第三章 国王は悩んでいます

 

 

 夕闇に浮かぶ居酒屋ウ・クリムは、またもや酔客の群れに埋まっていた。

 今日の客は、そのほとんどが、髭を生え散らかした荒々しい傭兵たちであった。

彼らの中で甲斐甲斐しく給仕するマリエの姿は、ライオンの群れに迷い込んだ小鳥のようだ。ただし、この小鳥は、ちゃんと自分の安全には気を配っている。その証拠に、一番はずれのテーブルには、頼もしい3人の騎士が、しっかりと目を光らせてくれていた。もっとも、騎士の1人は、怒りを抑えるために安酒に溺れ、既にすっかり出来上がっていたのだが。

「ういー、ビールはまだかー」イジーは、唇の端から涎を垂らしながらうめいた。

「あ、ゴロツキが、マリエちゃんの腰に手を」トマーシュが、素っ頓狂な声を上げた。

「にゃにい」イジーは、瞬間、真顔になる。

「あははは、冗談だよお」

「てめえ、ぶん殴るぞお」

はしゃぐ2人の友人の前で、ぺトルはあまり杯も進めず、テーブルの上に両手を並べて考え事にふけっていた。昼間の旧市街広場で見た、処刑台に吊られ充血しきった3つの顔が忘れられないのだ。ぺトルは、ホンザたちの死の意味を、どうしても知りたいと願っていた。

ペトルに比べると、イジーの立ち直りは早い。自棄酒を飲んでいるうちに、すっかり気分が良くなったようだ。

すると、酔っ払いの髭面が、突然、ペトルの想念に分け入ってきた。そいつは、ひどい訛りで何かをまくしたてている。想念かと思ったら、現実の出来事であった。喋っているのは傭兵の1人で、その発する言葉は、良く聞けばポーランド語なのだった。

チェコ語とポーランド語は、良く似ている。どちらもスラヴ民族だからであろう。落ち着いて聞けば、素のままでも意思疎通が出来るのである。ただし、今夜はみんな酔っ払っていた。

「何か用ですか」ぺトルは、思索を破られた不機嫌さを隠そうともせず応じた。

すると、ポーランド人は、やにわにぺトルの襟首を掴んで来た。喧嘩を売られたとでも誤解したのだろうか?ぺトルは、なぜか褪めていた。周囲で騒ぐ友人たちのことも、別世界のように感じていたのだ。

しかし、ポーランド人の体はすぐに横にどき、代わりに現れたのは蓬髪碧眼の大男だった。

「学生か。こいつと何かあったのか」ジシュカは、ポーランド人に尋ねたが、彼は恥ずかしそうにもじもじするばかりである。

「こりゃえ、ジシュカ隊長、おええできて嬉しいでしゅ」テーブルから立ち上がったイジーが、回らぬ舌で頓狂な声をあげたので、大男は面食らった。

「・・・お前は、どこの外人だ」

「酔っ払いのチェコ人です。ご容赦を」隣のトマーシュが、すかさず笑顔で応えた。

「みんな学生か。最近の若いやつらは腑抜けておるな」ジシュカは、憮然とした目を投げて首を左右に振ると、自分の席へと戻っていった。

「ふうんだ、乞食の親玉みてえな風体のくせに」トマーシュは、小声で毒づいた。

しかし、ぺトルはジシュカの後ろ姿に何か奥深いものを感じた。このむさ苦しい風体の壮年が、この国の『真実』に深い係わりを持つような予感にかられたのである。

「かっこいいわよね」いつのまにか近づいていたマリエが、両手に空ジョッキを抱えたまま、小声で呟いた。「ジシュカ隊長、すごく強そう。あんな人に守ってもらえるなんて、フス先生が羨ましいな」

「そりぇえ、聞き捨てねんねえざう」イジーが酔眼をグリグリ回し、マリエは吹き出した。

「きゃははは、あんた、どこの外人よ」と、赤い舌を出す。

火の入っていない暖炉の前では、老犬のダーシャが寝そべって、人間たちの喧騒を伴奏に船をこいでいた。

 

新市街の庶民的な華やかさは、旧市街の夜には無縁のことだ。

プラハ大学の教員用寄宿舎では、フスとスタニスラフが、難しい顔で対峙していた。

「ヤン、君は二言目には真実というが」師は、深い吐息とともに言った。「教皇庁にだって、彼らなりの真実があるのだぞ」

「既得権益に歪められた間違った思い込みは、真実ではありません」燭台の明かりに照らされたフスの表情は、昼間と少しも変わらず、謹直で生気に溢れている。

「だいたい、真実とは何だ。人間一人一人の胸に宿る敬虔な思いを真実と呼ぶのなら、この世には百万もの真実が生まれ、収拾がつかなくなるのではないか」

「先生、少なくとも、教会の今の在り方は真実ではありません。なぜなら、教会は、神の名のもとに恐怖と迷信を捏造し、人々の健全な魂を恐怖で押さえ込んで今の世界を造っているからです。そして教会は、人々の神への畏れを利用して、私利私欲にふけっているのです」フスの険しい視線は、次第に夢見がちに柔らかくなった。「しかし真実は、教会の典礼ではなく聖書の中にこそ宿っているはずです。人々は、聖書に触れて、はじめて自分たちの魂の中に真実を見出すことが出来るのです。ですから地上の教会は、彼らを恐怖で縛るのではなく、彼らに聖書を理解させてあげる学校であるべきなのです。そうなれば、聖書の真実は人々の魂を愛で満たし、多くの人々が安心して平和に生きていける社会が築かれることでしょう。戦争も貧困も疫病もなくなることでしょう」

「・・・・・」

「ですが、今の教会の在り方は・・・そう私に教えてくれたのは、故ウイクリフ師とそして先生、あなたではないですか」

「なあヤン、この世は、そのような筋論だけでは通らぬのだ」スタニスラフは、暗い目をさまよわせた。「教会は、異端を決して容赦しないぞ。ローマ教皇庁では異端審問官が暗躍し、逆らうものを片端から始末しておる。その権力はあまりにも強大で、何者も抗うことができない。カタリ派の末路は知っているだろう」

スタニスラフは、彼自身ピサ公会議で幽閉され、異端審問の辛さを経験していた。

「真実に到達するためには、より多くの苦難を乗り越えなければなりません」フスは、師の心中の苦渋を理解しながらも、己の主張を強く打ち出した。「より多くの犠牲を払わねばなりません。そのことは、神の子イエスが既に教えてくれています」

「君はそれでも良いかもしれんが、巻き込まれる庶民たちは、それで満足なのだろうか。このままでは、チェコ国民の多くが異端宣告を浴びることになるぞ」

「師よ、私は異端の教えを説いているわけではありません。ローマ教会のあるべき姿を示し、改革の必要性を論じているのです。教皇庁は、私を誤解しています。チェコ国民のことも誤解しています。そして、この誤解が解かれる日は、必ず来ることでしょう」

「君は、ローマの大きさを知らないのだ」スタニスラフは、目を伏せて白髭をしごいた。「ローマの誤解は、キリスト教世界の真実となるのだぞ」

「まさにそれこそが、ローマ教会の問題の本質なのではないでしょうか」フスは、にっこりと微笑んだ。「彼らは、早くそのことに気づかなければなりません。早く気づいて本来の美しい姿を取り戻さないと、まもなく東から迫る神罰に蹂躙されてしまうでしょう」

この当時、オスマントルコ帝国の進出が顕著になっていた。精強無比のイスラム教徒たちは、バルカン半島の大部分を制圧し、いまやビザンツ帝国の喉元に匕首を突きつけていたのである。今を去る16年前、ハンガリー王ジギスムントの率いる十字軍は、ニコポリスの戦い(1396)で完敗を喫し、全ヨーロッパは異教徒の恐怖に慄いていた。

「ヤン、わしは、君の身が心配なのだ」師は、潤む目を向けた。彼の心の目には、貧しい僻村から身を起こし、艱難辛苦を乗り越えて勉学に励み、ついに大学総長にまで上りつめた可愛い愛弟子の若き日の姿が宿っていた。「国王や王妃は、いつまでも頼りにならぬ。今日の事件を見ただろう。旧市街広場でのあの絞首刑を」

「あれは、実に痛ましい事件でした」フスはうつむいた。「私のせいでもあります」

「血気盛んな愚か者は、どこの世界にもいる。君が悔やむことではない。だが、国王だよ。彼はまず、傭兵ジシュカを君の護衛に招聘することで反教会に立った。だから、今日の贖罪状妨害事件では教会側に立ったのだ。彼は、バランスを保とうとしているのだ。だが、これは実に壊れやすく移ろいやすいバランスだ」

「真実は、国王や王妃が決めるものではありません。国民一人一人が、それぞれの魂に諮って決めるのです。そして、国王といえども、国民の間から澎湃と巻き起こる真実の声を無視することはできません。私が真実の伝道を続ける限り、師の心配は杞憂となるでしょう」

「・・・君は、強い男だな。もうわしには、言うべき言葉が見つからない」スタニスラフは、弱々しく微笑んだ。

二人の聖職者は、それぞれ深い物思いと沈黙の世界に入った。

そして、夜はふけていく。

 

チェコ(ボヘミア)王国は、形式的には神聖ローマ帝国の一領邦であったが、その重要性は他の地域とは比肩できないほどに高かった。

第一に、地政学的条件。地図を開いてもらえば分かるとおり、チェコは、ヨーロッパの真ん中に位置している。そのまた中央に位置するプラハ市は、まさに東西南北を結ぶ要衝であり、しかもアルプス以北で最大の都市であった。

第二に、鉱物資源。プラハ東方に位置するクトナー・ホラは、当時のヨーロッパで最大の銀鉱山地帯であった。ヨーロッパの銀は、その全てがチェコで採れるといっても過言ではなかったのである。

以上のことから、チェコすなわちボヘミア王国は、まさにヨーロッパの臍であった。

もっとも、チェコの繁栄は、相対的なものとも言えた。西の強国フランスは、この当時、イギリスとの百年戦争の最中で、その国土は荒廃していた。東の強国ポーランドやハンガリーは、百年前のモンゴル来襲によって壊滅的打撃を受けており、その国力は衰退していた。

また、ヨーロッパ全土が百年前のペスト大流行で大打撃を受けていたのだが、チェコはその惨禍が比較的軽かったのである。

そういうわけで、チェコは経済的にも政治的にも優位に立っていた。13世紀には、ボヘミア王オタカル2世(プシェミスル王家)が神聖ローマ帝国の統一を目指して動き出し、オーストリアを占領したこともあった。彼の野望は、ハプスブルク家のルドルフ1世との決戦に敗れて挫折したのだが、その遺志はルクセンブルク王朝のカレル1世に引き継がれる。14世紀初頭に、選挙で神聖ローマ皇帝カール4世となった彼は、プラハに帝都を遷し、この街を文化と芸術の都に大改造し、もってチェコの優位性を天下に知らしめたのであった。

ただ、オタカル2世とカレル1世の拡張政策は、ドイツ人やユダヤ人のチェコへの流入を促進させた。当初、チェコ人の多くは猟師か牧童か農民であって、近代的な産業についての素養を持っていなかった。また、人口自体も多くなかったので、チェコの国土の大部分が、原始的な森林地帯のまま取り残されていたのである。この情勢を憂慮したオタカル2世は、優遇税制を設けるなどして、ユダヤ人やドイツ系商人をボヘミアの諸都市に呼び込み、商業の発展に努めた。また、人口の少ない地域にはドイツ人入植者を募って開拓を行なわせ、その土地を彼らに与える政策をとったのである。この結果、チェコとドイツの国境は、最もドイツ人が多く住む土地となった。この地域こそ、後に第二次世界大戦の遠因となるズテーテンラントなのである。

もっとも、これはチェコだけではない。ポーランド、ハンガリー、ルーマニアといった東欧諸国は、程度の差はあれど、この時期に急激にドイツ資本に支配されるようになっていた。

さて、これらの政策の結果、チェコ王国の人口は爆発的に増加し、また、商業や手工業の発展によって国富も増した。オタカル2世とカレル1世の拡張政策は、これを基盤にして成り立っていたのである。

ただ、その過程でドイツ人とチェコ人の人種的対立が先鋭化していた。都市に集う豊かなドイツ人と、農村に住む貧しいチェコ人という図式は、時代の流れとともにますます鮮明になったからである。

名君として正史に名を残すカレル1世の後を継いだのは、その子、ヴァーツラフ4世である。彼は、不運なことに、亡父が遺したこの負の遺産をまともに引き継ぐ形となった。王位継承を巡る貴族たちの争いを鎮定した彼を待っていたのは、プラハ大学内部の政治闘争であった。ドイツ人部会とチェコ人部会が、総長の選挙権を巡って激しく対立したのである。

プラハ大学は、従来はドイツ人の聖職者が中心となっており、総長の選挙もドイツ人部会に有利な仕組みになっていた。ところが最近は、チェコ人の人口が増加し、その勢力が増したため、チェコ人学生の数が増えてきた。これに対して、ドイツ人学生の数は減少傾向にあった。これは、ドイツ各地に大学が新設されたためである。

ヴァーツラフは、この情勢を見て、プラハ大学内部の権力闘争をチェコ人に有利なように裁定した。すなわち、1409年の『クトナー・ホラの勅令』である。この結果、プラハ大学にチェコ人総長が誕生した。その人物こそヤン・フスだったのである。

そのフスは、チェコ語の説教や著述を数多くこなし、チェコ人の民族意識に火をつけた。

つまりヤン・フスは、宗教改革者のみならず、チェコ人の民族啓蒙者としての役割も担わされていたのである。フスの異常なまでの人気と大衆に対する影響力は、このような政治的背景を考えなければ理解が難しい。

ただ、フス自身は、おそらく民族啓蒙者としての自分の立場に無自覚であった。そのため彼は、自分が語る『真実』の影響力を、実像よりも過大評価していた。大衆は、フスが紡ぐ信仰の『真実』よりむしろ、フスの口から語られる『チェコ語の説教』に惹かれていただけかもしれないのに。

それでもフスは、心から信じていた。人類の本当の幸せとは、権力者が強制するルールではなく、一人一人の魂の中から導き出されることを。そして、チェコがその高邁な理想の発信地となってくれるだろうことを。

フスの宗教改革思想は、しばしばウイクリフ教説の焼き直しと言われる。しかし、「個人」の理性を何よりも大切にする思想と、これを大衆化しようとする不断の努力は、高く評価されるべきであろう。

ヨーロッパの、ひいては世界の近世は、まさにここから始まったのである。

 

だが、チェコ国王ヴァーツラフ4世は、板ばさみにあって苦しんでいた。

すなわち、フスの処遇について、貴族と教会の二大勢力から突き上げられていたのである。

ヴァーツラフのルクセンブルク家は、その名のとおりルクセンブルク出身である。そのせいか、チェコ土着の貴族たちは、ヴァーツラフを、よそ者として侮る傾向が強かった。もっとも、ヴァーツラフの人格にも問題があった。彼は、暗君ではなかったが、父王カレルと違い、周囲の顔色を窺う優しい性格の持ち主だったので、かえって貴族たちに侮られてしまうのだった。また、先年の選挙に敗れ、神聖ローマ皇帝から退位してしまったことも、その傾向を強めたのである。そんな彼が、貴族たちを大人しくさせるには、民族啓蒙者としてのフスを大切に保護するしかなかった。

しかし、そのフスはローマ教皇庁から異端の烙印を押されていた。つまり、必要以上にフスを庇うことは、ヨーロッパ最大の国際政治組織であるカトリック教会を敵に回すことになる。現に、プラハ大司教は、ローマの威光を笠に着て、王に圧力をかけていた。

ヴァーツラフはこうして、貴族と教会の間で、苦しい板ばさみにあっていた。貴族から支持を得るためにフスを保護しなければならないが、教会を怒らせるのは避けたいというわけだ。

こうして、ついつい酒量も増える。

人の良い王は、昼間からビールを食らって赤ら顔で式典に出席したりするので、しばしば大衆からバカにされていた。それでも、先日の贖罪状妨害事件では、迅速な判断で下手人の3人の学生を処刑したのである。これは、彼にしては上出来であった。

そんな国王は、近頃は旧市街の東側に居館を構えて生活している。起伏の多いフラッチャニ丘に建つプラハ城を嫌ったからである。

中世においては、特定の場所に王宮を持つことはむしろ珍しかった。その例にもれず、歴代ボヘミア王は、夏はカレルシュタイン城(プラハ西郊)、冬はクトナー・ホラの街に王宮を遷す伝統があった。そしてヴァーツラフも、ぺトシーンの丘を紅葉が彩るこの季節になると、クトナー・ホラの山々を懐かしく感じだすのだった。

「いよいよ、冬篭りじゃ」

笑顔で低く呟く王座に、血相を変えた側近が走りよった。

「たいへんです。フスとその一党が」

「・・・また、何かしでかしたのか」老王の喜色は、たちまち減退していった。

「御意。ベトレヘム礼拝堂で公開討論会を行っています。先日の、学生3人の絞首刑を声高に非難し、また贖罪状の販売を強く非難し、それに賛同する市民の数は増える一方です」

これは、明らかに王の決定に対する反抗である。ヴァーツラフの眉間には、深い縦皺が刻まれた。

「きやつは、いったい、誰のおかげでプラハに居られると思っているのじゃ」

そのとき、王妃ジョフィエが、衛兵隊長ミクラーシュを伴ってやって来た。

美貌の王妃は、栗色の眼を王の朱顔に注ぐと、きっぱりと言った。

「お怒りを鎮めなされませ。フス先生の主張は、いつものように正義に裏打ちされていますわ」

「『真実』か。政治というものは、そんなことではどうにもならぬ。世界最大の国際組織を統べるローマ教皇を怒らせれば、ボヘミアもチェコ人も立ち行かなくなるわ。あいつには、それが分からぬのじゃ」

「王よ」長身の衛兵隊長は、張りのある声をあげた。「ここは私にお任せください」

「・・・」玉座の人は、切れ長の目を王妃と隊長に投げた。目の前に立つこの2人は、フスの熱烈な信奉者なのである。任せて大丈夫なのだろうか。

だがミクラーシュは、王の沈黙を承諾の意と受け取って、脱兎のごとき勢いで王宮を飛び出していった。しかし、彼がやったことはと言えば、大勢の衛士を集めて、フスとその一党を遠巻きに護衛することだったのである。それのみならず、事もあろうに、ベトレヘム礼拝堂に抗議に押し寄せたカトリックの過激派を、武器を用いて撃退したとのこと。

その知らせを受けた王の朱顔は、怒りのためにますます赤くなった。

崩れかけたバランスを、取り戻さねばならぬ。

こうして、王はフスをプラハから追放する決意を固めたのである。