第九章 反乱の狼煙

 


 

 

 

 

サムソン港に上陸したケマルは、現地のホテルに宿泊すると、さっそくアナトリア東部の各都市や軍事基地に到着を告げる電報を打った。もちろん、レフェト大佐の助けを借りて、秘密情報網カラコルを利用することを忘れない。

 

その直後に、首都から帰還命令の電報が飛び込んできたが、当然ながら黙殺した。

 

ケマルの幸運は、サムソンに駐留していたイギリス軍が、まったく傍観していたことである。彼らは、どういうわけか、イスタンブールから発信された「ケマル拘束指令」を見なかったか、あるいは無視したのであった。

 

その翌日、エルズルム市に座す大物カラベキル将軍から長文の返電が帰ってきた。

 

「我々は、3月より『東部アナトリア権利擁護同盟』という組織を立ち上げました。これは、進駐軍に不満を持つ人々の団体でして、旧『青年トルコ党』のエリートたちと私の第16軍団が中心となっております。この運動の支持基盤は、アナトリアの大地主と商工業者、そして聖職者たちです。しかし、これらを一つに統括出来る人材がいないので、活動に締まりが有りません。ちょうど悩んでおったところなのです。あなたをお待ちしておりましたぞ、ケマル・パシャ」

 

ケマルは、思わず破顔した。簡潔明瞭に複雑な状況を説明するカラベキルは、相変わらず大した男だ。

 

キャーズム・カラベキル少将は、ケマルと同い年の勇将であった。豪放磊落で部下から良く慕われるだけでなく、戦略眼に優れ外交術に長けた天才肌の人物なのである。

 

その後、昔馴染みのアリー・フアト将軍や各地の議員や聖職者から好意的な返電が続々と入って来たので、ケマルは大いに勇気付けられた。

 

意外に思う読者も多いだろうが、トルコの電信網は世界水準だった。その理由は、19世紀末の独裁者アブドルハミト2世が、電信の有用性に着目したからである。彼は、己の恐怖政治を強化するため、国内各地の秘密警察と迅速に連絡を取りたかったのである。

 

このとき、面白い逸話がある。皇帝が西欧から電信技術を取り入れるつもりであることを知ったウレマー(宗教顧問団)は、例によって例のごとく、「コーランに書かれていない」などと保守的なことを言い出して反対した。困った皇帝は、ウレマーたちを一室に入れると、その部屋に置いた電信機に外部からコーランの一節を受信させたのである。「見よ、電信機は、コーランを正確に伝えたぞ。神の意にかなっておろうが」と皇帝は言い、そしてウレマーは反論の余地を無くして沈黙したのであった。まるで「とんち小噺」の世界だが、イスラム知識人の保守性を物語るエピソードにもなっている。

 

ともあれ、とんち皇帝ハミトのお陰で、ケマルは迅速に東部アナトリアの状況を把握し、頼みとする民族主義者たちの意向を掴むことが出来たわけだ。

 

やがて、イギリスの諜報組織がケマル逮捕に動き出したとの報に接し、一行はサムソン港を抜け出すと、駅馬車に乗って南方80キロに位置するアマスヤの街に入った。

 

アマスヤは、古い歴史を持つ美しい街である。イェシル川に張り出した城砦は、古代ヒッタイト王国が築いたものだ。ヒッタイト人は、人類史上で初めて鉄器を使用したとされる民族である。アナトリアは、そのような土地なのだ。

 

この街でケマルを待っていたのは、大戦末期に外相を務めた大物ヒュセイン・ラウフだった。皇帝政府のやり方に反感を抱く彼は、カラコルの手引きでアナトリアに逃れてきていたのである。彫りの深い精悍な顔立ちの壮年であり、若いころ勇猛な軍艦乗りとして鳴らした硬骨漢ヒュセインは、ケマルを抵抗運動のシンボルとして起用するべく、アナトリアのカラコル組織から依頼されてアマスヤを訪れたのだった。

 

やがて、第20軍団長のアリー・フアト少将もこの地に合流した。中肉中背で穏やかな風貌の同窓生との再会を、ケマルは西欧式に握手と抱擁で祝った。

 

ケマルは、この街の公会堂に本部を構えた。ただし、この時点での彼は、あくまでも慎重に「監察官」として振舞っている。彼は、ヒュセインとアリー・フアトの知恵を借りながら、アリフやレフェトも交えて今後のことを相談した。

 

そして、「アマスヤの回状」が作成された。

 

「イスタンブールの政府は、西欧列強の侵略者たちによって支配されている。そのため、彼らは国益にかなう意思決定を行うことが出来ない。その結果、今や祖国の運命を決定できるのは、ここ東部アナトリアに結成される愛国者の組織のみである。我の下に集え!そして、トルコの未来について、腹を割って語り合おうではないか!」

 

時に1919年6月21日。

 

ケマル・パシャは、西欧列強と皇帝政府に、絶縁状と挑戦状を同時に叩き付けたのである。

 

その報は、トルコ国内のみならず、たちまち世界各地に伝えられた。

 

 

 

 

 

ベルリンに亡命した「青年トルコ党」の三巨頭、タラート、エンヴェル、ジェマルは、1919年3月、イスタンブールでの欠席裁判で死刑を宣告された。彼らの戦犯としての罪状は様々だが、最も重い罪とされたのは、1915年のアルメニア人大虐殺である。彼らは、「200万人」もの老若男女を殺害したとされていた。

 

協商国は、ドイツ政府に対して、亡命中の三巨頭の引渡しを要求した。しかし、ドイツ人はこの要求を無視した。ドイツ軍部は、膝元に寄宿しているトルコ人を、態勢挽回の切り札として利用しようと考えていたからだ。その秘策の内容については、この小説を読んでいるうちに、おいおいと明らかになるであろう。

 

こうして三巨頭は、ベルリンやミュンヘンの一角に居を構え、比較的安心して生活を送ることが出来た。そんな彼らが恐れるのは、ドイツ国内で荒れ狂う社会主義者たちのテロルと異常なまでのインフレ経済くらいのものである。

 

三人の生き様は、三者三様であった。

 

ジェマルは往年の覇気を失い、仲間に愚痴ばかり言いながらひっそりと生活していた。

 

タラートは、いつも陽気で前向きだった。彼は、祖国に残した情報網カラコルを使い、トルコ情勢を適時にキャッチしていた。彼は、祖国に残る愛国者たちに協力して、トルコの再生と復活に全力を尽くす覚悟であった。

 

エンヴェルは、あくまでも「汎トルコ主義」に燃えていた。彼の視線は、占領下の祖国のみには向けられていない。トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、アフガニスタン。彼は、これらトルコ系民族の居住地域を統合し、そしてイギリスの邪悪な植民地政策を打破してやろうと狙っていたのである。

 

イギリス政府は当初、エンヴェルが中央アジアに暗躍していると思い込んで動揺した。「太陽の沈まない帝国」は、次第に衰え行く己の力に焦りを感じていたからだ。

 

この当時、アフガニスタンの英雄アマヌッラー王の軍勢が、インドを激しく攻撃していた(第3次アフガン戦争)。もしも、「カリフの妹婿」としてのカリスマを誇るエンヴェルが、アフガニスタンを始めとする中央アジアのイスラム教徒を大同団結させたなら、インドはもはやイギリスの植民地では無くなるだろう。

 

「なんとしてでも、エンヴェルを捕らえよ!」

 

ロンドンの外相カーゾン卿は叫んだ。

 

世界最高を誇るイギリスの諜報網は、中央アジア全域を捜査した。しかし、どうしてもエンヴェルを発見することが出来なかった。

 

なぜなら、エンヴェルはその頃、仲間たちと共にベルリンにいたからである。

 

「青年トルコ党」の三巨頭は、その地位を失っても、未だに世界の脅威で在り続けていたというわけだ。

 

 

 

 

 

「ムスタファ・ケマルくんが、ついにやったぞ!」

 

タラート・パシャは、潜伏先のアパートの一室で新聞記事に目を通すうちに「アマスヤの回状」を知った。喜んだタラートは、直ちにカラコルの全国組織に対し、ケマルに全面協力するよう命令を発したのである。

 

同じころ、ジェマルも新聞でこの快挙を知った。彼もこの情勢を素直に喜び、ケマルに激励の手紙を書いた。そんな彼の中で、再び闘志が燃え上がった。

 

しかし、エンヴェルの反応はやや違った。

 

「ムスタファが・・・」彼は、アパートの一室で同じ新聞を見て唖然とした。「あいつ、我々に相談もせずに勝手なことをしおって」

 

エンヴェルにとってケマルは、あくまでも格下の後輩でなければならなかったのだ。

 

イスマイル・エンヴェルは、ムスタファ・ケマルと大きく異なる個性の持ち主だった。

 

二人は、同じ年に生まれ、下層階級から身を起こし、西欧式の教育を受けて愛国心の塊となった。共に、他者に絶対に折れようとしない頑固者だ。しかし、二人が共通するのはそれだけだ。

 

エンヴェルは理想主義者で夢想家だったが、ケマルは堅実な現実主義者だった。

 

エンヴェルは社交家でいつも大勢の仲間たちの前で陽気に振舞ったが、ケマルは内向的でいつも一人で酒を飲みながら考え事をしていた。

 

エンヴェルは敬虔なイスラム教徒で、戒律は絶対に破らなかった。だから、酒はまったく飲まないし、礼拝を欠かしたことがない。女性については、たった一人の愛妻ナジエ以外に知らないし知りたいとも思わなかった。子煩悩の彼は、心から家庭を愛する人物でもあった。

 

ケマルはイスラム教を斜視し、戒律を平気で破った。大酒飲みで、性も奔放だった。そして、家庭を持とうとしなかった。

 

エンヴェルはユーラシア大陸全体のトルコ人を一つに纏めたがったが、ケマルは「固有の領土」に住むトルコ人だけを一つに纏めたがった。

 

この二つの強烈な個性は、やがて終生のライバル同士となる。

 

 

 

 

 

一方、第9軍監察官の常軌を逸した行動に驚愕し激怒したメフメット6世は、直ちにケマル宛に帰還命令を出した。

 

しかし、アマスヤからの返電は次のようなものだった。

 

「皇帝陛下、占領下のイスタンブールを抜け出して、我々に合流していただけませんか?我々は、陛下の到着をお待ちしております」

 

メフメットは震え上がった。どうして、せっかく占領軍に保証してもらった皇室財産と贅沢な生活を捨てなければならないのか?どうして、居心地の良い宮殿を去って山賊の頭目に落ちなければならないのか?

 

「朕には、ケマルの考えがまったく分からない」メフメットは額に皺を寄せた。「朕の命令を素直に聞いていれば、それだけで首都での出世は思いのままではないか。金銭も名誉も女も、みんな勝手に寄ってくる。それなのに、奴は朕を裏切り、全てを捨てて山賊の仲間入りをした。いったい、どうしてなのだ」

 

この問いに対する解答は、メフメットのような人物には決して分かることがないだろう。

 

ケマルは、電信機の前で一日中、皇帝の返事を待った。しかし、返事は返って来なかった。彼は小さなため息をつくと、再び首都に電報を打った。自ら「第9軍監察官」の職務を辞任し軍籍から退くとの内容である。ケマルの本質が「ケジメ人間」であることが分かる。

 

「裏切り者め!」

 

激怒した皇帝は、第16軍団のカラベキル将軍宛てに「ケマル逮捕命令」を発した。毒を盛って毒を制すという、貴人の有り勝ちな謀略である。

 

そうとは知らないケマルが、アナトリア中部の町シヴァスで民族主義者たちの会議を開くつもりでいた矢先、カラベキル将軍から「エルズルムの町で会議を準備しているところなので、むしろこちらに合流して欲しい」との電報が来た。東部の実力者は、どうやら自分のホームグラウンドで事を進めたいようだ。

 

カラベキルは自分の手足に出来る軍勢を持っているが、ケマルはこの地では徒手空拳の新参者である。むしろ、「権利擁護同盟」によって擁立される存在でしかない。

 

「カラベキルの意見に従おう」ケマルは、仲間たちに言った。

 

「危険なのでは?」アリフが疑念を表明したが、ケマルは首を横に振った。

 

「危険なのは、最初から承知の上だ」

 

1919年7月5日、エルズルムの町に「権利擁護同盟」の人材が続々とやって来た。ケマルも、アリフやレフェト、ヒュセインやアリー・フアトとともに駅馬車を使って街に入った。

 

彼らに続いて、カラ・ヴァースフ、ベキル・サミら、憂国の旧「青年トルコ党」員たちが馬に乗って現れた。高い鷲鼻を持つカラ・ヴァースフは、アナトリア地方におけるカラコルの大幹部を勤める人物で、ベルリンのタラートと密接に連絡を取り合っていた。彼は、ケマルにタラートやジェマルからの激励の手紙を渡したのである。

 

ケマルは、手紙を読んで複雑な気分になった。外国からの激励は嬉しいけれど、彼は自らが始めようとする運動を「青年トルコ党」の焼き直しにはしたくなかった。しかし、ベルリンの亡命者たちは、カラコルを通じて祖国をリモートコントロールする気でいる。彼らから見れば、党の下っ端だったケマルなど、手駒の一つに過ぎないのだろうか。

 

「国内のカラコル組織は有用だ。しかし、海外の三巨頭には、余計な干渉を遠慮してもらいたい・・・」

 

ケマルは、昔から「青年トルコ党」の政策に批判的だった。しかし、彼らが作った組織網は、今の彼にとって必要不可欠な武器なのである。実に複雑な気分だった。

 

そんな中、ケマルはカラベキル将軍の私室に招かれた。才能溢れる東部の有力者は、皇帝が発行した「逮捕命令書」をいきなり客に見せたのである。

 

「スルタンは、あなたを反逆者と呼んでいます」熊のような丸顔の中に深い知性と洞察力を宿す将軍は、黒い口ひげの下に淡い笑みを浮かべつつ語った。「即座に逮捕してしまえと」

 

「それで、どうするつもりだ?」ケマルは、動ぜずに将軍を見る。

 

カラベキルは、黒い瞳をじっと客に注ぎ込んでいたが、にやっと笑顔を浮かべ「こうです」と、命令書を真二つに引き裂いた。「あなたは、反逆者ではなく愛国者ですからな。私と同様に。皇帝には、そう返電しておきましたわい」

 

二人は握手を交わし、続いて抱擁しあった。

 

「良く来てくれました、ケマル・パシャ」

 

「よろしく頼む、カラベキル・パシャ」

 

しかし、カラベキルが思わせぶりな振る舞いをした理由は明白であった。彼は、己の実力をかつての上官に誇示したかったのである。ケマルなど、その気になればいつでも叩き潰せるとアピールしたかったのである。

 

そんな彼が、ケマルを上座に立てた理由は、旧「青年トルコ党」のヒュセインやカラ・ヴァースフらが、ケマルを運動の中心に据えようとした理由と同じであった。すなわち、ケマル・パシャは「ガリポリ戦の英雄」として全ての国民に神格化され尊敬されているから、抵抗運動のシンボルとして最適の人物だったのである。

 

逆に考えれば、カラベキルらがケマルに負けないだけの大きな威信を獲得したなら、いつでも彼に取って代われる立場なのだとも言えた。

 

その夜、ケマルが宿舎で空にするラク酒のボトルは3本になった。

 

前途は多難であった。身内にも、決して心を許せない。

 

 

 

 

 

翌日、ケマル・パシャはエルズルム市の代議員の資格を与えられ、議場での登壇を許された。軍服を脱いで文民になった彼は、7月23日から始まった会議で堂々と発言した。

 

「諸君、私はイスタンブール政府からの決別を提案する」

 

耳目は、精悍な風貌の発言者に集まる。

 

「我が国の皇帝は、今や邪悪な敵の捕虜になった。敵というのは、我が国を不法に占拠する西欧諸国とギリシャである。奴らの狙いは、諸君がすでに気づいているように、我が国の分割解体である」

 

満座は、大きくうなずいた。

 

「そこで、私は提案する」ケマルは、声を張り上げた。「国民会議を開き、続いて各地の抵抗勢力を結集し、侵略者たちを祖国から追い出すのだ!」

 

「そうだ!」カラ・ヴァースフが叫んだ。「そして、気の毒な皇帝とイスラムの長老を、異教徒の魔手から救い出すのだ!」

 

ケマルは、これを聞いて複雑な心境に陥った。実際には、皇帝もイスラムの長老も、西欧列強の侵略政策に喜んで迎合しているのである。しかし、これをみんなに理解させるのはあまりにも難しい。そこで、ケマルはヴァースフの発言にうなずいて見せた。

 

それから、2週間にわたる会議が始まった。

 

その結果、

 

一、占領下のイスタンブール政府に代わり、この運動こそが祖国の代表となること。

 

二、占領軍によってアルメニアに割譲される予定の東方諸州は祖国から分離しえないこと。

 

三、祖国の全体性、国民の未来、スルタンカリフの地位の保全のため、「国民軍」を結成すること。

 

四、9名から成る代表委員会を選任し、この運動の執行機関とすること。

 

が、決定された。

 

このとき、代表委員会の委員長に選任されたのは、ムスタファ・ケマルであった。残りの8名は、ヒュセイン・ラウフ、ベキル・サミ、ホジャ・ライフ、ハジ・ムサら、旧「青年トルコ党」の要人たちである。

 

それから、9月にシヴァスの街で国民会議を開催することが正式に決定された。

 

シヴァスは、アマスヤの南方100キロに位置する都市である。ここが選ばれた理由は、鉄道と良質の道路が通っているため、多くの人が集まりやすいと思われたからだ。

 

「おのれ、不忠の裏切り者ども!」

 

イスタンブールの皇帝は、この情勢を前に歯軋りした。そして、占領軍の態度が硬化するのではないかと酷く心配した。

 

しかし西欧列強は、皇帝にとって幸いなことに、この状況をあまり問題にしていなかった。東部アナトリアは、山岳と荒地に覆われた不毛の土地である。彼らの多くは、かつての英雄ケマルが、血迷って荒地に踏み入り山賊の仲間入りをしたとしか思わなかったのである。

 彼らは、この「山賊の群れ」が、世界史から「帝国主義」を一掃する原動力になろうとは夢にも思わなかったのである。