第二五章   廃墟から芽生える『真実』

 

 

 1436年8月、数次にわたる交渉の後、神聖ローマ皇帝ジギスムントが、チェコ王としてプラハにやって来た。1420年にプラハ城のヴィート大聖堂で戴冠式を挙げて以来、実に16年ぶりの帰還であった。

 彼を出迎えたのは、ロキツアナ大司教、プラハ大学の教授たち、プラハ市参事会議員たち、そして大貴族のチュニックやボチェクたちである。ロキツアナは、リパニの戦いの後、市民たちの選挙によって大司教に推薦されており、そのことはジギスムントも追認していた。

 彼らに旧市街の王宮に導かれたジギスムントは、禿げ上がった頭頂の周囲にわずかに残る白髪をかざしながら、かつて腹違いの兄が座った玉座に腰を落ち着け、大司教ロキツアナは、玉座の前に進み出て、プラハ市を代表して新たな王に挨拶をのべた。

 形式的な美辞麗句を冷ややかに聞きながら、王は、ハンガリーからの道中の風景を脳裏に思い浮かべていた。荒れ果てた農村と、豚の餓死死体が散乱する牧場。しかし、沿道の庶民たちの瞳に宿る光だけは、奇妙に力強かった。

 「無益な戦争であったな」王は、低い声でロキツアナに言った。「国中が廃墟となり、この街の往年の栄華も、今は見られぬ・・・」

 「あの戦争が無益であったかどうかは、これからの歴史が証明することでしょう」ロキツアナは、その目を王から離さない。

 王は、その厳しい視線を満座に向けて放った。

 「・・・二重聖餐は、約束どおり容認しよう。だが、もう2度と騒擾は許さぬ。これ以後、朕に絶対の忠誠を誓うことを約束せよ」

 一同は、深く頭を下げた。

 

 フス派戦争は終わった。そこで、この戦争の意義について考察してみる。

 あくまでも結果論であるが、この戦争の本当の勝者は、実はチェコ人の大貴族たちであった。彼らは、この戦争の最中に、かつてチェコ全土の三分の一を占めると言われた教会の領土を全て略取していた。そして、リパニの戦いに際して逸早く穏健派に寝返った彼らは、戦後もその強力な政治力を保持することに成功し、その領土を教会に返還しようとしなかったのである。そういう意味では、フス派戦争とは、純朴な農民たちや学者たちが、貴族の欲望の道具として利用された戦いだったと見ることもできる。

 ただ、この戦争の結果、チェコ国内で世俗的特権を振り回す聖職者は壊滅した。また、十分の一税や贖罪状はもちろん、聖職者に対する地代の支払も消滅した。そういう点では、教会の清貧を訴えたヤン・フスの教会改革の理想は達成されたのである。

 また、フス派戦争における十字軍の連敗は、教会の宗教的威信の没落を加速した。そもそも、ローマカトリック教会が異端の存続を容認したのは、人類史上初の出来事であった。これが後に、ルネッサンスに代表される「人間の復権」に大きく貢献したのだから、フス派の功績は高く評価しなければならない。

 ヨーロッパの近世は、ここにようやく、小さな産声を上げようとしていたのである。

 

 さて、チェコの戦後復興と急進派の残党狩りは、同時平行で進められた。

 国外に逃避していたカトリックの聖職者は、続々とプラハに帰って再び聖務を開始し、国外に逃れていたカトリックの信者たちも、荒れ果てた農村に帰り、死に絶えた農地に息吹を継ぎ込んだ。「二重聖餐の選択制」が認められたチェコでは、こうして穏健フス派とカトリック派の2色が並存して行くことになる。もちろん、穏健フス派の方が圧倒的に優勢であったのだが。

 一方、チェコに入ったジギスムントの軍勢は、散り散りになって野に潜む急進フス派の残党狩りを執拗に進めた。リパニで主力を壊滅させられた急進派には、もはや組織的な抵抗力は無く、部隊ごとに野山を逃げるしかなかったのだが、完全な専業兵士である彼らは、今さら帰農する気にはなれず、やがてハンガリーなどに移って傭兵として活躍するものが多かった。イスクラ将軍の兵団などは、対オスマントルコ戦で大活躍し、その勇名を後世に伝え残した。

 ターボル市やフラデッツ市は、牙を捨て、ジギスムントに屈服した。しかし、これらの街に残された聖職者たちは、急進フス派の神学を捨てようとせず、思想の焔を後世に伝え残そうと努力したのである。

 それに対して、ローマカトリック教会は、戦後も政治的圧力によってフス派を消し去ろうと心組んでいた。頑迷固陋な彼らは、ヨーロッパ中央の小国が、独自の信仰を堅守していることが、どうしても許せなかったのだ。

 しかし、こうした外圧に立ち向かったのは、意外なことに、ジギスムント王であった。彼は、チェコ領内での二重聖餐の施行を完全に承認し、穏健フス派の権利を断固として守り抜いたのである。

 当然、ローマ教皇らは激怒したが、ジギスムントは聞く耳を持たなかった。

 「バチカンで華美な僧服を纏った坊主どもは、分かっていないようだ」王は一人呟いた。「我々は戦争に敗れたのだ。鳴り物入りの十字軍は、ただの一度も農民の群れを打ち負かすことが出来なかった。カトリックが正しい神の加護を受けていることを、一度も証明することが出来なかったのだ」

 ジギスムントが目を向けたプラハ王宮の窓外では、フス派の僧侶たちが、聖杯の刺繍をつけた簡素な僧服をまとい、民衆の先頭に立って歩いて行くところが見えた。ティーン教会で、ミサを行なおうというのだろう。

 「時代は大きく変わった。もはや、一握りの権力者が民衆を善導する時代は終わった。これからは、民衆が自分たちのために、自分たちの頭で考え、行動するのだ。いずれは、王や貴族は、民衆の飾り物となろう。ローマ教会は、民衆の心の支えとしての役割を期待される象徴的な存在となるだろう・・・」

 ジギスムントは笑った。そして、火刑台に立つ剛健な僧侶を思い浮かべた。

 「これは無益な戦争ではなかったなあ、ヤン・フスよ・・・」

 フス派の捲いた種は、周辺諸国で実った。かつてフス派軍の侵略を受けたドイツ、ハンガリー、ポーランドで、教会の搾取を憎む民衆が、次々に武装蜂起したのである。民衆は、フス派の奮闘から悟った。もはや神罰を恐れる必要は無いのだ。一人一人の胸に正しい信仰を宿すことが出来るなら、教会など、もはや不要なのだ。

 ジギスムントは、しかし世俗君主としての立場から、これらの騒擾を放置することは出来なかった。1437年の10月、ハンガリーの反乱を鎮圧するためにプラハを発ったジギスムントは、モラビア地方のズノイモで病に倒れ、そして静かに息を引き取った。享年69。チェコ王としてプラハに入って、わずかに1年の治世であった。

 ジギスムントには子供がいなかったので、ルクセンブルク王朝は断絶し、周辺諸国は次代のチェコ王を巡って暗闘を開始した。オーストリア大公アルブレヒトやポーランド王ラディスワフが立候補したのだが、様々な複雑な要因によって、彼らの王位は短命に終わった。

 そこでチェコ貴族と市民は、選挙を行なった。その結果、摂政でフス派の大貴族、ポジェブラド家のイジーが新たなチェコ王になったのである。

 同じ頃、ハンガリーでも、貴族の中からマチャーシュ王が選挙で王位に就いていた。今や、国民が自分たちの意思で自分たちの王を選ぶ時代になったのであった。

 

 南ボヘミアの村々は、ようやく息を吹き返そうとしていた。

 逃散していた農民たちは、戦乱と重税の終息を知り、続々と故郷に帰って来たのである。しかし、村々の多くは、既に寂れ果てた廃墟となっていた。

 ヘルチツェの村も、その例外では無かった。領主のオンドジェイ卿とその子息たちは、リパニの戦いに出陣したきり帰って来なかった。守る者の無くなった小さな村は、盗賊に成り下がった急進フス派の残党に襲われ、原型を残さぬほどに焼き払われ、無人の廃墟と化していたのである。

 ところが、いつのころからか、ここに一人の僧侶が住み着いた。小さな畑を耕し、井戸を掘り返し、そして粗末な掘っ立て小屋を建てて雨露をしのいでいた。離散していた農民たちは、久しぶりに村に帰ってみると、見知らぬ僧侶が一人で生活しているのに驚いた。彼らは、最初は恐る恐る、次第に大いなる安堵を胸に、この不思議な僧侶とともに村を復興する仕事に勤しんだのである。

 この孤独な僧侶のもとには、時々、美しい修道女が訪ねて来た。口が利けない娘だったが、良く動く大きな青い目が、いろいろなことを物語っていた。

 ある日、僧侶は言った。

 「ルティエ、お前の気持ちは嬉しいけれど、修道院を抜け出すのはもうお止め」

 修道女は泣いた。そして、何度も何度も振り返りながら村を出て行った。

 僧侶は、掘建て小屋の壁に顔を押し付けて涙をこらえていた。

 彼は、それからしばらくして、村人を集めてこう言った。

 「この村では、全ての収穫をみんなで平等に分け合います。怪我や病気の人がいれば、みんなで助け合います。どんな問題が起ころうと、これを暴力で解決することは許しません。必ず話し合いをするのです。どんな人とでも、必ず分かり合えるのです。なぜなら、我々人間は、神の下に等しく兄弟姉妹なのですから」

 この講話を聞いて、何人もの農民が村を出て行った。彼らは、この僧侶の正体を急進フス派の末裔であると正しく見抜いたのである。プラハに住む摂政イジーは急進フス派を禁圧する方針を打ち出していたので、これはお上に睨まれたくない者たちとしては、当然の行動であった。それでも、多くの農民がこの僧侶とともに村に残った。僧侶が、とても心の優しい善良な人だと知っていたからだ。

 僧侶は、朝は早くから野良に出て、農民とともに汗まみれになって働いた。人々の悩みや訴えを虚心に聞いた。

 いつしか、この村の人々は、お互いを「兄弟」と呼び合うようになっていた。

 

 ある日、プラハから一人の青年が、母親を伴ってこの村にやって来た。

 精悍な青年は、僧侶に向けて一礼した。

 「僕を覚えていますか」

 「おお・・・」僧侶は、そのゴツゴツした指を青年の頬に這わせた。「懐かしい、本当に懐かしい。イジーにそっくりになったね、ヤンくん」

 「ペトルさん、あなたは少しも昔と変わらないわ」マリエは微笑んだ。印象的な鳶色の瞳は、泣き疲れたためか憂いを帯びている。

 「どうして、ここが分かったのですか」ペトルと呼ばれた僧侶は、青年と母親の顔を交互に見た。

 「コストニチェの修道院で、偶然にルティエさんに出会ったのです」ヤン青年が応えた。「僕たちは、リパニの古戦場でフス派戦士たちの遺骨を収集しているのですが、そのときに立ち寄ったのが、コストニチェでした」

 「リパニ・・・」ペトルは、髭だらけの顔をクシャクシャにした。「何という悲しい名でしょう」

 「あたしは」マリエが、顔を伏せながら言った。「夫の遺骨をどうしても見つけたかったの。それで、無理を言って、息子に付き添ってもらって」

 「見つかりっこないって思った」ヤンは肩を震わせた。「掘っても掘っても骨が出てくるんだよ。気が狂いそうになった」

 ペトルは目を閉じた。恐らく、その骨の中には、亡き父や兄たちもいるのだろう。

 「ペトルさん」マリエが潤む目を向けた。「トマーシュさんが亡くなったのをご存知?」

 「いや・・・」

 「殺されたのよ。寝台で眠っているところを、短剣で心臓を一突きだったの。その傍らには、3枚のガチョウの羽が・・・」

 「何と言う運命か・・・」ペトルは、かっと目を見開いた。

 「犯人を知っているの?」ヤン青年は訝しげに問うた。

 「トマーシュの死に顔は?」その問いには答えず、ペトルはマリエの瞳を見つめた。

 「幸せそうな笑顔だったって。だって、ユダヤ人の友達と再会を祝したその晩だったのよ。トマーシュさん、戦争が終わってからこのかた、もう何年も笑ったことなかったのに、あの日は本当に幸せそうだったって」

 「すると、ヤコブとクララは、プラハに帰って来たんだね。本当に良かった」

 「トマーシュさんは、最後までペトルさんに会いたがっていたわ。ぜひ、会って謝りたいって」

 「何を謝るんだ」ペトルは苦笑した。「彼は、自分自身の『真実』を見つけ、それを貫いたんだろう。誰に恥じることがあるものか」

 「きっと、亡き夫も、そう言って許したでしょうね」マリエは、一滴の涙を落とした。「だから、あたしも許したわ、夫の命を奪ったトマーシュさんを」

 ペトルは、唇を噛み、そして呟いた。

 「僕は、この村で一から出直そうと思っているんだ。フス先生の理想は、正しい。プラハの運動もターボルの運動も、最初のうちは正しかった。それが、いつのまにか形骸化し、少しずつおかしくなった。プラハは、『二重聖餐』という名の形式に拘泥し、運動の本質を見失った。ターボルでも、聖職者たちは、農民から搾取した地代で食いながら愚にも付かぬ学術論争に逃避していた。そして野戦軍は、いつしか、食うために戦争をする略奪者の群れへと変わってしまった。これは、勝利ではない。我々の敗北なのだ」

 「それなら」マリエは顔を左右に振った。「夫やトマーシュさんの犠牲はなんだったの。これは、何のための戦争だったの」

 「分からない。でも、きっと神に何か思し召しがあるのだ。この小さな村で、誠心に祈り続けていれば、きっと分かる。いつかきっと」

 「僕も手伝います」ヤン青年が言った。

 「君は、お母さんを大切にしてあげるのだよ」ペトルは、青年の肩を叩いた。「隠者になって考えるのは、もっと歳をとってからでいい」

 ペトルは、母子を送りながら、掘っ立て小屋の前に出た。

 雲雀が舞う青空の下には、見渡す限りのボヘミアの草原となだらかな丘陵が広がる。雨上がりの草原は、白い靄に覆われていた。

 その靄の中に、白い影が佇んでいた。

 ペトルは、影に向かって微笑みかけてみた。

 「俺は、この村で『真実』を見つけてみせる」ペトルは呟いた。「俺一代では無理かもしれないが、この志を後世に伝え残し、そして神の名のもとに全ての人が笑顔を向け合えるそんな社会の礎を築きたいと心から願うのだ」

 ペトルは、大きく深呼吸した。

 「まずは、この村から最初の一歩を踏みしめる。教会は作らない。聖職者も要らない。全ての教養人が、自由に神の言葉を語れるようにし、二重聖餐などといった形式論は棄却する。そして、みんなが平等に労働成果を分かちあい、そしていっさいの暴力を否定できる社会を築くのだ。村にリーダーが必要な場合は、村人全員で選挙を行なう。そして、全員が子供たちの良き先生になり、老人たちの世話人になる。・・・もちろん、この小さな村だからこそ可能な事柄ばかりだ。だけど、いずれはこの正しい理想は全世界に広がるだろう。俺は、そんな未来のための礎となりたい・・・俺は、人類の明るい未来を信じていたい」

 ヴィクトリカの白い姿は、ますます美しく輝き、そしてペトルに満面の笑みを返してくれた。

 

 ペトル・ヘルチツキーが創設した『チェコ兄弟団』は、もっとも清新で純粋なフス派の理想を後世に伝え残した。彼の著作と彼の後継者たちは、世界各国に民主主義の理想と子弟教育の大切さを訴え、そして、完全なる反戦平和を主張し続けたのである。そのキリスト教的博愛精神は、現在の国連活動、中でもユネスコの思想の中に根強く息吹いている。15世紀のチェコの片田舎で生まれた深遠な理想は、20世紀に入って大いに開花したのであった。

 ロシアの文豪レフ・トルストイは、ペトルのことを「中世で最も偉大な人物」と呼んだ。

 ヤン・フスやペトル・ヘルチツキーの高邁な精神は、今でも我々の心と社会に燦然たる光を投げかけている。