第十一章 夏の遠雷

 

 

 ここは、深緑に鬱蒼と覆われたべヒン山の麓。

そこかしこに蝶が舞い踊る山頂への細い道は、老若男女に埋め尽くされている。

「たいしたものやな」ドイツ語訛りの青年は、隣に立つ若き修道士に笑顔を向けた。「『山への巡礼』が、こんなに賑やかだとは思わなんだ。プラハを捨てて正解だったやないか。そうだろう、ペトルさん」

ペトルと呼ばれた修道士は、ゆっくりと同道の友人を振り向いた。

「では、私たちも行きましょうか、プロコプさん」

人は、列の最後尾についた。列の歩みが遅いのは、列の中に多く混じる老人たちのせいだろう。でも、別に急ぐ旅ではないから、気にはならない。若者たちは、かぐわしい田舎の空気に深呼吸した。

ここは、プラハを遠く離れた南ボヘミアの丘陵地帯。

故ヤン・フスを慕う人々は、フスの後継者たちの教えを聴くため、この地方に続々と集まってきていた。こうした人目につかない山頂での講演活動は、カトリック派の聖職者や貴族の妨害を避けるための方便であった。

「ありがたいこって」ペトルの前に並んでいた朴訥な雰囲気の老人が、後ろを振り向いて、笑顔で語りかけてきた。「もうじき世界は終わってしまうそうじゃが、正しい信仰に立って生きているわしらは、きっと神の御許に辿り着けるでがしょう。ほんに、有難いこってす」

「そうですね」ペトルは柔和な微笑で応えたのだが、その内心はささくれ立っていた。何としても、『山への巡礼』の指導者に抗議しなければならない。

山頂の開けた草原で、強面の司祭アンブローシュが、激しい口調で、いつものように「世界の終末」について説いていた。彼の周囲には、子供のように純朴な瞳を輝かせた何十人もの群衆が、遠巻きに集っている。

「キリストの没後、この世界は暗黒に覆われ、漆黒の時代が約千年続きました。でも、ついに時は来たのです。最後の裁きは、もう目の前です。神は見つめています。『真実』の民が地上のどこにいるのか。終末に際して誰を救済すれば良いのかを」

純朴な田舎の人々は、語り手の周囲に大きな輪を形作り、潤む目をしっかと説教師に向けていた。

終末思想は、もともと南ボヘミアの地に古くから根付く考え方であった。今を去る12世紀には、ローマ教会から厳しく糾弾されたこともある。だからこそアンブローシュの演説が、この地方の民衆に大きな説得力を持って受け入れられたのだ。

講演が一段落した後、清水で唇を潤す司祭の前に、若き修道士が姿を見せた。

「おや、君はどこかで」錫の器を唇から放した老説教師は、かすかに小首をかしげた。

「お久しぶりです。プラハ大学でお世話になった、ヘルチツェのペトルです」

「ああ、自由学芸部の君か。その装いだと、無事に聖職禄につけたようだね。良かった。フス師とイエロニーム師も、神の御許から喜んでいることだろう」

「ありがとうございます」

「わざわざ、プラハから応援に来てくれたのかね」

「いいえ、そうではありません」柔和な修道士の表情は、一転して険しくなった。

「ふむ・・・もしかして君は私の、いや、この地方での我々の布教方針に反対なのか」アンブローシュは、笑顔を引っ込めた。

「フス先生は、『真実』を愛せよと仰られました。邪教に走れとは仰ってはいなかった」

「何が邪教だね」アンブローシュは、目を光らせた。「終末論は、この地方の『真実』なのだ。我々は、彼らの『真実』を理解し、支持しているのに過ぎない」

「でも、アンブローシュ先生は、終末論なんか本当は信じていないのでしょう」ペトルは、負けじと、相手の目を見返す。「あなたは、二重聖餐派(フス派)の勢力を強化するために、地方の純朴な人々を道具のように利用しているのです」

「君の言い分が正しいとしよう。ならば、どうしろと言うのか。伝え聞くところによると、プラハの二重聖餐派の凋落は決定的ではないか。あの優柔不断なヴァーツラフ王は、市内でわずか3箇所の教会での布教を認めたという。スカリジチェの会談で、自分の弟(神聖ローマ皇帝ジギスムント)の恫喝に屈し、カトリックにおもねったのだ。このような情勢下で、フス師の教えを守るためには、もはや、なりふり構ってはいられないのだ。おおかた、君だってプラハを追われて来たのではないのか?」

最後の言葉は、図星であった。ペトルは、弾圧下のプラハに幻滅し、フス派の勢力が強い南ボヘミアでの新規蒔き直しを目指したのである。その途上、『山への巡礼』の話を聞きつけて訪れたというわけだ。

黙り込んだペトルを見て、アンブローシュはさらに言葉を続けた。

「我々の方針に反対というなら、君は何か、より優れた腹案を持っているのだろう。差し支えなければ、ぜひ、それを示してもらいたいものだ」

「共同体を作るのや」ペトルの近くで草を噛んでいた小柄な青年が、緑色の唾をペッと吐いて、老説教師に向き直った。「聖書にのっとり、聖書に准じて過ごせるような、平和で平等な生活共同体を作るのや」

「君は誰だね」アンブローシュは、眉を寄せた。「ドイツ語訛りがあるようだが」

「知っての通りドイツ人や。名はプロコプ。下級貴族の生まれで、つい最近まで旧市街で修道士をしていてペトルさんと知り合ったのや」

「・・・どうして、ドイツ人がここにいるのだ」

「まあ、そう憤り立ちなさるな。ドイツ人だからカトリックってゆうのは、偏見やで」

「そうなのか?」アンブローシュは、ペトルを見やった。

「彼は信用できます」ペトルはうなずいた。

「わいは、坊主どものでっぷり太った腹を見て育った。奴らが多くの庶民の涙を搾り取り、その上に立って贅沢三昧するところも見てきた。腹が立つことに、我が家の者たちも、みんなそれに加担し、それを当たり前のように思いながら生きている。わいは、その全てが許せなくなったのや」金髪碧眼の青年は、大げさに両手を振り上げながら語った。

「彼は、反骨精神が旺盛なのですよ」ペトルが、相棒を横目で見ながら補足した。

アンブローシュは、双眼を細めて青年を観察した。その風情が頼り無さそうに見えるのは、赤い丸顔の上に乗る頬がツルツルで、しかも髭がまったく生えていないからだ。それでも、そんな青年の真摯に輝く青い眼には、信じるに足る何かが宿っていた。

「なるほど、それで、共同体、と言ったかな」司祭は、ペトルとプロコプを代わる代わる見ながら話を継いだ。「聖書に基づいて、平等な共同体を作るということは、なるほど、フス師の教えを、まずはその共同体で実践し、実験して見るというわけか」

「そうです。そして、その共同体の素晴らしさを全世界に発信し、カトリックのくびきに繋がれて、辛い吐息をつきながら生活している人々の意識改革を促すのです」ペトルは、夢見がちな瞳を輝かせた。

「面白い」アンブローシュは、微笑んだ。「だが、出来るかな」

「・・・・」

「まず、既存の街や村の中で共同体を作るとした場合、そこの領主が何と言うかな。みんなが平等で、みんなが聖書ばかり読んでいる社会では、領主がやりにくくて困るだろう。また、野原に新たな街を建設したとしようか。その場合、防衛をどうするかだ。平和な市民ばかりの街では、カトリック派貴族の襲撃を受けたら、ひとたまりも無いだろう」

「・・・新たな街を築くしかないでしょう。その場合、防衛は、傭兵を雇えばよい」そう語るペトルの脳裏には、隻眼の傭兵隊長ヤン・ジシュカの姿が浮かんでいた。

「だがな・・・城壁を厳しく固め、大勢の兵士を雇い入れた時点で、その街は『真実』の街では無くなるだろう」アンブローシュは、寂しげに首を左右に振った。「戦いが難しくなれば、市民も武器を取って戦うことになる。戦いが優勢になれば、戦利品の分配やら軍組織内の序列争いが持ち上がるだろう。つまり、平和も平等も必ず破綻するのが必定だぞ」

「それは、これからの工夫で克服したいと思います。正しい信仰と真心があれば、必ず道は見つかるはずです」ペトルは、そう言って言葉を引き取るしかなかった。

そこで時間となった。老説教師は、再び、百人近い聴衆の前に立った。

若き修道士とドイツ貴族のせがれは、老師に目礼して下山の途についた。

「老人は、新しいことが嫌いやからな」山を降りる道すがら、プロコプは、こう言ってペトルを慰めた。「会談が不調でも、気に病むことはないで」

「気にしているわけじゃないさ。ただ、これだけは言える。異端にすがって勢力を高めることは、決して『真実』ではない」ペトルは、相棒に弱々しい笑みを返した。

「まあな。わいは、あんたのその青さに惚れたのや。さあて、次の目的地はどこかいな」

「あんたに、青いと言われたくはないな」ペトルは、プロコプの少年のような赤い頬を見て笑った。

 

ここで、チェコ国内の宗教対立、すなわちカトリック派とフス派の対立について、もう一度復習をしよう。これは、物語の根幹にかかわる重要な事柄なのだから。

まず、伝統的なカトリック派について述べる。

これは、イエスの使徒ペテロが開いた、ローマ帝国以来連綿と続く伝統的な宗派であって、強大で官僚的な教会組織を欧州全土に張り巡らし、しばしば世俗の王権にまで口を挟む一大勢力だ。中世ヨーロッパの精神世界は、全てこの勢力の支配下にあったと言って良い。各農村にくまなく置かれた教会は、庶民の年中行事や出生にまで立ち入って管理を行い、もはや庶民の生活は、教会なくしては在り得ないほどであった。

カトリック教会は、ヨーロッパが戦乱の巷となり、人々の精神生活が荒廃したときに、最低限の社会秩序を維持する上で大きな力があった。ヨーロッパという地域が、さまざまな人種や言語に分断されながら、なお一つの文化的纏まりを保ちえたのは、この教会の功績といっても良いのである。

しかし、こうした長所は、同時に大きな短所も抱くことになる。

まず、カトリック教会は、自分たちの教義や組織を第一とし、これに少しでも背くものを排斥しようとした。

例えば、神の定義について、教会は「三位一体説」を採る。すなわち、父(神)と子(イエス)と聖霊は、一つの実体が、時と場合に応じて違う姿として現れるのであって、本質的に一つの「神」だというのである。もちろん、この奇妙な説に抵抗する論調もあったが、これらは「異端」と呼ばれて弾圧された。

とにかく、カトリック教会は偏狭で、自分の基準に合わない議論を全て抹殺した。これは、もともとは社会秩序や文化を護持するためにやっていたことであろうが、やがて、教会組織の既得権益の維持を主目的とするようになっていく。強大な権力を持った官僚組織というのは、いつの時代もそうであるが、次第に目的と手段の混同を起こしていくのである。

その過程で、教会の構成員たちもまた、堕落していった。

もともとローマ教会は、イタリアに多少の領土を持ってはいたが、これだけでは巨大組織を維持運営するには不十分である。そこで、王侯諸侯から援助を受けるのみならず、各地の教区で庶民から税金を取り立てたのである(十分の一税)。それでも足りないときは、国債発行のようなことを行う。いわゆる贖罪状(これを買えば、天国に行けるという札)を発行し、これを純朴な庶民に買わせるのである。

こうして得た金は、本来は教会組織の維持運営や、さらなる神学の進歩に役立てるべきものであるが、組織が肥大化し腐敗するにつれ、僧侶たちの利殖の手段になっていったのである。教会の僧侶たちは、この金で投資を行ったり、あるいは妾宅を経営したり、およそ聖職者にあるまじきことをするようになった。大土地所有者となった僧侶が、その地に住まわせた小作人から法外な家賃を取り立てて、その上で教会からサラリー(これも庶民からの税金だ)を貰って肥え太ることが日常的になったのだ。

こうした腐敗は、日を追うごとに酷くなっていったのだが、教会に頼るしか生きる術のない庶民は、じっと唇を噛むしかなかった。というより、マスコミや教育制度の発達していない時代では、批判をしたくてもその手段も能力も無かったのである。

だが、やがて各地に大学が設立され、庶民が高度な学問を受けられるようになると、この傾向が一変する。オックスフォード大学のウイクリフとプラハ大学のヤン・フスが、庶民の立場からこうした腐敗を糾弾したのは、既に詳しく触れたとおりである。この両者は異端とされ、フスは火刑となり、既に故人であったウイクリフの墓は暴かれた。しかし、彼らの捲いた種は、フスの故郷チェコの地で、フスの後継者たちを中心に、大きく成長していったのである。

フスの信奉者たちは、「二重聖餐派」と名乗った。これは、ミサ(教会儀式)において、全ての信者がパンと葡萄酒の二種類を用いることから、そう呼ばれたのである。

従来のカトリック教会は、庶民が葡萄酒を使って聖餐を受けるのを禁止していた。庶民を貶めることで、自分たちの高貴さを保とうとしたのである。しかし、フスの後継者たちは、高位聖職者と庶民を同列に置いた。これは、彼らの基本理念にかかわる重要な事柄であった。

フス派、すなわち二重聖餐派の基本理念は、「神のもとに、全ての人間が平等である」というものであった。これは、今日の民主主義の基本理念そのものである。

これに対して、カトリック教会の権威の根拠は、「神と対話できるのは教会だけ」という点にある。つまり、庶民は教会の助けを借りなければ神の御許に行き着けず、従って、教会は、庶民よりも神に近い位置にあるというのである。だからこそ、「庶民は、教会に支配され、搾取されるのが当然」といった結論になる。

ところが、そんなことは聖書のどこにも書かれていないのだ。

これが、フス派の思想の出発点であった。

フス派は、教会という名の官僚組織による「差別」を根底から否定した。彼らは、「神のもとでは全ての人間が平等であるから、教会の力を借りる必要は無い。神と人間を繋ぐのは聖書なのだから、庶民はそれぞれの立場で聖書にのっとった生活をすれば、教会に逆らったとしても神の御許に行き着ける」と言い出したのだ。

言うまでも無く、これは教会権力への全面的な批判であり挑戦である。教会の横暴に悩まされていたチェコの庶民は、いっせいにこの考え方に飛びついた。

これこそ、いわゆる「宗教改革(リフォーメーション)」の嚆矢であった。

どうして、世界最初の宗教改革の発信地がチェコだったのか?これはやはり、ヤン・フスというカリスマ的指導者の存在抜きには語れまい。フスを慕うチェコの人々は、恩師を理不尽に焼き殺した教会権力が許すことが出来ず、かたくななまでに権力に抵抗しようと動いたのである。

カトリック教会は、このような情勢を座視することは出来なかった。己の既得権益を守るために、何が何でもフス派を撲滅しなければならなかった。

フス派とカトリック派の対決は、民主主義と封建主義、すなわち近代と中世の対決でもあったのだ。

そして、妥協を知らないこの両者の対立は、ますます激しさを増していく・・・・。

 

さて、チェコ国内の宗派対立は、首都プラハでの政争に留まらなかった。

ボヘミアとモラビアの全土で、カトリック派貴族と二重聖餐派貴族が厳しく睨み合ったのである。通常の場合は、単なる睨み合いで済んだのだが、これに先祖以来の領土争いや後継者争いが絡むと話は複雑になり、宗派の違いを口実にして武力で相争う貴族たちが次第に増加していった。

だが、国王ヴァーツラフ4世は、この情勢にまったく無力であった。もともと、チェコ土着の貴族たちから軽視されている王であるから、王都プラハの抗争の調停で手一杯だったのだ。

『山への巡礼』に出かける庶民が増加したのは、こうした社会不安と無関係ではない。前途に不安を抱える人々は、せめて終末論に寄りかかることで、幾ばくかの安心を得ようとしたのである。

しかし、小心な王は、『山への巡礼』を、大規模な民衆反乱の前触れではないかと恐れ、しばしば偵察隊を派遣して様子を探らせていた。

当初はフス派に寛容だったこの王は、1419年に入って態度を豹変させていた。神聖ローマ皇帝ジギスムントと教皇マルティヌス5世が、「異端撲滅十字軍」の派遣をちらつかせて恫喝したからである。そして、これは単なる脅しではなかった。オスマン帝国の侵攻は小康状態を迎え、英仏百年戦争は膠着し、そして教会大分裂(シスマ)は決着した。つまり、皇帝と教皇は、大規模な十字軍を起こす意思と能力を兼ね備えていたのであるから、ヴァーツラフならずとも怯えて当然であろう。

こうして、フス派の勢力は大きな弾圧を受けた。プラハ市内でわずか3箇所での布教に制限され、新たな聖職禄もほとんど与えられないこととなった。この情勢に、フス派の知識人や聖職者たちは、次々に地方へと落ち延びていったのである。

プラハ新市街に多く住む貧しいフス派庶民は、地方への移住もままならず、不満と恨みに燃える目を王宮に注ぎ続けていた。この情勢を危ぶんだ衛兵隊長ミクラーシュは、王にしばしば諫言を行ったのだが、逆鱗に触れて追放処分となってしまった。この事件をきっかけに、王の膝元からも離反者が相次ぎ、あの傭兵隊長ジシュカも、プルゼニに隠遁してしまったのである。

「この街も、すっかり寂しくなったな」イジーは、濃くなった顎鬚を撫でながら言った。

「ジシュカ隊長は、プルゼニに移っちまった。大泥棒のトチェンプロッツは行方不明だ。ペトルは、今ごろ故郷に着いたころかなあ」トマーシュは、物憂げに頬杖をついた。

ここは、新市街のヴィノフラディに近い商家である。念願かなって商店の経営を始めたイジーは、久しぶりに訪れた学友トマーシュと歓談しているのだった。

「ごめんね、トマーシュくん。在り合わせのものしか無くて」エプロン姿のマリエが、厨房からビールのジョッキを2つ掲げてきた。その腹は、もう膨らみ始めている。

「いやあ、マリエちゃんのその給仕娘姿、懐かしいなあ。初めて会った日のことを思い出すよ」トマーシュは、眼を細くした。

「昔は、こんなにみっともない腹じゃ無かったよなあ」イジーは笑った。

「誰が、でかくしたのよ」ジョッキの底で夫の頭を叩いたマリエは、赤い舌を出す。

「医学部マギステル(助教授)の僕がいれば、でかくても安心、だろ」トマーシュは、おどけて肩をいからせた。

「だからって、俺の女房様に、なれなれしく触るんじゃないぜ」

「分かってるよ。別に触りたいとも思わない」

「ちょっと、それ、失礼ですっ」

鳶色の瞳をくりくりと動かすマリエは、出っ張ったお腹以外は、昔と少しも変わらない。

久しぶりの3人の談笑は、夜更けまで続いた。

やがて、身重のマリエが先に休んだ後、親友2人の会話は真剣味を増し始めた。

「ユダヤ人への締め付けが厳しいんだって?」

「彼らが、僕たちと一緒にイエロニーム先生たちの講演を聴いたのが、今ごろになってカトリック派の連中に問題視されているらしいんだ」

「ヤコブとクララ、大丈夫かなあ」

「僕たちは、正しいことをしてきたんだ。どうして、欲深な坊主どもから悪く言われなくちゃならないんだ」

「まったくだ・・・ところで、大学はどんな具合だい?」イジーは、ビールの残りをすすった。

「自由学芸部は、相変わらずだ。難しい神学上の論理を積み重ねているだけ。外界がどうなろうと、あまり関係ないみたいだな」

「まあ、大学教授なんて、もともとそういう人種だろう」

「やはり、ペトルたちの、地方での新規巻き直しに期待するしかないか」

「しかし、共同体とは、突飛なアイデアだよな」

「実現したらいいな。でも、もしも『真実の街』が出来たら、君も行くかい、イジー」

「女房とその家族が何と言うかだ」イジーは、寝所の方を横目で見た。「石工のハシクやヴィリームら、昔馴染みを見捨てるのも後味悪いし。・・・そういうお前はどうするんだ、トマーシュ」

「僕は、大学とユダヤ人たちを見捨てるわけにはいかないよ」

「あはは、俺は新市街、お前は旧市街に心を残しているわけだな」

「この街には、不思議な磁力がある。おいそれとは離れたくないよ」

「同感だ」

いつしか、夜は白み始めているのだった。

そのとき、扉を小さく叩く音がした。

イジーは素早く駆け寄って、ドア越しに誰何した。

「わいでんがな、トチェンプロッツでんがな」

懐かしいしわがれ声を聴いた二人は、驚きの顔を見合わせると、急いでドアの閂を開けた。

「お久しゅう」相変わらずのひょうひょうとした風情で、大泥棒は帽子をとって会釈した。

「うちには、盗るものなんて少しもないぜ。商売も、ようやく軌道に乗ってきたばかりだからな」イジーは、ぶっきら棒に応えた。

「ご冗談でしょう」大泥棒は、乱食い歯を見せて笑った。「盗みに入るなら、旧市街の金持ちを襲いますわい。誰が好き好んでこんな・・・」

「ふん、冗談でも、それ以上は言うなよな」

「おっと、わいの用件は一つですがな」トチェンプロッツは、眼を光らせた。「『神の戦士』の再挙のときは来た」

「なんだって」イジーとトマーシュは、同時に叫んだ。

「ジェリフスキー師が、いよいよやるみたいですぜ」

ヤン・ジェリフスキーことジェリフのヤンは、昨年からプラハ新市街で説教師の職に就いていた。過激で攻撃的な演説でカトリック僧侶の横暴や神の元での平等を訴え続ける彼は、新市街の市民の賞賛を浴び、ヤン・フスの再来とも言われていた。

「次の『雪の聖母マリア教会』での聖体奉戴式で、何か、大掛かりなことを考えているそうですぜ」

「7月30日だな、分かった」イジーは、心持ち、落ち着きを欠いた風情で応えた。「連絡は絶やさないようにしてくれ」

大泥棒は会釈すると、風のようにドアの前を去って行った。

「ジェリフスキー、今度は、何を始めようってんだ」トマーシュは呟いた。

「一波乱あるだろう、きっと」イジーは、再び寝室に目をやった。

手に入れたばかりの家庭的な幸せを、壊したくないのが、彼の本音だったのだ。

「市庁舎に囚われた二重聖餐派の市民を解放しようってんだな、きっと」

「ああ、きっとそうだな」イジーは、赤い目をこすった。「それだけで済めば良いが」

見つめ合うイジーとトマーシュの両耳には、激しい時代の奏でる音が、夏の遠雷のように轟いていた。