコの農産物を国際相場以上の値段で買ってくれるのがドイツだった。また、アドルフ・ヒトラー総統の経歴や地位はケマル・アタチュルクに良く似ているので、トルコの大統領はドイツの独裁者に親近感を抱いていたのである。

 

「ともに軍人出身だし、民族主義者だし、議会で独裁者になったのだし、質素な生活ぶりで独身を守っているし、平和主義を吹聴するし、何よりも抜本的な構造改革で経済復興に成功した。酒と女にはあまり興味がないみたいだが、ともあれヒトラーは、私に似ていると思う。彼は、スターリンやムソリーニと違って、まともな奴に違いない」

 

自信を持って言い切るアタチュルクに、イスメットはいつものように首をかしげた。

 

「本当にそうでしょうか?」

 

「何が不安なんだね?」

 

「ヒトラーは、夢想家です。危険な感じがします」

 

「だからって、フランスと仲直りしてハタイを諦めろというのか?」

 

ケマルは舌打ちした。首相は、最近、大統領に口答えすることが多い。領土問題についても、最近は消極論ばかり言う。

 

「完全な中立を保ち、全方位外交をしましょう。今は、それが無難です」

 

イスメットは、暗い目をしてつぶやいた。彼は、ドイツに深入りしてしまうことで、過去の過ちを繰り返すことを恐れたのである。ケマルに、かつてのエンヴェルと同じ過ちを犯して欲しくなかったのである。

 

「君の意見は、良く分かった」大統領は不機嫌そうに言った。

 

二人の仲に、次第に隙間風が吹いていった。