第二一章 英雄たちの死

 

 

 第二次十字軍に完全勝利したフス派は、自分たちの『真実』に対する自信をますます深めた。そして、この戦いでプラハ自警団を指揮したヤン・ジェリフスキーはもちろん、ターボル軍の最高指揮官ヤン・ジシュカの威信は極限にまで高まったのである。

 無敵の将軍ジシュカは、プラハ同盟の決議によって南ボヘミアにいくつかの所領を与えられ、そして「聖杯のジシュカ」と名乗ることを許された。また、ブロート戦の際に、ほとんど失明状態だったことが知られると、人々は尊敬を込めて「盲目のジシュカ」と彼を呼んだ。

 そのジシュカは、ターボルへ凱旋する路上を馬に揺られながら、自嘲気味に呟いた。

 「やれやれ、片方の眼を酷使しすぎた報いだな」

 今や完全に失明したその両眼は、黒い布でアイマスクのように覆われている。

 「しかし、たいしたものや」その隣で黒毛の馬に座乗するプロコプは、その少年のように紅潮した顔を主将から逸らそうとしない。「両目が利かないのに、神聖ローマ皇帝の大軍を壊滅させたあの戦ぶりは、前代未聞どころの話やあらへん。恐らく、有史上、空前絶後やあるまいか。アレクサンダー大王もハンニバルもカエサルも、きっとジシュカどのの敵ではあるまいよ」

 「ふん、俺を煽ててどうするよ。そういえば、ハンニバルも隻眼だったが、彼は最後には敗れ去ったんだよな。圧倒的なローマの大軍の前に」

 「・・・ハンニバルは、後方支援を受け持つカルタゴ本国が無能やから負けたのや。それに比べて我々は、プラハ同盟の賢者たちと、そして何よりも正しい信仰によって守られているさかい、ハンニバルの二の舞には絶対にならへん」

 「プラハ同盟の賢者たちか」ジシュカは笑った。「内心で困っている者も多いだろうな。本当は皇帝と和睦したくて仕方ないのに、ますます主戦派の意気があがってしまったのだからな」

 「そうかな。彼らにとっては、かえって有利な条件で和睦を持ちかけることができて、好都合になったのやないか」

 「和睦は、独裁者のジェリフスキーが決して許すまい。あいつは、この世から全ての特権階級を無くそうとしているのだから、皇帝に妥協することを絶対に肯んじないだろう。だいたいあいつは、俺がプラハ同盟から領土をもらったことすら気に入らないらしいぞ。俺が名実ともに貴族になったことが、あいつの眼には、あたかも裏切りに思えたみたいだ」

 「あの人は、少しおかしいのや」プロコプは、眉を曇らせた。

 「プラハは、きっとこのままでは収まるまい」ジシュカは、背後を振り返った。彼らが後にして来た黄金の街は、雪原の向こうに遥かに遠ざかっていた。「そして、ローマ教皇も皇帝ジグムントも、きっとこのまま引き下がりはすまい。ああ、『真実』を守るというのは、なんと難しいことなのだろう・・・」

 

 盲目になっても、ジシュカの視線は透徹していた。

 彼の予見どおり、十字軍が撃退されたわずか3ヵ月後、プラハ市は大きな政変に見舞われたのである。

 修道士ジェリフスキーのクーデターによって原理主義的な閉鎖体制に落ち込んだプラハでは、大学を中心に穏健派の巻き返しが計画されていた。地代や金利を否定されたため窮乏化した商人や貴族を救うため、ポーランドから新たな国王を迎え入れるため、そして何よりも大切な欧州世界との和睦を進めるため、穏健派に属する彼らは、狂信的で偏狭な独裁者を排除しなければならなかったのである。

 そして、そのための手段は一つしか無かった。

 1422年3月9日、修道士ジェリフスキーは、重要な案件があるとの理由で、旧市街庁舎に呼び出された。

 使者から用件を聞いたとき、新市街庁舎に巣食う彼は、甲冑を身に纏い、今まさに西ボヘミアに出陣しようとしていたところであった。急いで軍装を解き、イジー指揮下の先発隊を発向させてから、おもむろに数名のシンパを連れて旧市街へと向かったのである。

 「いったい、何の用だ。カレルシュタイン城の攻略よりも急務があるとでも言うのか?」

 家畜広場からまっすぐ北上し、城門を潜って旧市街に入る。彼の右横には、ヤン・フスゆかりのベトレヘム礼拝堂があった。白い漆喰の上に、簡素な赤屋根が載っている。

 「今やこの俺は、プラハの影の支配者だ。俺の意思に逆らっては何事も決められず、何事も動き出さない。そして、この強固な体制あればこそ、強大な十字軍を撃破することができたのだ。今や、フス師の『真実』は、この俺の行為と同義になったというわけだ」

 勝利の喜びが、胸中深く沸き起こる。

 「摂政どの、後ろをご覧下され」部下の一人が言った。

 振り向いたジェリフスキーの眼には、白い薄汚れたドレスを纏った裸足のヴィクトルカが、覚束ない足取りで歩いているのが映った。

 「気の毒な女だ」ジェリフスキーは呟いた。

 ヴィクトルカは、一行の後ろをノロノロとついてくる。通行人たちは、この奇妙な取り合わせを、楽しげにジロジロと見渡した。

 「摂政どの、良いのですか」

 「放っておけ。害はないのだ」

 「でも、どうして、我々の後をついて来るんでしょう?」

 「・・・ターボルの修道士ペトルが、昔、面白いことを言っていた。あの狂女が『真実』の象徴だというのだ」

 「それはまた、突飛な意見ですね」

 「ペトルは、なかなか見所がある男だ。でも、今や『真実』の象徴はこの俺だからな。ヴィクトルカも、それを知って、この俺に慕い寄るというわけだろう」

 「なるほど」部下たちは微笑んだ。

 やがて一行は、旧市街庁舎の門前に達した。

 「市会議員ども、また地代を復活させろだ、ポーランドから国王を迎えたいだのと並べるだろうが、この俺の中の『真実』は、その全てを否定するのみだ。全ての身分と特権を打ち破ったときこそ、初めてこの地上に生きる全ての者が兄弟姉妹になれるのだからな」

 ジェリフスキーは、部下たちと語らいながら、市庁舎の入口に入った。すると書記のヴァヴジネツが駆け寄り、重要な用談なので、一人で奥の間に来て欲しいと言い出した。

 疑いもせずに単身奥の間に入った怪人修道士は、たちまち短剣を握り締めた2名の兵士によって、左右から両腕を取られて押さえ付けられてしまった。その正面からは、十名ほどの穏健派議員が、恐々と視線を投げてくる。

 「・・・これは、どういうことだ」ジェリフスキーは、意外な成り行きに呆然とした。

 「摂政どの」痩せ肩の一人の議員が言った。「我々の案件を認めてください。地代や金利を元に戻し、外国から新たな国王を迎え入れ、そして皇帝と和平交渉を進めることを認めてください。貴族たちやプラハ大学、そしてプラハ大司教の権威を尊重してください」

 「それは出来ない」ジェリフスキーは、鷹のような視線を彼らに注いだ。「旧体制に妥協することは、『真実』ではない。全ての特権を否定し、偶像崇拝を禁止し、不労所得を撤廃した平等な世界を築き上げることこそが『真実』なのだ」

 「やはり・・・あなたが、そう言うだろうことは分かっていた。それなら、仕方がない」議員たちはため息をつき、そして兵士が襲い掛かった。

 体の前後から急所を刺された修道士は、しかし、唇の端から血を流しながらも言い放った。

 「我が肉体を滅ぼしても、我が魂は永遠に不滅だ。私の『真実』は、いつの日か必ず復活し、世界を震撼させることだろう。よく覚えておけ」

 そして、その肉体は崩れ落ちた。

 これが、フス派戦争の原因を造った男の、呆気ない最期であった。

 ジェリフスキーの部下たちが、異常に気づいて奥の間に踏み込んだとき、彼らの眼前の床には血まみれの主君が横たわっており、そして下手人たちは、裏口から既に姿を消していた。

 この「裏切り」の知らせはたちまち街を埋め尽くし、そしてジェリフスキーを慕う新市街の労務者たちは、暴徒と化して旧市街に乱入した。旧市街には、この勢いを止められるほどの兵力は無く、こうして貴族の邸宅や大学校舎が破壊され、貴重な蔵書も焼かれ、暗殺の首謀者と見なされた五名の参事会員が処刑されたのである。

 また、暴徒の一部はユダヤ人街にも乱入し、ここの家屋の多くを破壊し、ユダヤ人たちにも暴行を振るった。ユダヤ人は、穏健派の一味だと思われていたからである。

 白いドレスのヴィクトルカは、茫漠とした表情で旧市街広場に立ち、その一部始終を見つめていた。炎と悲鳴が乱舞する黄金の街の中心で、その心は何を感じていたのだろうか。

 

 一方、プラハ西方に位置する皇帝方の拠点、カレルシュタイン城の攻略に向かったイジーの部隊は、首都の異変を知って道半ばで引き返した。彼は状況を把握すると、直ちに暴徒を宥め、そして市内の治安維持に尽力したのである。

 イジーたちの努力の甲斐もあって、暴徒たちはその興奮状態が覚めると、たちまち新市街に退去して正業に帰って行った。そして、ジェリフスキー亡き今、無教養者の多い急進派に、もはや市政を司る能力は無い。こうして、プラハの市政方針はプラハ大学を中心とする穏健派の指導下に置かれたのである。

 結果論として言うならば、穏健派のクーデターは大成功だったと言えようか。

 「これで、『真実』の大きな柱が倒れてしまった」市内の復旧工事の打ち合わせでプラハ大学を訪れたイジーは、親友のトマーシュに語った。「ジェリフスキーは、いつもやり過ぎだったけど、この運動にとって大切な人だった」

 「まさか、こんなことになるなんてな」トマーシュは、途方に暮れた眼差しを、窓越しに、放火の余燼が煙る旧市街庁舎の方に向けた。

 「トマーシュ、君は、このクーデターにどこまで関与していたんだ?」

 「コランダ大司教とプシーブラム先生が、陰で密談を交わしているのは知っていた。でも、まさか命を奪うとは思わなかった。神の教えに積極的に背くとは思わなかった」トマーシュは、憔悴しきった表情で言った。

 「それなら、やはりプシーブラム先生には、辞めてもらうしかないな」

 「どうして」

 「穏健派の誰かに責任を負わせないと、納まりがつかなくなるだろう。新市街の連中も、またいつ暴れ出すか分からないぞ。ここは、喧嘩両成敗でいかないと」

 「なるほど」トマーシュは、弱々しくうなずいた。「先生方に提案してみるよ」

 二人は、半壊状態の大講堂の中で、低い声で密談しているのだった。

 「・・・ユダヤ人街は、相当にひどいことになっていたな」イジーは、吐息をついた。

 「ヤコブとクララの家も、跡形もなく壊されていた。二人の姿は見当たらなかった。きっと、市外に退去したんだろう」痩せた医学部教授は、頭を抱えた。「もう二度と、ユダヤの人々を辛い目に遭わせたくなかったのに」

 「・・・愚かなことだったよ。結局、ジェリフスキーを殺すことは無かったんだ。せめて、幽閉するなり何なり、手はあったはずだろう」顔をそむけたイジーは、親友の泣き顔を正視できなかった。

 「この犠牲を無駄にはできない」トマーシュは顔を上げた。「何としても和平を実現させなければ・・・」

 「そうだな。第二次十字軍の完敗で、皇帝は相当参っているはずだ。きっと応じてくるさ」イジーは、親友の肩を優しく叩いた。

 

 イジーの推測どおり、神聖ローマ皇帝ジギスムントは、今や完全に戦意を喪失し、フス派との和解に積極的になっていた。彼は、武力よりむしろ、外交の力で事態を解決しようと図ったのである。

 しかし、ローマ教皇マルティネス5世は強気であった。彼は和平への道を断固として拒否し、そして第三次異端撲滅十字軍の動員を開始したのである。頑迷な彼は、あくまでも武力でフス派を殲滅しないと気が済まないと言うのだ。

 「戦下手のジギスムントにはもはや頼らぬ。今度の十字軍は、ブランデンブルク辺境伯ら、ドイツ方面軍のみで行うのじゃ」教皇は、豪奢な紫の法衣の下から声高に命じた。教皇特使たちは深く一礼すると、ドイツ各地に旅立って行ったのである。

 フス派の最大の敵・ローマカトリック教会は、全ヨーロッパを支配する超巨大勢力である。物的にも精神的にも、欧州全土を統括する絶対権力である。そんな彼らが、神聖ローマ皇帝が二度ほど痛棒を食らっただけで屈しようはずがなかったのだ・・・。

 かくして、フス派戦争はますます過酷さを増していく・・・。

 

 この年の6月、リトアニアから国王代理のコリブリート卿がプラハに到着した。

 プラハ旧市街を中心とする穏健派は、かねてより、秩序の回復のため、ポーランドかリトアニアから新たなチェコ国王を迎え入れるべく準備していた。白羽の矢が立ったのは、ポーランド国王ヴラディスワフ一世であったが、この人物は、高度な政治的思惑から、遠縁に当たる青年コリブリートを国王代理として先遣したのである。

 プラハ大司教や大学関係者たちは、この青年を暖かく出迎えた。これは、王権を完全に否定するジェリフスキーを排除した成果の一つであろう。しかし、ジェリフスキーの死後もプラハ新市街に根強い勢力を維持する急進派は、この人物に強い疑いの眼差しを向けた。カトリック信仰のリトアニア人が、フス派のチェコ人のために働いてくれるとは思えなかったからである。

 しかし、この若き国王代理は、フス派に対してたいへん好意的であった。彼自身、カトリックの腐敗に憤りを感じていたからである。そんな彼は、急進派の人々の不信感を感得すると、直ちに新市街の自警団を集め、カレルシュタイン城の攻略に向かった。この堅城を落とすことで、彼の真摯さを分かってもらおうとしたのである。

 国王「代理」とはいえ、王族の血をひくコリブリートの貫禄は、寄せ集めのフス派市民軍を見事に統率した。また、ドイツ騎士団相手の実戦経験も豊富なこの青年は、ジェリフスキーなどとは比べ物にならない戦闘指揮能力を発揮したのである。

 長期にわたる粘り強い包囲戦ののち、カレルシュタイン城は陥落し、中部ボヘミアの皇帝方の拠点は消滅した。

 この顛末を見て、プラハ新市街の急進派は、ようやくコリブリートに信頼の気持ちを抱いたのである。ターボルのジシュカたちも、この様子を知って安堵した。有能で、フス派に好意的なコリブリートに任せておけば、きっと我々に有利な講和を締結してくれるだろう・・・。

 しかし、和平工作は想像以上に難航した。

 前述の通り、皇帝や諸侯など、いわゆる世俗の君主たちは、フス派の手ごわさを良く知っていたので、彼らと和平を結ぶことに異存は無かった。特に、皇帝ジギスムントは、東方から鳴り響くオスマントルコの戦鼓の音に神経を鋭く尖らせていたので、チェコ方面の軍事的圧力を少しでも軽減させたい心境だったのである。

 だが、教皇は絶対に妥協を許さなかった。1422年6月、ついに「第三次異端撲滅十字軍」を発動したのである。この十字軍は、ドイツ諸侯を中心とした総勢2万。ドイツ南部からチェコ西部に攻め下り、たちまちプルゼニに達した。この情勢に、チェコ西部のカトリック派貴族たちも、再び反フス派の旗幟を鮮明にした。

 しかし、この軍勢の中に皇帝ジギスムントの姿は無かった。皇帝は、ハンガリーに残ってオスマントルコとの対決に備える必要があったからである。もちろん、彼自身「もうチェコとの戦争は懲り懲り」と思っていたことだろう。

 「盲目のジシュカ」率いるターボル軍は、ただちにこの十字軍を迎え撃とうとした。しかし、プラハのコリブリートからの書状が、彼を止めた。

 「あの国王代理、目の不自由な老人には苦労をかけられないなどと、可愛いことを言って来おったぞ」ジシュカは、書状を仲間たちに見せてから低く笑った。「もっとも、俺だって、もう殺戮には厭きた。ここは、若造のお手並み拝見と行こうか」

 しかし、コリブリートの戦略は、大方の予想を裏切るものであった。彼は、和平を奨める書状を敵陣に向けて乱発し、さらに母国リトアニアに依頼して、ドイツ方面への軍事的圧力を強める措置を講じたのである。

 プルゼニを攻略してここに入城していた第三次十字軍は、こうした心理作戦に大いに動揺し、せっかくの戦利品を手放して三々五々、母国へと引き上げていったのである。彼らは、もともと教皇の命令で仕方なく出陣して来た軍勢だし、皇帝ジギスムントというカリスマ的権威も欠いていたので、士気も高くなかったのだろう。

 「あの若造の奴、ノコノコと深入りして来た敵を、どうして撃滅しなかったのだ」ターボルのジシュカは、この知らせを聞いて舌打ちした。「生かして帰した以上、ドイツ人どもは、きっとまた攻めて来るぞ・・・」

 「戦わずに勝てたのですから、そんなに怒ることはないでしょう」たまたまコトノフ砦を訪れていたペトルは、ジシュカの怒りの意味が理解できなかった。

 「ふん、コリブリート卿は、どうやら平和的な外交で事態を解決しようとしているようだが、歳が若いだけに考えが甘い。我々が対決しているローマ教皇庁は、道理が通る相手ではないのだぞ。奴らを屈服させるためには、究極の恐怖を味わわせるしかない。例えば、カトリック信者どもの大量殺戮を・・・」

 「そうでしょうか?もう十分なのでは?」

 「ハンガリー人とオーストリア人には十分だが、ドイツ人にはまだまだだ。ドイツ人どもを屈服させないかぎり教皇の妥協は有り得ず、従ってこの戦争も終わることはないだろう」

 「なるほど」ペトルは俯いた。辛いことだが、ジシュカの言うとおりに違いない。

 強固な既得権益を有する巨大な官僚組織に、その本質的な誤りを認めさせるのは、想像を絶するほどたいへんな仕事なのである・・・。

 案の定、コリブリートの和平策は不調に終わり、また、彼の母国リトアニアで親ドイツの政権が発足したため、リトアニアでのフス派シンパの政治的立場は急激に悪化してしまった。

 これは、皇帝ジギスムントの巧みな外交政策の結実であった。皇帝は、武力ではなく外交の力でフス派を弱めようと画策していたのである。

 こうして1423年、母国から帰還命令を受けたコリブリートは、多くのチェコ人に惜しまれつつ、後ろ髪を引かれながら母国に帰って行ったのである。

 有能なリーダーを失ったチェコのフス派は、こうして再び混沌へと陥って行った・・・。

 

 1423年に入ると、ターボルで奇妙な事件が起きた。

 あのヤン・ジシュカが、ターボル市を離れ、近郊のフラデッツ市に移住したのである。表向きは、フラデッツ市を急進派の新たな拠点に変えるためということだったが、実際はターボル市内での止めどない神学論争に嫌気が差したためであった。

 「ターボルでは、当初の理想が失われた」ジシュカは、別れを告げに来たペトルに語った。「今や農民から公然と地代を取るようになった聖職者たちは、いつ果てるとも知れない議論に夢中になっている。こんな状況では、俺が理想とする『無敵の精鋭部隊』の練成は無理だ。だが、聞く所では、アンブローシュ師のオレープ派は、今でもフラデッツ市で当初の理想を守り続けているという。俺は、アンブローシュ師とともに新たな理想を生きようと思うのだ・・・」

 ジシュカの左右には、パヴェクとオチークが笑顔を浮かべて立っていた。

 その後ろには、ズタ袋を背負ったトチェンプロッツもいる。大泥棒は、心服していたジェリフスキーの横死後、プラハを離れてターボルに移住し、何となくジシュカの周囲にいるのであった。

 「ペトル、お前も来たければ来てもいいんだぞ」ずんぐりのパヴェクが優しく言った。

 「あなたたちは、フラデッツに軍隊を育成しに行くのでしょう。だったら、私には無縁のことです。私は、人々に神の言葉を伝え、学問を伝えることに生きがいを感じているのですから」ペトルは、柔和な笑顔を絶やさずに応えた。

 「そうか、残るのは勝手だけど、悪い水に染まるなよ」のっぽのオチークは、修道士の肩を二度叩いて激励した。ペトルは、当初のターボルの理想を守り、相変わらず時耕して清貧な暮らしを送っていたのである。「まあ、お前なら大丈夫だろうが」

 「あなたたちも、体に気をつけて」

 「ははは、軍人に向かって言うセリフじゃねえな」両目に黒い眼帯を巻いたジシュカは、聖杯の刺繍をほどこした黒いマントを翻しつつ、からからと笑った。

 「でも、ペトルさんらしい心遣いや」トチェンプロッツも、乱食い歯を見せて微笑んだ。「その気持ちを、いつまでも大切にしてえな」

 ジシュカたちが去った後、ターボル軍を率いるのはプロコプとなった。彼は前任者の名を汚さぬように刻苦精勤に励んだので、ターボル軍の士気はますます高まったのである。

 一方、フラデッツに着任したジシュカは、この地で純粋な若者を大勢徴募し、これに厳しい訓練を課すことによって、恐るべき精鋭軍を築きつつあった。

 ところが、そんな矢先、大事件が勃発した。

 チェコ西部最大の貴族ロジュンベルク家が、周囲の貴族たちを語らって、再びカトリック側に寝返ったのである。

 この大貴族は、もともと、チェコ全土の三分の一を領有するカトリック教会の領土を奪い取るためにフス派に組していた。そして、その目的が十分に達成された今、この貴族は全ヨーロッパから異端呼ばわりされていることに堪えられなくなったというわけだ。

 事もあろうに、プラハ市がこれに加担した。一刻も早い和平を望む穏健派の要人たちは、このカトリック側の貴族をパイプにすることで、旧体制に妥協しようと考えたのである。

 もちろん、急進派がこのような動きを黙認するはずがない。新市街のイジーから連絡を受けたジシュカは、直ちにフラデッツとターボルの全軍を召集した。

 「ついに、同胞が相争うことになったか」

 自嘲気味に呟くジシュカ率いる急進派連合軍は、立ち向かう敵貴族の軍勢を撃破しつつ、いよいよプラハ南郊に迫った。その軍勢に、新市街自警団を率いるイジーたちプラハ急進派が合流する。

 「イジーよ、お前、穏健派のトマーシュたちと戦う勇気があるのか」ジシュカは怪訝そうに問うた。「ペトルは、それを嫌がって、今回はターボルで留守をしているのだぞ」

 「トマーシュは、敵軍の中にいません」イジーは、唇を噛みながら答えた。「ロキツアナ先生(先年病没したヤコウベクの後継者)やトマーシュたちは、カトリック派との妥協に反対したために軟禁されています。つまり、あそこにいるプラハ市の敵手は、コランダ大司教とプシーブラム先生なのです・・・」そう言って、今しも南の城門を出て集結を始めた穏健派軍を指差した。

 「そうか、プシーブラムのやつ、最大のライバルだったジェリフスキーが死んだため、慢心して増長したというわけか」ジシュカは低く笑った。「もともとカトリック派だったコランダはともかく、プシーブラムの奴は、きっと寝返りを働いたつもりは無いのだろうな。彼は彼なりに、一刻も早い平和の回帰こそが、この国のための『真実』だと思い込んでいるのだろうな。妥協こそが『真実』だと思い込んでいるのだろうな」

 「平和には賛成です。でも、妥協はいけない。妥協による平和を勝ち得たら、これまでの犠牲や苦労が無駄になるのは目に見えている」

 「そのとおりだ、イジー」ジシュカはうなずいた。「奴らの眼を覚まさせてやらねばな」

 オルトシフ卿の軍勢を中核とした穏健派は、プラハ南郊に出陣しては見たものの、その士気はあまり奮わなかった。彼らとて、本当は仲間同士の争いは嫌なのである。それ以上に、急進派の陣頭に翻る聖杯の旗とジシュカの紋章によって、猛烈な威圧感を受けていた。

 「ヤン・ジシュカは、完全に失明したのではなかったか」オルトシフ卿は、怪訝そうに部下たちを振り返った。

 すると、黒毛の悍馬にまたがったジシュカが、長いマントを翻しつつ陣頭に飛び出してきた。その両眼には、黒いアイマスクがかけられている。しかし、その軽快な身のこなしは、視力障害をまったく感じさせないものだった。

 「奴は神の分身か、それとも怪物か・・・」オルトシフ卿の顔面は蒼白となり、穏健派の戦意はガタガタとなった。

 続いて展開された光景は、戦闘とは言えないものだった。突撃してきた急進派軍の前に、穏健派軍は逃げ惑うのみだったからである。

 勝負は、一瞬にして着いた。オルトシフ卿は、プラハを見捨て、西ボヘミアへの所領へと逃げ出したのであった。

 「さあ、プラハに入城しましょう」プロコプが、守る者の無くなった城門を指差した。「今日からは、ジシュカどのがこの街の支配者ですぞ」

 「・・・いや、それは止めて置こう」

 「なんでや」

 「もう十分だ。この一戦で、妥協派の威信は完全に失墜したはずだから、これからロキツアナやトマーシュたちが動き出して改革をすることだろう」

 「でも、ジシュカどのが、コリブリート卿の代わりにプラハを支配する方が、この国のためになるのではありまへんか」

 「王にでもなれというのか?ふふふ、それは俺の柄ではない」ジシュカは、かすかに光を感じ取るだけの道具と化した両目を、晴れ渡る青空に向けた。「俺の中にある『真実』の国は、独裁者が暴力で支配する社会ではない。全ての人が、各人の心中の『真実』を磨きあって互いにぶつけ合い、理解と協調の道を選んでいける社会なのだ」

 「ジシュカさん」イジーが横から口を挟んだ。「俺もそう思います。それこそが、フス先生の言われた『真実』だと思うのです。ペトルやトマーシュも、この場にいたなら、きっと俺と同じ意見でしょう」

 「『神の戦士』か」ジシュカは笑った。「ジェリフスキーが死んで、かえって纏まりが良くなったかな」

 「でも、それは絶対権力を否定する考え方なのやから、ジェリフスキーどのにも通じるものがあるで」斥候として従軍していたトチェンプロッツが、背後から言った。

 「なるほど、それも一理あるな。俺とジェリフスキーは、手段は異なっていたけれど、考え方の根っこは同じだったのだ」ジシュカは、寂しそうに呟いた。「・・・なんだか、無性にあいつに会いたくなって来た」

 一同は、弱々しくうなずいた。

 盲目の名将は、戦後処理をイジーたちプラハっ子に一任すると、直ちに全軍を南ボヘミアに転進させた。フラデッツとターボルで休養を終えたこの軍勢は、その鋭鋒をロジュンベルク家に向ける予定であった。

 しかし、モラビアにオーストリア軍が侵入したために、当初の予定は変更された。ジシュカ率いる急進派連合軍は、唸りをあげてその進路を東に取ったのである。

 「ヤン・ジシュカの奴め、盲目になって却って強くなったのは、いったいどういうわけなのだ」強敵の接近を知ったオーストリア大公アルブレヒトは、ネメツキー・ブロート戦での悪夢を思い出して震え上がった。彼は、直ちに軍を纏めてウイーンへと撤退して行ったのである。

 「これで良い」ジシュカは、チャースラフ市でその報を聞き、満足げに呟いた。

 風の噂では、プラハでは、急進派寄りの大学教授ロキツアナらが中心となって市政を掌握し、体制妥協派のプシーブラムらは2年間の追放処分になったという。

 「これで再び、我々は一枚岩となった」盲目の将軍は、チャースラフ市庁舎の寝台に横たわっていた。高熱による悪寒がひどい。どうやら、チフスに冒されたようだ。

 「早く良くなってください」プロコプが心配そうに注ぐ視線が、熱をもつ肌に刺さる。

 「俺ももう55だ。この病状を乗り切れる体力はもう無いだろう」

 「あなたらしくない。そんな弱気な」従軍修道士ペトルは、鋭い声で叱咤した。

 「これ以上生きて、いったいどうするのだ」ジシュカは笑った。「俺に出来ることは全てやり終えた。後は、お前たちのような若者に託せばそれでいい」光を失った双眼は、窓の外に向けられた。「フス師も、きっと俺の働きに満足してくれたことだろう・・・」

 かすかに笑みを含んだままで瞳は閉じられ、そして二度と開くことは無かった。

 プロコプとペトルは、嗚咽を押さえながら立ち尽くした。

 時に、1424年10月11日。

 史上最も有能な軍人の魂は、天高くへと舞い上がった。

 かつてヤン・フスが言葉と文字で広めた『真実』を、ヤン・ジシュカは、剣と銃の力で守り抜いて逝った。

 プロコプとペトルは、やがて涙を拭いて手を取り合い、偉大な人の亡骸を見つめた。遺志を受け継ぐ者たちの真価は、これからいよいよ発揮されようとしていたのである。