第十八章 迷走する『真実』

 

 

 今や名前だけのチェコ王となったジギスムントは、得意の外交を駆使してフス派を倒そうと考えていた。彼は、プルゼニ市を中心とするチェコ西部のカトリック派貴族たちを扇動し、『カトリック同盟』を結成させたのである。その主力となるのは、フス派から寝返ったロジュンベルク家のオルトシフ卿と、シュワンベルク家のボフスラフ卿であった。

 しかし、ブダ城に置かれた皇帝の執務室を賑わせるのは、味方の敗報ばかりであった。

 「陛下、プラハの『高い城』が、ジェリフスキー率いる異端者どもに占領されました。敵は、大砲を連射して城壁を破壊し、守備兵の士気を殺いだのだそうです」

 「陛下、せっかくの『カトリック同盟』ですが、オルトシフ卿とボフスラフ卿の軍勢がターボルのジシュカ将軍の急襲を受け、プルゼニに追いつめられてしまいましたぞ」

 ジギスムントは、秀でた額に手を置いて沈思した。もはや、フス派の勢いを止める術はない。

 「こういう場合は、焦らず静かに時を待つべきだ」

 苦労人の皇帝は、しばらくボヘミア情勢を放置することに決めた。ただし、教皇を動かして、チェコ全土に対する経済封鎖令を出すことは忘れなかった。

 彼は、基本戦略を兵糧攻めに切り替えたのである。

 

 ジギスムントの判断は、ある意味で正しかった。

 フス派は、外敵が去った安心感から内部分裂の兆候を見せ始めたからである。

 もともとフス派は一枚岩では無く、様々な潮流から構成されていた。大きく分けて、『穏健派』と『急進派』である。

 まずは『穏健派』。これは、大貴族やプラハ大学の教授たち、そしてプラハ旧市街の商人たちが中心である。彼らは、チェコ国内での「二重聖餐」をカトリック教会に認めてもらえるなら、外国から新たな国王を招き、条件次第で旧体制に妥協しても良いと考えていた。特に商人たちは、教皇庁による経済封鎖で大打撃を受けていたから、なんとかして他のヨーロッパ世界と和解したかったのである。

 次に『急進派』。これは、プラハ新市街やターボルが、その急先鋒である。主に、貧しい庶民や中小貴族から成る彼らは、チェコ国内での「二重聖餐」のみならず、「聖書にのっとった清廉な生活」、「神のもとでの万人の平等」といった理想をヨーロッパ全体に広げ、世界の姿を変革することを至上目的としていた。

 『急進派』には、さらにいくつもの大きな潮流があった。アンブローシュ司祭の「終末論」は、終末の日に備えて信者たちに清廉な生活を要請する哲学論である。これに対して、ジェリフスキーの「王権否定論」は、王も貴族も否定して、民衆だけの国を築こうという社会制度論であった。

 もっと極端なのは、マルチン・フースカ司祭の「ピカデリー派」で、彼らはひたすら聖書の記述の中から『真実』を見つけ出そうとし、二重聖餐制度自体に批判的な視線を投げかけていた。また、彼らはいっさいの暴力と戦争を否定した。

 ヤン・フスが提唱した『真実』は、案の定、いくつもの異なる思想を生み出してしまったのである。

 こうした思想的な横の対立に、貴族と民衆といった縦の階級対立も複雑に絡んだ。

 チュニック卿ら大貴族たちは、チェコ国内での教会の利権を奪った上で、自分たちが操縦し易い王(もちろんジギスムントを除く)を戴くことで、この戦争を早期解決しようと画策していた。彼らは、あくまでも自分たちの利権伸張のためにフスの思想を利用していたのに過ぎない。

 しかし、一般の民衆は、もちろんそんなことには興味がない。彼らの多くは、もっとも純粋に「正しい信仰」、すなわち聖書に書かれているような「清貧な生活」を守ることで、死後の世界での安息を得ようとしたのである。

 また、小作人は、教会による搾取からの脱出を望み、中小貴族たちの中には教会の領土のみならず、隣のカトリック派貴族の領土の奪取を目的とする者もいた。

 縦と横に張り巡らされた『真実』のマトリックスは、錯綜して矛盾を深めるばかりであった。

 急進派の中で特に過激な連中は、地代や金利の徴収といった資本主義活動そのものを否定した。これは、金利の払い手である貧しい庶民にはたいへん好評だったが、当然ながら穏健派の商人たち(つまり貸し手)には激しく反対された。

 また、ジェリフスキーの標榜する社会主義的平等思想は、当然ながら、貴族たち特権階級に受け入れられるはずがない。

 チェコ国内に溢れ出した無数の『真実』は、フス派運動の本質を表してもいる。この混乱は、人類の叡智が中世から近世へと移行するための、産みの苦しみだったのだろう。

 

 ところで、南ボヘミアの急進派の本拠地であるターボルを支えているのは、ヤン・ジシュカの卓越した軍事力であった。もしもこの力が無ければ、市内で無数の思想が跋扈跳梁するこの街は、とっくに空中分解していたことだろう。

 ジシュカの軍勢は、向かうところ敵なしであった。

 カトリック派の騎士たちは、どうしてもジシュカの「車砦」を打ち破れず、可動式バリケードに突撃を阻まれた後、銃砲撃で壊滅させられてしまうのが常だった。

 もちろん、個々のターボル兵たちの戦闘力も高かった。主に純朴な農民の中から徴募された兵士たちは、自らを「正しい神の戦士」と信じ、身の危険も顧みず巨大な敵に立ち向かったのである。

 プラハ市からは、ジェリフスキー率いる部隊が、聖杯の旗を掲げて東ボヘミアに出陣し、犠牲を払いながらも、この地を掌握平定した。

 ボヘミア各地の教会や修道院は焼かれ、その所領は全てフス派に接収され農民や小貴族たちに分け与えられた。教会や修道院と言うと、無防備な建物を焼き討ちしたかの印象を受けるが、実際はそうではなかった。当時のそれは、戦時の防御施設も兼ねていたから、いわば小規模な城である。我が国でも、中世の寺院は小高い丘にあったり頑丈な壁に覆われていたりと、城のような造りになっていたのだが、それと同じことである。つまり、フス派はカトリック派の「城」を大量に陥落させたということだ。

 こうして、カトリック派は、プルゼニを中心とした西ボヘミア地方と、ブルノを中心としたモラビア地方の東方に追いつめられていた。皇帝ジギスムントと教皇マルティヌス5世の焦慮は、日増しに募るばかりである。

 ジシュカの軍勢は、1420年の暮れにはクトナー・ホラの街と、それに連なる鉱山地帯を手中に収めた。ここは、当時の欧州で最大の鉱山である。採掘された銀は、直ちに軍費となり、採掘された鉄は車砦の防御板や銃砲に加工された。この結果、ターボル市では軍需産業や近代的な手工業が大発展を遂げたのである。

 軍隊の規模は日を追って拡大し、その維持費がバカにならなくなったため、ターボル市議会は、連日の激しい口論の末、小作農民から「地代」を取り立てることに決した。こうして貧富の差が生じ始めたターボルでは、建設当初の「平等」の理想はどこかに吹き飛んでいたのである。それでも、カトリック派司祭に搾取されていたころよりはマシであったから、この街の人口は減少するどころか、むしろ増加の一途を辿った。

 発展を続けるこの街では、華美な服装や贅沢な食事は禁止されていた。過度の飲酒やダンスも禁止であった。人々は、労働と神への祈りを日課とし、聖書の理解を深めることに人生の意義を見出そうとしていたのである。

 そんなある日、修道士ペトルは、ターボル市の西壁に沿って立つコトノフ砦にジシュカを訪ねた。

 「プラハ新市街のイジーから手紙が来ました」ペトルは、薄暗い私室の中央に座すジシュカに言った。「プラハでは、王位継承者を巡って、新市街と旧市街の対立が深まっているようですね」

 「その話は聞いている」ジシュカは、卓上の錫のジョッキから温くなったビールをすすりながら応えた。「新市街では、ジェリフスキーが激怒しているらしいな。ポーランド人を王に迎えるなど、もってのほかだとね」

 プラハ旧市街の穏健派は、ジギスムントに対抗するため、ドイツ騎士団と交戦状態にあるポーランド王家の中から、新たなチェコ王を選出しようと動いていたのである。

 「ジェリフスキーさんが反対する本当の理由は、王権そのものを否定して、民衆だけの国を造りたいからでしょう・・・」

 「そういうことだろうな」ジシュカは、空になったジョッキを逆さに振った。「ふむ、やはりプルゼニのビールより、味が落ちる」

 「ジシュカさんは、どう思うのですか」ペトルは、薄暗い部屋の中で目を細めた。

 「フス師の遺志を守り抜くためには、みなが団結しなければならない。どうしたら、団結を維持できるのか。俺が興味あるのはその一事のみだ。大貴族や大学教授たちが、自分たちの結束のためにポーランド人の国王が必要だというのなら、それはそれで止むを得まい。ジェリフスキーの奴は、理想に走って現実感を失いつつあるということだ」

 「あの人は、前からああでしょう」

 若き修道士は、ジェリフスキーとの初対面での強烈な印象を胸中で思い出し、肩を竦めた。

 「あははは、そうだな。でも、ああいう男も、時代の節目では必要なのだよ」ジシュカは、余裕の笑みを浮かべた。

 「結束、団結。・・・その結束は、この小さな街でも壊れつつあるようですね」

 「フースカ師か。これは、本当に難しい問題だな」ジシュカは、眉を曇らせた。

 マルチン・フースカ師をリーダーに仰ぐ反戦平和主義のピカデリー派は、ターボル市内に300人。少数派である彼らは、事あるごとに他の宗派の攻撃対象になっていたのだが、そんな彼らを庇うのは、いつでもジシュカであった。

 ターボル市は、アンブローシュやニコラウスといった個性の強い聖職者たちが、合議で治める神権政治の街である。そのため、神学の研鑚は、この街の市政でもっとも重要な課題であった。だがジシュカは、あまりそのような事に興味が無かった。神学論争が激化した結果、この街の戦闘力が低下するような事態は避けたかったからだ。

 一方、ペトルは、下級聖職者としての立場から、こうした神学論争を注意深く聞いていた。彼が考えるに、ピカデリー派の主張は正論である。イエス・キリストが愛と平和を訴えたのも、聖書が戦争や殺し合いを戒めているのも事実なのだ。しかし、ターボルが、いや、チェコ全土が置かれた逆境を考えるなら、「反戦平和」はすなわち自滅を意味する。ペトルは、無条件に彼らの言い分を認めるわけには行かなかった。

 「我々に必要なのは、戦うための団結、そして結束だ。学者の屁理屈は、後でいい」ジシュカは、窓外を舞う鳶を眺めながら、自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 しかし、ジシュカが出陣している隙に悲劇は起こった。

 ピカデリー派は、ターボル市内の対立勢力のみならず、ボヘミア南部の大貴族たちからも非難を浴びていた。その理由は、フースカ師が「反戦平和」を主張し続けただけではなく、「二重聖餐」制度そのものに疑問を投げかけたからである。フースカ師は、「二重聖餐」を単なる儀式に過ぎないと考え、その神学的意味を否定したのだ。この見方は、フス派のアイデンティティの否定に他ならない。

 1421年1月中旬、フースカ師は反対派によって逮捕投獄された。同時に、300人を数えるピカデリー派の信徒たちは、ターボルから追放されたのだが、彼らは、南ボヘミアの古城に入り、頑固に獄中のフースカ師の教えを守り続けたのである。

 1月下旬、ボヘミア西部への遠征から帰ってきたジシュカを待っていたのは、チュニックら大貴族たちやアンブローシュ師から下された「ピカデリー派攻撃命令」であった。

 「味方同士の殺し合いは愚かなことだ。しかし」ジシュカは、大きくため息をついた。「ターボルの聖職者の我儘なら宥めようがあるが、大貴族たちを怒らせる訳にはいかぬ」

 ジシュカ率いるターボル軍は、古城に立て篭るピカデリー派を攻撃した。

 この悲惨極まりない同士討ちに、さすがのターボル軍の士気も低く、戦いは長期化したのである。

 「どうしてこんな事に・・・」従軍修道士ペトルは、野営のかがり火の前にうずくまり沈思した。彼の眼には、こうした成り行きが現実離れした悪夢のように思われるのだ。

 2月上旬、ついに城壁の守りは破れ、ターボル軍の精鋭は城内に突入した。

 そして、300人を越えるピカデリー派の信者たちは、降伏を潔しとせず、全員が神の名を唱えながら凶刃に倒れ、そして玉砕していった。

 ペトルは、この一部始終を見守った。

 夫が倒れるのを目の当たりにした妻は、赤子を井戸に突き落とし、続いて自分も身を投げる。抵抗を諦めた老人たちは、両手を組んで静かに祈りながら、崖上から飛び降りて行く。

 ペトルは、視界の至る所で展開される殺戮劇を見つめながら、必死に神の慈悲を求め続けた。

 どこからも応えは無かった。

 神は沈黙を続けた。

 この悲報を知ったターボル獄中のフースカ師は、激怒し悲嘆に暮れ、そして見張りの隙をついて脱走した。しかし、不運な司祭は、モラビア地方でフス派貴族に捕らえられ、そしてプラハに護送されたのである。

 「異端審問ですって」ペトルは、呆然とした。「どうしてそんな」

 「俺は反対したのだが」ジシュカも、暗い面持ちを左右に振った。「旧市街の貴族たちやプラハ大司教コランダ(最近、フス派に転向した)が、ごり押ししたらしい。フースカ師は、『異端者』の烙印を押され、厳しい尋問の中で転向を迫られているらしい・・・」

 「まるで、フス先生の二の舞じゃないか」ペトルは、両手で頭を抱えた。「なんと愚かなことだろう。真実と理想を求めて立ち上がった俺たちなのに、互いに憎しみあい罵りあい、そしてカトリック教会と同じ事をしている。なんという愚かな・・・」

 「認めたくないことだが、俺たちはフス師の『真実』を歩めるほどには、成熟していないのかもしれぬ」ジシュカは、自嘲気味に呟いた。

 

 しかし、この悲惨な内輪もめの後、「二重聖餐」を重んじる人々の結束は急速に高まった。

 まず、ボヘミア西部の『カトリック同盟』が崩壊した。プルゼニ近郊の決戦で、ジシュカ率いるターボル軍に大敗を喫したからである。この結果、ボヘミア西部の諸都市は、フス派の膝下に屈し、カトリック派の大貴族たちも「プラハの四か条」を受け入れたのである。

 この成果を受け、プラハ市を中心とするフス派は、ボヘミアとモラビアの21もの諸都市を統合し、「プラハ同盟」を結成した。事実上、チェコ国家の主権はプラハ市の執政官に委ねられたのである。これは、プラハを中心とする共和制国家の形成を意味した。

 1421年6月3日、フス派はより一層の団結を誓うため、プラハ東方80キロに位置するチャースラフの街に集結し、世界初の「国民会議」を開催した。そこには身分の壁は無く、貴族、聖職者、教授、商人、農民が、みな対等の立場で集ったのである。

 彼らは、「プラハの四か条」の遵守を誓い、死に至るまでそれを守り抜く決意を固めた。そして、神聖ローマ皇帝ジギスムントのチェコ王位を改めて否定し、チェコの施政は20名の執政官に委ねられることが正式に決議された。ちなみに執政官の内訳は、大貴族が5名、プラハ市代表が4名、そして中小貴族が11名である。中小貴族の中には、もちろん無敵の将軍ヤン・ジシュカの名もあった。

 また、執政官の相談役として、プラハ大学教授ヤン・プシーブラムと、説教師ヤン・ジェリフスキーが任命された。穏健派のプシーブラムと急進派のジェリフスキーは、共に手を携えて教会の壇上に立ち、そして団結と協調を満座に強く訴えたのであった。

 これはフス派が、それまでのわだかまりを拭い去り、ついに一枚岩になったかに思われた偉大な瞬間であった。

 この会議には、ターボル市から、主な要人とともにペトルも参加していた。

 彼は、いたるところに聖杯の旗が翻る、美しい赤屋根が連なる小さな街を散策し、そして様々な社会階層に属するフス派の人々と交歓した。そして、改めて思った。

 「講堂や祭壇の上で団結と協調が謳われても、二重聖餐を遵守すること以外は、みんなの考えはバラバラだ。それぞれが、『真実』ということを勝手に解釈し、好きなように考えているのだ。・・・でも、そう言う俺はどうだろう。俺は、本当に『真実』を正しく理解しているのだろうか」

 とても、そうとは思えなかった。でも、これだけは言える。自分たちの目指すところは正しいのだ。それまでは、様々な試行錯誤があるだろう。悲惨な同士討ちや、苛烈な戦争もあるだろう。

 「そうとも」ペトルは、炎に焼かれ崖下に身を投げるピカデリー派の人々の末期を思い浮かべた。「そうとも、そうとでも考えなければ、やり切れない。この理不尽さに、この悲惨さに、俺の心は耐え切れなくなるだろう」

 フス派の運命は、様々な形で坂道を転がり落ちるいくつものボールのようなものだ。どこに行き着くのか誰にも分からないけれど、そうかと言って、もはや元に戻すことは出来ないのだ・・・。

 チャースラフを訪れたトマーシュは、旧友のペトルと再会を果たすと、プラハ市内で繰り広げられている暗闘について、その内情を話して聞かせた。

 「なあペトル、プシーブラム先生とジェリフスキーの対立は、本当は、抜き差しならない所に来ているんだぜ」

 「やっぱり・・・あの二人が、壇上で手を取り合い、そして笑顔を交し合ったのは、単なるポーズだったのか」

 「うん、良く見れば、二人の笑顔が引きつっていることが分かったはずだよ」

 「トマーシュ、君はどちらの味方だい」

 「・・・プシーブラム先生は、この国に平和を回復させようとしている」医学部教授は、低い声で言った。「チェコ国内の『二重聖餐』をヨーロッパ世界に認めさせたら、その後でポーランドかリトアニアから王を迎え入れて、昔の秩序を取り戻そうとしているのだ」

 「なるほど、現実的だね」ペトルはうなずいた。「でも、せっかく築いた平等社会はどうなるのさ。王政復古となれば、また以前のような身分差別や搾取が復活してしまう。それじゃあ、意味がないよ。これまで払って来た幾多の犠牲が無駄になる」

 「ジェリフスキーは、ペトルと同じ考えだ」トマーシュは、親友の眼をじっと見つめた。「彼は、何が何でも共和制を守ろうとしている。あらゆる王権を否定し、あらゆる聖職者の財産所有を否定し、そしてあらゆる地代や金利を否定している」

 「・・・俺は、地代と金利は仕方ないと思っているよ」

 「そうだろう」トマーシュは目を伏せた。「地代や金利を否定されたら、旧市街の商人たちやユダヤ人たちが飢えてしまう」

 「そうか。つまり、プシーブラム先生の味方は、旧市街と小地区の富裕層。ジェリフスキーの味方は、新市街の貧しい小作人や間借り人というわけか」

 「持てる者と持たざる者の対立だ。だから、抜き差しならないのだ」

 「それで、トマーシュ・・・」

 「僕は、悩んでいるんだ。だって、どちらの考えも正しいと思えるから。戦争を早期に終結させるため、旧体制と妥協するのは正しい。でも、あらゆる身分差別を無くす平等の理想も正しいよ」

 「第三の道もあるんじゃないか」ペトルは言った。「みんなが堅く団結を誓い合い、そして戦いに、勝って勝って勝ち続ける。そうなれば、神聖ローマ皇帝もローマ教皇も妥協して、チェコ国内での共和制と二重聖餐を容認するようになる。その結果、あらゆる身分差別を無くすことが出来る。そうだろう」

 「ペトル、君は反戦主義者じゃなかったのか」トマーシュは、眼を大きく見開いた。

 「必要悪として割り切ることにしたんだ」ペトルは、親友から眼をそらせた。「ヤン・ジシュカなら、あの無敵の将軍なら、きっと出来ると信じることにしたんだ。そうじゃなければ、これまでの犠牲に堪えられない・・・」

 「君らしい考え方だな」

 「そういえば、イジーはどうしているんだろう。彼は、チャースラフに来ないのか」

 「あいつは、今や新市街の防衛指揮官だ。プラハを守るため、あそこを留守に出来ない立場だからね」

 「マリエさんやその息子は」

 「元気にやっているよ。ウ・クリムも、昔のような賑わいを取り戻しつつある」

 「そうか」ペトルは微笑んだ。「また、みんなで行きたいな」

 「そのためにも、早く平和にならないと・・・」

 「平和といえば」ペトルは、ある事を思い出した。「去年、十字軍が撤退した後、教皇特使がプラハを訪れたという噂は本当なのかい」

 「ああ、本当さ。戦争を早期に終わらせたい大貴族たちやプラハ大学は、喜んでこれを迎え入れたのだ。でも、特使は『プラハ四か条』のうち、『二重聖餐(第二条)』だけは、どうしても認めようとしなかったんだ」

 「・・・それじゃあ、意味無いじゃないか」

 「だから、追い返した。・・・なあ、これはジェリフスキーやジシュカたち急進派には内緒だぜ。噂のままに留めておかないと、また話がこじれるからさ」

 「ああ、分かった」ペトルはうなずいた。

 「話は変わるけど」トマーシュは、眼を落とした。「ヤコブとクララが結婚したよ」

 「それは、めでたいな。プラハのユダヤの人々は、どんな具合なんだ」

 「旧市街の穏健派に同調して、積極的に資金援助をしてくれる。そのお陰もあって、大貴族とジェリフスキー派は、いよいよプラハ城の攻略に取り掛かるようだ」

 「ああ、そういえばプラハ城はまだ皇帝の味方なのか」

 「もう、一年間も包囲されているから、だいぶ弱っているけどね」

 この会話が交わされたちょうどその頃、プラハ城はフス派の猛攻に耐えかねて開城し、そして城内の装飾品や聖像は、ジェリフスキーの息がかかった急進派によって「悪しき偶像崇拝」の烙印を押されて破壊されていた。しかし、プラハ大学らの穏健派が、見るに見かねて止めに入ったため、最悪の破壊だけは免れることが出来たのである。

 穏健派と急進派の齟齬は、プラハ城の占領という栄光の中にあってさえ、先鋭化していたのであった。

 赤屋根の市街を深刻な面持ちで散策する二人の前に、整然と列をなす十人ほどの群れが現れた。その先頭に立つのは、噂のヤン・ジェリフスキーである。

 「お前たち、久しぶりだな」怪人修道士は、珍しく上機嫌に笑顔を向けてきた。今日は、軍装ではなく黒い修道服を大人しく着こなしている。

 「そうですね」弱々しく微笑んだトマーシュは、最近は大学や旧市街の参事会に入り浸りで、ジェリフスキーと顔を合わせる機会が少ないのだった。

 「ふふん、医学部教授とターボルの修道士が、カトリック派と妥協する相談をしていたというわけか?」ジェリフスキーが冷ややかに言うと、その後ろに連なる彼のシンパたちが、意味ありげな笑いを浮かべた。

 「誰に向かって物を言っているのです」ペトルが唇を引き締めた。「我々のことは、良く知っているはずでしょう」

 「ペトル、お前は知らないのだろうが、プラハ旧市街の連中は、カトリック派やジグムントと密かに連絡を取り合っているのだ。その一方で、ポーランドから新たな国王を迎え入れようと画策しておる」

 「それは、戦争を終わらせるためです」トマーシュが吐き捨てるように言った。

 「お前たちは、チェコ国内での二重聖餐さえ認めさせれば、後は元通りでも良いというのだろう」ジェリフスキーは声を強めた。「それでは意味が無いのだ。フス師やイエロニーム師の犠牲を無駄にしてはならぬ。ヴィトコフでの勝利の成果を無にしてはならぬ」

 「全ヨーロッパを敵に回すのは無謀でしょう」トマーシュは叫んだ。「どうして、あなたはそんなに焦るのです。我々の理想の正しさは、時間をかければいつか必ず全世界に伝わるはずです。ならば我々は、平和の中に生き残り、そして正しい道筋を守り続けることが大切でしょう。いたずらに戦塵の中で、命のやり取りを続けるのは危険すぎる」

  ペトルは、そしてトマーシュ自身も、その胸中に宿る信念が穏健派側にあることを知った。しかし、こうした反論は、ますます怪人修道士を猛らせるだけである。

 「甘いぞ、トマーシュ、お前は甘い」ジェリフスキーは、医学部教授に人差し指を突きつけた。「ローマ教会は、決して異端の存続を許しはしない。隙を見て、必ず撲滅を画策するはずなのだ。和平を結び、油断をしたら、そのときこそ命取りになるだろう。だから、我々は戦い続けなければならない。ローマ教会と皇帝の権威が弱りつつある今こそが、最良のチャンスなのだ」

 「でも、戦いに負けたらどうなるのです」トマーシュはひるまない。「我々は、それこそ皆殺しにされるでしょう。そうしたら、フス先生の教えを守るものがいなくなる」

 「どうして負けるのだ」ジェリフスキーは、侮蔑に満ちた笑いを浮かべた。「正しい信仰を護持する我らを、神が見捨てるはずがない。それに、あのジシュカが、ジグムントごときに遅れを取るものかよ。なあ、ペトル」

 ペトルは、目を落とした。彼は、ジシュカとターボル軍の強さを良く知っていた。しかし、怪人修道士の言い分に無条件に賛成するわけにはいかない。平和を望むトマーシュの声が、今の彼の心には、より好ましく響いたからだ。ペトルの心は、まだまだ揺れ動いていた。

 「戦うのだ」ジェリフスキーは、杖を振り上げた。「戦って戦って戦って、そして頑迷固陋なカトリック勢力を、全世界から放逐するのだ。正しい教えを、全世界に広げるのだ」

 後ろのシンパたちは、一斉に大歓声をあげた。貧しい庶民から構成されるジェリフスキーの部下たちには、失うものなど何も無いから、世直し大歓迎なのだった。

 トマーシュは、寂しげに首を左右に振った。

 板ばさみになったペトルは、静かに吐息をついて、そして抜けるように青い空を振り仰いだ。

 茶色い鳶が一羽、弧を描いて青空を横切っていく。

 そして、地表に落ちた彼の目は、無意識のうちに白いヴィクトルカの姿を捜し求めるのであった。