第十五章 イギリス要塞

 

  1

 

 6月23日未明、ヒトラー総統はわずかなお供を連れ、お忍びでパリに現れた。

 現在でもそうだが、文化と芸術の都パリは、全世界の憧れの的であった。ヒトラーは自称芸術家であるから、以前からパリを観光したくて仕方なかった。でも国民の眼というものがあるから、真面目な彼には、お忍びという形でしか夢を実現させる方法が無かったのである。

 「まずはオペラ座だ」子供のように眼を輝かせながら、総統はお供のシュペーアに笑顔を向けた。

 何しろ夜明け前であるから、街には人っ子一人いなかった。オペラ座には、案内の老人が一人待っていてくれたのだが、ヒトラーには無用のことだった。博学の総統は、オペラ座の沿革から構造の細部に至るまで全て暗記しており、かえって案内人に教えてあげるほどだったからである。

 「戦争が終わったら、いつかベルリンに、パリに負けない荘厳なオペラ座を創りたいなあ、アルベルト」

「任せて下さい、総統」建築家のシュペーアは、笑顔で頷いた。

 それから一行は、エッフェル塔、ルーブル美術館、凱旋門を足早に観光し、ナポレオンの墓を詣でた。

 「この偉大な人が」ヒトラーは、墓石を眺めながら呟いた。「最愛の息子と離ればなれに埋葬されているとは気の毒な事だ」

 ナポレオンの子とは、二度目の妻マリー・ルイゼとの間に生まれたライヒシュタット公(ローマ王)の事である。息子を溺愛していたナポレオンは、敗戦で愛児と引き離され、孤島へと一人流されていった。尊敬する父を失ったローマ王は、母の実家のオーストリアで軟禁生活を送ったのだが、21歳の若さで早世し、ウイーンに葬られているのだった。

 ヒトラーはさっそくウイーンに連絡し、ローマ王の遺体をパリに運び、偉大な父の隣に葬るように命じたのである。これは、ウイーンとパリの両方を支配している人物にして、初めて可能な粋な計らいであった。

 その後、一行は、モンマルトルの丘に登り、朝の陽光を浴びて輝くパリの全景に心奪われた。

 「なんという美しさだ」総統は息を呑んだ。「ベルリンも、このような都市に生まれ変わらねばならぬ。命あるうちに、ベルリンの大改造を実現させてみせるぞ・・」

 ヒトラー一行は、午前10時にはもう観光を済ませ、ドイツへと空路飛び立っていた。総統には、欧州新秩序を樹立するための職務が、山積していたからである。

 

 2

 

 かつて七つの海を支配し、日の沈まない帝国といわれたイギリスは、今や欧州の孤島と化していた。

 イタリアとソ連はドイツの同盟国だし、ベルギー、オランダ、そしてフランス北部はドイツの軍政下に置かれ、ポーランド、ルクセンブルクは植民地となり、ノルウェイとスロバキアはドイツの傀儡政権が支配している。その他の北欧諸国と東欧諸国、そしてスペイン、トルコ、ポルトガルは親独中立国である。新生ヴィシーフランスも、実質的にはドイツの操り人形だ。

 ドイツ海軍の通商破壊も、猛威を振るっていた。もともと数に劣るドイツ海軍は、小型戦艦や潜水艦を大西洋に派遣し、イギリスへと物資を運ぶ輸送船を攻撃し、この島国を干し殺しにする戦略をとっていた。そして、その効果はてきめんだった。Uボートと呼ばれる潜水艦部隊を指揮するデーニッツ提督は、知的で冷静な名将であり、一ヶ月あたり数十隻のイギリス商船を海の藻屑としたのである。イギリスは今や、政治や軍事はおろか、経済的にも孤立しようとしていたのである。

 「負けるものか」チャーチル首相は、歯を食いしばった。「イギリスは、ヨーロッパ民主主義の最後の砦なのだ。明け渡す事は絶対にできない」

 7月3日、植民地アルジェリアに駐留していたフランスの主力艦隊は、突然、イギリス海軍の猛攻を受けた。無防備だったフランス軍の損害は甚大で、艦隊はほぼ全滅、1千名以上が戦死した。

 チャーチルは、フランスの中立を信じておらず、フランスがドイツと同盟してイギリスに上陸してくる事を恐れ、先手を打ったのである。無理もない決断であったが、激怒したフランスは、ただちにイギリスと断交し、政体を全体主義に変えてドイツの歓心を買った。戦後、英仏の不和の原因は、ここにある。

 また、チャーチルは国論統一のため、モーズレーをはじめとする親独派議員に国家反逆罪の汚名を着せて逮捕し、裁判なしに投獄したのである。

 しかし、ヒトラーは楽観していた。実力行使の時代はもはや終わり、外交交渉の時代が回帰したと思い込んでいたのである。そのため彼は、国防軍にイギリスへの直接攻撃を手控えさせるのみならず、兵員の復員を開始させたのである。

 そして、7月19日、ドイツの独裁者は、イギリスに和平の提案を行った。

 「ドイツ政府は、イギリス政府の理性的反省にもとづく和平交渉に臨む用意がある」ヒトラーは、クロール・オペラハウスの壇上で叫んだ。「これは最後のチャンスである。イギリスがこの機会を無視するなら、すでに準備完了したドイツの攻撃力は、時をうつさずイギリス島に殺到することだろう」

 孤島の政府は動揺した。ハリファックスやロイド・ジョージといった穏健派は、ヒトラーの提案に耳を傾けようとした。また、ウインザー公(先の国王エドワード8世)も、隠遁先のポルトガルから和平を呼びかけた。

 しかし、チャーチル首相の意志は強固だった。彼はドイツとの徹底抗戦の決意を維持し、猛然と閣論の調整を行ったのである。

 瀕死の島国を支える首相の意志力は、まさに世界の歴史を変える梃子となる。彼のこの決断の良否については賛否両論あるようだが、民主主義の理想を信じ、その理想に殉じようとする決意は、まさに英雄的である。

 ただし、援軍の来ない籠城戦は無意味である。チャーチルが待ち望む民主主義の援軍は、自由の国アメリカであった。新世界から若い兵士たちと潤沢な物資が来てくれれば、もはやヒトラーなど敵ではないのだ。

 だが、アメリカの反応は懐疑的であった。国内で反戦機運が強い上、イギリスの抵抗力を疑っていたからである。ルーズヴェルト大統領は、孤島の敗北を予想し、イギリスが崩壊する前に艦隊をカナダに移動させるようチャーチルに勧告する始末だった。

 「ここが正念場だ」精気溢れる首相は、双眼を熱く燃やした。「持ちこたえなければならぬ。持ちこたえて、アメリカを安心させ、彼らに参戦を決意させねばならぬ・・」

 

 3

 

 チャーチルの堅い決意を知ったヒトラーは、やむを得ず、参謀本部にイギリス攻略作戦の立案を下命した。

 「皮肉なものだな」総統は、リッベントロップ外相に語った。「仇敵のはずのソ連は、今や忠実で頼れる同盟国なのに、あれほど味方に付けたかったイギリスが、今や唯一の敵国とはね」

 もっとも、イギリス陸軍は弱体であった。ダンケルクに戦車と大砲を全て置き棄ててきたため、その装備は著しく貧弱である。また、ド・ゴール将軍の率いる亡命フランス軍も、その弱体ぶりは恐れるに足らない。

 ただし、英海軍の戦力は未だに欧州最強であり、ドイツ海軍などは、その足下にも及ばない。そして欧州最強のドイツ陸軍は、同じく最強のイギリス海軍が支配する海を渡らなければ、孤島に侵攻できないのである。

 参謀本部の作成した「あしか作戦」計画書に目を通し、独裁者は思わず鼻白んだ。

「筏と艀とは、一体なんの事だ」

 「海軍は、必要な輸送船を調達できないのです。筏を使って戦車を渡すしかありません」カイテルは、冷や汗を拭いながら答えた。

 「筏と艀でイギリスの戦艦を出し抜こうというのか・・馬鹿な。上陸は、不可能ということだな」ヒトラーは、なぜか安堵した。  

 思いこみの激しい彼は、イギリスをパートナーとして欧州を支配する構想を棄てられずにいたので、イギリスを滅ぼさずに済むことを内心で喜んだのである。

 彼の興味は、必然的に東へ移る。ソ連の行動が、予断を許さなくなって来たからである。

 ソ連は、いわばヒトラー方式で急激に領土を拡張していた。昨年末の「冬戦争」で、フィンランドからカレリア地方を奪取したのに続き、今年6月にはルーマニアを脅迫し、ソ連国境沿いのベッサラビア地方を併合した。さらに8月には、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を恫喝して、その全土を軍事占領したのである。ほとんど無血で、2千万近い人口を獲得したことになる。

 そして、ソ連の野心はそれに止まらなかった。ブルガリアとトルコにも触手を延ばし、重要拠点の割譲を狙ったのである。

 この情勢に、東欧諸国は危機感を募らせた。彼らの頼みの綱は、今や日の出の勢いのドイツ帝国しかない。そしてヒトラーも、これ以上のソ連の進出を許すつもりは無かった。彼はフィンランドとルーマニアに軍事顧問を送りこみ、密かに軍事協定を取り交わしたのである。フィンランドのニッケルと、ルーマニアの石油は、何が何でもドイツが確保しなければならないからである。

スターリンは、激怒した。

ここに、独ソの蜜月は終わりを告げたのである。

ヒトラーは密かに、参謀本部にソ連侵攻計画の準備をさせた。

 

 4

 

 1940年8月13日、ドイツ空軍の大編隊は、一斉にイギリスに向けて飛び立った。バトル・オブ・ブリテンの開幕である。

 英本土への直接侵攻を無理と知ったヒトラーは、空襲によってイギリスを攻撃する命令を下したのである。この作戦の目的は、激しい爆撃でイギリス人の戦意を鈍らせ、和平のテーブルへチャーチルを引き出す事である。それに加えて、国家元帥に昇進した空相ゲーリングの顔を立ててやる目的と、ソ連への攻撃準備をカモフラージュする意図も隠されていた。

 オランダ、ベルギー、ノルウェイ、フランスの各飛行場から、連日のように出撃するドイツ空軍。しかし、イギリス上空の戦いは苦戦の連続であった。

 イギリス空軍の戦闘機は、全部で800機しかなかったが、名将ダウディング大将のもと堅く団結し、レーダーを使った警戒網を利用して必死に奮闘したのである。

 対するドイツ空軍は、2000機以上の機体を擁していたが、馴れない渡洋爆撃に、思わぬ犠牲を強いられた。もともとドイツ空軍機は、「電撃戦」の地上支援目的のために高度に機能化されており、それゆえ、それ以外の戦術を苦手にしていた。具体的には、燃費の悪い戦闘機は、イギリス上空で5分間しか戦えない有様だったし、鈍足の爆撃機は、英空軍の新鋭戦闘機スピットファイアにとってネギを背負ったカモ同然であった。

 日増しに増える損害に業を煮やしたゲーリングは、総統にロンドン爆撃を進言した。

 「軍事目標への攻撃は、敵の防備が厚くて得策ではありません。それよりは、ロンドン市民に恐怖を与えた方が、和平の機運を盛り上げて得策ではありますまいか」

 「いいや」ヒトラーは、顔を横に振った。「都市爆撃は、必ず報復爆撃を招く。ベルリンを危機にさらすわけにはいかぬ」

 ところが、8月23日夜、航法ミスでロンドン上空に迷い込んだドイツ爆撃機の編隊は、目標を誤って市内に投弾し、9名の市民を殺してしまった。怒った英空軍は、報復としてベルリン爆撃を開始。29日には10人を殺したのである。

 国民感情に敏感な総統は、激怒した。大衆の旗手を自認する彼としては、国民の溜飲を下げてやらねばならぬ。

「愚か者のチャーチルに、思い知らせてやるのだ」

 こうして、ロンドン爆撃が始まった。延べ2000機近いドイツ空軍機が、9月4日から一週間に渡ってロンドン市内を攻撃し、美しい町並みを紅蓮の炎に包み込んだのである。死傷者は、万を数えた。

 しかし、これは逆効果だった。チャーチルを中心に結束したロンドン市民の戦意は、少しも衰えなかった。また、爆撃を一時的に免れた地方の飛行場や軍需工場は、息を吹き返し、その防衛力をさらに向上させたのである。

「我々は、必ず勝利する」

 葉巻をくわえた英首相は、二本の指でVの字を作ってみせた。余裕のVサインである。

 首相の不屈の闘志は、多くの人々に伝わった。愛する祖国を守るため、英空軍の戦闘機は連日出撃し、ロンドン上空で独空軍に多大の損害を与えたのである。

 かくして、イギリス上空の闘いは、ドイツの敗北となった。ヒトラーは、9月17日、イギリスへの直接攻撃を諦めたのである。イギリス爆撃は、その後も散発的に続けられたが、もはや陽動にしか過ぎなかった。

 「歴史上」シルクハットのチャーチル首相は、感動の面もちで国民に語った。「かくも少数の勇敢な人々が(英空軍パイロットの事を指す)、これほど短期間に偉大な業績を成し遂げたことがあったでしょうか・・」

 

 5

 

 バトル・オブ・ブリテンの様相は、世界の衆目を変化させた。アメリカは、より一層英国を支援するようになったし、欧州の中立国も、イギリスに賞賛の眼差しを送るようになったのである。

 しかしヒトラーは、今度は外交でイギリス要塞を押さえ込もうと図り、スペインとヴィシーフランスを説得し、彼らを対英参戦させようとした。

 中でもドイツの総統が重視したのは、スペインである。スペインが参戦してくれれば、英領ジブラルタルの攻略の道が開け、このイベリア半島突端の要塞港の占領は、イギリス本土とその東方植民地(エジプトやインド)との連絡線を遮断する効果が期待できるからである。そして、スペインには内戦時の貸しがある。ヒトラーは、交渉の成功を疑わなかった。

 だが、スペインの支配者フランコ総統は、明敏にも国際情勢の行く末を予見していた。

 「イギリスは持ちこたえるだろう。これは、遅かれ早かれアメリカの参戦を招く。そうなったら、もはやドイツには勝ち目がない。敗者に荷担して、国民を苦しめるわけにはいかぬ」

 こう考えたフランコは、ヒトラーの懸命の説得にも耳を貸さず、食料と武器の不足を理由に参戦を断ったのである。また、このスペインの独裁者は、密かにヴィシーフランスに根回しし、ヒトラーからの参戦要請を断るよう勧めた。そして、フランスの国家元首ペタンは、この勧告に従ったのである。

当てが外れたヒトラーは、怒り、途方に暮れた。

 「何がフランコ総統だっ。あんな奴、ドイツでは伍長にもなれぬわい。あいつともう一度話すくらいなら、歯医者で歯を三、四本抜かれた方がまだましだっ」

 だが、今やイギリス要塞は、まさに難攻不落の堅城と化したのである。

 思いこみの激しいヒトラーは、イギリスの一徹な抵抗ぶりが理解できなかった。最愛(と一人決めしていた)恋人に裏切られた心境であった。

 それ以上に重大な問題は、アメリカとの関係悪化である。アメリカは、今のところは中立を表明しているが、武器や資源を惜しみなく欧州の孤島に送り込んでおり、時期を見て対独参戦してくる意図は明らかであった。

 Uボートによる通商破壊も、アメリカ国籍の輸送船には行えないから、これではイギリス島への兵糧攻めすら不十分になる。

 「欧州は欧州、アメリカはアメリカだ。新大陸は、欧州問題に介入するのを止めるべきだ」ヒトラーのこの演説も、ルーズヴェルト大統領には効果が無かった。

 「全体主義者の暴虐は、決して許すことはできない。万難を排して抵抗しなければなりません」ルーズヴェルトは、総選挙を控えた演説で、はっきりと明言したのであった。

 アメリカを恐れる総統は、極東の軍事大国との同盟によって局面打開を図った。

 日本は、独ソ不可侵条約以来、ドイツとの仲を疎遠にしていたのだが、鮮やかなフランス攻略に幻惑されて、再びドイツとの接近を図っていた。ヒトラーは、日本と軍事同盟を結ぶことで、アメリカを牽制し、その参戦を阻止できると踏んだのである。そして幸いなことに、日本の指導者たちは、フランコほどには賢明でなかった。

 9月27日、『日独伊三国同盟』が締結された。これは、日独伊のどれかが、第三国の攻撃を受けた場合、共に戦おうという防衛同盟である。アメリカがドイツに宣戦布告したら、彼は日本に背後から襲われる形となるから、新大陸は参戦を思いとどまるはずであった。だが、後にこれが裏目に出る。

 「日本との同盟は」ヒトラーは、ゲッベルスに語った。「来るべき対ソ連戦で、真の威力を発揮するだろう。日本にはシベリアをくれてやればよい」

 ヒトラーは、イタリアよりむしろ日本を信頼していた。彼の人種観と矛盾するようだが、日本人の方がイタリア人よりも真面目で誠実で優秀だと考えていたのである。

そして、その実感はますます強化された。

 イタリアは、9月17日のエジプト侵攻に続き、10月28日、ドイツに事前の相談無く、ギリシャに対し侵略戦争を開始したのである。

 「愚かな」ヒトラーは、頭を抱えた。「エジプトはまだ良い。あそこは、イギリスの属国だが兵力は手薄だ。しかし、ギリシャは中立国だぞ。あそこは山ばかりだし、しかもこの季節は、雨が多くて戦闘行動に不向きじゃあないか。統帥は、一体何を考えているのだ」

 その日の午前9時、土砂降りのフィレンツェ駅に降り立ったヒトラーを出迎えたムソリーニは、喜色満面で言い放った。

 「やあ、総統。我がイタリア軍は、全戦線で快進撃を続けておりますぞっ」

 ムソリーニが、かねてより予定していた総統との会見日にギリシャ侵略を開始した理由は、いつも自分を出し抜いてばかりいる盟友を驚かせるためだった。

 ヒトラーは、確かに驚いた。だが、侵略の事実にではなく、統帥の無謀さに呆れ果てたのである。

 ギリシャは、直ちにイギリスと同盟を結び、中東地方の強力なイギリス軍を呼び込んだ。クレタ島を基地にしたイギリス空軍は、活発な活動を開始したため、地中海のイタリア船舶やルーマニアの油田は、大きな危険にさらされる事となった。

 地上でも、イタリア軍は弱かった。勢いがあったのは、初戦のみであった。もともと準備不足の彼らは、たちまち補給切れに陥ってしまい、エジプトでは少数のイギリス軍に逆襲されて敗走し、出撃点のリビアにまで逃げ散った。ギリシャでも、ギリシャ・イギリス連合軍に押しまくられ、やはり出撃点のアルバニアまで攻め込まれたのである。

イタリア軍の弱さは、もとより自明の事だった。

 イタリアは、ドイツほどの経済復興を成し遂げておらず、しかも、乏しい軍需物資はエチオピア戦争とスペイン内戦で消耗し尽くしていた。また、ムソリーニ統帥は、独裁者とはいえ、国王と議会に従属する地位にあったので、国民に対する影響力は、ヒトラーよりも(あるいはチャーチルよりも)弱かったのである。そしてイタリア国民と主立った軍人たちは、今度の戦争を「ムソリーニの戦争」と呼び、その積極的意義を認めていなかった。これでは、はかばかしい戦が出来るはずもない。

 ムソリーニは、このような状況が分からないほど愚かではない。しかし、盟友ヒトラーの成功に幻惑され、今ここで無謀な賭をしなければ、ローマ帝国再興の夢は幻に終わると考えて焦ったのである。

 同じ事は、東洋でも起きた。日本では「ヒトラーのバスに乗り遅れるな」を合い言葉に、その侵略政策が無謀なまでに強化されつつあった。日本軍は、9月23日、ヴィシーフランス領インドシナ(ベトナムとラオス)北部に軍勢を送り込み、併合してしまったのである。この行為は、英米の危機感を煽り、東洋でも戦争の危機が高まった。

世界情勢は、ヒトラーの予想を超える動きを見せ始めた。

 「日本の行動は、まだ良い。アメリカとの対立が深めれば、より一層の牽制効果が期待できるし、イギリスと戦争になってくれれば、頑固なチャーチルも、二正面作戦を恐れて、我が国との和平に応じてくれるかもしれぬ」

 そう考えたヒトラーは、大島大使や松岡外相に働きかけ、日本軍による英領シンガポール攻撃を要請したのである。

 「しかし、イタリアの行為は大問題だ。アフリカの敗北は問題外としても、バルカン半島情勢は深刻だ。ルーマニアのプロエスチ大油田は、今やイギリス機の爆撃範囲内だ。ここを破壊されたら、我が国にはソ連から輸入する石油しか手に入らなくなるから、ソ連との戦争は不可能になってしまう。それだけではない。三国同盟に加入してくれたルーマニア、ハンガリー、そしてブルガリアは、イギリス軍に脅かされて大きく動揺している。だいいち、ソ連との戦争にさいして、イギリスに横腹を衝かれたらかなわない。・・不本意だが、貴重な戦力を裂いてテコ入れするしかないか。まずは、アフリカにロンメルを送ろう」

 ヒトラーは、戦争の規模が予想外に膨らんでいく事を危ぶんだ。しかし傲慢な彼は、自分がコントロールできない政治情勢の到来を信じようとはしなかった。

 「これは、私の持論である民族最終戦争の勃発を意味するのかもしれぬ。それならば望むところだ。ドイツ民族が勝つか、他民族が勝つか。受けてたってやるぞ・・」