あとがき

 

 今回は、書き上げるのに苦労した。さほど長い小説でも無いのに、2000年9月に書き始めて、2002年7月にようやく脱稿した有様だ。

 その理由は簡単で、テーマがたいへんに難しかったからだ。ヒトラーや三国志と違い、とにかく文献や史料が少ない。そもそも我が国には、フス派運動のみならず、チェコという国について書かれた書籍自体が異常に少ないのである。そのため、物語の細部は全て筆者の想像で補っている。それがゆえ、かえって好きなように書けて良かったとも言えるのだが。

 また、複雑な部分は意図的に殺ぎ落とし、読者の理解が容易になるように工夫している。例えば、プロコプという人物は、フス派側に3人存在する(大プロコプ、小プロコプ、アウスティのプロコプ)のだが、この小説では1人に統一している。

 ところで、私がこの小説を執筆しようと思い立ったきっかけは、1999年に旅行で訪れたチェコとプラハが、たいへん魅力的な国だったからだ。プラハの歴史博物館や旧市街広場のヤン・フス像、そしてターボルのジシュカ像に深い感銘を受けた私は、どうしてもフス派をテーマにした作品を書きたくなったのである。

 もう一つの執筆動機は、現在の日本が陥っている閉塞感である。無能な腐朽官僚組織が、国民に対して間違った強圧的指導をする国情は、60年前の太平洋戦争のときと同じである。そして、その状況は、フスが改革運動を始めたときのチェコに近似しているように思えた。私は、フス派運動を詳述することで、現在の日本に何かヒントを与えられたら良いと考えて、この作品に取り組んだのである。

 この小説のテーマは『真実』である。これは、もちろん相対的で曖昧な概念であるが、現在の日本人が見失っているのが、この『真実』の探求だと思う。歪んだ戦後教育で、一貫して「モノとカネ」の価値ばかりを教え込まれた日本人は、経済が行き詰まるとたちまち自信を無くし、人生の『真実』を見ようとしなくなった。私は、『真実』を守るために全てを犠牲にした人々を描く事で、このような惨めな状況に一石を投じたくなったのである。そのため、作中における『真実』は、必ずしもキリスト教という狭い概念に囚われていない。私は、作中のキリスト教色や神学論争について、意図的に弱めて書いた。それはもちろん、複雑な神学論争になど興味がないからだし、読者もまた同じだと思ったからでもある。

 なお、覇気溢れる学生の姿を強調して書いた理由は、最近の、日本の学生の従順な無気力ぶりに腹が立っているからでもある。学生が行動を起こさなければ、国を改革することなど出来はしないはずなのだが・・・。

 また、作中には、意図的にチェコ文化のユニークな特徴を凝縮して書いている。私は、本当のグローバリズムというのは、例えばアメリカのような大国のエゴに支配されることではなく、各民族がそれぞれの優れた個性をアピールし、互いにそれを尊重することだと考えている。そして、フス派戦争の主要な動機の一つは、こうした民族の個性の発露にあるのだと考えたので、それを強調しようと考えたのである。そういう意味では、『ボヘミア物語』は、現行のグローバリズムの在り方を批判した小説だということも出来る。

 それに関連して、作中には、私の好きなチェコ文化のオマージュが百花繚乱状態となっている。犬のダーシャはカレル・チャペックの『ダーシェンカ』、狂女ヴィクトリカはボジェナ・ニェムツオヴァーの『おばあさん』、医者のトマーシュはミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』、純朴な少女ルティエは同じくクンデラの『冗談』、ジシュカの二人の部下パヴェクとオチークはイジー・メンチェル監督の『スイート・スイート・ビレッジ』のイメージに大きく支配されている。他にもあるので、チェコ文化のファンの人は、探してみると楽しいかも分からない。

 以前から思うのだが、我が国のマスコミ報道は偏向していると思う。海外報道の多くは、アメリカや西欧に偏っており、なぜかお隣の韓国や中国についてはあまり伝わってこない。ロシアや東欧にいたっては、ほとんど触れられないのが現状である。こんな狭い了見で、この国は21世紀のグローバルな世界を泳ぎ渡ることが出来るのであろうか?

 『ボヘミア物語』が、こうした状況に一石を投じ、みなさんが世界の多くの国々の文化に目を向けるきっかけとなるなら、望外の幸せというものである。

 

 

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