第二二章   偉大なる遠征

 

 

 その後の数年は、再編成の歳月であった。

 これまでフス派を率いてきたジェリフスキー、プシーブラム、そしてジシュカを失ったチェコでは、若々しい第二世代の台頭が著しかった。

 プラハ市では、急進派に理解のあるヤン・ロキツアナ教授を中心に、あくまでもカトリック勢力に徹底抗戦する決意を漲らせていた。その傍らでは、イジーやトマーシュが補佐の任についていた。

 一方、ターボルとフラデッツでは、プロコプが全軍の司令官に就任し、ジシュカ譲りの強大な武力をさらに研ぎ澄ませていた。修道士ペトルらが、そんな彼を補佐していた。

 なお、フラデッツの軍隊は、ジシュカの死を悲しむあまり、自分たちのことを「孤児(シロッティ)」と呼ぶようになった。それゆえ、この小説の中でも、これからフラデッツ軍のことを「孤児軍」と呼ぶことにしよう。

 このような情勢を前に、西ボヘミアに蟻集するカトリック派貴族勢力も逼塞を余儀なくされ、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝ら外国勢力も、オスマントルコの攻勢に直面したため、チェコの異端問題を放置するしかなかったのである。

 

 1426年の初秋、プラハ新市街のイジーが、ターボル市にペトルを訪れた。

 三十代半ばになったイジーは、妻マリエと7歳になった息子ヤンを伴い、市民教会の執務室で、大きな机を挟んで旧友と向かい合った。

 「何年ぶりだろうね」ペトルは、眼を輝かせた。その黒い僧服は、もう随分とくたびれており、無精ひげも伸び放題である。

 「うん、ジシュカどのが死んだ年に、プラハ郊外で挨拶したっきりだから、もう2年になるかな」イジーは、すっかり日焼けして、いかにも精悍な武人といったところだ。

 「あたしとは、もう6年ぶりよ」マリエが、ふっくらした頬を綻ばせた。「最初の十字軍が攻めてきたときに、プラハで会ったきりだもの」

 「君は、そのときまだ赤ちゃんだったね」ペトルは、母親の隣でモジモジしているヤン少年に微笑みかけた。

 少年は恥ずかしそうに母親を見て、それから修道士に視線を移し、それからその隣に座る同い年くらいの少女を見た。

 金髪のおさげ髪の痩せた少女は、さっきから一言も口を利かず、じっと椅子に腰掛けたままテーブルの上を見つめていた。

 「ルティエ、お客さんに挨拶しなさい」ペトルは、少女の後頭部を優しく叩き、そしてイジーたちに微笑んだ。「この娘は、口が利けないんだ。孤児なので、私が引き取って育てている」

 「なんだ、てっきり、ペトルの娘かと思ったよ」白い歯を見せたイジーは、隣に座る妻に頭のてっぺんを叩かれた。

 「イジー君、ペトルさんを、カトリックの悪徳坊主と一緒にしちゃ失礼よ」

 「すまん、すまん」夫は、口髭の間から舌を出した。「茶目っ気だよ」

 「しかし、マリエさんは相変わらずだねえ。いや、良い意味で言っているんだが」ペトルは苦笑した。

 「ママは、いつもパパを虐めているんです」ヤン君が、真顔で言った。

 「パパはな、いつも家の外で悪い奴らを虐めているからな、家の中では虐められていたいのだよ」イジーは息子に向かって胸を張った。

 「なによそれ、本当にいつも虐められてるみたいじゃない」

 「だって、それが『真実』じゃないか」

 「もお、ペトルさんの前で恥ずかしいわ」

 「あはは、マリエさん。今さら、格好つけても始まらないよ」ペトルは笑った。

 そんな中で、少女ルティエは、不思議そうに大人たちを見回していた。

 

 ボヘミアの森は、キノコの名産地だ。

 ペトルとイジーは、それぞれの家族を連れて、セジモヴォ・ウースチーの深緑の中に分け入った。

 「やはり、スープにするべきだろう」

 「いやいや、油でサッと炒めてソテーにするのさ」

 ペトルとイジーが難しい顔でキノコの調理法を論じている間、二人の子供を連れたマリエは、随分と先に進んでいた。ふと顔をあげると、木漏れ日の隙間を通して見える小高い丘の上で、一頭のノロジカが、大きな角を振り上げつつこちらを見つめていた。

 「ママ、あれは何」ノロジカを初めて見るヤンは、驚いて母親を振り返った。

 「森の聖霊よ。あの立派なシカたちが、この大きな森を悪魔から守っているの」

 「僕たちを悪魔だと思わないかな」

 「ルティエちゃんは平気だろうけど、ヤンはどうかなあ。良い子にしてれば大丈夫よ」

 マリエの後ろを歩いていたルティエは、初めて母子ににっこりと微笑みかけた。

 「最近、ヤマネコが増えてね」早足でマリエに近づいていたペトルが言った。「シカの数も昔に比べて減っているんだよ」

 「えっ、それ、どういうこと?」ヤンは、びっくりして修道士を振り返った。「悪魔が強くなってるの?」

 「・・・ちょっと違うけど、そういうことかな」

 「たいへんだ」

 「それは何とも言えないね。シカがあんまり増えすぎると、苔が減って森が弱ってしまうから、それも良くないんだ。ヤマネコが増えたのは、神様がそれを心配してバランスをとったのかもしれないね」

 「森の神様の他にも神様がいるの?」

 「神様違いだよ。森の神様は、神様の代わりに森に棲んでいる聖霊様なんだ。本当の神様は、空のずーっと高いところから僕たちを見守ってくれるんだよ。ヤンくんとルティエは、生まれてすぐにパンと葡萄酒の二つを用いて秘蹟を受けているから、オジサンたちよりずっと神様に近いところにいるんだから、感じ取れるはずだけどな」

 「僕には、全然分からないよ」ヤンは肩を竦めてルティエを見た。「ねえ」

 ルティエは、静かに微笑み返した。

 「あっ、こんなところにマイタケ発見」そのときマリエが、頓狂な声を出して木の根元を指差した。彼女を先頭に立てた子供たちは、歓声をあげて飛んで行く。

 そんな様子を優しく見守りながら、イジーは言った。

 「あのルティエちゃんは、どうして口が利けなくなったんだい。プラハで治療を受ければ、治るのだろうか」

 「多分無理だろう。トマーシュにも手が負えないさ」ペトルは空を仰いだ。「あの娘は、アダム派の生き残りなんだよ」

 「アダム派・・・5年前にジシュカによって撲滅された異端集団か」

 「従軍していた俺は、アダム派の村で、母親の死骸に抱かれた幼児を助け出した。それがあの娘だ。口が利けなくなったのは、恐らく、そのときのショックのためだろう」

 「可哀想に・・・」

 「でも、これからああいう不幸な娘が増えていくのだろうな」

 「悲しいことだが、『真実』のためには仕方ないさ」

 「イジー、本当に、今度の遠征は神の正義なのだろうか。『真実』なのだろうか」

 「俺は、そう信じているよ」

 「なあイジー、恥ずかしい話だが、俺はもう何年もターボルで修道士を務めているけれど、いまだに『真実』に辿り着けていないんだ。君は、自分なりの『真実』を見出すことが出来たのかい」

 「俺はね」イジーは、ペトルの顔をずっと見つめた。「考えることを止めにしたんだよ」

 「・・・どういうことだ」

 「ユダヤ人のヤコブとクララ・・・彼らは、いまだにプラハには帰って来ないけど・・に教えて貰ったんだ。本当の信仰とは、頭で考えてはいけないものなのだと。ここで」彼は自分の心臓を指差した。「魂で、じかに感じるものなのだと」

 「ヤコブとクララは、そんなことを言ったのか」

 「そうとも、『真実』とは、一人一人の心の中に沸き起こる真摯な気持ちを大切にすることだとフス先生は言われた。そして、俺にとっての真摯な思いは、ローマ教皇を屈服させて、ヨーロッパの全ての人たちにこの『真実』を分かち合ってもらうことなのだ。俺にとっての『真実』は、戦いの中にこそある」

 ペトルは、ほっとため息をついた。

 「どう思うんだい、ペトル」

 「分からない。でも、君が正しいと思うこともある」

 「お前は、またいろいろ考えているな。考えすぎるのは良くないぞ」

 「自分でも、時々そう思う」

 そのとき、ヤンの声が木霊した。

 「パパ、ペトルおじさん、そんなところで何やってんの。こっちにおいでよ。ソテーとスープが、お腹一杯食べられるくらいあるよ」

 それに続いて、幼い少女の笑い声が木霊した。

 「あんなに明るいルティエの声を聞いたのは初めてだ」ペトルは、満面の笑顔を浮かべながら、親友とともに足を速めた。「みんなに来てもらって良かった」

 この二人は、これからドイツに侵攻する遠征軍に従軍する運命にあった。

 

 これに先立つ1426年6月、第四次異端撲滅十字軍がドイツ東部より侵攻を開始した。ブランデンブルク辺境伯フリードリヒを最高指揮官とする5万の大軍は、ジシュカを失ったフス派軍など鎧袖一触だと思い込んでいたのである。

 しかし、亡きジシュカの本当の強さは、彼個人の戦闘指揮能力によるものでは無く、その卓抜した組織編制能力にあった。そして、ジシュカが遺した「近代的野戦軍」は、未だに健在なのである。

 ボヘミア北部に侵攻した5万の大軍は、プロコプの巧みな軍略によってウースチー・ナド・ラベムの丘陵地帯に誘き寄せられ、そして待ち構えていたフス派全軍4万による挟撃を受けた。

 丘陵のいたるところに設置された車砦と、途切れることなく撃ち続ける銃砲の前に、十字軍は「ドイツ人の死体が、麦藁のような有様で地平線の彼方まで散乱した」と言われる壊滅的な大敗を喫し、ドイツに向けて壊走し去った数少ない生き残りは、フス派軍の筋金入りの強さを、再び身をもって思い知らされる結果となったのである。

 なお、この戦いには、リトアニアのコリブリート卿も私兵を引き連れて参戦し、フス派の勝利に大いに貢献してくれた。プラハの市議会はこれを大いに喜び、そしてコリブリートを新たなチェコ王に選出しようという機運が高まったのである。

 コリブリート卿は、この動きを見て、さっそく教皇庁との和解工作に着手したのだが、今度は、戦勝の波に乗るチェコの急進派がこの動きを歓迎せず、コリブリートは、またもや失意のうちに母国に帰って行った。

 彼は、1435年、ドイツ騎士団との戦いの中で、母国の土となる。

 

 さて、チェコ人が、今でも誇りをもって口にするスパニレー・イーズデー、すなわち『偉大なる遠征』は、さまざまな要因が絡み合って実現されることになった。

 第一の要因は、チェコ国内での内戦が終息し、急進派寄りの一枚岩の体勢が完備されたことにある。すなわち、大軍を長期集団運用することが可能になったのである。

 第二の要因は、遠征こそがこの戦争を終わらせる早道と思われたためである。すなわち、カトリック派諸国の軍勢をヨーロッパ各地で打ち破って自分たちの強さをアピールすれば、神の『真実』であるフス派の理想が広まるだろうし、また、ローマ教皇庁を和平のテーブルに引き出せるだろうと思われたのである。

 第三の、そして最大の要因は、実は経済的な事情にあった。

 ヨーロッパの中央に位置するチェコは、古くから商業立国であった。しかしながら、フス派戦争の勃発と共に教皇庁による経済封鎖を七年にもわたって受け続け、その経済的な困窮は日を追って深まるばかりだった。それなら、生活全体のダウンサイジングを計れば良いような気もするが、何しろ慢性的な戦時体制を維持しなければならないのだから、その出費は、減るどころかむしろ年々増加していた。特にフス派の軍隊は、車砦や銃砲を大量に用いる「カネのかかる軍隊」であったから尚更だ。

 こういった収支バランスの皺寄せは、必然的に、農民たちの双肩に被さって行く。農民から徴収される地代のレートは、毎年のように上昇の一途を辿っており、いつしか戦前の聖職者による搾取の水準を上回っていたのである。

 当初の宗教的情熱が冷めたあと、農民たちはこうした状況を見て愕然とした。いったい、何のための革命だったのか?何のための『真実』なのか?いつしか農民たちの不満は、チェコ全土で看過出来ぬ水準にまで達していたのである。

 この苦境を打開する唯一の手段は「戦闘」であった。神聖ローマ帝国やローマ教皇といった外敵との戦いを積極的に推進すれば、こうした農民たちの不満を外部に転嫁できるであろう。また、あまり大きな声で言えないことではあるが、外国から略奪を行い、これを軍費に宛がう事が出来れば、農民たちの経済的負担も軽減されるはずであった。

 かくして、全フス派連合軍による敵地への大遠征が、実現の運びとなったのである。

 プロコプを総司令官としたフス派連合軍は、歩兵4万、騎士3千5百、銃砲2千の大軍であった。

 プロコプは、もうすぐ40になろうというのに、いつまでもつやつやとした少年のような顔立ちでいることから、全軍からホリー(髭なし)という渾名を頂戴している。好んで聖職者の纏うガウンを身に付ける彼は、闊達無類の人柄で的確な陣頭指揮を行うことから、兵士たちのみならず貴族たちからも深く信頼されていたのである。

 「最初の標的は、シレジェン(現ポーランド西部)とラウジッツ(現ドイツ東部)です。ポーランドとリトアニアの国王が、補給の援助をしてくれる手はずなので、皆さん、遠慮せずに思い切り暴れてください」プラハ旧市街庁舎の会議室で、紅顔の司令官は、士官や貴族たちに深みのある声で語るのだった。

 1427年5月、国境を押し開いたチェコの大軍は、嵐のような勢いでドイツ各地を席巻した。

 神聖ローマ帝国に属する諸侯は、まさかチェコ軍の方から攻めて来るとは夢にも思わなかったので、その防備はまったく不十分だった。たちまち各個撃破され、諸都市は蹂躙されて放火されたのである。

 大いに驚いたドイツ諸侯は、ブランデンブルク辺境伯を中心に迎撃態勢を整備。しかし、再侵攻してきたフス派軍の前に連戦連敗を喫したため、多くの諸侯が降伏し、多額の義捐金と引き換えに所領の略奪を免れるという有様であった。

 プロコプは、これらの戦利品を車砦に積んでプラハで凱旋式を行うと、その年の12月に、そのままハンガリーへと進軍を開始したのである。ドナウ沿岸の諸都市はたちまち灰塵と帰し、上部ハンガリーの大都市ブレスブルク(現在のスロヴァキアの首都ブラチスラバ)も陥落した。ブダ王宮に陣する神聖ローマ皇帝ジギスムントをはじめ、ハンガリーの騎士たちは、小部隊となって散開し、ゲリラ戦を挑むしか対抗手段が無かったのである。

 「偉大なる遠征」は、その後もドイツ、ポーランド、ハンガリー、オーストリアに対して繰り返し敢行されたのだが、その戦績は文字通り連戦連勝であった。フス派軍の異常なまでの強さを前に、欧州各地の封建諸侯は、貢物を拠出して和を請う以外の選択肢を持っていなかったのである。

 1428年5月の遠征では、下部ラウジッツとバイエルンの諸都市が灰塵と化した。

 同年8月の遠征では、リヒテンシュタインと上部ラウジッツが、同じ運命にさらされた。

 1429年の遠征では、オーストリア全土が猛攻を受け、ウイーンですら、かろうじて陥落を免れる有様であった。

 同年12月の遠征。このときの遠征軍はドイツ各地に進撃し、ドレスデン、ミュンヘン、ライプチッヒ、バンベルク、ニュルンベルクといった大都市もフス派軍の膝下にくだった。

 この情勢を深く憂慮したブランデンブルク伯は、プロコプに会見を求め、1430年2月、べハイムシュタイン条約が成立した。すなわち、ドイツ諸侯は、莫大な賠償金の支払いを条件にフス派遠征軍と和平を結んだのである。

 このころ、遠征軍司令官プロコプは、急進派代表という地位にありながら、フス派戦争の終結のチャンスを常に模索していた。この会議中にそれを知ったフリードリヒ伯は、翌年開催される予定であったニュルンベルク公会議にプロコプを招待した。フス派に、完全に自由な発言権を与えると言うのである。

 プロコプは、大いに喜んだ。度重なる遠征の成果が、ここに来てようやく実ったという形だ。しかし、教会側の内部事情で、翌年のニュルンベルク公会議は開催されなかったので、この和平策は、結局、ご破算になってしまったのが残念である。

 それでも、遠征から帰還したフス派軍は、3千両の荷馬車に金銀財宝を積んで、プラハ市内を凱旋行進したと言われる。

 1430年3月の遠征では、コリブリート卿らポーランド、リトアニア、ロシアの軍勢がフス派に参加し、この東欧連合軍は、東プロイセンのドイツ騎士団領を縦横無尽に荒らしまわった。精強を誇るドイツ騎士団も、この怒涛を前にしては、頭を隠して逃げ回ることしか出来なかったのである。

  ところで、カトリック国であるポーランドとリトアニアらがフス派に加担した理由は、彼らは古くからドイツ諸侯と政治的な対立関係にあったので、この際、フス派の戦力を利用してドイツ人を弱めてやろうとの打算によるものであった。フス派も、それを知りつつ彼らを利用していたのである。宗教的情熱は、ここではあまり関係なかった。

 この当時、カトリック教徒の母親が「良い子にしていないとフス派が襲って来るよ」と言うと、どんな我儘な子供でも大人しくなったと言われている。

 それにしても、フス派軍の異常なまでの強さは、いったいどこに起因するのであろうか。

 もちろん、車砦や銃砲といった新兵器を多用したことが大きい。しかし、それよりも重要なのは、フス派軍は「近代的な常備軍」だったという点であろう。

 カトリック諸侯の軍隊は、封建騎士たちの集合体であった。すなわち、自前の領土を持つ貴族たちが、配下の騎士や傭兵を徴募し、身銭をきって軍需物資を用意した上で、例えば神聖ローマ皇帝のようなリーダーの下に集まって行くのである。この方式だと、事前の根回しに十分な時間をかければ大軍は集まるかもしれないが、しょせんは寄せ集めである。それゆえ、その上に統一的な指揮命令系統など置けはしない。また集合するかどうかは、あくまでも個々の貴族の自律的意思で決めるので、実際に集まった軍の総数が予想を遥かに下回ることだって有り得たのである。

 これに対して、フス派軍の多くは、農村から分離された専業兵士であった。彼らは、チェコの共和政府が農民から徴収した地代をサラリーとして貰って生活していた。また、彼らは、封建貴族の兵士のように特定の領地に縛られていないので、組織的で統一的な指揮命令系統の下に置くことで、高度で専門的な訓練を受けることも可能というわけだ。例えば、鉄砲の集中運用などといった戦術は、領地ごとに個別化細分化された封建貴族の軍勢には不可能であったろう。

 こうして見ていくと、数が多いだけの烏合の衆であるカトリック諸侯の軍勢が、近代的なフス派軍の前に、赤子の手を捻るように敗れていったのは、むしろ当然の結果であることが分かるのだ。歴史学者は、しばしばフス派軍のことを「早すぎた近代軍」と評するが、まさにそのとおりであった。

 しかし、当時は中世であるから、このような専門的な分析をする者は少なかった。戦いに行く者は皆、神を信じて神のために戦おうとする。それなのに、「異端者」の軍勢の方が圧倒的に強いとなれば、人々はどう思うだろうか。

 「俺たちの信じる神は、本当に正しい神なのか・・・」

 「チェコの異端者どもの方が、正しい信仰を守っているのではないか・・・」

 「ローマ教皇は、本当は神の恩寵から逸脱しているのではないのか・・・」

 このような声が密かに各地に流れ、ポーランドやドイツ、そしてハンガリーの各地に、フス派を信奉する人々の群れが日増しに増えていったのである。

 こうした情勢を前に、ローマ教皇マルティネス5世の心労は深まるばかりであった。

 「もはや一刻の猶予もならぬ。何としても、何としてもチェコの異端者どもを根絶やしにするのだ」

 1431年2月、教皇はバチカンで叫び、そして教皇特使は欧州各地に飛び、最後のそして最大の十字軍が催されたのである。

 そのための財源として、全キリスト教徒に十分の一税の追加納入を命じ、例によって大量の贖罪状を発行し、それでも足りない分は教皇庁の国庫の5分の1を捻出して補った。

 この第五次異端撲滅十字軍は、カトリック教会の最後の切り札であった。