第十二章 窓外放擲事件

 

 

7月30日の聖体奉戴式には、多くの新市街の市民が、競い合うようにして『雪の聖母マリア教会』に駆けつけた。

聖体奉戴式というのは、キリストの像を掲げて市内を練り歩く、一種のお祭りである。お祭りというのは、群衆のエネルギーが大いに高まる行事である。群衆の前に立ったジェリフスキーは、このエネルギーをフルに利用しようと考えていた。

二重聖餐方式のミサを終えた群衆は、ジェリフスキーと聖者像を先頭に立てて市内を行進した。鍛冶屋、肉屋、農夫、雑貨屋、老若男女、みんな賛美歌を歌いながら意気軒昂としている。

行列の左右では、甲冑を纏った兵士が目を光らせていた。フス派貴族が派遣したこれらの兵士は、カトリック派の襲撃に備えて群衆を護衛しているのだった。

道々、人数を加えて膨張した行列は、やがて、家畜広場に面した新市街庁舎の前に達した。怪人修道士は、たまたま市庁舎の前に置き捨ててあった荷車の上に飛び乗ると、その場で説教を始めたのである。

「諸君、エゼキエルの書にはこうあります。『剣を持って立て。そして、神に逆らうものどもを打ち倒すのだ』」

ジェリフスキーは、得意の攻撃的な演説で群衆に君臨した。

「正しい信仰を阻むもの。正しい教えを捻じ伏せるもの。正しい人を苦しめるものは、もはや神の僕ではない。悪魔に心を奪われたサタンの群れなのだ。お分かりか」

家畜広場を埋める人の群れは、総勢500人には達しようか。拳を振り上げて歓声を送った。

「サタンに魅入られた者は、もはや皇帝であろうと王であろうと、神の敵だ。たとえ現世で王冠を抱いていても、来世では地獄に落ち、そして最後の審判で地獄の業火に焼き滅ぼされることは必定なるぞ」

後列から急造の祭壇を眺めていたイジーとトマーシュは、当惑げに互いの顔を見交わした。

「おい、これって・・・」

「ジェリフスキーの持論じゃないのか・・・王権を否定して、庶民の世に変えるというのは・・・」

「でもそれは、必ずしもフス先生の『真実』じゃないぜ・・・」

亡きフスは、神のもとでの人権の平等と教会の清貧を説いたけれど、社会全体を共産主義に改革しろとは主張していなかったのである。

しかし、大多数の聴衆は、次第に激しさを増す説教師の灼熱の勢いに、酔わされていく一方だった。もともとチェコには、古代から、平等を良しとする社会主義的な潮流があった。その潮流が、今や音を立てて激しく流れ出したのである。

「正しい神の子供たちよ」ジェリフスキーは、ひときわ大きな声をあげた。「新市街の市会議員どもは、正しい教えを守る者たちを反逆者扱いし、市庁舎の牢獄に監禁している。このような非道が許されて良いものだろうか。思い出すが良い。真実を守り続けたフス先生とイエロニーム先生が、サタンの僕たちにどのような目に合わされたのか。あの悲劇を、二度と繰り返してはならない。我々は、今こそ行動しなければならない」

フスとイエロニームの名を耳にしたとたん、広場の群衆は、暗い怒りのオーラに包まれた。尊敬する先生たちを理不尽に殺された恨みは、新市街の庶民たちの胸から一瞬たりとも消えることは無かったのだ。

「二度とさせるな」「二度と、二度と」

ジェリフスキーは、両手を高く掲げた。

「神の子供らよ、さあ行こう。正しい信仰のため、同胞を悪魔の手から救い出すのだ」

荷車から飛び降りた説教師は、大またで足早に市庁舎の入口に向かった。群衆は、何かに取り憑かれたように、無言でゾロゾロその後に続く。

イジーとトマーシュは、その有様を呆然と見送っていた。この2人は、ジェリフスキーに協力して民衆を扇動する「サクラ」の役割を期待されていたのだが、そんな必要はどこにも無かった。つまらない小細工など、この動きの中では茶番にしかならなかった。

ジェリフスキーの攻撃的な演説に神経を尖らせていた市庁舎は、既に入口に衛兵の壁を築いていた。しかし、怪人修道士は、委細構わず槍をかついだ衛兵の列を掻き分けようとする。

「帰れ、異端者は通さぬぞ」衛兵隊長は、鋭く叱咤した。

「私は、市会議員に用があるのだ。お前たち下っ端では話にならぬ」ジェリフスキーの眼光は鋭い。

「ならぬ、ここは通さぬ、帰れ」

衛兵隊長が、説教師の肩を拳で突いたとたん、群衆が襲い掛かった。衛兵たちは、意外な成り行きに抵抗も出来ず引き倒され、たちまち泥にまみれる。

そんな騒乱など、どこ吹く風。ジェリフスキーと護衛の兵士たちは、市庁舎の中に姿を消した。

やがて、3階の会議室で騒乱の気配が漂い、そして急に静かになった。

永遠とも思える、不思議で不気味な静寂の時間の後。

3階の窓が大きく開かれ、そこから人間が落ちてきた。でっぷりと太った中年は、市長その人であった。その後から後から、全部で13名の市会議員が、頭を下に、もんどりうって飛び出して、窓の下で腰の痛みにうめいているのだった。

そのとき、窓の中から、ジェリフスキーの紅潮した顔が姿を見せた。

「この悪魔どもは、同志の釈放を拒否した。交渉は決裂だ」その声は、不思議と透き通っていた。「さあ、この悪魔の手先を懲らせ。今こそ、真実を我が手に掴むのだ」

歓声をあげた群衆は、一斉に市会議員たちに襲い掛かった。悲鳴をあげながら逃げ、転ぶ彼らは、鋤で突かれ、鎌で斬られ、そして鍬でえぐられていく。

広場に立ち尽くすイジーとトマーシュには、これが現実のこととは思えなかった。

血煙の中で荒れる群衆の中には、彼らの顔見知りのハシクやヴィリームの姿もあった。

夢なら、早く覚めて欲しい。

群衆が窓の下から散ったとき、そこには、原型を留めないほどに損壊された議員たちの肉体と、かつてその中を流れていたはずの血潮が渦を捲いていた。

ヤン・ジェリフスキーは、今や自分が完全に掌握した市庁舎の窓から、彼方に聳えるプラハ城を眺めやった。

「まずは、良し」その唇は、野望の第一歩を遺漏無く成し遂げた満足感で震えていた。

 

異常事態を知ったプラハ城は、この暴動を鎮圧するため、慌てて300人の衛士を新市街に派兵した。しかし、指揮官のヤン・べヒニェは、内心でフス派に共鳴していたので、新市街市庁舎周辺の剣呑な空気を感得するやいなや、ただちに全軍を撤収させてしまったのである。

群衆の興奮を収めたジェリフスキーは、その場で新たな市議会員を任命するべく、「選挙」を行った。この結果、市民の人望篤い肉屋のペトル・クスが新市長に選出された。その他、選び出された総勢4名の執政官の顔ぶれは、みんな昨日までの庶民たちである。

その執政官の顔ぶれには、イジーの舅であるウ・クリムの親爺ヤロスラフの姿もあった。

イジーは、市庁舎の前で満面の笑顔で就任の挨拶をする舅の顔を、穴の開くほど見つめた。この気の良い親爺さんも、あの狂った群衆の中にいたのだろうか。血に狂って、無抵抗の人々を屠殺したというのだろうか。

「これが革命か」傍らのトマーシュは、熱にうなされたように呟いた。「ジェリフスキー、本当にやっちまったよ。本当に・・・」

「これから、いったいどうなるというのだ。こんな無茶苦茶、王が黙っていないぞ・・・」イジーは、ようやく渇いた唇から言葉を搾り出した。

何気なく振り向いた彼の視界に、白いドレス姿が入った。

広場の片隅に立ち尽くすヴィクトルカが、何かを見通すような透徹した視線を、市庁舎の喧騒に注いでいるのだった。

 

そのころ、ボヘミア国王ヴァーツラフ4世は、プラハの宗教問題から逃避するため、郊外のクンラティッツ城に滞在中であった。

いわゆる『窓外放擲事件』の詳細が伝わったとき、この王はビールで真っ赤になっていた顔を、さらに激しく紅潮させた。

「反乱ではないか。これは、わしに対する反乱ではないか」

動揺する彼の元に、次々と早馬が駆け込んでくる。

「修道士ジェリフスキーは、新市街を完全に掌握し、その秩序を安定させました。旧市街の参事会は、これを喜んで承認・・・。小地区も、その鎮圧を断念。この情勢を受けて、フス派の民衆が次々に決起し、プラハ全域で、既にカトリック系聖職者の追放が進んでいる模様」

早馬の報告に、いつも冷静な王妃ジョフィエも動揺を隠せない。

「プラハのほとんどが、今や王権を離れてしまったというのですね・・・」美しい眉をしかめる。

「ど、どうしたら良いのじゃ」王は、今にも泣き出さんばかりだ。

「プラハに使者を送りましょう。ジェリフスキーの意図を糾すのです」王妃は、きっぱりと言った。

「フス派め、フス派め、皆殺しにしてくれるぞ」そう呟いた王は、胸を押さえながら低くうめいた。

そして、そのまま床に倒れこんだ。

「へ、陛下」王妃は、慌てて駆け寄った。

老齢の王は、興奮のあまり心臓発作を起こしたのであった。

 

プラハ市は、しかし何事も無かったかのように静穏だった。

カトリック系聖職者の追放というのは、早馬の誤報であった。新市街での残虐な殺戮に恐怖した聖職者たちは、むしろ自主的に退去していたのである。

また、プラハ大学の二重聖餐派は、この情勢を巧みに利用した。プシーブラムのヤンを筆頭とした教授たちは、動揺気味のカトリック系聖職者たちを大学に招いて積極的な論戦を挑み、これを屈服させていったのである。

一方、革命の企画発起人であったヤン・ジェリフスキーは、今や新市街の実質的な支配者であった。しかし、彼は市政の表面に出ようとはせず、形式的には、あくまで一修道士としての立場を守ったのである。

これらの状況を理解したのは、病床の王に代わってこの危機に対処したジョフィエ王妃であった。彼女は、もともとフスの信奉者であったため、彼らに対して極めて寛容であった。なんとか、話し合いでこれ以上の混乱を防ぎとめようとしたのである。

だが、その間にも新市街の革命は急ピッチで進んでいた。

まず、市域全体で二重聖餐が義務付けられた。続いて、教会に対する十分の一税が廃止された。さらに、聖職者による利殖や地代の取立ては、その全てが禁止されたのである。また、信仰の基礎は常に聖書にあることとされ、教会に叙任された聖職者でなくても、自由に神事行為を行えることとされた。

プラハ新市街は、もともと貧しいチェコ人が多く住んでいたため、これらの改革は、両手をあげて歓迎されたのである。

市民たちは自警団を結成し、それぞれ鋤や鍬や棍棒などで武装し、市庁舎や城壁を守った。彼らは、「正しい神の国」を作るという理想に燃えていた。フス先生の理想を、自分たちが今こそ実現させるのだと張り切っていた。

「うまく行ったな」ジェリフスキーは、顎を撫でながら言った。

「でも」トマーシュは、首を左右に振った。「市会議員を虐殺したのは、やり過ぎだったのでは」

人は、プラハ大学での教授たちとの会談を終えて、旧市街の城門を潜って長大な馬広場に出たところだ。

「荒療治も必要だったということよ」怪人修道士は、平然と若き同志の顔を見やった。「いつかは、誰かがやらなければならなかった」

「・・・・・」

「あの殺戮のお陰で、恐怖に駆られたカトリックのサタンどもは、次々にドイツに逃げ出している。また、プラハに留まるドイツ系商人どもは、次々に二重聖餐を受け入れているではないか」

「でも、恐怖で他者の信仰を支配するのは、良くない」

「カトリックのやり方に比べれば、遥かにマシだろうよ。お前も見てきただろう。あのフス師やイエロニーム師が、どのような理不尽な目にあったのかを」

トマーシュは項垂れた。弁舌では、彼ごときが束になってもジェリフスキーに適わない。

「問題は」怪人修道士は呟いた。「プラハ大学の石頭どもだな。自らは行動しようとせずに、相変わらず象牙の塔の中で理屈をこねている。王族や保守派貴族を相手に、どんなに理屈を言っても無駄だ。奴らを動かすには、力を見せなければならぬ。力あるのみだ」

トマーシュは、鋤や鍬を担いでいる自警団の姿を思い浮かべた。あれが力だというなら、この怪人は相当におめでたい。

やがて2人は、家畜広場前の新市街庁舎に達した。

市庁舎では、肉屋のクスを中心として、定例の市政会議が行われるはずであった。もっとも、会議とは名ばかりで、近頃はクスが持ち込んだ豚肉の燻製と、ウ・クリムの親爺ヤロスラフが持ち込んだビールで良い気持ちになることが多かったのである。

しかし、ジェリフススキーとトマーシュを待っていたのは、意外な光景であった。

「待っていましたよ」クスと4人の執政官は、途方に暮れた面持ちで、会議室の中に突っ立っていた。

「どうしました」ジェリフスキーは、うんざりした口調で言った。どうせ、飼料の支給が間に合わないとか、必要量の計算がうまく出来ないとか、そんな事だろう。

「たった今、小地区のヤン・べヒニェから使いが来たのです」

「ふむ、用件は何だったのですか」

「それが、国王が病死したというのです・・・」

「なんですって」

一同は、重い空気の中で黙り込んだ。

トマーシュは、意外な成り行きに呆然となった。

ヴァーツラフ4世は、とにもかくにも、40年にわたってチェコを統治してきた人である。昼間からビールを食らう優柔不断な人物ではあったが、その存在感は、危険な綱渡りを続けるフス派にとって、命綱のようなものであった。

そもそも、フス派主流の方針は、国王と協調して、プラハをフス派の都市に改造することにあった。その国王がいなくなったとあれば、プラハの混乱は拡大していくに違いない。いや、チェコ全土が、統制を失うこともありうる。

「・・・後継者は、あのジギスムントになるのか」ジェリフスキーは、唇を歪めた。

ヴァーツラフ4世には子供がいなかったので、彼の唯一の血縁は、現職の神聖ローマ皇帝である異母弟のジギスムントである。順当に考えるのなら、彼が次期のチェコ王であった。

一同は、暗い顔を見交わした。

ジギスムントは、コンスタンツにフスを誘き寄せ、そしてフスとイエロニームを見殺しにした人物であった。そのような人物を王として戴くのは、どうにもやるせないのである。

「ここは、ジョフィエ王妃の賢慮に期待するしかない・・・」トマーシュは、呟いた。

 

プラハ郊外のクンラティッツ城は、悲しみに包まれていた。

病床の国王ヴァーツラフは、王妃の説得によって怒りを和らげ、そしてプラハのフス派と妥協する気になっていた。しかし、その心臓病は日増しに悪化。8月16日には危篤状態となり、遺言など何も残さずに黄泉に旅立ったのである。

黒い喪服に身を包んだジョフィエ王妃は、しかし悲しみに沈んでばかりはいられなかった。国内の秩序を、なんとしても維持しなければならない。

王妃は、直ちに使者を王国各地に発した。有力なチェコ人の大貴族たちを集めて、国政委員会を開こうと考えたのである。こうして、大貴族ロジュンベルク家のオルシトフ卿や、ヴァンテンベルク家のチュニック卿、ポジェブラト家のボジェク卿らが馳せ参じた。

これらのチェコ貴族たちは、フス派の信奉者として、領内での二重聖餐を義務付けている。そんな彼らの方針は、最初からプラハのフス派と妥協することにあった。

クンラティッツ会議は、プラハを正式に「共和制都市」として認めた。小地区、旧市街、新市街のそれぞれの行政を、市議会や執政官に委ねたのである。その代わり、新たな国王としてジギスムントを迎え入れる決議をして、これをプラハ市に受け入れるよう勧告した。いわば、飴と鞭を使い分けたのである。

プラハ大学を中心とする旧市街や、裕福なドイツ系貴族や商人が多い小地区は、この決定に従った。彼らとて、国王のいない王国など望んではいなかった。プラハ大学の首脳陣も、国王が二重聖餐さえ認めてくれるのなら、その名前がジギスムントであろうとも、妥協する用意があったのだ。

しかし、新市街は違った。既に、教会権力の全てを否定し、完全な民主政体に移行している彼らは、この革命を後戻りさせたくはなかった。また、フスを父親のように慕うこの街の純朴な市民たちは、師の仇であるジギスムントを断固として拒否したのである。

旧市街代表のヤン・プシーブラムは、しばしば新市街代表のジェリフスキーと会談を持ったのだが、両者の意見は一向に噛みあわなかった。

9月に入ると、神聖ローマ皇帝ジギスムントは、自らがボヘミア王国の継承者であることを宣言。チェコの貴族会議とプラハ市に、受け入れを要求した。彼の立場としては、これは当然のことであった。

この情勢を受けて、ヴァンテンベルクのチュニック卿を中心とする貴族たちは、王妃を守りながらプラハ市に入った。63年ぶりの「王国議会」の開催である。彼らは、プラハ大学の大講堂を舞台に、各市街の要人たちと活発な議論を展開した。この結果、ジギスムントに対して、「国王として迎え入れる上での条件書」を作成し、これをハンガリーのブダ王宮に発送したのである。

この要望書の主なテーマは、もちろん、「二重聖餐の公認」である。

貴族たちが作成した前段部分は、それに加えて、「フスとイエロニームを異端視しないこと」、「外国人に官職を与えないこと」、「国外の裁判所への控訴の禁止」などの要求からなる13か条であった。

大学教授やプラハ市会議員たちが作成した後段部分は、「プラハ市共同体からの事項」として別書きにされ、その内容は、「チェコ語での説教の義務化」、「プラハ市の近年の騒乱に対して、国王は処罰を行わないこと」などからなる8箇条であった。

この要望書集については、後段部分は発送されなかったとの説が有力である。

いずれにせよ、これは皇帝の受け入れるところとはならなかった。

「前代未聞だわい」ブダ在住の神聖ローマ皇帝は、チェコ貴族たちの印章で飾られた要望書を眺めやった。「朕は、正統な王位継承者だ。どうして、貴族や市民たちから、王になるための条件を突きつけられねばならぬのだ。理屈が通らぬわ。しかも、奴らは異端者ではないか」

鼻の先で笑った彼は、密かにローマ教皇に特使を派遣した。

『異端撲滅十字軍』発動の根回しをするためである。