第五章 大泥棒を捕まえよう

 

 

  寒い冬が明けて春の日差しがまぶしい季節になると、再び大泥棒の噂が活発になった。

 この大泥棒は、旧市街の金持ちしか襲わない義賊というので、庶民の受けは良かった。

 「あいつかなあ」「ガチョウの羽も落ちているらしいし」「そうだね」

 いつもの酒場に集う3人の学生は、昨年、『高い城』で取り押さえたドイツ人の大泥棒を思い出していた。

 「ドイツ人やユダヤ人ども、これに懲りてプラハから出て行かないかな」

 イジーは、上機嫌だ。彼らが逃がしてやった泥棒が犯人であるというのなら、イジーが嫌う異国の金持ちどもが苦しむのは、自分たちの功績だと思えたから。

 ユダヤ人と聞いて、トマーシュの高い鼻がひくひくと動いたが、イジーもぺトルもそれには気づかない。

 「大泥棒の『真実』って何だろうな」ぺトルが首をかしげた。

 「もちろん、金だろうよ」イジーはすかさず応える。

 「いや、案外、この世界の貧富の差をなくすことが、『真実』だと思い込んでいる理想主義者じゃないかな」

 「それだったら、盗んだ財貨を、新市街の労務者や農村に分配するはずじゃないか。そんな話、聞いたことないぜ。やっぱり、金目当てだぜ」と、イジー。

 「ともあれ」トマーシュは、友人たちの顔を眺めた。「王は、城の警備兵を泥棒退治に回すそうだね」

 「面白いじゃないか」イジーは笑った。「ジシュカ隊長対大泥棒トチェンプロッツ。世紀の対決だぜ」

 「お手並み拝見だね」

 「なあ」イジーが手を挙げた。「俺たちも泥棒退治に参加しようぜ。肝試しよりも、きっと面白いよ」

 「僕はいいよ」トマーシュは、眉をしかめた。「あんなチビのオヤジの身体検査なんてしたくないもの」

 「本当に俺たちが捕まえたら、どうすんだ」ぺトルは苦笑した。「また、逃がしてあげるのか」

 「いや、泥棒の口から直接『真実』を聞き出す。そして、金目当てと答えるような俗物なら、ジシュカに引き渡す」

 「それは面白いな」ぺトルは、思わず手を打った。

 こうして、この日の悪企みはまとまった。

 その時以来、ぺトルとイジーは、暇を見つけて夜の旧市街に張り込んで見張ったのだが、別段、何の異常も見つけられなかった。そして盗難事件も、それっきり発生しなかった。

 「あの泥棒、もうプラハにいないんじゃないか」

 「そうだよな、何度も同じところを襲うほどバカじゃないだろう」

 

 いつもつるんで年がら年中遊んでいるように見えるぺトルとイジーだが、学業成績はなかなか優秀だった。ただし、異端者フスのシンパであるとして、カトリック教会寄りの神学部の教授や司祭たちから目をつけられ、良く思われていなかったのだが。

 フスがプラハを去った後も、いわゆるウイクリフ教説は、プラハ大学の自由学芸部を中心に研究が進んでいた。フスの愛弟子イエロニームやヤコウベクは、講堂で公開討論会を開いて活発な議論を戦わせ、ぺトルとイジーも、これに積極的に参加して意見を述べた。

 「腐敗したローマ教会は、今や不要である。我々で新たに清新な教会を立ち上げ、同時に国中にチェコ語の聖書を行き渡らせて、人々に直接、聖書の真理を理解させるしかない」プラハのイエロニームが言った。この人は、大きな茶色の眼をした、生気溢れる活発な僧侶である。好奇心旺盛でバイタリティに溢れ、欧州各地を旅したこともある活動派の学者だ。

 「新たな教会には賛成だが、聖書の件は技術的に困難だ」ストシーブロのヤコウベクが、首を左右に振った。この人は、いかにも学者という感じの、少し神経質で小柄な僧侶だ。「そんなに膨大な聖書を、全土に配る手段がない(この当時、印刷術は存在しなかった)。それよりは、優れた説教師を養成して、地方で布教してもらう方が手っ取り早い」 

 「それも難しいですね」プシーブラムのヤンが唇を湿した。中肉中背の穏やかな人物で、常にバランス良く物事を見極める能力を持つ。「今の情勢では、ウイクリフテン(ウイクリフ派)が、聖職禄を確保するのはかなり厳しいです」

 聖職禄とは、要するに教会からサラリーをもらう権利のことであるから、これが得られなければ、説教師といえども飢えてしまう。

 そのとき、ペトルが挙手して発言した。

 「『新たな教会』の説教師は、教会によって叙任された聖職者である必要は無いと思います。農家や商家を営む合間に、人々に道を説く教養人がいても良いのではないでしょうか」

 「ペトル君」イエロニームが、優しい視線を教え子に注いだ。「聖職者でなければ、庶民は尊敬してくれないし、話を聞いてくれないだろう」

 「そうだろうか」ぺトルは、内心で首をかしげた。「新たな教会というのなら、ローマ教会の聖職禄に固執する必要はないはずだ。先生方の意見は、どこか撞着している。古い発想から抜けられないのだ。その理由はきっと、この人たち自身が聖職禄で生活しているからだろうな・・・」

 隣に座るイジーは無言だったが、その内心の思いはぺトルと同じだった。

 「八方塞がりだな、これは」二人の学生の心中を忖度せず、ヤコウベクは肩を竦めた。

 公開討論では、ウイクリフ教説の神学的な研究は進むのだが、これを大衆に布教する方法となると、いつも堂堂巡りになって打開策が出てこないのだった。

 

 講堂からの帰り道、イジーはいつものように毒づいた。

 「先生方は、しょせんは象牙の塔の飾り物なんだよ。議論はするけど行動はしない」

 「無理もないさ」ぺトルは、こういう場合はいつでも宥め役だ。「行動した結果、ホンザたち3人の学生は縛り首になり、フス先生はプラハを追放されちゃったじゃないか。みんな、恐ろしいんだ、大司教や国王がさ」

 「そういえば、俺たちを異端呼ばわりする神学部の教授たちは、十年前まではウイクリフ派だったんだよな。スタニスラフ先生も、最近は及び腰になっている。プラハ大司教の一睨みで、コロっと変節しやがった。そんなに恐ろしいのかな、教会権力って」

 「こうなったら、僕たちは僕たちで出来る限りのことをしよう。イジー、君は本当に聖職者にならないのかい」

 「ふん、俺は商家を営みながら、神の道を説いてやるぜ」気丈な友は、白い歯を見せて笑った。「先生方を見返してやるんだ」

 「そうだよな。みんなが聖書を読みこなせれば、そもそも聖職者なんて必要なくなる。教育のある街の親爺が一人居れば、そもそも教会も司祭も要らないんだ」

 「ああ、フス先生のような人が大勢居ればなあ」

 「一人居てくれるだけでも、僕らには幸運だったんだよ」

 2人は、そっとため息をついた。

 

 しかし、大学の先生方は、必ずしも議論だけの人物ではなかったのである。

 ウイクリフ派の反撃が始まった。これは、教会側の失態が原因である。プラハ大司教の交代に際して、巨額の賄賂が横流しされたとの噂が流れたのだが、これはまったくの事実だった。オルミュッツのコンラードは、こうしてローマ教会内部でも弾劾されて、プラハ大司教の地位を剥奪された。

 イエロニームらは、この情勢に力を得て、大衆を集めて公開討論会を敢行。多くの大衆が教会の腐敗を非難し、ローマ教会の権威は地に落ちた。

 神学部の教授ツナイムとシュテファン・パレッチらは、しかし強硬に教会擁護論を展開。自由学芸部のウイクリフ派を「異端」と呼んで激しく難詰したのである。

 見かねた国王は、国会を召集して両者を調停しようと試みたのだが、両者は互いに相手の悪口を言い合うだけなので、事態は紛糾するばかりであった。

 そんな剣呑な情勢下、南ボヘミアのフスは、しばしばプラハの同志たちと連絡を取り、彼らに有益な助言を与えた。また、密かに南ボヘミアの村々を回って、得意の弁術で自説の布教を行った。

 そんな彼は、しばしばローマから召喚状を送り付けられていた。これは、もちろん罠であるから、フスは一笑して読み捨てるのであった。

 

 宗教対立下の緊張が止まないある日、旧市街で再び大泥棒騒ぎが起きた。今度の被害者は、ユダヤ人だった。

 「あいつが戻ってきたのかな」「きっとそうだ」

 ぺトルとイジーは、顔を見合わせて強くうなずいた。

 「ジシュカ隊長は、教会論争がらみの治安維持にかまけて動きが取れないから」

 「今こそ、俺たちの出番だぜ」

 大学講堂の脇でひそひそ話をかわす2人の横に、トマーシュが割り込んできた。

 「泥棒のことだろう。僕も協力するよ」

 「どういう風の吹き回しだよ」イジーが痩せた頬を突いた。

 「いいじゃないか、医学の進歩に繋がるかもしれないし」トマーシュは頬を膨らます。

 「何でそうなるんだ。まあ、いいか。君はドイツ語が出来るからな。さっそくユダヤ人街に聞き込みに行こうぜ」ペトルは、からからと笑った。

 こうして、3人組はユダヤ人地区に向かったのだが、どういうわけか、いつも内気なトマーシュが胸を張って先頭に立ったので、残りの2人は鼻白んだ。

 ユダヤ人地区は、いつ訪れても独特の雰囲気を漂わせている。道行く人の顔立ちは、自分たちと変わらない。服装も、大きく違うわけではない。ユダヤ人は、その住み着く国々に応じて、ライフスタイルを変えてしまうのだ。しかし、信仰までは決して譲らない。彼らは、イエスを単なる預言者の一人だと思っている。唯一神エホバ(ヤハウエ)が、終末の日にユダヤ民族だけを救済してくれると信じているのだ。

 ユダヤ人は、しばしば金に汚いと言われる。裕福な高利貸しが多いためである。しかし、これはキリスト教社会が、彼らをそうさせているのだ。キリスト教世界では、金融業が蔑視され、敬虔な信者はこのような賤業に従事するべきではないと考えられていた。だから、異教徒であるユダヤ人が、キリスト教世界の中で社会的成功を収めるためには、空白地帯となった金融の世界に進出するのが手っ取り早かったのである。そして、金融を営むためには、高度な学問が要る。こうして、ユダヤ人の中には、優れた学識者が多くなったのである。

 そんなユダヤ人は、プラハを二分する宗教論争には無縁でいられ、それがトマーシュのような温厚な青年には羨ましく思われたのである。

 さて、盗難被害にあったのは、スペルベルグと呼ばれる高利貸しであった。店の裏口の窓を、深夜にこじ開けられて賊に侵入されたらしい。

 青年たちは、『プラハ大学自警団』という架空の組織の一員を名乗り、トマーシュの流暢なドイツ語を頼りに、聞き込み調査を開始した。

 「どうやら、こいつは、みなが寝静まった深夜に侵入したようだな」イジーは、机の上に置かれた茶色いガチョウの羽を拾いながら言った。「やっぱり3枚か。キザな泥棒だせ」

 「不思議に思うのは、どうやってユダヤ人街まで易々と侵入できたのか、だ。ここに侵入するためには、3つの城門を潜り抜けなければならない。まず、新市街、続いて旧市街、最後にユダヤ人街・・・。この複雑な街の地理を、よく把握しているよな、この泥棒」と、ペトルは指を折る。

 「何も、難しく考えることはない」イジーが言った。「昼間のうちに、旧市街まで侵入しとけば、後は何とでもなるだろう。ユダヤ人街の壁なら、俺たちにだって乗り越えられないこともないんだぜ」

 「なるほど、宗教論争でプラハの外から大勢入り込んでいるから、容易に群衆に溶け込めるもんな」と、トマーシュ。

 「忘れてはならない重要なヒントがあるぜ」ペトルが手を叩いた。「肝試しの夜、俺たちが奴を見かけたのは新市街だ。それも、『高い城』のすぐ下だ。賊は、あの辺りに潜伏し、情報集めに精を出しているのかもしれないよ」

 「もしくは、あの近くの城門から出入りしているかだ。門番を買収している可能性もある」トマーシュもうなずいた。

 「あそこで、張り込むのがベストかもしれんな」イジーは、重々しく言った。

 3人が、盗難にあった店の前で議論をしていると、物珍しさに大勢の人が集まってきた。

 「この人たちは、我々ユダヤ人のために一肌脱いでくれるそうだ」

 「異教徒なのに、ありがたいことだ」

 「最近の学生さんは、随分と昔と変わったね」

 感謝した群衆は、口々に有益な情報を提供しようとするのだが、そのほとんどが早口のイディッシュ語かドイツ語なので、トマーシュ以外には良く聞き取れない。

 その時、伸びやかで優しいチェコ語が、3人の耳を打った。

 「ドブリー・デン(こんにちは)。ジェクイヴァーム(ありがとうございます)」

 群衆の中から進み出た黒髪の少女が、白いスカーフの下の大きな黒い瞳に感謝の光を一杯にたたえているのだった。有能な通訳だったトマーシュは、その瞬間に腑抜けになったので、少女のチェコ語が流暢でなかったら、これ以降は会話にならなかったかもしれない。

 「泥棒は、季節ごとに最も裕福な商店を襲っているようです」少女は語った。「でも、どうやってその情報を入手しているのでしょうか?犯行を誰にも気づかれていないところを見ると、隠密行動の単独犯に違いないと思うのですが、不思議ですわね」

 「なるほど」イジーは、大いに感心して黒髪の少女を眺めた。ユダヤ人が聡明だというのは、どうやら本当らしい。「あなたは、プラハの地理に精通した何者かが、手引きしているとお考えなのですね」

 「・・・クララ、俺は同胞が手引きしているとは思わないよ」少女の背後から、長身で大柄な金髪の青年が姿を見せた。彼も、流暢なチェコ語を喋る。「泥棒の標的は、旧市街の金持ちか聖職者に限定されており、被害者はどれもドイツ人か我々ユダヤ人だ。ってことは、チェコ人の反動分子の仕業だろう、これは」

 「ヤコブ、その言い方は失礼だわ」クララと呼ばれた少女は、ふくよかな唇をへの字に曲げた。

 「いや」ぺトルは割って入った。「貴重な意見だと思いますよ」

 これは、彼の本心だった。ヤコブ青年の説が、もっとも有りそうなことだ。

 「ご協力感謝します。助かりました・・・他に心当たりもあるので、今日はこれで失礼しますが」イジーは、腑抜けになったトマーシュの後頭部を叩いて辞去をうながした。「おい、お前、どうしたんだ」

 「ねえ、良かったら、俺にも手伝わせてくれ」ヤコブ青年が、右手を差し出してきた。「今日は、割合と暇なんだ」

 「ああ、それは助かる」イジーとぺトルは、同時に喜声を発した。人手が増えた喜びというよりも、異教徒と親しく話が出来る機会に好奇心がうずいたのである。

 トマーシュはといえば、相変わらず隅でモジモジしている。

 ともあれ、こうして奇妙な4人組が出来上がった。威風堂々と旧市街広場を抜けて、狭い道を大学講堂まで歩くと、城壁はすぐそこだ。新市街へと抜ける門は、昼間は開け放たれて門番もいない。

 大学講堂前の城門を南に抜けて堀を越えると、そこは新市街の馬広場だ。ここは、その名のとおり、主にハンガリーから輸入される馬を商う場所である。細長くて大きなこの広場の南端は、そのまま新市街から市外へと抜ける大きな城門になっている。

 現代ではヴァーツラフ広場と呼ばれるここは、何度となく激動の歴史の主要舞台となった。最近では、1989年のビロード革命が記憶に新しい。このとき、共産党政権退陣を求める百万の市民の群れがこの広場を埋め尽くし、40余年にも及ぶ社会主義の支配が幕を下ろしたのであった。

 もちろん、15世紀を生きる若者たちは、そんな事など知る由もない。荷馬車で埋め尽くされた市場の賑わいと、馬のいななきを心地よげに耳にしながら広場を進んだ彼らは、途中から右手の通りに入り、家畜市広場の前に出た。

 「こんなところでどうするんだ」青い帽子のヤコブが尋ねた。

 この時代の欧州のユダヤ人は、ユダヤ人街から出るとき、一目でそれと分かる目印を付けなければならなかった。そして、プラハのユダヤ人は、頭に青い帽子かリボンを装う義務があったのだ。

 「いやね、俺たちは、この辺りに賊のアジトがあると睨んでいる」イジーが、横目で応える。

 「・・・君たちは、新市街の住民に犯人がいると考えているのか」

 「いいや、下手人はおそらく、ドイツ人の大泥棒トチェンプロッツだ。犯行現場に、ガチョウの羽が3枚落ちていたからね」ペトルが応えた。「ただし、彼に情報を提供する共犯者が、この辺りに潜んでいる可能性があるんだ。黒幕かもしれない」

 「黒幕だって」ヤコブは、吹き出しそうになった。「そんな話、聞いたことないぜ」

 「でもさ、考えてもみなよ。外国からやって来た部外者が、深夜にやすやすと旧市街はおろかユダヤ人街に潜入できると思うかい。人目につかないように行動するなら、あの狭い街路に迷い込んで出られなくなるはずだろう。それに、常にホットな情報を元にして行動しているのも怪しい」

 「なるほど、つまり、プロの泥棒と情報通のチェコ人との共同犯行と推理したわけか」ヤコブは、しきりに感心している。「プラハ大学では、犯罪学まで教えてくれるのかい」

 「そんな学部はないよ」イジーは苦笑した。「君たちユダヤ人こそ、大学に通えないのに聡明な人が多いよね。さっきのクララさん、あの落ち着いた話し方は立派なものだ」

 「あの娘は特別に賢いんだよ」ヤコブは、同胞たちが褒められたので上機嫌だ。

 「そうか、マリエにも見習わせないと」

 「誰だい」

 「新市街で一番のカワイ子ちゃんだ。そうだ、君も仲間に入りな。一緒に飲もうぜ」

 「いや、残念だが、戒律ってものがある」

 「ふうん、前から聞いてみたいと思ったんだけど」

 「ん、なんだい」

 「割礼って、痛いの?」

 「なんだそりゃ、改まって何を聞くのかと思ったら」

 「そんなことより」今まで静かだったトマーシュが、いきなり口を出してきた。「君とクララさんは、どういう関係なんだ」

 「また、おかしな質問だね」ヤコブは笑った。「どれもこれも、君たちには関係ないことだろう」

 「まあね、単なる好奇心だから、答えてくれなくても構わないぜ」イジーは肩を竦めた。

 「・・・割礼は痛いし、クララは俺の許婚だ。どうだい、これで満足かい」ヤコブは、一気呵成に言い終えると、頬を赤らめた。

 「あははは、ヤコブ、君って、いい奴だなあ」イジーとぺトルは大笑いした。

 「いや、悪い奴だ」内心で呟いたトマーシュは、ほとんど歩いていられるのがやっとの状態になっていた。憧れの美少女に会えた喜びと、希望が瞬時に奪われた悲しみで、脳天がふらふらになっていた。

 ともあれ、若干一名を除いて上機嫌になった一行は、和気藹々と話しながら歩いているうちに、いつのまにか家畜市広場を抜けて南の門前に差し掛かった。

 「あれっ」

 意外なことに、南門には大勢の聖職者が群がっていて、その中には顔見知りのイエロニームやヤコウベクの姿もあった。

 「先生方、どうしたんですか」ぺトルとイジーは、足早に駆け寄った。

 「おお、君たち、良いところに来た。紹介するよ」イエロニームは、隣に立つ長身の修道士に手を伸べた。「こちらは、オックスフォード大学のピーター・ペイン師。こちらは、プラハ大学自由学芸部のベロウンのイジーとヘルチツェのぺトルです」

 「ハウ・ドウ・ユウ・ドウ(はじめまして)」初老のイギリス人は、満面の笑顔で二人と握手を交わした。その周囲には、自由学芸部のウイクリフ派の教授たちが、綺羅星のごとく集っている。

 「このピーター師は、今期から我が学部の講師になってくれることに決まったんだ」ヤコウベクが、笑顔で言った。「先ほど到着の連絡が入ったので、ここまで我々で出迎えに来たというわけだ」

 「ピーター師は、故ウイクリフ師の愛弟子なんだよ。我々は、これで本場の教説を本格的に学べるようになるんだ」と、プシーブラムのヤン。

 「へえ」「そいつはすごい」二人の学生は、狂喜乱舞の喜びようだ。

 「チェコ語は、マダあまりデュエキませんが、くれから、がんばりマス」ピーター師は、深みのある優しい声で、学生たちに話し掛けた。

 だが、この話には裏があった。ピーター師は、実は祖国を追放されて来たのである。イギリス国内でもウイクリフ教説は異端視されており、彼の属するローランド派は、度重なる異端審問で壊滅の危機にさらされた。窮した彼らは、プラハのウイクリフ派を頼って、はるばる海を越えて落ち延び、その第一陣がピーター師だったというわけだ。教授たちが、わざわざ新市街の南門まで大勢で出迎えたのは、教会派の妨害を恐れてのことだった。

 ともあれ、2人の学生には、そんな複雑な事情など分かろうはずもない。異国からの新風を、ただただ歓迎する気持ちで胸が一杯だったのである。

 そんな友人の様子を遠くから寂しげに見ていたトマーシュは、ふと、遠巻きに教授たちを見守る市井の人々の中に、不審なものを見つけた。城壁の脇に立つ、小柄で猫背の男が一人。ねずみ色のフードで顔を隠しているが、その隙間から覗く乱食い歯は。

 「あ、あ」医学生は、隣のヤコブを突付くと、目立たぬようにフード男を指差した。

 「あいつなのかい」ヤコブは、低い緊張した声で返す。

 「し、信じられないよ。こんなところで出くわすなんて」

 「よほど俺たちを舐めていやがるな」

 「どうする?」

 「後をつけよう」ヤコブは、鋭い目で痩せた医学生を見た。

 やがて、ぺトルとイジーも仲間の輪に帰ってきたが、彼らは状況の変化を腹芸で察し、さりげなく門の周囲に屯しながら、フードの怪人の様子を窺った。

 怪人は、教授たちがピーター師を守りながら旧市街方面へ去っていくのを見届けると、踵を返して『高い城』方面に歩み去っていったので、4人は互いに目で合図すると、悟られないようにその後をつけた。

 「やはり、この辺りにアジトがあったんだな・・・」

 ヴルタヴァ川沿いまで歩いた怪人は、周囲をおざなりに見回すと、川べりに立つ低い建物へと入っていった。

 「・・・それで、どうする」ヤコブが緊張気味に尋ねた。

 「王宮の衛兵に報告するのさ」イジーが、きっぱりと言った。

 「俺たちは、いったんここで解散しよう」ぺトルも、口裏を合わせる。

 「そうか、ならば、後で首尾を聞かせてくれよな」ヤコブは笑顔で手を振ると、旧市街方面に去っていった。

 残された3人は、難しい顔を突き合わせた。

 「ヤコブはいなくなった、さて、どうする」「俺たちだけで踏み込むか」「それともジシュカ隊長に知らせるか」

 さすがの3人組も、いざとなると勇気が鈍るのであった。

 「よし、こうしよう」イジーが指を立てた。「迷ったふりして建物に入って様子を探ろう」

 唇を引き締めて強くうなずいた3人は、リーダー格のイジーを先頭に立てて、トネリコの枝で飾られた薄暗い建物の入り口をくぐった。

 平屋の建物の中には、いくつもの小さな部屋があった。静かに、音を立てないように、若者たちはドアを開いて中を点検していく。どれも誇りまみれの空き家だったが、一番奥の部屋のドアに手を置いたとき、さすがのイジーも生唾を飲み込んだ。

 「ええい、ままよ」低く呟いて扉を押す。

 部屋の中は、蝋燭の炎で奇妙に明るかった。窓は締め切られている。正面には大きな机があり、意外なことに、そこには修道士の僧衣をまとった初老の男が座していた。痩せ型で、尖った鼻と尖った耳を持つ不気味な鋭い目をした男だ。

 ペトルは、旅の商人から伝え聞いた、ルーマニアの吸血鬼を連想した。

 「あの」予期せぬ光景に、イジーの声も震えがちだ。「ここは、い、いったい」

 「珍しい客人よ」初老の男は、笑顔を浮かべて立ち上がった。「プラハ大学の諸君だね」

 「え」部屋に入った3人は、顔を見合わせた。「どうしてそれを・・・」

 「ウイクリフ派の人々の顔は、だいたい分かる。君たちの顔は、ベツレヘム礼拝堂で、何度も見かけているのでね」

 「す、すると・・・」

 「安心したまえ。私は、君たちの味方だよ」初老の彫の深い顔は、机の上に並べられた蝋燭の炎に照らされて、怪しく光り輝いた。「私の名は、ヤン・ジェリフスキー。ウイクリフ教説を信奉する修道士だ」

 「ああ」ぺトルとイジーは、口をあんぐりと開けた。

 意外な場所での意外な出会いだった。

 フス先生が、コジー・フラデックで噂をしていたジェリフ村のヤンが現れたのだ。