第二十章 第二次十字軍の襲来

   

  ブダ城(ハンガリー)の神聖ローマ皇帝ジギスムントは、フス派内部の仲間割れを見て楽観的な観測に立った。

「これなら勝機はある・・・」

 彼は、大規模で雄大な作戦計画を立てた。十字軍を大きく二つに分けて、それぞれ東と西からチェコに侵入させようと言うのだ。

 ドイツ人を中心とした軍勢(ライン諸侯と4選帝侯、そしてブランデンブルク辺境伯ら)は西から。

 ハンガリー人とオーストリア人を中心とした軍勢は東から。

 一見すると、十字軍の主力は、西から襲来するドイツ人たちに見える。しかし、この軍勢は囮であった。ジギスムントは、纏まりの悪いドイツ諸侯の実力を当てにしていなかったのである。

 ドナウ川を眼下に望むブダ城の謁見室で、ジギスムントは頼もしい股肱たちを眺め渡した。右列に並ぶのは、ハンガリー王でもある彼が、長年かけて育成したハンガリー騎馬軍団の将星である。左列に並ぶのは、彼の娘婿であるハプスブルク家の大公アルブレヒト、そしてその配下に置かれたオーストリア諸邦の騎士たちであった。

 彼らは、皇帝ジギスムントに絶対の忠誠を誓っていたので、略奪目当てで十字軍に参加する手合いとは、その資質に雲泥の差があった。

 「フス派の主力が、ドイツ人たちに釘付けになっている間に」ドヴォー卿は、作戦室で地図を前に解説した。「我がハンガリー、オーストリア軍が電撃的にモラビアに侵攻。この地を平定した余勢を駆って」その指は、ボヘミアの中央を指した。「一気にプラハを落とします」

 「ヤン・ジシュカが出てきたらどうする」アルブレヒトが、震える声で言った。

 「それも織り込み済みです」ドヴォーは、平然と答えた。「兵法の極意とは、味方の長所を敵の短所に当てること」

 「ほお・・・ヤン・ジシュカに短所があるか」皇帝は、楽しそうだ。

 「それは、軍勢の機動性です。ジシュカ軍は、重い銃砲を抱え、荷馬車で移動します。また、昨年以来の経済封鎖によって、チェコは我がハンガリーからの馬匹の輸入を絶たれ、機動力が不足しているに相違ありません。つまり、彼らの短所はその鈍重さにあるのです」

 「なるほど」アルブレヒトは手を打った。「ハンガリーの騎馬軍団で撹乱しようというのだな」

 「そうです」ドヴォーはうなずいた。「ジシュカが出てきたら、ハンガリー軍が相手になります。奴らの鼻面を掴んで引き回し、そして隘路に閉じ込めて身動き取れなくします」彼は、皇帝にまなざしを置いた。「陛下は、その隙にプラハを落としてくだされ。そうすれば、この戦争は終わりです」

 「見事だ、ドヴォー卿」ジギスムントは、満足げに微笑んだ。

 

 1421年9月、ブランデンブルク辺境伯を総大将とした十字軍は、ドイツ南部国境からチェコ北西部に殺到した。

 ドイツとチェコの国境は、険しい山々で隔てられている。フス派貴族たちは、この事態を予測していたので、山中の隘路の各所に堅固な砦を築き、ここに精鋭を入れて迎え撃ったのである。

 ドイツ諸侯は、地の利を得たフス派軍の前に大苦戦に陥った。砦を一つ落とすたびに屍の山を築き、要衝ジャテツに張り付いたころには疲労困憊の有様であった。

 「ううむ、チェコの異端者どもが、こんなに強いとは知らなんだ」ブランデンブルク辺境伯は、ぼやいた。「なるほど、第一次十字軍の惨めな体たらくも、むべなるかな・・・」

 疲労して士気の低いドイツ諸侯は、どうしてもジャテツを落とすことが出来なかった。やがて、食料が底を付く・・・。

 10月、ドイツ諸侯の軍勢は、元来た道を退却していった。ジャテツに結集していたフス派貴族たちは、呆気ない大勝利に快哉を叫んだのである。

 しかし、このドイツ軍は囮だった。

 この間、ハンガリー国境(現スロヴァキア)から手薄なモラビアに侵入したジギスムント軍2万は、ブルノを拠点にして作戦行動を開始した。チェコ第二の都市ブルノは、カトリック派の重要拠点として、度重なるジシュカ軍の猛攻に堪え続けていたので、市民たちは皇帝軍の入城を歓喜して出迎えたのである。そして、欧州最強の騎馬軍団を擁するハンガリー軍は、モラビア地方のフス派勢力を鎧袖一触に蹴散らしたのであった。

 そのころ、ターボルに待機中のジシュカは、この情勢を冷静に見つめていた。

 「敵の軍師はドヴォー・マチャーシュ卿か。でも、この作戦は去年、プラハ攻略で用いたのと瓜二つじゃないか。西が囮で東が本体・・・。何度も同じ手を使うとは、あやつめ、このジシュカを嘗めているのかな」

 10月、ターボル軍3千は、東に向けて出陣した。決戦を挑み、ハンガリー軍の戦意を挫くためである。

 しかし、ボヘミア東部に侵入したハンガリー軍は、部隊ごとに分散して、得意の機動力を武器に各地を荒らしまわったため、ジシュカ軍はこれを捕捉出来なかったのである。

 「何が十字軍や」チャースラフ近郊に置かれた本陣で、プロコプは唾を吐いた。「こそこそと逃げ回りおって、どうやって異端を撲滅するのか、こっちが知りたいくらいや」

 「だが、我が方の損害は甚大だぞ」ジシュカは重々しく言った。「味方貴族の荘園は、敵騎兵団による略奪や放火にあって焦土と化しつつある。ただでさえ経済封鎖で苦境に置かれた我が国にとって、これは看過できぬ損失だ。さすがはジグムント、戦略眼が冴えておる」

 「・・・感心している場合や、あらへんがな」プロコプは、地団駄踏んだ。

 「そう焦るな。ジグムントの所在を探り、その本隊を叩けば勝ちだ。密偵の報告を待とう」

 ジシュカは大きく伸びをした。ターボル軍は、車砦を大きく円形に並べて繋ぎ、その真ん中にいくつものテントを張って野営する。この安全で清潔な宿営地は、兵士たちの体力と健康維持に大きく貢献していた。ジシュカは、そのため、長期戦を恐れていなかったのだ。

 しかし、その数日後、プラハから早馬が来た。

 「ジェリフスキーの奴、クトナー・ホラを守れと言ってきたぞ」ジシュカは、書状を軍議の席の面々に回覧した。「欧州最大の鉱山を確保せよとの指令だ」

 「いい考えやないか」プロコプは拳を振り上げた。「ジグムントも、鉱山を狙ってくるのに違いない。待ち伏せが出来るというものやで」

 「ふむ」ジシュカは呟いた。

 10月20日、ターボル軍はクトナー・ホラの街に入った。昨年、皇帝軍の大虐殺を経験した市民たちは、新たな脅威の接近に心底から怯えていたので、強力な味方の到着に欣喜したのである。

 かつてヴァーツラフ4世の冬の王宮が置かれていたこの街は、欧州最大の銀鉱山の恩恵を受けて、たいへん豊かで美麗な建築物が多かった。中でも、市の西南に位置する聖バルボラ大聖堂(当時はまだ建設途中)は、今日、ユネスコの世界遺産に登録されていることから分かるように、見事な威容を誇っている。

 この街から算出される銀は、プラハ・グロシュと呼ばれる銀貨に鋳造され、この当時のヨーロッパ世界の主要貨幣となっていた。そういう意味では、クトナー・ホラは、チェコで最も重要性の高い都市であったかもしれない。

 従軍修道士ペトルは、多くの敬虔な市民を前に説教をし、フス師やイエロニーム師の想い出を熱く語った。その甲斐あってか、この街の若者の多くが、ターボル軍に従軍志願して行ったのである。

 一方、ヤン・ジシュカは、故ヴァーツラフ王の冬の離宮に本営を置き、皇帝軍の動向に目を光らせていたのだが、部隊ごとに快速の分散行動をする敵は、その尻尾を容易に掴ませなかった。

 「まずいな、奴らは、この街を狙っているわけではなさそうだ。あの焦土戦術を冬まで続けられたら、我が国は廃墟と化してしまう」

 「このままでは、プラハ同盟全体の士気にも響くでしょう」と、プロコプ。「カトリック派が、息を吹き返すかもしれへん」

 「だが、ここは我慢比べだ」ジシュカは、眼帯に隠れた方の眼を右手で撫でた。「奴らには、十字軍としての誇りがあるはず。騎士道のメンツにかけて、必ず決戦を志向するはずだから、そのときを待とうじゃないか」

 一方の皇帝ジギスムントは、ターボル軍がクトナー・ホラに穴ごもりしたことを知ると、ブルノに諸侯を集めて軍議を開いた。

 「いつまでも遊撃戦を続けているわけにはいかぬ。冬までにプラハを占領してしまいたい」皇帝は満座を見回した。

 チェコの冬の寒さは厳しいから、冬季の軍事行動は不可能となる。そして、オスマントルコの動向に不安を抱く皇帝は、フス派戦争の早期決着を待望していたのである。もちろん、ローマ教皇も一刻も早い戦果を待ち受けているに違いない。

 「・・・・・」ドヴォー卿はうつむいた。

 戦略的には、このまま焦土戦術を続けているほうが良い。しかし、多くの騎士たちは、このような卑怯な戦術を嫌い、しばしばこの軍師に苦情を述べていたのである。

 「それならば」ドヴォー卿は、沈思の末、ようやく口を開いた。「私とハンガリー軍で、クトナー・ホラを包囲封鎖します。その隙に、皇帝とオーストリア大公は、プラハを電撃占領していただきたい」

 「うむ、ヤン・ジシュカさえ封じ込めれば、怪人説教師が支配するプラハ市など恐れることはない」

 皇帝のこの言葉で、十字軍の作戦は決まった。2万の大軍は、二手に分かれて進撃を開始したのである。

 騎馬軍団を中核としたドヴォー卿の1万は、迅速な機動でボヘミアの丘陵地帯を突破。速やかにクトナー・ホラを囲む山々に陣を張った。彼は、諸侯から借り受けた旗幟を、丘陵の到る所に立て並べたので、クトナー・ホラは、一夜にして圧倒的な大軍に封鎖されてしまったかの観があった。

 「やられたな・・・」さすがのヤン・ジシュカも、あまりの敵の素早さに絶句した。「皇帝は、俺たちを干し殺しにするつもりか・・・」

 彼が得意とする車砦戦術は、騎士たちの突撃を可動バリケードで防ぎ止め、鉄砲や大砲で狙撃するという点で、極めて防御的な戦術であった。敵が、山々に防柵を築き、積極的に攻め寄せて来ない状況下では、その真価を発揮することは出来ない・・・。

 その間、皇帝ジギスムント直卒の1万は、ボヘミアをまっしぐらに西進し、10月下旬にはプラハ南郊に到達していた。驚いたのはプラハ市である。まさか、十字軍が無傷でプラハに達するとは思っていなかったのだ。

 「ジシュカのやつ、いったい何をやっておるのだ」ジェリフスキーは激怒した。

 彼は、再び鎧兜に身を包むと、新市街の防衛隊500とともに、昨年廃城と化した『高い城』の丘に立て篭もり、巨大な敵を迎え撃った。

 イジー率いる自警団は、一年にも及ぶ軍事教練によって、鍛え貫かれた精鋭に成長を遂げていた。彼らは、ジシュカにあやかって銃砲を大量に購入し、これを『高い城』の各所に据え付けていたのである。この城に攻めかかった十字軍は、崖上から打ち出される銃砲の雨に叩かれ、たちまち戦意を喪失して逃げ散った。

 また、十字軍の一部は、プラハ市の南の城壁に攻撃を仕掛けたのだが、行軍を急いだために十分な攻城兵器を用意していなかった事もあって、戦意強固な市民の防戦を挫く事が出来なかったのである。

 プラハにとって幸運だったのは、ジャテツでドイツ軍を撃破したフス派騎士団が、続々と駆けつけてくれたことである。彼らは、ジェリフスキーと合流してプラハの南門に陣を張ったため、さすがのジギスムントも容易に市内に突入出来なかったのだ。

 「おのれ、ブランデンブルク伯のやつ、口ほどにもなく退却しおって。奴らがあと一ヶ月粘ってくれれば、今ごろ朕は、プラハ城に君臨していただろうに・・・」

 「なあに、敵の総勢は、増えたと言ってもせいぜい4千です。このまま押して行けば、勝利は間違いありませんぞ」若き貴公子、オーストリア大公アルブレヒトは胸を張った。

 「朕は、長期戦は好まぬ。なぜなら・・・」言いかけた皇帝の頬に、冷たいしずくが落ちた。見上げた彼らの頭上から、やがて間断なく白い粒が舞い落ちてくる。「ボヘミアの雪は深く重い」

 「これは参ったな」苦笑したアルブレヒトは、全軍に仮小屋を建てるよう指示を出した。

 プラハ南郊での戦いは、こうして膠着状態に陥ったのである。

 

 そのころ、クトナー・ホラも、季節外れの大雪に見舞われていた。

 包囲下のターボル軍は、その本営を旧王宮に置き、周囲の山々の敵陣を望見していた。クトナー・ホラは、その名の通り、街自体が高台にある(ホラは、チェコ語で『山』を意味する)。その中でも、ここの王宮はその最高峰に置かれているので、戦闘指揮所としては最適なのであった。

 そんなある日、白い衣を纏った山々を抜けて、プラハ市から急使が訪れた。

 「良く、包囲陣を突破して来られたな、トチェンプロッツ」ジシュカは、小柄な乱食い歯の使者を、喜んで出迎えた。

 「ジシュカ隊長、のんびりしている場合やおまへんで。プラハ市がたいへんなんや」

 「・・・どういうことだ」隻眼の勇士は頬を引き締めた。

 「皇帝の主力は、既にヴィシェフラトに到達しているんやで。プラハの危機は、焦眉の急って奴や」

 「なるほど」ジシュカは、王宮の望楼から、雪に煙る敵陣を眺めやった。「あそこに翻っている旗のほとんどが擬勢か。だから、お前も容易に入ってこられたのだな」

 「アホ言え、これは、わいの実力や、実力」

 「ふふん、敵の総数が少ないとあらば、突破の方策も立てられる。・・・ありがとうよ、トチェンプロッツ」

 「まあな」小柄な大泥棒は、胸を反り返らせた。

 ジシュカは、大規模な偵察隊を組織し、敵陣の弱点を探らせた。同時に、市内の職人を集め、百台はあろうかという車砦に大規模な改造を施したのである。

 雪が降り止み、久しぶりに陽光が顔を出した。

 仮小屋や洞窟の中で寒さをしのいでいたハンガリー人たちは、久しぶりに大きな吐息をつき、陣営の雪かきを始めた。

 「こういう時は、故郷の温泉が懐かしいなあ」

 「ボヘミアにも温泉が涌くらしいぜ。ほとんど、西部のドイツ国境寄りに固まっているみたいだけどな」

 「ああ、早く戦争が終わらないかな。ボヘミアの温泉を試してみたいよ」

 「でもさあ、聞いた話では、チェコ人は温泉につからないんだって。コップに温泉水を汲んで、そのまま飲むんだそうな」

 「うえー、野蛮だなあ」

 「あはは、奴らに言わせれば、裸でどっぷりつかる俺たちの方が野蛮なんじゃないの」

 「でもさ、温泉水って美味いのか」

 「チェコ人のことだから、ビールに混ぜて飲むんじゃないかね」

 「あはは、言えてる」

 「馬の小便みたいな味になったりして」

 「お前、馬の小便、飲んだことあんのかよ」

 「げげ、鋭い突っ込み」

 などと談笑している場合では無かった。

 彼らの前面は、クトナー・ホラの市街に達する禿山になっている。今や真っ白な雪に覆われた急斜面から、無数の茶色い大きな物体が、秋空の雁のような隊形を組んで、こちらに滑り降りてくるではないか。

 「なんだ、あれ」

 唖然と見つめるハンガリー兵は、やがて恐怖に動転した。巨大な橇を装着した荷馬車の群れが、猛スピードで防柵にぶち当たり、これを踏み潰して陣営内に飛び込んできたのである。いくつかの橇は、勢い余って転倒したが、その中から元気に這い出した兵士たちは、クロパーチ(鎖鎌)や槍を振り回しながら、喚声をあげて襲い掛かってきた。

 予期せぬ奇襲に大混乱したハンガリー軍は、ろくな抗戦も出来ぬまま陣地を奪取され、武器や馬匹を置き捨てて逃散したのであった。

 「来たか、ヤン・ジシュカ」

 街道を扼する主要陣地に占位していたドヴォー卿は、前哨陣地の敗退を知ると、直ちに防戦準備を命じた。しかし、この積雪では自慢の騎馬隊もその威力を発揮できない。街道に幾重にも張り巡らせた防柵と軍勢の数を頼りに防ぐしかない。

 彼は、伝令を各陣地に発した。徒歩立ちの精鋭をこの地に集め、やがて進出してくるであろうジシュカを抑止しようと言うのである。

 しかし、ジシュカは待ってくれなかった。

 伝令が立った直後、街道沿いに橇の群れが現れたのである。ハンガリー軍から奪取した馬に橇を曳かせたジシュカ軍は、浮き足立つ敵が三々五々に湧き出てくるのを各個撃破しながら、行く手を塞ぐ防柵を次々に打ち壊して行くのだった。

 「落ち着け。落ち着いて敵を見よ。敵は、進軍を焦って隊形が整わぬぞ。臆するな、かかれ」ドヴォーは、街道沿いの丘の上から声をからした。

 ドヴォーの叱咤の甲斐あって、谷間を走る街道沿いに縦列をなした橇の群れは、左右の丘から駆け下るハンガリー軍の猛攻にさらされた。しかし、敵の動きを見たターボルの兵士たちは、防柵を倒すための引き綱を手放し、ハンマーを放り捨て、橇の中に飛び乗った。そして、底に隠しておいたピーシャラチを取り出すと、慌てず騒がず橇の縁越しに銃撃を開始したのである。

 橇の周囲に蟻集したハンガリーの歩兵隊は、白兵戦に持ち込む間もなくバタバタと倒れた。銃撃の合間を縫って接近した兵も、橇の前後に据えつけられた、ジシュカ考案の機械式弓矢の斉射を受けて朱に染まっていく。

 ハンガリー軍の士気は、戦友たちの無惨な最期を目の当たりにして崩壊した。及び腰になった彼らは、再び橇を降りたターボル兵たちの追撃を受け、恥も外聞も無く逃げて行く。

 ドヴォーは、雪の中を呆然と立ち尽くした。彼の生涯で、これほど惨めな敗北は初めてのことだった。

 「ヤン・ジシュカ・・・。雪を利用して、本来は防御仕様の荷馬車を、戦車に改造して用いるとは・・・何と恐るべき男だろうか」

 やがて、プロコプ率いる後続の歩兵団が、雪煙をあげながら街道を突進して来た。なおも街道を墨守しようとするハンガリー軍残党は、熾烈な銃撃と白兵戦の末、木の葉のように砕け散って四散した。ようやく救援に駆けつけた部隊も、もはや崩れ立った味方を立て直す術が無く、次々に各個撃破されていったのである。

 「王よ、申し訳ござらぬ」

 ドヴォーは、西の空に一礼すると、敗残兵を纏めて戦場を離脱して行った。

 ジシュカは、その知らせを受けても顔色一つ変えなかった。

 「これで、ハンガリー人どもも懲りただろう。次は、オーストリア人の番だ」

 速やかに陣形を整えたターボル軍は、橇つきの車砦を敵陣から奪った大量の馬匹に牽引させながら、プラハへの雪道を辿ったのである。

 

 プラハ郊外に駐屯中の十字軍は、逃げ延びてきたドヴォー卿からハンガリー軍の壊滅の報を受けて震撼した。未だに数の上では優勢とは言え、彼らは腹背に、勝ちに乗った士気高き敵を迎える態勢に陥ったのである。

 「あのジシュカが来る・・・」

 「我が軍は、敵の首都の前面で孤立している・・・」

 オーストリアの将星たちの不安と恐れは高まった。

 「焦ることはない。この厳冬では戦にはならぬ」ジギスムントは、秀でた額を撫でながら言った。「決戦は春になってからだ。それまでは栄養と暖をとり、鋭気を養っておればよい。やがて、教皇が援軍を寄越すだろう。いったんは退却したブランデンブルク辺境伯も、補給と増援を伴って再攻してくれるだろう」

 「王よ」ドヴォーは、凍傷にかかりかけた足を撫でながら言った。「ジシュカには、従来の軍事常識は通用しません。ボヘミアの農民兵には、我々の騎士道が通用しません」

 「奴らは、すぐにでも攻めて来るというのか」アルブレヒトの唇が紫色なのは、寒さのせいばかりではなさそうだ。

 「そうです。すぐに撤退するべきです」ドヴォーはうなずいた。

 「あそこに百塔の街がある」ジギスムントは、北の彼方に霞むプラハの城壁を指差した。「ここまで来て、一戦も交えずに撤退することはできぬ」

 「それほどの覚悟ならば」ドヴォーは呟いた。「王のために全てを捧げましょう」

 ドヴォーの予見は的中した。クトナー・ホラから出撃したジシュカ軍は、皇帝軍を牽制しながらプラハに入った。そして、ジェリフスキーや新市街の自警団と合流すると、直ちに南の城門を開けて進出してきたのであった。その総勢は5千。

 この情勢を見て、皇帝軍1万はネメツキー・ブロートと呼ばれる南の平原に後退した。数の優位を存分に発揮するためである。しかし、騎士たちの多くは、冬季の決戦に乗り気でなかった。

 ジシュカは頓着しなかった。彼は、敵の陣形が整う前に、一気呵成にその全軍を突撃させたのである。

 この戦場で、隻眼の将軍は、馬匹に曳かせた車砦を戦車として使用した。雪原を駆け回りつつ荷台の上から銃砲を乱射するターボル軍の前に、士気奮わぬオーストリア軍とハンガリー軍は四分五裂の惨状を呈した。馬上から槍を振り回すだけの騎士たちは、ほとんど屠殺といって良い状態で討たれて行った。

 うろたえ、パニックに陥る騎士たちに、フス派貴族の騎士団とジェリフスキーの市民軍が、情け容赦なく、襲い掛かる。

 緒戦から劣勢に立った十字軍は、見る見るうちに屍の山を築いていく。

 騎士たちの多くは、初めて経験する戦車部隊の突撃と、士気高い市民兵の突貫に、どう対処して良いのかさえ分からなかった。そこには、騎士道の栄華など、どこにも無かった。銃に撃ち抜かれ、クロパーチに叩かれ、いつ誰にやられたのかさえ分からずに死体になるしかなかったのである。

 「おのれ、せめて一矢報いなければ気が済まぬ」

 もはや頽勢は明らかだが、皇帝は、身辺警護の親衛隊を投入した。ジギスムントに絶対の忠誠を誓うハンガリーの精鋭は、クトナー・ホラでの仲間の雪辱を晴らすべく、最期の突撃を敢行したのである。

 その勢いに、調子に乗って突出していたプロコプの歩兵隊は蹴散らされ、そして騎兵隊の馬蹄はジシュカの本陣に迫った。

 「窮鼠、猫を噛むか」ジシュカは、簡易な防柵越しに悠然と馬蹄の方角を見やった。「ペトル、ペトルはいるか」

 「どうしました」ペトルは、ジシュカの右隣に立っていた。

 「敵が、防柵の手前に達したら俺に知らせろ」

 「えっ」

 意外な言葉に、ジシュカの隻眼を覗き込んだペトルは、その瞳が白濁し、もはや光を放っていないことに気づいた。

 「ジシュカさん、いったいいつから・・・」

 「そんなことは、どうでも良い。いいから俺の指示に従え。さすがに、耳だけでは完璧な指揮は出来ぬ。ペトル、俺の眼になってくれ」

 「分かりました・・・」若き修道士は、唇を引き締めて戦場を凝視した。

 悪鬼のような形相の騎士たちは、雪煙を巻き上げながら、防柵を槍で打ち据えた。

 「今です」

 「よし、撃て」

 轟音と共に、防柵の内側に伏せていた鉄砲隊が射撃を開始した。騎士たちは次々に落馬し、後続は慌てて転進した。しかし、その前に戦車の群れが立ち塞がり、連射式の弓矢と鉄砲の乱射が彼らの命を削り取った・・・。

 「ぜ、全滅だと・・・朕の親衛隊が全滅だと・・・」十字軍本営のジギスムントは、思わず凍土にへたり込んだ。

 その傍らに駆け寄ったアルブレヒトは、義父を何とか助け起こし、そして目に涙を浮かべつつ訴えた。

 「このままでは、我がオーストリア軍も全滅してしまいます。どうか、どうか退却のご指示を・・・」

 「朕は、朕は、神聖ローマ皇帝でありハンガリー王であり、そしてボヘミア王であるぞ。異端者の群れに、農民兵の群れに、これほどの屈辱を受けて良いのか」

 「考えるのは後です。このままでは皆殺しになります。陛下のお命も保証できませんぞ・・・」

 「フス派の異端者どもは、悪魔の群れか・・・」

 「神の使徒かもしれません」アルブレヒトは、銀色の兜を左右に振りながら、血を吐くように叫んだ。「奴らの信じる神の方が、正しい神なのかもしれません。そうとでも考えなければ、とても説明がつきません」

 「言うな。それ以上、言うな」ジギスムントは叫んだ。

 彼の脳裏には、コンスタンツで訥々と意見を述べるヤン・フスの姿が浮かんだ。そして彼には分かっていた。既に、あのころから分かっていた。『真実』があの小柄な僧侶の中に宿っていたことを。

 皇帝の本陣は、ついに敵の急襲を受けて崩れ立った。

 逃げ散る衛兵の群れを掻き分けて突入したのは、プラハ自警団であった。その先頭に立って弓を握るイジーは、翻る旗幟を見て望外の獲物の姿に気づき、眦を逆立てた。

 「神聖ローマ皇帝ジグムントかっ」

 皇帝とアルブレヒトは、イジーを恐怖の眼差しで見つめながら、衛兵に守られつつ後方に離脱する。

 「フス先生とイエロニーム先生の仇だ、思い知れ」

 放たれた矢は、皇帝の右肩に突き立った。

 「うおっ」

 のけぞる皇帝に向けて、第二矢が放たれた。

 しかしその矢は、身を呈して飛び出したドヴォー卿の眉間を撃ち貫いた。

 「王よ」叫んだハンガリーの軍師は、その次の瞬間に絶命した。

 衛兵たちは、痛みと恐怖と悲しみで悲鳴をあげる皇帝の前に立ち塞がって庇った。立て続けに飛来した矢は、そんな彼らを容赦なく射殺したのだが、その隙に、皇帝とその娘婿は後方に脱出することが出来たのであった。

 

 ネメツキー・ブロートの戦いは、こうしてフス派軍の大勝利に終わった。

 オーストリアとハンガリーに続く街道は、再び敗残兵の姿に溢れた。これは、異端撲滅十字軍にとって、ヴィトコフの敗北が問題にならないほどの惨めな大敗であった。

 ブダへの道を辿る皇帝ジギスムントは、底なし沼に陥っていくかのような、不気味な喪失感に打ちひしがれた。

 この敗北での威信失墜が、彼の政治生命にとって致命傷となることは明らかだったからである。