第二三章   賛美歌の勝利

 

 

「まったく、懲りないお人だ」神聖ローマ皇帝ジギスムントは、ブダ王宮の執務室で十字軍勅書を前に苦笑していた。「ローマで睨下などと呼ばれてヌクヌクしているから、現実が見えないのだろうな、教皇という人種は」

疲れ気味の目蓋を押さえながら呟く彼は、すっかり頭頂が禿げ上がり、その周囲を彩る薄い頭髪も、すっかり白くなっている。

ハンガリー西部は、度重なるフス派軍の来寇によって廃墟の様相を強くしており、西方からの避難民の群れは、皇帝の眼下のブダ市のみならず、ドナウ対岸のペシュト村まで延々と続く有様である。

「避難民の群れがブダで止まらないということは」皇帝は、誰に言うともなく呟いた。「この朕が、守護者として頼りにならないと思っているのだな、民衆は」

それも無理もない。ジギスムントの対チェコ戦での戦歴は、眼を覆いたくなるほど惨めなものだったからだ。

彼は、既にその方針を「対フス派和平」へと切り替えていた。既にブレスブルクなどで、数次にわたってプロコプと会談をしている。しかし、ローマ教皇が横槍を入れて、いつもぶち壊しにしてしまうのだった。

「異端撲滅十字軍か。過去四度の失敗を前に、いったい誰が参加するというのだ・・・」

ジギスムントは、フス派の主張する「二重聖餐」を受け入れても良いという気になっていた。そのため、オスマントルコの脅威を口実にして、教皇特使には不参加の意思を表明することに決めていたのである。

しかし、第五次十字軍への参加者は、意外と多かった。その理由は、枢機卿ジュリアーノ・チェザリーニの弁才に負う部分が大きい。彼は各国の宮廷や城で、異端の脅威を強調し、これを撲滅するためには全欧州が文字通り一丸にならなければならないと、口を酸っぱくして説き回ったのである。

その成果は十分に実り、ブランデンブルク辺境伯フリードリヒを総大将とし、ケルン大司教、ザクセン公、ウインチェスター大司教から構成された十字軍は、その総数13万人に及んだ。

まさに未曾有の大軍である。これほどの軍勢が集結したのは、欧州世界始まって以来空前のことであった。

その知らせを受けた教皇は、椅子の上で躍り上がって喜んだ。

「ついに、この時が来た。異端者は皆殺しになる運命だ。この欧州世界では、このわしに逆らって存在出来るものは絶無であることを思い知るが良い」

だが、その独白を聞くチェザリーニ枢機卿は、複雑な思いを胸にしていた。

彼は心中密かに、教皇の絶対権力を弱め、その取り巻き(つまり自分)を中心とした公会議によって、教会の実権を奪い取ろうと画策していたからである。

この次の瞬間に起きた出来事は、そんな彼にとって幸運と言えようか。

マルティヌス5世は、突然、そのままの姿勢からうつ伏せに床に倒れた。

老齢の教皇は、興奮しすぎたために心臓発作を起こして逝ったのである。

十字軍にとっては、実に幸先の悪い出来事であった。これから語られる十字軍の運命には、この教皇の急死という事実が、微妙に影を落としていた可能性がある。

しかし、その跡を継いだ新教皇エウゲニウス4世は、従来の方針を変えようとはしなかった。硬直化した腐朽官僚組織は、一度着手したプロジェクトを決して諦めようとはしないものだ。

1431年8月、最後のそして最大の異端撲滅十字軍は、地平線を彼方まで埋める大軍となってドイツ南部からボヘミア西部に乱入した。しかし、この十字軍は、慎重の上にも慎重を期して、その進路を南に変えた。この地方を拠点とするカトリック派のチェコ貴族たちに合流するためである。

一方、プロコプ率いるフス派軍は、その全力をあげてこれを迎え撃とうとしていた。しかし、ハンガリーやオーストリアに分派している貴族たちの軍の集結が遅れたため、その総勢は2万に過ぎない。

8月14日、プロコプは、奇襲攻撃で十字軍の機先を制しようとして、ドマジュリチェ郊外の平原で十字軍に遭遇した。しかし、さすがに今度の十字軍は情報収集を丹念にしていたため、プロコプの接近に気づき、陣形を整えて待ち受けていたのである。

「あかんな、当てが外れたわい・・・」プロコプは、栗毛の馬上でジシュカ譲りの長いマントを靡かせながら呟いた。

十字軍は、プロコプ軍が少数であることに気づくと、これを撃滅するために粛々とこちらに進軍を始めた。その雲霞のごとき軍勢は、まさにこの平原を埋め尽くさんばかりだ。

「すごいな、全世界の軍隊がここにいるみたいだぜ」フス派軍の陣頭で、パヴェクが呑気な声を出した。

「色とりどりの旗指物と、様々なデザインの甲冑か。あれが全部、敵とはなあ」オチークも嘆声をあげる。

「プロコプさん、ここはいったん撤退するべきや」鋳鐘士のフロマドカが、騎乗の総大将に歩み寄った。「決戦は、味方全軍が集結した後がいい」

「ふむ、そうやな・・・」プロコプは、自軍の陣頭に翻る、聖杯が誇らしげに描かれた白い旗を見やった。「ジシュカ将軍が生きていれば、きっとそうしただろう」

そばに寄り添う従軍修道士ペトルは、この会話を聞きながら、周囲をくまなく見渡した。ヴィクトリカの白い姿が、どこかに見えないだろうか。もしも彼女が現れたら。・・・現れたらどうだというのか。ペトルは苦笑した。

すると、左翼の陣からイジーが駆けて来るのが見えた。何か、作戦があるのだろうか。

「どうして賛美歌を歌わないのだ」イジーは、ペトルとプロコプを交互に見ながら言った。戦いを始める前に全軍が賛美歌を歌うのは、フス派軍のお家芸であった。

「いや、撤退するべきかどうするか迷っているのさ」プロコプは、信頼する部隊長に笑顔を向けた。

「・・・いずれにせよ、賛美歌を歌おう。兵士たちは、あの敵の威容を見て不安がっているぞ。士気を鼓舞するためにも、歌は必要だ」

「なるほど、それはそうだ」プロコプはうなずいた。

こうして、2万を数えるフス派軍は、敵前で一斉に賛美歌を歌い始めた。

 

神の戦士であり神の法である汝たちよ

神の加護を祈り、神を信じなさい

そうすれば神の恩寵がもたらされ、

勝利がその手に舞い降りるだろう

 

この印象的な歌は、既にヨーロッパ各地で彼らによって歌われていた。ブランデンブルク辺境伯をはじめ、この十字軍に集う全ての者が、どのような形であれ必ず耳にしたことのある歌だった。それは、破壊と恐怖の歌だった。無敵の軍隊の、そして、もしかすると『真実』の神を奉じる者たちの歌だった。

この賛美歌が十字軍13万の耳に達すると、実に奇妙な、実に不思議な化学現象が起きた。それは、とても人知では説明できないような摩訶不思議な現象だった。

地平線を埋め尽くすがごとき大軍は、その周辺部から、ゆっくりと溶けて流れ出したのである。

最初は、恐怖にかられた兵士たちの逃亡であった。その数が次第に増えていくと、今度は指揮官自らが、旗下の全軍を連れて逃げ出した。

「な、なんだというのだ」従軍していた枢機卿チェザリーニは、意外な成り行きに瞠目した。こんなバカな話は聞いたことも見たこともない。「こちらも歌だ。歌で士気を高めるのだ」

枢機卿が戦場に連れて来た数十名の楽団は、あわてて声を張り上げてカトリックの賛美歌を合唱し始めた。しかし、彼らの敵手は、2万人が声を合わせた大合唱であるから、その声はたちまち塗り込められ掻き消されてしまった。

そして、これが決め手となったのである。

周辺部から溶けていた軍隊は、今や蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出した。

意外な成り行きに呆然としたのは、フス派軍も同じであった。一発の銃弾も撃っていないうちに、敵が勝手に壊走していくのだ。

「なんだ、一体、何が起きたというんだ」イジーは眼を大きく見開いて、彼方で洪水のように崩れ行く大軍を見やった。「何かの罠か」

「あはははは」プロコプは大笑した。「だとしたら、随分と手の込んだ罠やな。ほら見い、味方に踏み殺される兵もおるで」

ペトルは、静かに跪いて胸の上で十字をきった。これこそ、正に『真実』の神の恩寵であろう。

パニック状態に陥った十字軍は、味方同士で略奪を働きながら、ドイツ国境に向けて全速力で逃げて行った。そのため、13万の大軍の壊滅にもかかわらず、その犠牲者の数はわずかに200人であった。この気の毒な人たちは、恐らく味方に踏み殺されたり略奪暴行を受けて逝ったのであろう・・・。

その敗走の速度は実に驚くべきもので、ほとんどの部隊が、武器や装備、輜重はおろか、旗指物まで置き捨てていった。枢機卿チェザリーニも、この有様に恐怖にかられ、僧衣を脱ぎ捨て農民服に着替え、さらには異端討伐を謳った教皇勅書の原本まで放り捨ててローマに逃げたのである。

これらの遺留品は、ゆっくりと追撃を始めたフス派軍に略取された。特に、ローマ教皇のサイン入り勅書は、プラハの旧市街広場に掲げられて良い笑いものになったのである。

それにしても、13万もの大軍が、「歌合戦」に敗れて壊滅したというのは、前代未聞の出来事である。もはや十字軍は、戦う前から精神面で敗れていたのである。『真実』の神はフス派側にあるのだから、どんなに頑張っても勝ち目は無いのだと思い込んでいたのであろうか。

ローマ教皇が全身全霊を込めて派遣した第五次異端撲滅十字軍は、こうして、ただの一度も戦闘をしないまま、全滅して消え去ってしまったのであった・・・。

この知らせを受けた教皇エウゲニウス4世は、不眠症に陥った。

「異端者どもが攻めて来る。・・・・アルプスを越えて・・・余は、いったいこれからどうすれば良いのじゃ」両目を充血させながら、寝台の上でぶつぶつと呟く痛ましい姿が、側近たちによって目撃されている。

 もはや、フス派軍によるローマ攻撃の可能性は、世迷言や妄想では片付けられなくなっていた。これはまさに、ローマカトリック教会の存亡の危機だったのである。

 

ところで、ドマジュリチェの戦いでフス派軍が歌った賛美歌は、『神の戦士たる汝たち』という題名で、チェコで広く知られた歌である。この曲のスコアは奇跡的に現存しており、チェコの子供たちは、初等教育の音楽の授業で必ず習うのである。

また、外国人である我々も、このメロディを知ることが出来る。19世紀の作曲家べドジフ・スメタナの連作交響詩『我が祖国』の5曲目『ターボル』は、フス派戦争におけるチェコ民族の奮闘を曲のテーマにしていて、その主旋律にこの賛美歌をそのまま流用しているからである。このメロディが、中世欧州最大の軍事的成果を呼んだことを銘記しながら聴くと、感興もひとしおかもしれない。

 

 「賛美歌の勝利」を知ったチェコ国内は、当然のことながら、狂喜乱舞の大喜びとなった。味方の血を一滴も流さずに勝ち得た大勝利は、もはや神の恩寵が完全に彼らの上にあることの証明だと思われたのである。

 「しかし、連戦連勝だね」トマーシュは、久しぶりに訪れたプラハ新市街のイジー宅で、ビールジョッキを傾けていた。「君たちは、本当に凄い」

 「うん」イジーは、すっかり日焼けした顔を親友に向け、錫のビールジョッキを口に運ぶ。「ポーランドもリトアニアも、今や全面的に我々を支援してくれている。カトリック勢力の完全撃破は、もはや時間の問題だ」

 「ドイツやポーランドの各地では、もういくつもの二重聖餐の共同体が出来ているそうじゃないか」

 「そうとも、聖職者の利殖や、教会の強いる十分の一税、それに贖罪状の発行が間違っていることは、世界中の人々が薄々感づいていたのだ。ただ、これまでは神罰が怖くて踏み切れなかっただけだったんだよ」

 「でも、神罰は、誰にも下らなかった」

 「そうとも、却って、カトリック勢力の方が神罰を受けて酷い目に遭い続けている始末だ」

 「きっと世界は変わるな」

 「そうとも、うんと良くなる」

 二人は、互いのジョッキを打ち合わせて世界を祝福した。

 「聞いた話だと」トマーシュは微笑んだ。「フランスでも、奇妙なことが起きているらしいよ」

 「ふうん、なんだい」話題が飛躍したので、イジーは表情を固くした。

 「例のイングランドとの戦争で、最近、フランス軍が形勢を盛り返してるんだけど、そのきっかけを作ったのが、なんと農村出身の17歳の少女だというんだ」

 「なんだい、そりゃ」

 「ジャンヌというその少女は、鎧兜を身に纏い、オルレアン城を包囲するイングランド軍を打ち破ったんだが、何でも、神の声を聴くことができると主張しているのだそうな。フランスの兵士たちは、それで勇気百倍というわけだ」

 「・・・教会を通さずに、直接、神の声を聴けるというのか。それって異端じゃないか」

 「だよな。でも、少女自身は、そういう自覚が無いみたいだよ。だって、プラハ大学に抗議の手紙が来たもの」

 「へえ、抗議の手紙?いったい何て書いてあったんだ」

 「異端は良くないから、早く悔い改めろってさ」

 二人は大爆笑し、隣の部屋で寝ていたヤン少年は、びっくりして飛び起きてしまった。父たちは、こんな深夜に何を騒いでいるのやら・・・。

 このときフス派が受け取ったジャンヌ・ダルク名義の手紙は、恐らく偽作だろうと思われる。なぜなら、この少女は字が書けなかったからである。もっとも、代筆という可能性も否定できないわけだが。ジャンヌは、周知の通り、最後には異端審問にかけられて火あぶりにされるのだが、最後まで自分が異端であることを理解できなかったようである。

「フランスも、いわゆる『異端者』に助けてもらうようじゃ形無しだな」

「世界の色々なところで、何かが大きく変わりつつあるんだね」

 「そうだといいな。この世界に生きるみんなが、我々の理想を理解し、手を差し伸べてくれるなら、この戦争はきっと勝利のうちに終わる」

 「だけどな、本音を言うと」トマーシュは、改まった顔で言った。「もう戦争はウンザリなんだ。僕だけじゃない。旧市街の人々やプラハ大学の先生たちは、みんな、そう思っている」

 「ああ、新市街の庶民連中も同じだ」イジーはうなずいた。「俺だって、本当は一刻も早く有利な和平を結びたい。でも、スイスでの公会議は、随分と難航しているらしいじゃないか」

 ドマジュリチェでの惨めな大敗を経験したローマ教会は、ついに和解の手をチェコに向けて差し伸べたのである。これまでは、「異端と口を利くのは、異端が悔い改めたときだけである」という立場を厳として守っていた教会も、フス派に対する恐怖心から、いよいよ対等の立場での会談を余儀なくされたというわけだ。

 1432年からスイスのバーゼルで開かれた公会議では、主にフス派との和解がそのテーマとなった。チェコからは、ロキツアナとプロコプが大勢の護衛を連れてスイスを訪れ、僧侶や貴族に混ざって活発な議論を展開したのである。

 「プロコプからの手紙によれば、教皇は、最初はどうしても二重聖餐を認めようとしなかった。だけど、枢機卿のチェザリーニらが教皇を熱心に説得し、ようやく『チェコ国内での二重聖餐の選択の自由』を容認したらしいぜ」

 「あはは、チェザリーニ枢機卿は、ドマジェリチェで僧服を捨てて逃げた恐怖心を忘れられないってことだろうね。でも、待てよ、イジー。それにしても、随分と固い条件付きじゃないか。二重聖餐はチェコ国内だけで、しかも選択制だって?」

 「そうだよ。だけど、選択制じゃ意味が無い。二重聖餐は、なんてったって神の『真実』なんだからな」

 「でも、教会側とすれば、それが精一杯の妥協なんだろうね」

 「俺たちだって妥協している。なにしろ、ターボルのミクラス師ら(強硬急進派)の主張は、『全ヨーロッパの二重聖餐化』だぜ。それをプロコプたちのスイスにおける和解条件では、『チェコ国内での二重聖餐化の義務』にまで後退させてしまっているんだからな」

 「お互いに妥協を競わせて・・・後は、どこまで歩み寄れるか、か」

 「そうだな・・・あと一押しが足りないのかもしれないな」イジーは唇をかみ締めた。教会の頑固者どもに、更なる恐怖を思い知らさねばなるまい。

 二人には知る由も無かったことだが、この当時、ローマ教会内部では「教皇派」と「公会議派」が対立を深めていた。これは、カトリック教会の運営方法をめぐる対立であった。

 「教皇派」は、ローマ教皇の権威を絶対視する立場である。これに対して、「公会議派」は、教会幹部や世俗の王侯諸侯からなる合議体の力で、教会をコントロールしようという立場であった。そして、バーゼル公会議は、「公会議派」のチェザリーニが、自らの主導権を強化するためにフス派問題を利用するという側面を持っていた。すなわち、フス派に妥協することで、教皇の絶対的な権威を失墜させようと狙っていたのである。

 1432年秋、「公会議派」は、度重なる「教皇派」の妨害を避けるため、公会議の場所をプラハに移すことにした。バーゼル公会議は、こうして「公会議派」とプラハ市との歩み寄りの場となったのである。

 しかし、ターボルを拠点とする急進フス派の中には、公会議での妥協に反対する者も多かった。ミクラス司祭を中心とした彼らは、しばしばプロコプに無断で軍事行動を取ったのである。

 ところが、プロコプはこれを見て見ぬ振りをした。あるいは、積極的にこれを煽った。公会議にフス派の軍事的脅威をちらつかせた方が、交渉を有利に運べるだろうと計算したからであろう。

 1432年秋、ターボル軍と孤児軍を中核とする野戦軍は、ポーランドとリトアニアの支援のもと、ドイツ東部に進軍。各地で抵抗勢力を打倒して、ついにグダニスクでバルト海に到達した。

 この情勢に、公会議に集う諸侯は大いに驚き慌てた。しかし、ここで会議を物別れにするわけにはいかない。彼らは、和平期間中のフス派の攻撃を「無かったこと」にして和平に邁進したのである。

 その合間にもフス派軍による侵攻は激しさを増していったが、度重なる戦勝の中、フス派内部でも様々な問題が生起しつつあった。彼らの遠征の目的は、次第に「厭戦気分の打破」ひいては「略奪」へと堕して行き、その結果、当初の高邁な理想は風化し、占領地域での暴行は常軌を逸したものとなっていたのである。

 だが、その割には、ボヘミアの農民たちの経済的負担は、この遠征という名の略奪行によって全く軽減されることがなかった。占領地域から搬入される莫大な金銀財宝は、なぜか各軍の指揮官や聖職者、ひいては貴族たちの懐に納まってしまうからである。実に皮肉なことだが、度重なる軍事的成功は、フス派要人たちの慢心と奢りを呼び、かつて彼らが非難し糾弾したカトリック教会の腐敗を再現する結果となっていた。これは、人間の脆さと弱さというものであろうか。

 プロコプやロキツアナが、あれほどの軍事成果を勝ち取りつつも、バーゼルでの妥協的な和解に積極的だった理由は、こうした身内の腐敗を憂慮していたからである。彼らは、『真実』が風化し瓦解する前に、何としても平和を取り戻したかったのである。

 以上の状況を整理すると、次のようになる。

 @教皇派の主張;二重聖餐制度を全面的に否定し、チェコをカトリックに戻す。

 A公会議派の主張;チェコ国内での二重聖餐の「選択制」を認めてフス派と和解する。

 B強硬フス派(ミクラス)の主張;全ヨーロッパをフス派に変える。

 Cロキツアナとプロコプの主張;チェコ国内での二重聖餐の「義務化」を貫いた上でカトリックと和解する。

 そして、公会議の席上では、AとCの主張が、互いに一歩も譲らず火花を散らした。この議論は、堂々巡りで、どうしても決着が付きそうに無かったので、プロコプとイジーは、その強力な軍事力をちらつかせることで、公会議派に圧力をかけるしか方策が立たなかったのである。

 この情勢下、厭戦気分漲るプラハ大学では、公会議派の主張に全面的に妥協しようという動きが日増しに強くなっていった。そしてプラハに入った公会議派は、この動きを見逃さなかったのである。

 いつしか、百塔の街の水面下で、様々な謀略の糸が張り巡らされていった・・・。

 

  そんな不穏な1434年の初春、ポーランドの遠征から帰還したイジーは、旧友のトマーシュをプラハ大学に訪れた。

 「ヴルタヴァ川が、また氾濫したみたいだな」

 「そうなんだ。あの居酒屋ウ・クリムも全損を出して、親爺さんも後継ぎのヤンくんも頭を抱えているよ」

 「うん、さっき俺の家に戻ってみたら、舅の家族が勢ぞろいしていたので驚いた。久しぶりに、あの居酒屋で一杯やりたいところだったんだが」

 「ここ2年で、二度も氾濫が起きるなんて珍しい。市民の中には、『神の怒り』を疑うものが増え始めている」

 「神の怒り・・・。でも、俺たちは戦場で勝ち続けているぜ」

 「銃後での厭戦感情は、戦地で働くイジーの想像を越えているんだよ」

 「ふん、厭戦感情なら、プラハだけの特権じゃあないぜ。あまり大きな声では言えないけど」静まり返った大学講堂の中で、イジーは眼を伏せた。「ターボル周辺では、農民の逃散が著しいのだ」

 「・・・やはり、地代が重すぎるからかい・・・」

 「そのとおりだ。・・・もっとマズいことも起きている」

 「聞かせてくれ」

 「フラデッツの農民たちが、この間、大規模な武装蜂起を企てて、軍による弾圧を受けたのだ。処罰された農民は300人にも及んだ」

 「農民たちが、我々に対して反乱を」トマーシュは、低く笑った。「僕たちは、権力の横暴を糾弾するために立ち上がったはずだろう。それが今や、攻撃を受けるべき権力に成り下がったというわけか」

 「遠征先でも、昔のように、解放軍を迎えるような雰囲気は掻き消えてしまった。ドイツでもポーランドでもハンガリーでも、我々を見る民衆の目は、恐怖に彩られている。今度はどの財産を奪われるのか、その娘をさらわれるのかってな」

 「・・・・・」トマーシュは、目を伏せた。

 「我が軍の中には、いつのまにか血に飢えた獣のような輩が増えてしまった。何のための戦争なのか大義を見失い、力に任せて破壊と我欲を満たすためだけの輩が増えてしまった」

 そういうイジーも、今では戦場で敵を屠ることに、何の呵責も感じなくなっていた。すっかり慣れてしまったのだ。でもイジーは、そのことが神の恩寵に外れる行為だとは思いたくなかった。かつてヤコブやクララに教えてもらったように、殺人と破壊に「慣れきった自分の魂」も在りのままの『真実』なのだと信じていたかったのだ。

 トマーシュは、心の一部で別のことに気をとられていたので、そんな親友の胸のうちには気づかなかった。

 「・・・イスクラ将軍たちの残虐行為の噂は、僕も聞いているよ」

 「・・・あいつは、今や単なる傭兵だからな。ところで、プラハ大学の様子はどうなんだ?学生たちの反応は?」イジーは、髭を撫でた。

 「学生たちは、神学論争にうつつを抜かし現実から遊離している教授たちを軽蔑している。もう、当初の若々しい理想は枯れてしまった」

 「彼らもいつか、農民たちのように反乱を起こすだろうか」

 「有り得る。でも、ロキツアナ先生の目の黒いうちは大丈夫だと思う。彼は、人望が篤いから・・・」

 「内地の疲弊は、確かに憂慮すべき事態かもしれない。しかし、この戦いは何が何でも貫徹し、公会議から何としても妥協を引き出さなければならないのだ。味方が苦しいときは、敵もまた苦しいのだ。これは我慢比べなのだ。そうだろう、トマーシュ」

 「・・・・・・」痩せた教授は、遠くに視線を彷徨わせた。

 「トマーシュ・・・何を考え込んでいる」

 「いや、なんでもない」

 「そうか」イジーは、首をかしげた。「俺たちは、これから西ボヘミアのカトリック派貴族を倒しに向かう。何か変わったことが起きたら、すぐに知らせてくれるか」

 「また遠征か・・・ターボル派は、なおも戦果を広げようというのだね」

 「ああ、カトリック派に痛打を与えることで教皇に恐怖を与え、公会議から有利な講和を引き出さねばならんからな」

 「有利な講和条件。つまり、チェコ国内での『二重聖餐』の義務化」

 「言うまでもない。本音を言うなら、もう少し妥協を引き出したいところだけどな」

 「その遠征には、プロコプもペトルも従軍するのかい」

 「プロコプはもちろんだが、ペトルは分からない」イジーは立ち上がった。「それにしても、懐かしいよな。この講堂は」

 「戦争が終わったら、君もここで戦時中の苦労話をするといい。学生たちは、きっと喜ぶよ。机上の空論ではない、生きた体験談が聞けるのだから」

 「それは、いいな。俺も楽しみにしているよ」

 イジーは白い歯を見せると、足早に講堂を出て行った。軍装を纏った彼は、新市街自警団とともに出陣する直前にここを訪れたのである。

 「・・・気をつけてな」親友を講堂の出口で見送ったトマーシュは、深いため息をついた。

 彼には、親友に言えなかったことがあった。

 プラハの穏健派の中では、近頃、プロコプやロキツアナと異なる道を歩こうという動きが強くなっていた。彼らは、急進派の存在こそが早期和平の妨げだと考え、急進派を撃滅することで妥協的な和平を勝ち取ろうと考えていたのだ。

 トマーシュの気持ちは、この新情勢の中で揺れていた。

 しかし、彼は、大筋においてこの動きに同調していたのである。そして彼は、そのことをどうしてもイジーに言うことが出来なかった。

 痩せた医学部教授は、これが悲劇の序曲であることを知る由も無かったのである。