終章 その後のチェコと宗教改革

 

 その後の概略を述べよう。

 フス派戦争の終結後、プラハを中心とした穏健フス派は、「二重聖餐」という形式に拘泥しすぎたため、時が経つにつれ、その本来の理想を見失っていった。また、チェコ王イジーは、「異端の国王」という理由で周辺諸国から相次ぐ侵略を受け、苦闘の生涯を送った。

 その間、ビザンツ帝国を滅亡させた(1453)オスマントルコ帝国は、バルカン半島奥地に侵入を開始し、東欧キリスト教国の存亡を脅かした。この情勢に対応するべく、東欧諸国は神聖ローマ皇帝位を世襲支配するハプスブルク家の旗のもとに堅く団結するしか無く、こうして、いつしかチェコやハンガリーは、ハプスブルク家の当主が世襲する王国になっていた。

 ところが16世紀に入ると、ドイツ・ゲッチンゲン大学の説教師マルチン・ルターは、カトリック教会の横暴と贖罪状の発行に激怒し、ライプチッヒで宗教改革の狼煙を上げた。「95箇条の論題」である。ヤン・フスの死後、百年目の出来事であった。

 カトリック教会は、既得権益を守るため、ルターをフス同様に処刑しようと目論んだ。そのためには、ルターを『異端者』と認定しなければならない。そこで司祭たちはルターに、フスやイエロニームの著作を読ませ、それについての意見を言わせた。彼らの意図は明白である。ルターがフスたちの考えに共鳴するようなら、彼らと同様の異端者であると決め付けて、火刑台に送り込めるというわけ。いかにも、官僚が考えそうな策略である。

 ルターは、それまでフスの教えを知らなかった。そのため、フスの遺作に触れた彼は、今から百年以上も前に、自分と同じ志を抱いた先輩たちの存在に勇気付けられ、ますます宗教改革への熱意を燃やしてしまったのである。教会の策略は、完全に裏目に出たというわけだ。

 ルターの命が助かったのは、この当時、教会の横暴を憎む封建諸侯が多くなっており、彼らが、この勇気ある改革者の身柄を守ったからである。こうして、ルターの理念は全欧州に広がり、いわゆるプロテスタントとカトリックの対立構造が鮮明になった。この情勢を見て、チェコでもフス派が元気を取り戻した。プロテスタントの本家本元として、再びその活動を活発化させたのである。

 しかし、チェコを支配するハプスブルク王家は、ガチガチのカトリック派であったから、こうした動きに対して、強圧的な態度で臨む。これに怒ったプラハのフス派は、ついに国王の代官をプラハ城の窓から突き落としてしまった。百年前の、ヤン・ジェリフスキーの顰に習ったのである。

 こうして、「三十年戦争」が始まった。プラハ市は、傭兵を集めてハプスブルク家の大軍に抵抗するが、呆気なく敗れ去る(白山の戦い、1620年)。こうしてチェコ全土がハプスブルク家の統治下に置かれ、全住民がカトリックへの改宗を強要されてしまったのだ。

 その後のチェコは、ハプスブルク帝国の植民地となり、第一次大戦後にチェコスロヴァキア共和国として独立するまで、圧制の下で苦難の歳月を送ることになる。

 だが、なおもフス派を頑健に支持する人々は、改宗を潔しとせず、家財を纏めて国外に逃亡した。その中に、ヤン・アモス・コメンツキー(コメニウス)という聖職者がいた。彼こそは、「チェコ兄弟団」の領袖にして、ペトル・ヘルチツキーの理想を受け継ぐ者だった。オランダを新たな本拠地とした彼の、独自の教育哲学や『汎知論』の思想は、ヨーロッパ世界に大きな影響を与え、近代化を大いに促進したと言われている。また、『兄弟団』の一部は新大陸アメリカに渡り、この地の独立運動と民主化に大いに貢献している。

 ペトル・ヘルチツキーの理想は、こうした不思議な機縁で全世界に広がり、今日の民主主義の礎となったのである。 

 なお、ローマカトリック教会は、西暦2000年、ついにチェコ人に対して正式に謝罪を行なった。いわく、「ヤン・フスに異端の罪を着せて処刑したのは、重大な錯誤であった。また、その後もチェコのプロテスタント(フス派)に対して弾圧を加えたのは、重大な過ちであった。これらの過去の行為について、深く謝罪する・・・」