第十九章 ワルキューレ

 

 1

 

1943年末、大西洋の闘いの帰趨は決していた。

 制空権と制海権を完全に牛耳る米英連合軍は、かつてあれほどの猛威を振るったUボートを、制圧する事に成功したのだ。今や大西洋のシーレーンの安全は保たれ、イギリス要塞島は、巨大な軍事力の集積所と化していた。

 そのため、米英連合軍の大陸への大規模侵攻は、もはや時間の問題であった。その標的は、恐らく北フランスとなろう。

 ヒトラーは、既に1943年末から、腹心のロンメル元帥を西部B軍集団司令官に任命し、フランス北岸の防備を強化させていた。しかし、フランスに駐留するドイツ軍は、東部戦線から引き上げられた休養中ないし再編成中の部隊か、訓練中の新兵ばかりである。そもそも、ドイツ全軍の八割が東部戦線でソ連と戦っている現状では、米英軍との正面対決に勝機を見いだすことは難しい。

 「上陸初日に、水際で敵を粉砕しなければならぬ。その日こそ、我々にとって一番長い日になるだろう」

ロンメルは、唇を噛んだ。

 明敏なこの男は、敵の上陸地点がノルマンディー海岸になるだろうと正確に予測していた。彼は、味方の機動部隊をこの海岸に集中配備し、敵の上陸と同時に一気にこれを突撃させ、その日のうちにアングロサクソンを海に追い落とす戦略を考案したのである。そしてヒトラーも、当初はこの案を全面的に採用していた。

しかし、横やりが入った。

 クルト・フォン・ルントシュテット元帥は、ドイツ参謀本部の生え抜きであり、今は西部方面総司令官の要職に就いていた。貴族出身の彼は、平民出身で叩き上げのロンメルと不仲だった。同様に、ヒトラーに対しても反感を持っていたのである。彼は、連合軍の上陸地点をカーン地区と比定し、しかも、敵を水際で撃破するのではなく、奥地に引きずり込んで包囲殲滅する戦略を立案したのだった。この戦略は、全ての点でロンメル案と拮抗する。

 そしてヒトラーは、またしても両者の顔を立てる調停を行った。この結果、ドイツ機動部隊は、ノルマンディーとカーンの真ん中、海岸から遠くもなければ近くもない中途半端な場所に配備されてしまったのである。総統は、この期に及んで、調停者としての機能を果たして満足していたわけだ。

 困惑したロンメルは、ヒトラーに直接抗議すべく、前線からベルリンに車を走らせた。しかし、彼の不在の隙を衝いて、敵の侵攻が開始されたのである。

 1944年6月6日、大規模な空挺降下とともにD―DAY、「大君主作戦」は始まった。猛烈な艦砲射撃と空爆に援護された圧倒的戦力の米英連合軍が、ノルマンディー海岸に殺到したのである。海岸線の脆弱な防衛線は一日で突破され、連合軍は「一番長い日」に、既に堅固な橋頭堡を確保しようとしていたのである。

ドイツ軍は、完全に出遅れた。

 海岸線に向かうドイツ軍の増援は、湧き起こったフランスの民間ゲリラ(レジスタンス)の妨害を受けて足並みを崩した。

 また、頑固なルントシュテット元帥は、ノルマンディー上陸を連合軍の陽動作戦だと信じ込み、カーン地区から動こうとしなかったため、情勢は悪化の一途を辿った。そして、奥地へ引きずり込んで包囲しようという彼の戦略も、圧倒的に優勢な敵の空軍力の前には、机上の空論でしかなかったのである。

もっともヒトラー総統は、最初は楽観的だった。

 「この時を待っていたぞ。奴らは、総力を挙げて侵攻してきた。つまり、これを海にはたき落とせば、和平が実現するということだ。これでようやく西部の全軍を東部に移し、共産主義者どもを撲滅することができるのだ。これで戦争は終わる」

 しかし、前線の連戦連敗の知らせが入るに連れて、総統の喜色は見る見る色あせた。

「軟弱な民主主義者どもを相手に、何を苦戦しているのだ」

 業を煮やしたヒトラーは、ついに秘密兵器を使う決意をした。V1(報復1号)である。ジェットエンジンで飛来するこの大型ロケット爆弾は、6月11日、ロンドンを集中攻撃し、この街を火の海にした。しかしこの新兵器は、ロンメルの主張通り、ノルマンディー海岸に向けて発射されるべきだったろう。ヒトラーは、新兵器を「政治目的」に使うことに固執したのだ。軍事と政治を混同するヒトラーの悪い癖が、また出たというわけだ。

 そして、ロンドンっ子たちは、新兵器にもたじろがなかった。冷静なイギリス人は、新兵器の防衛法をたちまち発見したからである。V1は、飛行機と同じ速度で同じ高度を飛ぶから、高射砲で撃墜出来ることに気付いたのである。それでも、被災したロンドン市民は10万人に及んだ。

 フランスの連合軍は勇戦奮闘した。物量に勝る彼らは、砲爆撃を惜しみなく行い、強力なドイツ戦車を一蹴した。ドイツ軍が砲弾を一発放てば返礼は百発になった。爆撃機が爆弾を一発落とせば、返礼は千発にもなった。それだけではない。アメリカの若者たちの生死を顧みない勇壮な突撃は、民主主義者の軟弱を信じていたドイツ軍将兵の闘志を上回り、圧倒し、大いに恐れさせたのである。

 

 2

 

 「信じられん」ヒトラー総統は、呆然となった。「アメリカ軍の強さが、これほどとは思わなかった・・・」

 ヒトラーは誤解していた。いや、日本の軍部も誤解していた。アメリカの奉ずるイデオロギー、「民主主義」に体現される自由、平等、機会均等の理念は、軟弱さを意味するものではないのだ。これは、20世紀を代表する最も高邁な理念であり、人類の永遠の理想なのだ。これに比べれば、ナチスの東方生活圏も、日本の大東亜共栄圏の理想も、利己的で前時代的な帝国主義の残滓にしか過ぎない。

 そして、アメリカの健児たちは、その高邁な理想を守るため死にものぐるいで戦ったのだ。太平洋の熱帯の島々で、アフリカの砂漠で、そしてこの北フランスの海岸で、祖国を遠く離れた彼らは、言葉も通じない人々を帝国主義者の圧制から解放するという大義のために命を賭けたのだ。

 もちろん、ルーズヴェルト大統領の政策的利益考量もあっただろう。大財閥や軍需産業の、世界市場席巻の野望もあっただろう。

 しかし、第二次大戦におけるアメリカ国民の献身的な奮闘は、それだけでは決して説明できないのである。アメリカが20世紀の覇者となったのは、決して幸運でも偶然でもない。

ヒトラーには、それが分からなかった。

 軍事技術の点でも、アメリカはドイツを大きく上回っていた。ロケットやジェット機の開発には後れをとったが、レーダーや暗号解読器に代表される電子技術、補給兵站のロジステック技術は、世界一の水準にあった。そして、ドイツがあれほど強く欲していた原子爆弾も、アメリカは実現間近の状態にあったのだ。その理由は簡単である。民主主義のアメリカでは、思想統制が無いため、どんな研究でも自由に行える。ユダヤ人の科学者であっても、自由に論文を発表できる。そして、画期的な新しい技術は、そのような土壌の中でこそ発展してゆくものなのだ。思想統制で偏った教育を施し、多くの優秀なユダヤ人を追放したナチスの知能が、アメリカのそれに劣るのは、むしろ当然の結果なのである。

ヒトラーには、それが分からなかった。

 

 3

 

 「和平です、和平しかありません」激戦区に近いソワソンの本営で、ロンメルは訴えた。「このままでは、西部も東部も崩壊します。その前に、何としても和平の道を・・・」

 「元帥」ヒトラーは、不眠症で充血しきった目を剥いた。「貴官は、いつから敗北主義者に変わったのだ」

 「フランス上空の制空権は、完全に敵のものです。上空を乱舞するヤーボ(戦闘爆撃機)の前には、我が軍の新型戦車も地を這う鈍亀です。後方の補給も、命知らずのレジスタンスに食い破られています・・」

 「制空権は、ジェット戦闘機が実戦配備されれば奪い返せる。レジスタンスは、SSが一掃することだろう」

 「総統は、そんなことで本当に祖国を救えるとお考えなのですか・・」

 「政治のことは、私が考える。貴官は、戦線の事だけ考えれば良いのだ」

ロンメルは、肩を落として項垂れた。

 既に東部戦線は、ソ連軍の電撃戦によって破滅の危機に瀕している。太平洋でも、日本はサイパン島を巡る大海戦で敗北を喫し、その海軍機動部隊の大部分が破滅したという。

 ロンメルは、クーデターグループに荷担する決意を固めた。

 ヒトラー暗殺計画は、既述の通り、かなり以前より軍部を中心に発足していた。この運動は、初期の電撃戦の成功と、連合軍による無条件降伏要求によって足並みが乱れる局面もあったが、暗殺班は数度にわたって総統を爆殺しようと試みていた。しかし、その全てが不発や不慮の事故で失敗に終わったのは、偶然のせいであると同時に、彼らの保身や躊躇によるものでもあった。

 しかし、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐は、真剣だった。彼の祖国愛は本物だった。

 この正義感溢れる若き参謀将校は、昔は熱心なヒトラー心酔者だったのだが、東部戦線での虐殺行為を目撃してから、暗殺計画の最も精力的な推進者となっていた。彼は、猫の首に鈴を付けたがらない老人たちを叱咤激励し、懐疑的な若者たちを啓蒙し、「ワルキューレ」なるクーデター計画を創り上げていたのである。

 7月17日、悲報が彼を打ちのめした。陰謀の精神的支柱として頼りにしていたロンメル元帥が、フランス戦線で戦闘機の機銃掃射を浴びて重傷を負ったのである。

 それでも、シュタウフェンベルクの決意は固かった。7月20日、東プロイセンの本営「狼の巣」に出頭した彼は、戦場で失った二本の指をかばいながら、大きな茶色のカバンを会議室に運び込んだ。平屋建て家屋の一室を用いた会議室には、ヒトラーとカイテルをはじめ、20人近くの将軍や参謀や記者が参集し、樫の大テーブル一杯に広げたロシアの地図を覗き込んでいた。大佐は、急用を装って会議室を後にした。総統の立つテーブルの足下にカバンを残して。時刻は、正午12時37分である。

 12時40分、机上の地図に身を乗り出したホイジンガー将軍の副官は、足下の大きなカバンに蹴躓いた。舌打ちした彼は、机の脚の外側にこれを置き直した。そして、この小さな配慮が歴史を変えることになる。

12時42分、大音響と共に、茶色のカバンは爆発した。

 爆発音を屋外で聞いたシュタウフェンベルク大佐は、ヒトラーの死を疑わなかった。副官と共に車に飛び乗った彼は、検問を難なく突破し、ラステンブルクの空港からベルリン行きの飛行機に移乗した。首都までの3時間で、歴史は変わっているはずだった。知らせを聞いたベルリンの同志たちは、「ワルキューレ」の合い言葉とともに首都を制圧し、ナチスの要人を逮捕し、西側との交渉を開始することだろう。

 

 4

 

 ところが、ベルリンに降り立った彼を待っていたのは、いつもと変わらぬ首都の姿だった。陰謀の共謀者ベック将軍とヴィッツレーベン元帥、オルブリヒト将軍やフロム将軍は、シュタウフェンベルクの到着を、何もせずにただ待っていたのだ。

 「何をしているのです」参謀本部に帰り着いた大佐は、苛ただしげに舌打ちした。

「総統は、どうやら生きているらしいんだ」と、ベック。

 「ばかな、あの爆発で助かるわけがない。仮に助かったとしても、首都を制圧してしまえばこっちのものじゃありませんか」

しかし、将軍たちは互いの顔を見合わせるのみであった。

やがて、フロムが口を開いた。

 「総統が生きていたのでは、このクーデターは失敗だ。シュタウフェンベルク、君は自決せよ。後の3人は、逮捕する」

「何をっ」オルブリヒトは叫んだ。「貴様、裏切るのかっ」

「何を言うか、裏切り者はお前たちだ」

 目の前で掴み合いをする将軍たちを見て、シュタウフェンベルクは嘆息して天を仰いだ。狂った独裁者の暴走を許したのは、誰でもない、この愚かな男たちだったのだと気付いたのだ・・・。

 一方、「狼の巣」では、状況の把握と分析が急ピッチで進められていた。

 爆発は6名を殺し、残りのほとんどを負傷させたが、ヒトラーとカイテルの命を奪うことは出来なかった。

 ヒトラーは、右腕を打撲し、背中に裂傷と火傷を負い、右の鼓膜が破れていたが、五体満足で普通に話ができる状態だった。彼の幸運は、爆発2分前に爆弾が置き直された事に加えて、真夏の盛りで全ての窓が開け放たれていたため、爆風が屋外に散らされた事が挙げられる。その悪運の強さは、尋常ではないということか。

 「シュタウフェンベルクは臆病者だ。私を殺したいなら、正面から拳銃で撃つか、爆弾を持って私に抱きつくべきだったのだ。自分一人逃げ出したからしくじったのだ」

 総統は、無理に笑顔を作り、強がりを言って周囲を安心させた。また、痛む体を推して本営の周囲を歩き回り、労務者たちに声をかけ、自己の健在ぶりをアピールした。

 ベルリンでは、情報が錯綜して混乱していたが、クーデター派の優柔不断は独裁者に幸いした。ヒトラーは、ゲッベルスに電話で声を聴かせて安心させ、彼に指示を与えてラジオ局と新聞局を占拠させた。プレスを確保したら、もうこちらのものだ。遅まきながら動き出したクーデター派は、SSによって各個撃破されていったのである。

 参謀本部のフロム将軍は、乱入してきたSS将兵を味方に付け、同志であったベック、オルブリヒト、そしてシュタウフェンベルクらを逮捕し、口封じのため、彼ら全員をその場で銃殺した。

「我が神聖な祖国、ドイツよ、永遠なれっ」

これが、シュタウフェンベルク大佐の最後の言葉だった。

 

 5

 

 ベニト・ムソリーニ統帥は、その日の午後から「狼の巣」でヒトラーと会談する予定でいた。しかし、到着した彼が自動車の窓から見たのは、あわただしく走り回る警備兵たちの群と、跡形もなく吹き飛んだ件の本営なのだった。

 「これは、神の恩寵です」出迎えたヒトラーは、盟友に自分のずたずたになったズボンと、火傷を見せた。「これは、クライマックスです。我々の運動が、現在の危機を乗り越えるだろう証明なのです」

 上機嫌の総統は、統帥の手を取って破壊の跡を見せて回り、それに飽きると離れのティーハウスに導いた。

 ティーハウスは、参集してきたゲーリング、リッベントロップ、デーニッツ、カイテルらが責任の擦り合いと罵り合いを始めたため、険悪な空気になった。ヒトラーは不機嫌になり、椅子に腰を降ろしたたまましばらく沈思していたが、やがて跳ね起きると、何を思ったか絶叫を始めた。

 「裏切り者は根絶やしだっ、根絶やしだっ、もっとも悲惨な死を味合わせてやるぞっ。皆殺しだっ」

 右の耳から血を垂れ流し、落ちくぼんだ目を充血させて叫ぶヒトラーの手を優しく包んだのは、ムソリーニの肉厚な拳だった。

 彼は、この瞬間までヒトラーを憎んでいた。ヒトラーは、彼の祖国イタリアを戦争に巻き込み破滅に追いやったのみならず、失脚した彼を北イタリアに拉致して傀儡政権を造らせ、まったく形だけの道具として扱っている。それだけではない。その過程で、娘婿のチアノ伯ら、かつての彼の同志たちを、戦犯の汚名を着せて大量処刑したのだ。また、占領地のイタリアで、多くの同胞を使役し、虐殺しているのだ。

 だが、ムソリーニは、孤独と猜疑心に震える総統を見て、彼の不幸を理解し、怨みを忘れた。

 私と同じだ。彼も、間もなく地獄に堕ちるのだ。彼は、私にとって全体主義の後輩であり、枢軸国の同志だった。おそらく、地獄でもこの腐れ縁は続くのだろう。共に、裁きを受けるのだ。

 ムソリーニは、慈愛の心を胸に、ヒトラーの震える拳を優しく握り続けた。

 そしてこれが、20世紀を代表する二人の独裁者の、最後の会見となったのである。

 

 6

 

戦局は、もはや破滅的であった。

 東部戦線では、ソ連軍が猛攻撃を開始し、7月3日にはミンスクを、同25日にはリヴォフを奪回してポーランド国境に迫った。この勢いを前に、8月末にはルーマニア、9月末にはブルガリアとフィンランドが、相次いでソ連に降伏した。ここにドイツは、最後の油田も失ったのである。これでは、新兵器のミサイルやジェット機を実戦投入しても、その燃料が確保できない。

 8月、ワルシャワで大規模な反乱が起きたが、これはSS部隊によって鎮圧された。ソ連軍は、すぐ近くにいながら傍観していた。欧州共産化を目論むスターリンは、ポーランド共和党の蜂起を見殺しにしたというわけだ。

 一方、ユーゴスラビアでは、共産系パルチザンが、チトーの指導力の元に堅く結束し、独力で全土を解放しつつあった。

 西部戦線では、8月16日にノルマンディーのドイツ軍を壊滅させたアメリカ軍は、早くも同25日にパリに入城した。フランスの解放である。自由フランス軍のド・ゴール将軍率いる臨時政府は、直ちに対独参戦した。

 猛将パットン率いるアメリカ軍は、フランス全土を解放するや直ちに東進を開始し、独仏国境を制圧し、10月、ドイツ領アーヘンを占領した。

 イギリス軍も、負けてはいない。9月17日、オランダ領内に空挺部隊による強襲作戦を決行し(マーケットガーデン作戦)、大損害を出しながらも橋頭堡を築く事に成功し、ドイツ本国へと迫ったのである。

 なお、イタリア戦線では、6月4日にアメリカ軍がローマを解放し、さらに北進を続けていた。国内を跋扈するイタリア人パルチザンは、執拗な襲撃でドイツの占領軍を苦しめていた。

 しかし、クーデターの後始末に追われるドイツ軍は、これらの情勢に対して、有効な対策を取れずにいたのである。

 「ワルキューレ」の失敗は、ヒトラー暗殺計画の全貌を明るみに出した。次々と芋蔓式に逮捕される関係者の中には、首謀者のヴィッツレーベン元帥をはじめ、情報部のカナリス将軍、ハンス情報局長、ライプチヒ市長ゲルデラーら60余名の姿があった。彼らは、公開裁判で侮辱された上、ピアノ線での絞首刑を宣告されたのである。

 また、前線に出ていた関係者、すなわちトレシュコウ将軍、シュチルプナーゲル将軍、そしてクルーゲ元帥らは、逃れられぬと悟ってそれぞれ自殺した。

 このクーデターで命を落とした関係者は、総計で6千名にも及ぶと言われている。

そして国民的英雄も、今やその数に加わろうとしていた。

 

 7

 

 「信じられぬ」ヒトラー総統は、打ちひしがれて頭を抱えた。「あのロンメルが、裏切り者の一味だなんて考えられない」

 エルヴィン・ロンメルは、1891年に学校長の子として生まれた。軍人を志した彼は、第一次大戦のイタリア戦線で勇名を馳せたが、貴族出身者でなかったため、その出世の道は厳しかった。そんな彼の才能を見いだしたヒトラーは、既に1936年に自分の専属護衛官に任命し、ナチズムの教義を叩き込んだ。そしてロンメルは、ヒトラーの知遇に感激し、彼のために粉骨砕身働く決意を固めたのである。ヒトラーは、そんなロンメルを愛していた。だからこそ、アフリカ戦線を一任し、史上最年少(50歳)の元帥に昇進させたのだ。死守命令を無視してエジプトから撤退した彼を咎めなかったのだ。

 そのロンメルにも見放された総統は、今や絶望に胸を引き裂かれる思いだった。

 だが実際には、ロンメルはヒトラーを暗殺するつもりはなかった。彼はヒトラーの政治能力を未だに信じていたので、総統を軟禁し、和平への道を切り開くよう説得するプランを考えていたのである。しかし、ロンメルが重傷を負って人事不省に陥っている間に、彼の副官が、不用意な言質をクーデターグループに与えてしまっていたのだ。もはや、釈明はできない。

 10月14日、ヒトラーから派遣された使節が、ヘルリンゲンのロンメルの家を訪れた。ようやく戦場で受けた傷が完治した元帥は、今度は自ら毒を飲んで命を絶つよう強要されたのである。

 国民的英雄ロンメル将軍の死は、戦傷悪化による名誉の戦死として公表され、盛大な国葬が営まれた。だが、ヒトラーの名代となったルントシュテット元帥は、未亡人に花束を渡そうとして断られたという・・。

ヒトラーは、ベルクホーフの一室で、エヴァの膝に顔を埋めた。

 「何という重荷だろうか。私は、一日24時間戦っている。オペラも絵画も映画も棄てて、全ての時間を世界との戦いに費やしているのだ。そして、信頼できる人物は、もう私の周りには一人もいない。頼りになるのは自分だけだ。何という苦痛。何という拷問。いっそのこと、死んでしまった方が、この重荷から解放されて幸せなのかもしれない・・」

 「あたしが付いているわ」エヴァは、愛する人の白髪混じりの髪を優しく撫でた。「どんな時でも、あたしはあなたのそばにいるわ。あなたは決して孤独じゃない。それだけは忘れないで」