第二四章   リパニの戦い

 

 

 1434年の初夏、イジーは、総勢300人の仲間を連れてターボルへの野道をたどった。

 彼の軍には、洪水で居酒屋を壊され失職した義理の弟ヤンも加わっていた。ヤンはもう27歳で、妻子持ちだった。

 「親爺は、すっかり腑抜けてしまった」丸顔の青年は、草の葉を噛みながら馬車の上に寝転んだ。「ジェリフスキーさんが死んでから政治に興味を無くし、ようやく元の居酒屋稼業が面白くなって来たときに、あの洪水じゃあ、無理もないけどね」

 「君は、もう居酒屋はやらないのか」イジーは、揺れる馬車の上で、銃の整備をしながら横目で見た。

 「軍人の方が、稼ぎがいいもの」ヤンは、笑顔で言った。「義兄さんだって、もともと商店主だったのに、今では専業の軍人じゃないか。姉さんは、そのことで愚痴ばかり」

 「俺は、稼ぎのために軍人になったわけじゃない。戦争が終わったら、また商店を始めるつもりだ。マリエにも、そう説明してあるはずだぞ」

 「本当に?」ヤンは眼を上げた。「義兄さんは、ヨーロッパ中を遠征して珍しいものを飲み食いして来た人だ。それでプラハの商店主に収まることができるのかい。ただの親爺になれるのかい?それじゃ、バカバカしいと思わないの?」

 イジーは、寂しげに義理の弟を見た。考えてみれば、ヤンの青春は、ひたすら戦争に明け暮れていた。この青年にとっては、戦争こそ常態なのだ。

 「もう、14年も戦い続けているのか」隣で寝そべっていた石工のヴィリームが、寝ぼけ眼を擦りながら会話に加わった。「長いよな」

 「長いな」イジーも呟いた。彼はもう、40に手の届く歳になっていた。

 こんな生活が、いつまで続くのだろう。

 周囲を見渡すと、ターボルの近郊では、荒れ果てた農地がまた増えていた。農民が逃散したのであろう。

 「『真実』の街か・・・」彼方に霞む赤屋根を眺めつつ、イジーは、そっと呟いた。「神の試練にしては、あまりにも残酷だ」

 

 ペトルは、ターボルに住み、未だに清貧な生活を守り続けていた。

 過去にしばしば「偉大なる遠征」に従軍した彼は、ヨーロッパ各地の習俗や文化に深い感銘を受け、それを著作に纏めているところであった。

 「本は出来たか」

 今しも、教会の執務室で机に向かっていた修道士は、戸口からの声に驚いて振り返った。

 「やあ、イジーじゃないか。久しぶりだね」にこにこしながら立ち上がる。

 「プロコプは、もうこの街に帰ってきているかい」

 「彼は、フラデッツじゃないかな。今度の遠征は、孤児軍を主力にするそうだから。・・・そうか、君も従軍するのか。・・・まあ、奥に入って座れよ」

 「これを最後の戦いにしたいからな」イジーは、旧友の真向かいに腰を降ろした。「プルゼニに集うカトリック派貴族を一掃すれば、公会議の青びょうたんどもも、我らに妥協する気になるだろうから」

 「プラハは、どんな具合だい」

 「ここと同じさ」イジーは眼をそむけた。

 「そうか」ペトルはうなずいた。農村部での厭戦気分の蔓延と上層部の腐敗は、彼も良く知っていた。

 「ペトルは、今回は従軍するのかい」

 「いや、止めて置く。ターボル軍の主力は、プラハへの押さえになるためにここに残るらしいから、俺も残って執筆に勤しむことにするよ」

 「プラハへの押さえ?まさか、十年前のときのように、プラハ市がカトリックと手を組んで、我々を裏切ると思っているのか」

 「君は知らないのか・・・プラハの穏健派が、ローマ教会やドイツ諸侯から軍資金を調達しているという噂で持ちきりなんだよ、この街は」

 イジーは顎に手をやった。確かに、公会議がプラハに移ったとき、異常に多くの荷物が旧市街に運び込まれていたようだが。

 「それは初耳だ。トマーシュは、何も言ってなかったぞ」

 「じゃあ、トマーシュも知らないのかな」ペトルは首をかしげた。「ただの噂だろうか」

 そのとき、大きな水桶をかついで、痩せた少女が入って来た。金髪のおさげの少女は、びっくりしてイジーを見る。

 「やあ、ルティエ。すっかり大きくなったね。キノコ狩りのおじさんを覚えているかな」

 少女は、満面の笑顔で会釈した。

 「うちのヤンが、君に会いたがっていたよ。君によろしく、と言っていた」

 イジーが水桶を持ってあげながら言うと、少女は嬉しそうに頬を染めた。

 「やっぱり、まだ喋れないのかい?」

 ルティエは、寂しそうな表情を浮かべ、そして一礼して出て行った。

 「もう14歳だから、難しい年頃なんだよ」ペトルは頬杖をついた。「誰か、母親代わりの女性を探しているんだが、どこも貧しくて、それどころじゃないんだ」

 「なあに、もうすぐ戦争は終わる」イジーは力強く言った。「そうなれば、再びみんなが豊かになれる。あの娘だって、喋れるようになるよ」

 「ああ、そうなったら、またみんなでキノコ狩りに行こうな」

 「今度は、トマーシュも連れて」

 「そういえば、あいつは未だに独り身なんだって?」

 「そうそう、真っ先に、あいつに奥さんを見つけてやらないとな」

 「もうオッサンだから、難しいんじゃないかなあ」

 「ヴィクトリカなら、オーケーしてくれるかも」

 「ははは、彼女は息災かい」

 「最近、街では見かけないなあ。病没したっていう噂もある」

 「そうなのか」ペトルは髭を撫でた。

 「・・・お前は、まだあの狂女が『真実』の象徴だと思っているのか」

 「分からない。ただ、『真実』を模索する俺の心の拠り所であることは確かだ」

 「ってことは、お前の『真実』が、いよいよ見えて来たのかい」

 「まだまだ、無理だ」

 「なんだ、まあ気に病むことはないぜ。時間はたっぷりあるからな」

 「ああ」ペトルは、友人の眼をしっかりと見据えた。「君は、いいな。自分なりの『真実』を既に見つけ出しているんだから」

 「それはどうかな」イジーは、暗い顔で目を伏せた。「頭で考えずに心で信じることが本当に神の真実なのか、それは分からなくなってきた」

 ペトルは、じっと親友の顔を見つめた。

 「戦いというものは、続ければ続けるほど熟練する。人殺しは、日を追うに連れて上達していく」

 「だろうね・・・」

 「心に任せるのは簡単だ。戦場で、憎むべき敵が次々に倒れていく様を見るのは快感だぞ」

 「・・・・」

 「でも、本当にそれで良いのだろうか」

 「・・・・」

 「兵士たちの顔を見ていれば良く分かる。戦場の人間たちは、敵も味方も血に飢えた獣だ。素直な心に任せて勝利の喜びに浸るうちに、あるいは敗北の恐怖に脅かされているうちに、人間では無くなって行くのだ。頭を使わず本能に従って殺し殺されるうちに、いつしか人間は神の道を踏み外してしまうのだ」

 イジーは、涙ぐんでいた。彼は、もはや自分が『真実』から懸け離れた存在になったことを知っていた。しかし、どうしたら救われるのか分からなかった。

 ペトルは、親友の前で十字をきった。そして、重々しく言った。

 「戦争を早く終わらせよう。それから、『真実』についてみんなで考えよう。二度と戦争の起こらない社会を築き上げるために」

 イジーは、小さくうなずいた。

 二人は、連れ立って教会の外に出た。広場は、出陣の準備を急ぐ喧騒で一杯だ。兵士たちは、誇らしげな顔つきで鉄砲や大砲を車砦に要領よく積んでいる。

 鋳鐘士のフロマドカは、出陣組だった。軍装のイジーの姿に気づくと、にこにこ顔で近寄った。

 「また、ドマジュリチェの時のように無血で大勝利と行きたいですな」

 「ああ、そうだな」イジーは、にっこりと微笑んだ。その心は、親友に懺悔を聞いてもらったせいか、以前より軽くなっていた。

 

 フラデッツとターボルの連合軍は、4月下旬にプルゼニ市を包囲した。

 ビールで有名なこの街は、1423年以来、ロジュンベルク家らカトリック派貴族たちの拠点となっていた。彼らは、この街を要塞化して急進フス派連合軍を待ち受けていたので、戦いは一進一退の激戦となったのである。

 「この街を叩き潰せば、ローマ教会は我々に妥協するはずだ」陣頭のプロコプは、唇を引き締めた。「せめてチェコ国内だけでも、『二重聖餐の義務化』を通さなければならない」

 しかしその頃、プラハの穏健フス派は、戦争の早期終結のために、なりふり構わない心境に陥っていた。

 コランダ大司教やプシーブラム教授(最近、プラハ大学に復帰した)、それに反戦を訴える参事会議員たちは、急進派との協調を施政方針とするロキツアナを必死にくどいたのである。

 「この際、二重聖餐の義務化は諦めましょう。ローマ教会側は、選択制とは言え、二重聖餐を公認してくれたのです。彼らの立場を鑑みるなら、これ以上の妥協を引き出すのは無理です」プシーブラムは熱く語る。

 「だが、『選択制』はまずい。そのような曖昧な条件だと、和平締結後にこの国に帰って来るであろうカトリック派司祭たちが、二重聖餐を骨抜きにする恐れがある」ロキツアナは、顔をしかめた。

 「それに」イギリス人のピーター師は、ロキツアナ側で発言した。「彼らは、本当に二重聖餐を公認したのでしょうか。彼らが寄越した妥協案を良く読むと、『キリストの血と肉は神聖なる聖体であるパンと葡萄酒の両種に宿ることを認める。しかしながら、キリストの神聖さは、パンと葡萄酒の両種にわたって存在することを銘記するべきである』とあります。これは、形式は二重聖餐でも、実質は一重聖餐だと言っているのではありませんか」

 「それは仕方ない」プシーブラムは、白髪頭を振った。「ローマ教会は、あのような大組織だから、意見の内部調整に難渋しているに違いない。恐らく、組織内の妥協反対派を宥めるために、そのような曖昧なレトリックを用いているのだろう」

 満座は黙り込んだ。

 今や、議論の焦点は二つに絞られている。

 チェコ国内での形式的な二重聖餐の容認を得て戦争を終結するのか。

 それとも、あくまでも二重聖餐の義務化を求めて戦い続けるのか。

 「焦ってはいけないと思います」講堂の隅で、じっと議論を聞いていたトマーシュが、沈黙を破った。

 「妥協するなと言うのか」プシーブラムが眼を剥く。

 「いいえ」医学部教授は顔を上げた。「その逆です。ここは、一刻も早く和平を結ぶべきだと思うのです」

 「し、しかし」ピーターが唾を飛ばした。

 「私は、この国の人々を信じています」トマーシュは、立ち上がって一同を見回した。「この国の人々が、正しい教えを守るために、全世界を敵に回して十四年間も戦い抜いた闘志をご覧ください。こんな民族ならば、たとえ妥協的な二重聖餐であっても、きっと骨抜きにされることなく守り抜いて行くでしょう。きっとこの先、何十年でも何百年でも大切に『真実』を磨いていくことでしょう」

 静まり返った講堂の中央で、ロキツアナが低い声で口を開いた。

 「急進派のプロコプ君は、この前、私に教えてくれた。もう、彼の軍隊は、当初の理想のために働いていないのだと。命令を無視して暴走し、略奪行為を働く者が年々増えているのだと。彼は悩んでいたよ。戦いに勝てば勝つほど、神の『真実』に背いているのではないか。亡きフス先生やジシュカどのに顔向け出来ないのではないか・・・」

 「経済的にも、これ以上の戦争は無理です」旧市街の参事会員たちが、口々に言った。「これ以上の税負担には、農民たちはもう堪えられません」

 「そうか」ロキツアナは、大きなため息をついた。「・・・トマーシュ君の言うように、未来の人々に託してみようか。我々が勝ち得た幼い『真実』が、未来の若者たちの力で大きく育つことを夢見ようか」

 「そうですとも」プシーブラムは、その両目を潤ませていた。「私たちは、私たちに出来る精一杯のことを成し遂げたのです」

 1434年5月、いわゆる『バーセル協約』の受諾が決定された。

 チェコは、その国内での二重聖餐の自由を勝ち取り、そしてヨーロッパ世界と和解したのである。

 しかし、連戦連勝に息あがる急進派の最右翼が、それに素直に従うとは思えない。

 穏健フス派は、密かにローマ教会から資金援助を得て大量の銃砲を購入していた。また、その潤沢な資金力を用いて各地のフス派貴族たちに働きかけ、その軍勢を味方につけることに成功したのである。こうして、プラハに3万の大軍が集結した。これは、急進派が和平を承認しない場合、これを攻撃するための軍隊なのだった。

 

 『バーゼル協約』の成立は、プルゼニを攻囲するプロコプにとって寝耳に水の出来事だった。

 「ロキツアナどのが、この俺を裏切るとは・・・」

 慌てて全軍を纏めてプラハへ向かう。しかし、プラハに既に穏健派の大軍が集結していると聞いて速戦を諦め、急進派の拠点の一つであるコリーン市へ進路を変えた。

 プロコプは、その行軍の途中で、何度も軍議を開いて部下や貴族たちの意思を確かめたのだが、彼らのほとんどが、プラハの「裏切り行為」を憤っていた。彼らは、穏健派を排除して戦争を継続することを口々に主張した。

 「ちょうど十年前にも、そっくり同じ事件があったな」フロマドカは、欠伸をしながら言った。「あのときは、ジシュカどのが素早く動いて裏切り者どもを懲らしめて、プラハを解放したんだった」

 「今度も、きっとそうなるで」小柄なトチェンプロッツも、のんきな風体で応えた。「プロコプどのの才能は、ジシュカさんに負けてないから」

 「それは買いかぶりだぞ、大泥棒。正直言って、俺はこの成り行きが怖いのだ。戦う前にロキツアナ師の真意が知りたいものだ・・・」プロコプは、顎を撫でた。

 しかし、その直後、プラハから穏健フス派とカトリック派の連合軍3万が、大挙して向かって来るとの知らせが入ったのである。その主力を構成するのは、ヴァンテンベルクのチュニック卿やロジュンベルクのオルトシフ卿、ポジェブラドのボチェク卿ら、大貴族たちであった。

 「やはり、戦いは避けられないか・・・」プロコプは、旗下の軍勢2万とともに迎撃に出陣した。

 両軍が対峙したのは、プラハ東方40キロのリパニという村の近郊であった。

 数に劣る急進派軍は、しかし小高い丘陵に占位し、穏健派軍を見下ろす形となった。

 丘の下の平原に陣する穏健派は、ひるまずに車砦を敷き並べ、徹底抗戦の決意を漲らす。

 「奴らは烏合の衆だ」丘の上から、イスクラ将軍が言った。「プロコプどの、一気に駆け下りて蹴散らしましょう」

 「いや、それは無理だ」寄り添うプロコプは、つるつるの顎を撫でながら言った。「彼らは、『偉大なる遠征』に数度にわたって従軍して実戦経験も豊富だし、数も多い。あの陣形を見たまえ。どこから攻めても、鉄砲と大砲の集中砲火を浴びる結果となるだろう」

 「味方にとってもそれは同じです」赤ら顔のチャペック将軍が言った。「丘のいたるところに堅陣を設けた我が軍は、敵の総攻撃を容易に跳ね返せることでしょう」

 「つまり、先に仕掛けた方が負けるということだ」プロコプは、イスクラ将軍に微笑んだ。

 「トチェンプロッツ」イジーが声をかけた。

 「分かっていますがな」大泥棒は、乱食い歯を光らせて、偵察のために敵陣に忍んで行った。

 それにしても、塹壕を掘り車砦を敷き並べ、その背後で鉄砲を構えて対峙する両軍の様相は、これが15世紀初頭であることを考えると実に異様であった。これは恐らく、20世紀初頭の軍人の眼から見ても、違和感を覚えないような戦場風景だったことだろう。

 

 穏健派の陣に潜入したトチェンプロッツは、この軍勢が、意外なほど充実していることに気づいた。

 銃砲も最新式だし、鎧兜もきらびやかだ。何よりも彼を驚かせたのは、かつて轡を並べて戦った貴族たちが、ほとんどこちらの陣営に参加しているということだ。つまり、リパニに参集した穏健派軍は、カトリック派、プラハ旧市街穏健派、そしてフス派貴族の大連合軍なのだった。彼らは嵩になって、ターボルとフラデッツを中心とする急進派を押し潰そうとしているのだ。

 「これは一大事や」弾薬置き場の物陰から様子を窺う大泥棒は、心中の冷や汗を拭うことが出来ない。

 「そこにいるのは誰だい」

 背後から子供の声がしたので、トチェンプロッツは飛び上がった。「わいは、雑兵や・・・」

 「嘘付け」弾薬庫の裏側から姿を現した少年は、きらびやかな銀色の鎧を身に纏い、裕福な貴族の子弟と思われた。

 「よ、よく聞きなはれ。わいにはドイツ訛りがあるやろ」

 「敵の総司令官プロコプだって、ドイツ系なんだろ」ふくよかな頬をした少年は、珍しげに大泥棒の痩身を眺め渡した。

 「ばれたら、しゃあないな」トチェンプロッツは開き直った。「ロキツアナ師に会わせてくれへんか?わいは、プロコプの使いのトチェンプロッツと言うものや」

 「僕は、ポジェブラト家のイジーと言うものだ」少年は朗らかに笑った。この子は、ポジェブラトのボチェク卿の長男なのであった。当年きって14歳で、初陣を飾ろうとしていた。

 二人は、本陣の置かれた炭焼き小屋を訪れた。そこには、ロキツアナをはじめ、プシーブラムやピーター師、そしてオルトシフ卿やチュニック卿を始めとした穏健派の要人が集っていた。

 「どうしたんだ、イジー卿」総指揮官オルトシフが、怪訝そうに大泥棒を見た。

 「こそ泥を捕まえました。敵の軍使と名乗っていますが」少年は鼻をこする。

 「こそ泥やあらへん」トチェンプロッツは、要人の面々の前で緊張気味だ。

 「これは好都合」ロキツアナ師が、焦燥しきった顔を向けた。「ちょうど、こちらからも軍使を出そうと思っていたのだ。プロコプどのと、最後の話し合いをしたい」

 「無駄なことはよせ」オルトシフは、不服そうだ。

 ロキツアナは、オルトシフ卿に厳しい視線を投げてから言葉を継いだ。「明日の正午、両軍の陣営の境界線でどうだろうか」

 「わいも、無駄やと思うけど」トチェンプロッツは、乱食い歯をオルトシフに向けながら言った。「伝えるだけは伝えましょう」

 炭焼き小屋を出た大泥棒は、こちらに歩いて来るトマーシュに出くわした。

 「あんさんも、裏切り者の一味やったんか」痩身の小男は、精一杯、軽蔑しきった表情を作って見せた。「『神の戦士』も、まったく形無しやな」

 「何とでも言え」医学部教授は、舌打ちした。「プロコプどのもイジーも、内心ではこれ以上の対外戦争が無意味なことを知っているはずだ。きっとこの大軍を前にすれば、彼らも和平を承認してくれると信じていたのだが」

 「プロコプどのもイジーさんも、そんな意気地なしじゃない」

 「トチェンプロッツ、君は分かっているはずだ。もはやターボルとフラデッツの理想は消え、当初の純粋な情熱を見失った彼らは、単なる傭兵集団に成り下がっているじゃないか。その傾向は、アンブローシュ師が昨年亡くなってから、ますます酷くなったと聞いている。プロコプの周囲に蠢くイスクラやチャペックは、功利的な打算と欲望のために戦い続けているんだぞ」

 「だからと言って、敵に妥協してしまったら、亡きジシュカ将軍やジェリフスキーどのが浮かばれまへん。フス師やイエロニーム師も落胆するのやありまへんか」

 「俺はそうは思わないよ」トマーシュは、トチェンプロッツの両肩に手を置いた。「確かに、『バーゼル協約』は一種の妥協かもしれない。しかし、このまま戦争を続けていけば、妥協どころじゃすまない。この国は、この世の地獄に堕してしまうだろう」

 「・・・・・・」

 「『偉大なる遠征』だって、期待はずれだったろう?確かに我が軍は強かったさ。だけど、この広い全世界を征服しつくすことは不可能だと分かったし、多くの外国人に恐怖と嫌悪の想いを抱かせただけだったじゃないか。世界を『真実』で埋めるためには、もっともっと多くの時間が必要なんだ。全世界が、偏見や恐怖を抱かずに『真実』を理解するには、時間が必要だ。今、我々の運動に必要なのは、じっと雌伏して理想の力を蓄えるための時間だ」

 「・・・つまり、この裏切りは妥協ではないといいたいのんか」

 「裏切りか・・・そうかもね。だが、今となっては、君たちから見た『裏切り』こそが、僕の『真実』なのだよ」

 トチェンプロッツは、寂しそうにトマーシュの眼を見た。

 「あんさんの言うことは、正しいのかもしれへん。でも、ジェリフスキー師が生きていたなら断固として反対するやろうし、亡きジシュカ将軍も同じやろう」

 「きっとそうだろうね」トマーシュは俯いた。

 「プロコプどのとイジーさんの考えも、わいと同じやで。きっと、仲間を見捨てることはできへんし、亡き先達たちの遺志に背くことはできへん」

 トマーシュは、ゆっくりと顔を上げた。

 「今度会うときは、敵同士。お互い、生きるのか死ぬかや」

 「そうだね」

 医学部教授の決然とした表情を見た大泥棒は、それ以上言葉を継ごうとせずに、そっとため息をつくと、風のように走り去った。

 トマーシュは、黒いマントを風に靡かせながら、旧友の去った方角をいつまでも寂しげに見つめ続けていた。

 「どうして、こんなことになってしまったのだろう・・・」

 

 この翌日のプロコプとロキツアナの会談は、案の定、不調に終わった。

 互いの人物とその主張を尊重し理解し合う二人は、何度も振り返りつつお互いの陣営に帰って行った。

 「敵陣に、トマーシュ師がいたよ」プロコプは、イジーに言った。

 「知っています。トチェンプロッツに聞きました」イジーは、銃の整備に余念がない。

 「あの大人しいトマーシュさんが戦場に来るとはな」

 「彼の気持ちは分かります」イジーは眼をあげた。「彼は、何としてでもこの戦争を終わらせたいのでしょう」

 「戦争を終わらせたい気持ちは、わいだって同じだ」プロコプは、戦友の隣に腰を降ろした。「でも、部下たちや将軍たちは、連戦連勝の中で士気横溢しているから、そんな彼らに武装解除を要求することは出来ない。そして、苦楽を共にした部下たちを見捨てることは、わいには、断じて出来ないのや・・・」

 急進派の兵士の大多数は、農地や家族を捨てて信仰のために身を投じた者たちだ。そんな彼らが、一戦もしないで素直に武器を置くはずがないのである。

 「でも、この戦いは、勝っても負けても悲惨なことになるでしょうね」

 「『全ての人が平等になるだろう。なぜなら、全ての者が、神の御名の下で兄弟姉妹なのだから』」プロコプは、急進フス派のスローガンを低く呟いた。「これから行われることは、兄弟殺しなのや」

 「俺たちは、これが『真実』に達するための最後の大きな犠牲だと、そう信じるしかないのだね」イジーは、苦渋を浮かべて辛そうに唇を噛んだ。

 そして戦機は熟した。

 

 「リパニの戦い」は、人類史上初の近代野戦軍同士の戦いであった。

 互いに車砦を繰り出し、その陰から銃撃を繰り返す。車砦の台数は、急進派軍だけで四百台にも上ったと言われる。

 戦局は一進一退だったが、高地に陣取る急進派軍の方がやや優勢であった。

 イジーは、プラハ新市街部隊を率いて左翼の戦場にいた。敵が銃撃を受けて後退すると、車砦をひいて少しずつ前進し、そこに再び車砦を並べ、新たな敵部隊に銃撃戦を挑む。これの繰り返しである。猪突猛進は、敵の十字砲火の餌食になるだけなので禁物だった。

 「一見、地味で単調に思えるだろうけど、こういう戦いは、先に根気を無くした方が負けるのだ」イジーは、義理の弟ヤンに言った。「どちらかが壊走を始めた場合、直ちに猛烈な追撃が行われる。最も大きな損害を受けるのは、こうした退却時だ」

 「つまり、絶対に逃げてはいけないんだね」ヤンは、したり顔でうなずいた。

 朝から始まった戦いは、正午になっても玉虫色の様相であった。火薬の臭いは周囲を厚く覆い、砲撃と銃撃の音は鼓膜を破りそうなほどだ。

 しかし、先に根気を無くしたのは穏健派側であった。我先にと総攻撃を仕掛け、これが失敗したのを見るや、いきなり全軍が退却を始めたのである。

 「よし、追撃だ。いつもの勝ちパターンだ」イジーは拳を握り締めた。

 プロコプの命令一下、車砦の陰から踊り出た急進派主力は、クロパーチを振りかざしつつ、逃げる穏健派軍に追撃を敢行した。イスクラとイジーの隊もこれに加わる。丘の上から下へと追う急進派軍の勢いは激しく、もはや戦局は誰の眼にも明らかだった。

 しかし・・・。

 穏健派軍の退却は止まった。後方に待機していた貴族たちが、味方の危急を知って押し出して来たからである。これまで後陣に待機して無傷だったフス派貴族軍は、威風堂々と隊列を整えて、槍衾を敷いて追撃軍を待ち構えた。

 「なるほど、敵さん、数で勝っているだけのことはある」追撃軍の陣頭に立つプロコプは、この状況を見ても泰然たるものである。「いったん引き返そう。車砦と塹壕の後ろから銃弾の雨を浴びせ、貴族たちに一泡吹かせてやるのや」

 鍛え抜かれた急進派軍精鋭は、指揮官の命令一下、ただちに向きを変えてリパニの丘に撤退しようとした。

 ところが、ここで夢想外のことが起きた。

 味方の陣地から、銃弾と砲弾の雨が降り注いできたのである。

 「何をするのや、こっちは味方だぞ、間違えるな」プロコプは叫んだ。

 しかし、陣地からの銃声は止まない。その陣頭には、チャペック将軍の姿があった。

 「こ、これは裏切りだ」追撃軍中でイスクラ将軍は絶句した。彼の周囲は、味方の銃弾に打ち抜かれた兵士たちの苦悶の声で一杯だ。

 「チャペックのやつ、俺たちを敵に売ったというのか」プロコプは、天を仰いだ。

 「信用ならない奴だと思っていたが・・」フロマドカは、彼の傍らでうめいた。

 チャペック将軍は、以前から穏健派による調略を受けていた。プラハ市議会は彼を、土壇場で裏切れば、「貴族」に列してやるとの甘言で釣ったのである。このころ、急進派の将軍の中には、当初の純粋な理想を失って、カネと地位のために戦う者が急増していた。そしてチャペックは、こういった人物の典型なのであった。

 瞬時にこれらのことを思いやったプロコプの表情は、苦笑に変わった。

 「やられたな。ロキツアナ師の方が、俺よりも一枚上手だったか・・」

 退路を絶たれて途方に暮れる彼らの後方からは、フス派貴族たちの馬蹄の音が鳴り響いた。

 今や、彼らは挟み撃ちを受けていた。

 「神は、とうとう我らを見限った・・・」オチークとパヴェクは、歯噛みをして地団駄を踏む。

 前には銃弾の雨、後方には貴族たちの馬蹄。しかし、神の正義を信じる彼らは、最後まで諦めなかった。クロパーチや長槍を振りかざしながら、裏切り者の陣に果敢に突撃を仕掛けたが、チャペックの車砦は容赦なく銃砲と弓矢を放ち、たちまち死体が山となる。その後方からの馬蹄は、ついにプロコプの本陣を襲った。

 戦場は、いつしか虐殺の場と化していた。

 イジーの隊は、挟み撃ちの中で、横に押される形で草深い小高い丘に追い上げられていた。

 「これは、負けだな」イジーは、埃だらけの茶色い髪を右手でクシャクシャにした。

 その周囲に倒れ伏す負傷兵たちは、うめき声を上げながら、上将に急いで退去するよう訴えかけた。しかし、イジーは首を横に振った。

 「どこへ逃げるというのだ」

 負けた経験の少ないイジーには、こうした場合の対処法が分からない。そんな彼は、持っていたクロスボウを地に置いて、その隣にしゃがみこんだ。彼自身、左足に銃創を負い、出血がどうしても止まらないのだった。

 「義兄さん」疲労困憊のヤンが、クロパーチを抱いたまま、イジーの横に倒れた。「これからどうなるんだろう」

 「全て、神の御心に任せるさ。きっと神は、もう人間同士を殺し合わせることに厭きたのだ。だから、戦争機械と化した俺たちを、御許に招こうというのだろう。二度と戦争が出来ないように」

 「じゃあ、これが最後の戦争なのかい。ハルマゲドンなのかい。この後、世界は平和になって、みんな幸せになれるのかい」ヤンは、泥だらけの顔をクシャクシャにした。

 「そうとも」イジーは微笑んだ。「俺たちは、みんなより一足早く、神の御許に行くのだ。いずれは、ペトルやトマーシュやマリエも追いついてくれる」

 「そうか」ヤンも白い歯を見せて微笑んだ。「家で飼っていた犬のダーシャは、きっと天国の門前で待っていてくれるね」

 「うん、ジシュカやジェリフスキーもいるだろう。あまり、会いたい顔でもないけどな」

 イジーが苦笑したそのとき、敵の一斉射撃がこの草むらを襲った。一弾はヤンの胸を打ち抜き、身動き取れない負傷者たちも、一方的な射撃の前に命を奪われていく。

 イジーは立ち上がり、渾身の力をこめてクロスボウを引き絞った。

 この銃撃に続いて突撃を仕掛けてきた敵の陣頭にいたのは、徒歩で長槍を抱えるオンドジェイ卿だった。その隣には、その子フョードルも甲冑に身を固めている。

 「き、君は・・・」卿は、イジーの壮絶な姿を見てかすれ声をあげた。

 「あなたが敵だったなんて」イジーは笑った。「何という運命だろうか」

 次の一斉射撃がイジーを大地に打ち倒す前に、その放った矢はオンドジェイ卿の喉を射抜いていた。指揮官が相討ちになった両軍の残党は、怒りに燃えて逆襲を仕掛け、緑の草むらは、真っ赤な血のりで埋め尽くされていった・・・。

 降伏を肯んじない急進派軍は、最後の一人になるまで戦い抜き、そして遺されたのは、数え切れないほどの死者の残骸であった。

 夕刻までに、孤児軍は文字通り全滅し、ターボル軍も、奇跡的に脱出に成功したイスクラ将軍の部隊を除いて玉砕を遂げたのである。

 穏健派の軍人たちが戦勝を祝う歓声の中、ロキツアナとトマーシュは、カラスが啄ばむ敵味方の死体の間を彷徨した。

 リパニの丘は、見渡す限りの死体の海に洗われていた。

 プロコプの遺体は発見できなかった。イジーの遺体も発見できなかった。

 「友よ」トマーシュは、死臭の中でうずくまった。「許してくれ」

 時に1434年5月30日。

 フス派戦争は、こうして終わりを告げたのである。