第六章 敗戦

 


 

 

 

 

シリア戦線に着任したケマルは、積極的に自分の足で部隊を視察して回り、そして愕然とした。

 

会議室の地図や兵棋演習図で存在しているはずの師団や連隊は、実際にはほとんど消滅していた。戦いで損耗したというよりは、厭戦気分の蔓延によって、兵士たちが逃亡逃散してしまったのだ。中には、在陣するはずの兵が、そもそも最初から着任していないという例も見られた。

 

「部隊が存在しないのでは、どうしようもない」ケマルは苦笑した。

 

ところで、兵が簡単に逃亡し徴兵忌避できるのは、トルコの戸籍制度に原因があった。オスマントルコの臣民には、この時点でも「姓」が存在していなかったのである。

 

たとえば、ムスタファ・ケマルの場合、ケマルというのは姓ではない。「完全な人」という意味のこれは、学校の先生に付けてもらった「あだ名」なのである。ケマルの本当の名は、あくまでもただのムスタファなのだ。しかし、ムスタファなどという名前は、国内にゴマンといる。仕方ないから、ケマルの場合、あだ名をもらうまでは「テッサロニカの材木商人アリ・ルザの息子ムスタファ」などと呼ばれ、他者と区別されていたはずである。

 

既にお分かりだと思うが、このようなやり方では、戸籍が出鱈目になるのは当然である。オスマン帝国では、租税回避や徴兵忌避、住居の不法変更など、やりたい放題なのであった。

 

西欧では、とっくの昔に「姓」を付けるよう全国民に義務付け、これが戸籍の整備に繋がり、さらには近代産業ひいては近代軍隊の育成へと進展した。日本でも、明治維新以降、全国民に「姓」を付けることによって富国強兵政策が可能となっていた。

 

トルコは、その点でも諸外国から大きく遅れていたというわけだ。

 

ケマルは、改めてそのことを思い知った。

 

宗教、文字、戸籍。まったく、問題は山積みだ。山積みなんてもんじゃない。

 

彼は、額に手を当てた。

 

やはり、高熱は収まらない。

 

山積みなんてもんじゃない。

 

 

 

 

 

ケマルは、前線視察の激務と心労がたたって腎臓病が再発し、一ヶ月間ダマスカスの病院に横たわる羽目になった。その間、英仏軍の大突破作戦が成功し、ダマスカスは陥落の危機にさらされていたのである。

 

一方、バルカン半島の戦線では1918年9月、ギリシャの英仏軍が、ついにマケドニアの山地を突破しブルガリアに乱入した。3年前から中央同盟軍の一員となっていたブルガリアは、既に長期戦に疲れ果てていて、9月25日、枯れ木が朽ちるように協商国軍に降伏したのであった。

 

こうして、ドイツとトルコの連絡線は、真二つに分断されてしまった。

 

「寝ている場合じゃないぞ」

 

意志を奮い起こし、再び軍服をまとったケマルは、ナブルスに置かれた「電撃軍団」の本営でザンデルスに提言した。

 

「もはや、これまでです。ダマスカスを見捨ててアレッポまで撤退しましょう」

 

「・・・しかし、私にはシリア防衛の責務がある」

 

「そんな責務は、糞食らえ。味方が、無意味な戦いで全滅したら何にもなりませんぞ。責任は、この私が取ります」

 

ザンデルスは、暗い目でうなずいた。ケマルの言うとおりなのだ。実際、抵抗したくても、もはやその能力はどこにも無かった。

 

ドイツとの連絡線が切断されたため、工業製品を自製できないトルコは武器弾薬の補給を受けられなくなった。手持ちの貧弱な兵器と疲労困憊した兵士たちでは、とても英仏軍には抗えない。これに対し、英仏軍は新兵器「飛行機」を用いて空からも攻撃して来るのだ。「アラビアのロレンス」に率いられたアラブの騎兵隊も、トルコ軍の横腹を急襲し、鉄道線路を破壊し、補給物資を容赦なく焼き払う。

 

状況は、まったく絶望的だった。

 

そこでトルコ軍は、勇気を奮って200キロ北方まで全軍を後退させたのである。

 

191810月1日、シリア最大の都市ダマスカスは、こうして無血で英仏軍の掌中に入った。

 

このときイギリスは、戦後の政治的思惑から、アラブのファイサル王子(フサインの三男)の軍勢を最初に入城させようと目論んだのだが、こういう場合に起こりがちな手違いによって、オーストラリアの騎兵部隊、続いてフランス軍が先に入城する展開となってしまったのが笑い話だ。

 

このころから、イギリスとフランスの間には、戦後の取り分を巡る不協和音が鳴り響いた。「フサイン=マクマホン協定」によれば、シリアはフサインのアラブ新王国ヒジャーズ(実態はイギリスの属国)の領土になるはずだった。しかし、「サイクス=ピコ協約」よれば、シリアはフランスの植民地になるはずだった。いったい、どちらの協定が通るのだ?

 

焦ったフランス軍は、この翌日、ベイルートの街(現レバノン)に一番乗りしようとした。彼らは、一番乗りを果たすことで、シリアの領有を既成事実にしたかったのだ。しかし、このときもインド人部隊(イギリス)が彼らの先を越してしまった。激怒するフランス人たち。

 

フランスがシリア(レバノンを含む)に固執する理由は、この地にマロン派というラテン系のキリスト教徒が住んでいるからである。フランスは、マロン派の存在を根拠にあげて、シリアへの自国の権益を主張したのだった。しかし、シリアに住んでいるキリスト教徒の数は、この地域の人口全体から見たら微々たるものである。この地域の圧倒的大多数の住民は、イスラム教を奉ずるアラブ人なのだった。

 

そこにあるのは、帝国主義者のエゴだ。ここで実際に生活しているアラブ系住民の都合など、白人列強のお偉方の脳裏には少しも思い浮かばなかったに違いない。

 

「帝国主義」というのは、そういうものだった。「力」さえ示せば、どのような無理無道な屁理屈であっても「大義名分」と呼ぶことが出来る。そして中東は今や、その全域が帝国主義の餌食であった。トルコも、その餌食になろうとしていた。

 

疲労困憊のトルコ軍は、ダマスカス北方のアレッポ市に最後の防御陣を敷いた。ここが落ちれば、トルコ本土の小アジアまで、もう後がない。

 

ケマルは、覚悟を固めた。

 

「戦争が終わるか、俺がこの地で死ぬか。二つに一つだ」

 

彼の決意は、兵士たちに伝染した。「電撃軍団」の最後の兵士たちは、かつてガリポリ半島の兵士たちがそうだったように、祖国に命を捧げる決意を固めて敵を待ったのである。

 

しかし、終戦の足音は、ひたひたと近づいていた。

 

ダマスカスの陥落は本国の政局を激震させ、「青年トルコ党」の大宰相タラートがついに辞任し、穏健派のイゼット・パシャが後を引き受けた。イゼットは、4年前、最後まで開戦に反対した気骨のある大臣である。つまり、この人事は休戦内閣の成立を意味する。

 

新皇帝メフメット6世は、別れ際のケマルの必死の表情を思い出し、ようやく勇気を奮って動いたのである。

 

こうして、密かに英仏との休戦交渉が開始された。

 

 

 

 

 

第一次世界大戦は、非常に多くの国が三々五々と参入したので、その経緯を説明しにくい。

 

そもそもの発端は、1914年6月28日、ボスニアの首都サラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が、セルビア人テロリストに暗殺されたことによる。テロリストは、祖国(現ユーゴスラビア)がオーストリアに侵略されたことを憤って、この暴挙に出たのであった。

 

激怒したオーストリアは、セルビアに宣戦布告。セルビアと同盟していたロシアが、これを受けてオーストリアに宣戦すると、オーストリアと同盟していたドイツも参戦。続いて、ロシアと同盟していたフランスが参戦。

 

複雑な同盟関係が、ドミノ倒しのように連鎖反応を起こしたのだった。

 

・・・なんという愚かしく間抜けな話だろう。しかし、笑うわけにはいかない。数百万人の有為な若者の命が、この愚かな出来事で失われてしまうのだから。

 

この段階での協商国陣営はフランス、ロシア、セルビア。中央同盟国陣営はドイツとオーストリアである。両陣営とも、相手の能力を過小評価するあまり、短期決戦で簡単に蹴りがつくと思い込んでいた。

 

しかし、フランスの劣勢を見たイギリスが、1914年8月、大陸でのドイツの一人勝ちを恐れて協商国側で参戦。その結果、西部戦線は膠着状態に陥る。同月、イギリスと同盟関係にあった日本が、太平洋地域の権益を狙って極東でドイツに宣戦布告した。

 

やがて191411月、ドイツのロシアに対する優勢を見たオスマントルコ帝国が、勝ち馬に乗るべく中央同盟軍として参戦した。

 

その後、英仏から利益供与を約束されたイタリアが、1915年5月に協商国側で参戦。イタリアは、戦勝の暁には、オーストリア帝国の領土を大幅に割譲してもらえるものと思い込んでいた。

 

そして191510月、セルビアに恨みを持つブルガリアが、中央同盟軍に参加した。ブルガリアの参戦はセルビアの脆弱な横腹を衝く形となり、11月、セルビア全土が中央同盟国によって征服され、この国は戦争から脱落した。

 

その結果、1915年末時点での協商国はイギリス、フランス、ロシア、イタリア、日本。中央同盟国はドイツ、オーストリア、ブルガリア、トルコである。

 

いったい、何が目的の殺し合いなのだろう。当事者の誰もが分からなくなった悲惨な大戦争は、ますます激しさを増していく。

 

1916年8月に、ルーマニアが協商国として立ったが、これは袋叩きにあって秒殺された。しかも、1917年2月に革命が勃発したため、ロシア帝国が戦争から脱落した。

 

いよいよ深刻な窮地に陥った協商国陣営であるが、ついに1917年4月にアメリカ合衆国が味方についた。続いて、7月にはギリシャも仲間入りした。

 

この結果、1917年末の協商国は、イギリス、フランス、イタリア、ギリシャ、日本、アメリカとなる。中央同盟国は、相変わらずドイツ、オーストリア、ブルガリア、トルコであった。

 

しかし、アメリカとギリシャは、国内が戦時体制に入っておらず、1917年度中は名前だけの参戦であった。そのため、この段階では戦局はどちらに転ぶか微妙であった。

 

 

 

 

 

決定打となったのは、1918年3月以降、アメリカ合衆国の精鋭がヨーロッパの最前線に登場したことである。

 

アメリカ大統領ウッドロー・ウイルソンは叫んだ。「これは、戦争を終わらせるための戦争である!」と。

 

ヨーロッパ戦線の協商国軍は、アメリカの力を借りて最後のスタミナを振り絞った。ルーテンドルフ将軍率いるドイツ軍の猛攻撃を凌ぎ切り、逆に総反撃に移ったのである。

 

ここに至り、無理の上に無理を重ねてきたドイツ経済はついに破綻し、ゼネストの嵐が国中を覆った。ソ連から入り込んだ社会主義者たちは、しきりにそれを煽り立てる。

 

オーストリア=ハンガリー帝国も、イタリア戦線で大敗を喫し、また、皇帝フランツ=ヨゼフ2世が病没したことで戦意を喪失してしまった。

 

オスマントルコ帝国の戦争経済はとっくの昔に破綻し、もともとドイツの援助なしでは身動きできない状態にあった。そして、そのドイツとの連絡路は、もうどこにも存在しない。

 

それでも、エンヴェルを始めとする「青年トルコ党」の要人たちは、あくまでも徹底抗戦を叫んだ。ここで降伏したら、もはや後が無い。英仏の相互に矛盾し錯綜した戦後秘密協定が実現したならば、トルコは領土を失い滅亡してしまうからだ。彼らは、国のために華々しく散ることしか考えていなかった。

 

しかし、新皇帝メフメット6世は、事態をそこまで深刻に考えていなかった。彼は、協商国軍が彼のために情状酌量してくれるだろうと信じ、密かに英仏政府に交渉を持ちかけ、そして一つの妥協を引き出したのである。すなわち、国土と国民を彼らの毒牙に進呈する見返りに、降伏後の「皇帝一族の身柄の安全と皇室財産の保全」を約束してもらったのだ。皇帝は大いに喜んだ。「貴人に情なし」とは良く言ったもので、メフメット6世は、自分さえ良ければ大臣や国民がどうなろうと関係なかったのである。彼は、ようやく手に入れた皇帝の位を、一日でも長く保持していたかったのである。

 

この間、シリアのアレッポでは、ケマルが絶望的な防衛戦を戦っていた。

 

塹壕に篭もる疲れきったトルコ兵たちは、それでも指揮官を信じて圧倒的物量の敵の砲撃に健気に耐えている。

 

対するイギリスの名将エドモンド・アレンビーは、予想外の激しい抵抗に困惑していた。地形を選んで頑健に粘るトルコ軍は、降伏勧告を一蹴し去り、悲劇的な損耗にもかかわらず奮戦を続けるのだ。

 

「さすがは、ムスタファ・ケマル。手ごわいな」アレンビーは双眼鏡で敵陣を見回した。「アスキス内閣を総辞職させた男よ、今までどこに隠れていたのだ」

 

そのとき、伝令兵が電報を運んで来た。

 

イギリスの名将は、一読して破顔した。

 

戦争は終わった。

 

兵士たちは、戦闘帽を一斉に中空に放り投げ「フラー」を叫んだ。

 

 

 

 

 

メフメット6世が、「青年トルコ党」の頭越しに降伏勅書を発布したのは、19181030日のことである。

 

運命のその日、ケマルは全身の悪寒に耐えながら、ガリポリ半島戦のときと同様に、アレッポの塹壕で陣頭指揮を続けていた。

 

敵陣から陽気な歓声があがるのを不審に感じていると、その翌朝、大宰相イゼットがイギリス軍艦アガメムノン号上で休戦の調印を行ったとの電報が入ったのである。

 

「そうか」

 

ケマルは一言つぶやくと、浮かれ騒ぐ敵陣を遥かに見やった。彼は腕を組んだまま、そのまま30分間、敵を睨みつけていたと言われる。

 

ベルリンでは、オスマントルコ帝国の降伏を知ったドイツ参謀本部のヒンデンブルク元帥が、絶望のうめきを漏らした。

 

「これで、全ての希望は失われた・・・」と。

 

ドイツとオーストリアは、相次いで降伏した。

 

時に19181111日。ついに、中央同盟国は力尽きたのである。

 

長かった第一次世界大戦は、ここにようやく終わりを迎えた。

 

いつか、こうなるだろうとは思っていた。しかし、終わってみれば、なんと呆気ない結末であることか。

 

「この、価値のない無意味な戦争が、ようやく終わりを告げたということだ」アレッポのケマルは、親しい仲となったイスメット大佐に語った。「喜ばしいことじゃないか?」

 

「しかし、パシャ、我々はこれから一体どうなるのでしょうか」小柄で痩身のイスメットは、悲しみに潤む大きな瞳を向けてきた。彼は、ケマルなら答えを知っていると信じていたのだ。

 

「差し当たっては、勝者の情けに縋るしかないだろうな。奴らに情けがあればの話だが」ケマルは残念なことに、友人を勇気付けられる言葉を持っていなかったのである。

 

トルコが降伏したため、ゼークトやザンデルスといったドイツ人顧問は、次々に本国に去って行った。

 

ザンデルスは、別れ際に言った。

 

「君とはいろいろあったけど、共に戦えて本当に光栄だった。これから、お互いの祖国の前途は苦渋に満ちたものとなるだろう。しかし、この軍をムスタファ・ケマル少将に委ねて去ることが出来るのが私の喜びだ」

 

ドイツ人の将軍は信頼するトルコの将軍を抱擁した。これが、二人の永遠の別れとなった。

 

こうして、ケマルはとうとう「電撃軍団」の最高司令官に就任したのであった。彼があれほど嫌ったファルケンハインの置き土産は、今や彼の掌中にある。なんという皮肉だろう。しかし、この司令官の任務は敵と戦うことではなく、敵と交渉して全軍を上手に復員させることなのだった。

 

そして「電撃軍団」は、敵将アレンビーと交わした停戦協定に基づいて整然と北方に退去した。

 

イギリス軍は休戦直後、無抵抗のトルコ軍に追い討ちをかけて虐殺を加えた。白人優位主義から来る、非道な暴挙である。唯一、シリア戦線の「電撃軍団」だけがそのような悲劇から免れたのである。それは、アレンビーが高潔な人物だったことに加えて、ケマルの撤退指揮が巧みだったことによる。

 

ケマルは、部下たちに訓示した。「諸君は敗者ではない。圧倒的な英仏軍を相手取って一歩も引かずに敢闘した勝者だ。堂々と胸を張って故郷に錦を飾るのだ」

 

泥まみれの馬にまたがったケマルは、内心の悲しみを押し隠し、堂々と全軍の先頭を行進した。この様子に勇気付けられた痩せ細ったトルコ兵の顔は、敗戦にもかかわらず晴れ晴れと輝いていた。

 

しかし、彼らには、あまりにも無情な試練が襲い掛かることになる。

 

4年の長きにわたる第一次世界大戦は、英仏ら協商国側の勝利として終結した。そして戦勝を勝ち取るまでに莫大な犠牲を払った彼らは、敗戦国であるドイツ、オーストリア、トルコに対し、暗い復讐の牙を研いだのである。

 

「瀕死の病人トルコは、とうとう息絶えた。後は、その遺産をどのように相続するかが問題だ」

 

イギリスのロイド=ジョージ首相は、高らかに放言するのであった。