第五章 愛する姪

 

 ランツベルクから出所したヒトラーを待ち受けていた試練は、党内の派閥闘争であった。

 1926年正月、ナチスの北部地区指導者グレゴル・シュトラッサーは、己の器量に自信を持っていたので、いよいよヒトラーと対決し、党の主導権を手に入れようと考えた。

 「アドルフは傑物だが、社会主義の理想を理解していない。資本家や軍閥と提携するなどもってのほかだよ。奴らを打倒し、全てを大衆に還元すべきなのだ。そうだろう、ゲッベルス君」

 「まことに、そのとおりです」

 そう答えたのは、わずか29歳にして文学博士号を持つ、ヨゼフ・ゲッベルス青年だった。ヒトラーの演説に惹かれてナチスに入党したこの小男は、今やシュトラッサーの参謀として、ここ北部地区の本部ベルリンで辣腕を振るっていた。この青年は、若い頃小説家を目指しただけあって、小柄で貧相なその容姿の中に、溢れるばかりの文才と演説の才能を兼備していたのである。

 「アドルフの時代はもう終わりだ」

 「ミュンヘンでも、ナチスより、ルーテンドルフ将軍の立ち上げた新党のシンパの方が多い情勢ですからね」

 「獄中にいる間、党の地下運動の指揮をローゼンベルクに任せたのが、アドルフのミスだ。あのロシア亡命者は、頭はいいし独自の民族理論を持っているが、なにしろ人望がないからな」

 「あのロシア系は、ハンフシュテングル氏とも不仲ですし」

 「まあ、いずれにせよ、これからの国家社会主義は、我々の時代だ。頼むよ、ゲッベルス君」

 ところが、得意満面のシュトラッサーの細長い顔は、まもなく渋面に取って代わられたのである。

 1926年2月、南ドイツのバンベルクの街で、ヒトラーとシュトラッサーは対決した。シュトラッサーには勝利の自信があった。ヒトラーの綱領を否決し、自分が定めた社会主義的な綱領で党の主導権を握る準備は出来ていた。会場は、ゲッベルスを始め自分のシンパで一杯だ。

 しかし、ヒトラーの弁舌の力とカリスマ性は、依然として健在だった。

 「綱領の変更は、ミュンヘンで死んでいった同志たちへの侮辱である」ヒトラーの眼光は、鋭く周囲を射た。満座は、催眠術を掛けられたように陶然となった。

 結局、会議に集まった全員が、ヒトラーの定めた当初の綱領の支持に回ったのである。頼りのゲッベルスですら、額に苦渋の汗を浮かべて黙り込むしかなかった。

 愕然としたシュトラッサーの派閥の解体は、それから間もなくのことだった。いつのまにか、ヒトラーによって足下から切り崩されてしまったのだ。あのゲッベルスさえも、いつしかヒトラーの側近へと寝返っていた。

 「シュトラッサー君」ヒトラーは笑顔を浮かべて敗者に語りかけた。「君の才能は高く評価する。これからも、党のため力を尽くしてくれたまえ」

 「・・・」

 シュトラッサーは、深く項垂れ、そしてヒトラーの軍門に降ったのである。

 

 2

  アドルフ・ヒトラーは、ミュンヘンプッチの後、五年の禁固刑を言い渡されたのだったが、結局九ヶ月の服役で出所した。その理由は、本人の服役態度が神妙だったということに加えて、ドイツ経済が安定してきたため、彼を出所させても大事ないと思われたためである。

 1924年9月、ドイツの苦境を見かねたアメリカは、ドーズ准将を中心とする委員会を発足し、莫大な借款をドイツに供与するとともに、賠償問題の再調整に着手した。いわゆるドーズプランである。この結果、流れ込んだアメリカ資本によってドイツ経済は安定し、左右の過激政党はその動きを鈍らせた。ベルリンの政府も、ようやく愁眉を開き、非常事態宣言を解除したのである。

 そんな中で出所したヒトラーは、さっそく禁止されていたナチス党の再開をバイエルン政府に願い出たが、このような情勢を反映して、許可は簡単におりた。有頂天になったヒトラーは、因縁深きビュルガーブロイケラーで大講演会を開き、四千の聴衆を熱狂させた。ところが、さすがにこの大成功は当局を警戒させた。こうして、不運な弁士は二年間の演説禁止を宣告されてしまったのである。

 「困ったな、ちょっとはしゃぎすぎた」

 頬杖ついて落ち込むヒトラーは、党員がプッチ前の五万人から二万人に減少したとの知らせに衝撃を受け、また、税務調査に追いかけ回され、前述のシュトラッサーの反逆を受け、終いには全国選挙で大敗を喫した。

 「火の車とはこのことだ。私はしばらく山に籠もって、本の続きを書くよ」

 自嘲気味に側近たちにつぶやく、打ちひしがれた党首の姿がそこにあった。

 本というのは、側近のルドルフ・ヘスを相手に口述した政治書『我が闘争』のことである。これは二部構成になっており、第一部は自伝、第二部は政治理念や政策がテーマとなっている。第一部は獄中でほぼ完成し、著者の出所の後に出版されたが、売れ行きは意外と好調だった。窮乏しかかっていたヒトラーは、その印税収入で一息つくことができた。そこで、暇を利用して第二部を執筆しようと考えたのである。

 この『我が闘争』は、やがてナチスという巨大な宗教のバイブルとなる。

 ところで、ウイーンに住むヒトラーの姉アンゲラは、夫のレオ・ラウバルが病死して以来、弟と頻繁に連絡を取るようになっていた。ヒトラーは、二人の子供を抱えて苦労する姉のために力になりたいと考えた。そこで、お気に入りの景勝地ベルヒテスガーデン(南ドイツのババリアアルプス山中)の一軒家が党員の好意で手に入った時、そこの管理人として彼女に住み込んでもらうことにしたのである。そこには、運命の出会いが待っていた。

 

 3

  母と同じ名前を持つこの闊達な少女は、みんなからゲリと愛称で呼ばれていた。ようやく20歳になったばかり。ライトブラウンの美しい髪の持ち主で、健康さを全身から発散させていた。

 「やあ、随分大きくなったねえ」

 アドルフ叔父さんは、再会のとき、軽く頬を叩いてくれた。そして、ゲリはこの風変わりで有名な叔父をからかいたくなった。

 それからのヒトラーは、すっかりゲリのお供のようになった。

 「ドルフ叔父さあん、乗馬に行きましょ」

 「ドルフ叔父さあん、泳ぎに行きましょ」

 「ドルフ叔父さあん、ピアノを教えて」

 可愛い姪の鈴のような声を聴くたびに、ヒトラーは大事な会議も中断し、相好を崩し、いそいそと吸い寄せられて行くのだった。

 「困った娘だな、ありゃあ」

 ハンフシュテングルが首をひねった。彼は不機嫌だった。なにしろ、『我が闘争』における外国描写について誤りを正そうとしても、姪に首ったけの党首が断固としてはねつけるからである。

 「なあ、ヘス、日本人が文化模倣者というのは間違いだぞ。あれはあれで、高度に発達した一つの文化なんだ。白人の色眼鏡で見てはいけないよ」

 「そうですか」ルドルフ・ヘスは、濃い眉をひくひくさせながら答えた。「地政学のハウスホーファー教授も、そんなことを言っていました。でも、僕は恩師より総統を信じますね」

 「やれやれ、あんたはイエスマンだもんなあ」ハンフシュテングルは、大あくびをした。その耳朶を打つのは、例の娘の嬌声である。

 「本気じゃあないよなあ、うちの大将。20も年が離れた、あんな小娘にさあ」

 ところで、『我が闘争』第二部の内容は、その後のドイツの運命を正確に予言している。ヒトラーは、著書の中で反共、反ユダヤ、反ベルサイユを説くとともに、ドイツ民族の優秀性、フランスへの復讐、経済政策、福祉政策、東欧植民地政策について述べている。その後の歴史の推移を見るに、ヒトラーという人物は、著書の内容を正確に実現しようとしたのである。ということは、『我が闘争』の内容が、各国でもっと深く研究されていたら、第二次世界大戦の悲劇は、未然に防げたかもしれないのだが・・・。

 さて、ゲリは年頃の普通の娘だったから、お洒落もしたければデートもしたかった。でも、高名な叔父は随分と口うるさかった。

 「なんだ、その服は」ゲリの外行きの姿を見て、叔父は口ひげを震わせた。「若い女の子がそんな薄ぺらな服を着てはいかん。裸も同然じゃあないか」

 「あら、じゃあどんな服ならいいの」

 「叔父さんが、デザインしてやる」

 そう言うと、ヒトラーは姪のスケッチブックを借りて、彼女に相応しい(と思う)ファッションをスケッチした。しかし、

 「なあにこれえ、ださいわ。ださすぎる」

 「ださいとは、どういう意味だね」

 「時代遅れで、格好悪いということよ」

 「なんだと、叔父さんが一生懸命考えたのに、なんて悪い子だろう」

 「なによ、ドルフ叔父さんなんて大嫌い。もう口も利いてあげないんだから」

 そう言って走り去る姪の後ろ姿を見て、ヒトラーはその顔を左右に打ち振った。そして後を追った。

 「ごめんよ、叔父さんが悪かった・・許しておくれ」

 そんな呑気な生活の中でも、側近たちの努力によって、『我が闘争』は出来上がった。ただ、売れ行きはさっぱりだった。ドイツの経済は、今や完全に復興し、ナチスの綱領もヒトラーの政見も、もはや大衆にとっては無縁のものだったからである。民衆というものは、腹が減ると反動を応援し、逆に腹がくちくなると体制の味方になるものなのだ。

 そのため、ようやく解禁されたヒトラー得意の演説も、単なるショーとして受け止められる有様だった。

 「ああ、暇だなあ」

   ヒトラーは、いきおい、ベルヒテスガーデンに遊びに行く機会が多くなった。だが、半ズボンに身を包み、可愛い姪と山歩きをしたこのころが、人間として最も幸せで充実した時期だったかもしれない。

 

 4

  このままドイツ経済が順調で、ドイツ国民が幸せであったなら、ナチスは地方の過激な政党の一つとして終わっていたことだろう。

 しかし、1929年10月、異常な投機熱の反動で、ニューヨークの株式市場は大暴落し、アメリカ経済は大混乱に陥った。『黒い木曜日』である。これは、世界大恐慌の引き金となる。

 ドーズプラン、そしてその修正案であるヤングプランによってアメリカ経済に多くを依存していたドイツは、この大恐慌の影響を直接的に受けることとなった。街には失業者が溢れ、デモや暴動が頻発するようになり、再び世直しが声高に叫ばれるようになった。

 皮肉なことに、この経済危機が、財政破綻の危機を迎えていたナチス党を救った。多くの援助者が現れたため、その寄付金で大いに潤ったのである。『我が闘争』の売上も伸び始め、党員数も年末には17万人を突破した。

 ヒトラーはそのころ、ミュンヘンのプリンツレゲンテンプラーツ16番地にある、三階建てアパートの二階(9部屋)を借り切って生活していた。同じ階に一緒に住むのは、前の下宿先一家と、医学の勉強をするために田舎から出てきたゲリだった。

 ヒトラーは、暇なときはこの姪の買い物につき合ったり、喫茶店で一緒にお茶したりの毎日を送っていたが、党の活動が活発になってくると、そうもしていられなくなった。

 「つまんないわ」

 仕事中毒者に変貌した叔父に失望したゲリは、他に友人を作ってデートしたりし始めた。ヒトラーは単なる叔父だし、何の罪悪感も感じていなかった。しかし、

 「いかん」家政婦から事情を聞いたヒトラーは、額に青筋を立てて怒った。「わたし以外の男と外出することは許さんぞ」

 「えっ、どうして」

 「お前は田舎育ちだから分からないだろうが、大都会には悪い男が大勢いるんだ。お前にもしものことがあったら、お前の母に何と言って謝ればいいのか・・・」

 「分かったわ」唇を噛んでうつむくゲリ。しかし、若くて活発なこの娘は、籠の中の鳥に甘んじていられるタイプではなかった。

 さて、このころのナチスは、プッチ失敗の教訓を生かし、合法路線に完全に切り替えていた。すなわち、民主主義の手続きに従い、総選挙に勝利してベルリンの議会に乗り込もうとしていたのである。そのために必要なのは、選挙に耐えうる資金力、組織力、そしてプロパガンダ(宣伝)である。

 ヒトラーは、目的合理主義者であったから、この路線への切り替えは、鮮やかすぎるほどに極端だった。社交界に出入りし、誰に対しても甘言を並べて寄付を募る一方で、党組織の改編と強化に真摯な姿勢で取り組んだ。全国の選挙区に応じて大管区や小管区(ガウ)を設定し、それらの組織が有機的に党首(総統)に結びつくように編成した。

 ところが、そんなヒトラーの資本家寄りの姿勢や、合法路線に不満を持つ者たちも多かった。彼らは、前述のシュトラッサーのように反旗を翻そうと試みたが、その度にへこまされたのである。SAのレーム大尉は、党首と口論の結果ナチスを去り、南米ボリビアに移住してしまった。同じくSAのヒムラーも、実家の養蜂業を継ぐと称して脱退してしまった。

 それでも、まだヒトラーは意気軒昂としていた。ゲーリング大尉が負傷を治癒して復帰し、また、ゲッベルスという稀代の宣伝屋が手に入ったからである。

 1930年1月、ホルスト・ヴェッセルという青年が、娼婦をしている恋人の家で恋敵に射殺された。痴情のもつれである。ところが、ホルストはたまたまナチス党員であり、彼を殺したヘラーは共産党員だった。そして、ゲッベルスは叫んだ。

 「ホルストは、国家社会主義のキリストだ。彼は、貧しい人々を救うため、娼婦の家で奉仕をしていた。そこを共産主義の悪魔に襲われたのだ。彼の死を無駄にしてはならない」

 このころ、ナチスと共産党は、武装組織を使って互いに過激な選挙妨害の応酬を繰り返していたから、ゲッベルスの言葉は意外と説得力を持った。マスコミも、この殺人事件を単なる痴話喧嘩の結果とは見なさず、政治的暗殺だと信じ込んだ。

 「よし、これだ」

 ゲッベルスは、党の全力を挙げてこの哀れな青年の葬儀を営み、次いで、ホルストが生前に遺した詩にキャッチーなメロデイーを付け、党員の行進曲とした。この詩『旗を掲げよ』は、やがてナチスの党歌となる。これらの施策によって、党員たちの団結力と連帯は一段と強まったのである。

 それだけではない。褐色に統一されたシャツを着込んだ党員たちが、足並みそろえて行進しながら『旗を掲げよ』を熱唱する有様は、女子供をはじめ、大衆たちの好感と人気を呼び込んだのである。

 ゲッベルスは、宣伝の天才だった。当時の最新機器であるマイクロフォンを演説会場に最初に持ち込んだのも彼なら、ラジオなどの最新マスメディアを利用して、広範な講演を行うことを考えたのも彼だった。

 ゲッベルスは、アメリカの商業製品のコマーシャルを研究し、一つの真理に到達した。すなわち、宣伝とは、必ずしも真実を語ることではない。聴衆に心地良いことをアピールすることなのだと。

 このころ、ナチスに対抗しうる唯一の過激野党は共産党であったが、彼らは祖国よりもモスクワの利益のために活動していたため、大衆から遊離してしまっていた。また、ヒトラーやゲッベルスのような宣伝の才能を欠いていたため、その勢いを少しずつ減じていた。

 ナチスと共産党は、それぞれ右翼と左翼に色分けされるが、実は良く似た政党なのである。どちらも、旧貴族や資本家といった特権階級を打倒し、大衆のための社会を創ろうとする点で共通している。ただ、共産党は資本家らの公職追放を主張するのだが、ナチスは彼らとの共存を図ろうとする点が相違する。ヒトラーは、大衆による国家支配の枠組みの中に、旧貴族や資本家を組み込もうと考えていた。なぜなら、ヒトラーの意図する階級闘争は、資本家と労働者のそれではなく、ドイツ人と非ドイツ人のそれであったからである。ドイツ社会から排斥すべき対象は資本家ではなく、ユダヤ人とその配下にある共産主義者なのであった。

 ヒトラーの思想は、実は極めて単純であった。彼の目標は、ドイツをヨーロッパの覇権国家に押し上げること。すなわち、第一次大戦で雲散霧消したドイツ帝国主義の再生を目指しており、そういう点では極めて保守的な政治家といえた。

 しかし、彼の目指す帝国主義は、かつて皇帝や貴族が己の利益のために目指したそれではなく、あくまで大衆の生活圏を手に入れるためのものであった。

 また、ヒトラーの保守的な帝国主義思想は、最先端の科学によって理論武装されている点に大きな特徴があった。

 当時、ダーウインの『進化論』を人種間に応用する議論が流行していたが、ヒトラーは明らかにこの議論を鵜呑みにしていた。彼は、人種間の生存競争こそが人類の宿命であり、この競争の勝者のみが、人類の未来を保証できると考えていた。それゆえ、ドイツ民族はより強力になって、競争に勝ち抜くべきだと考えていたのである。

 また、ヒトラーはマルサスの『人口論』にも影響されていた。このままドイツの人口が増え続ければいずれ飢饉が来るものと信じており、それに備えて植民地を確保しなければならないと考えていた。具体的には、ソ連と東欧をその標的としていたのだが、これは旧来のドイツ帝国主義思想の志向と完全に一致する。

 つまり、ヒトラーとは、大衆を支持基盤とする、最新科学によって理論武装された保守的帝国主義者と言えようか。そして、ヒトラー自身、自分のこの本質を熟知し、うまく使いこなした。彼が保守革新を問わず、ドイツ国内の広範な支持を獲得できた理由はここにあった。

 

 5

  「あたし、結婚するわ」

 姪の思わぬ告白に、多忙のナチス党首は思わずフォークを取り落とした。

 「い、今、なんて言ったんだい」

 「だからあ、結婚するの」

 「誰とだね・・」

 「叔父さんの運転手のモーリスさん」

 「なんだって・・どうして」

 「どうしてって・・叔父さんこの前言ってたじゃない。お前とモーリスが結婚するなら、祝福してやるって」

 「ばかっ、あれはたとえ話だ。なんで運転手ふぜいとの結婚を私が祝福しなければならぬ。いい加減にしろ」

 「ひどいわ・・」

 ヒトラーは拳を震わせ、ゲリは泣きじゃくり、そして哀れなモーリスは、この翌日に解雇された。

 この叔父と姪の関係は、誰がどう見ても不自然だった。今度のことも、まるで痴話喧嘩である。

 「総統は、結婚されんのですか」

 ゲーリングが、あるとき水を向けてみた。

 「そいつは無理だよ、ヘルマン」ヒトラーは、ちょび髭をひねりながら上機嫌で答えた。「そんなことしたら、私の婦人票が激減してしまうじゃないか。ベヒシュタインさんら上流婦人たちも、今までみたいに気前よく寄付してくれなくなるかもしれないよ」

 ヒトラーの言葉は、まんざら冗談でもなかった。ヒトラーには、何か女性の心を惹きつける特質があるらしく、彼に対する女性の熱狂的な支持は、ナチスの活動にとって侮れない影響力を持っていたのだ。

 「総統は、仕事のために私生活の幸福を犠牲にされるおつもりですか」

 奢侈な派手好みのゲーリングは、禁欲的な生活態度を守り続ける党首の生き方が理解できない。

 「馬鹿いうなよ、私にはゲリがいるじゃないか。私は、ただそれだけで幸せなんだ」

 「それでは、ゲリさんと、いずれは結婚されるおつもりなのですか」

 「まさか、叔父と姪だよ。年も20も離れている。それに我が家は、ただでさえ近親相姦の血筋なんだ。父は私生児で、その父親の名前すら分からない。イギリスの新聞に、ヒトラー家にユダヤの血が流れているなどと中傷記事を書かれたくらいだ。おまけに早死にの家系だ。父も母も若死にだったし、私の兄弟8人のうち、物心付くまで生きながらえたのは、異母兄のアロイスと異母姉のアンゲラと、妹のパウラだけだ。きっと、私も長生きはできないだろう。要するに、うちはろくな家系じゃない。子孫を残す気にはならないし、結婚なんてとんでもない。でも、それだからこそ彼女は良い伴侶なのだ」

 「しかし、ゲリさんは本当にそれで幸せなのでしょうかねえ」ゲーリングは、大きな肩をすくめた。

 

 6

  1930年9月の総選挙は、国家社会主義にとって大躍進の道標となった。二年前の16議席は、いまや107議席となっていた。

 「信じられない」

 社会民主党(与党)の要人たちは、一斉に色を失った。彼らは、前回の総選挙でのナチス大敗によって、この過激な政党が落伍者に転落したものと思いこんでいて、今回の選挙では完全にノーマークにしていたからである。

 そして今や、NSDAPは、人口6千万人を抱える大国の第二政党に成り上がったのだ。

 かつてミュンヘンで屯っていた小さな極右政党は、今や彗星のごとく駆け上がり、ドイツの明暗を握る存在となった。このことは世界中を驚かせたが、大恐慌の処理に追われる各国は自分のことに手一杯で、とてもその事態の深刻さを思いやるどころではなかった。

 しかし、党組織の巨大化は新たな軋轢を生む。

 1931年3月、シュテンネスを首班とするSAは、ヒトラーが彼らに、党ではなく党首個人に忠誠を誓うことを求めたことに反発し、公然と反旗を翻した。暴力集団として組織化された彼らは、当時60万人もの構成員を抱えており、かねてからヒトラーの遵法路線を軟弱として非難していたので、この対立は、いずれは避けられないものであった。

 もともとSAは、ベルサイユ条約で兵力削減をされたドイツ軍部が、将来の再軍備に備えてベテラン兵士を民間政党に預けた「隠れ兵力」の一部であったので、ヒトラーや党に対する忠誠心など持っていなかった。ヒトラーが、彼らとは別組織の親衛隊(SS)を創ったのは、そのためである。これまでSAとヒトラーの仲がうまく行っていたのは、SA隊長レームとヒトラーの個人的友情に負うものが大きかった。そのレームは、今はボリビアにいる。SAの暴動は、むしろ当然と言えよう。

 だが、騒ぎを起こしたくないヒトラーは、精力的に動き回り、SA幹部たちを説得して、ついにシュテンネスを孤立させることに成功した。4月、シュテンネスは党を去った。彼の後がまには、南米よりレームを呼び戻して当てることにした。また、SAを牽制するために親衛隊(SS)を拡充し、隊長にはヒムラーを郷里より招聘して、これに当てることとした。

 この事件の顛末からも窺えるが、ヒトラーは、対立する敵を撲滅することよりも、無力化して取り込むことに手腕を発揮する政治家だった。彼は、ドイツ国内に根強く残る旧貴族や資本家たちに対しても同じ手腕を駆使しようと考えていた。その点では、旧支配階級の殲滅を重視するレーニン主義とは大きく相違する。それゆえ、ヒトラーのやり方に不服を持つ社会主義的な有力党員も多く存在し、このころのナチスは、必ずしも一枚岩ではなかったのである。今度のSAの反乱未遂にしても、背後で糸を引いている要人の影がかいま見られた。

 ヒトラーは、そしらぬ顔でゲッベルスの肩を叩いた。

 「良き親というものは、子供が良心に目覚めるのを辛抱強く待たなければならない」

 思わず顔をそむけた痩せた博士は、したたり落ちる冷や汗を必死に拭うのだった。

 心を入れ替えたゲッベルスは、ハンフシュテングルと力を合わせ、ナチスの対外宣伝を強化した。彼は、海外特派員に説明した。ナチスの目的は反共、反ベルサイユであり、ひいてはヨーロッパの秩序を安定させることであると。しかし、日毎に激しさを増しているユダヤ人への暴行については、慎重に口をつぐんだ。ユダヤ系が多くを占めるアメリカの政界の評判を意識したからである。

 

 7

  職務に忙殺されるヒトラーは気づかなかったのだが、彼の最愛の人は、再び恋に落ちていた。

 今度の相手は、ウイーン出身の画家で、喫茶店で知り合って祖国の話をするうちに、急速に親しくなったものであった。

 「叔父さんには、知られたくない。どうせ邪魔されるもの」

 その予感は、不幸にも的中した。家政婦から事情を聞いたヒトラーは、さっそく手を回して二人を別れさせたのである。

 「あたしは、叔父さんにとって何・・」ゲリの焦燥は、痛々しいばかりだった。いつのまにか持ち前の快活さは失われ、ぼんやりと考え込むことが多くなっていた。

 「叔父さんにとって、あたしは女でもない。子供でもない。いやよ、こんな中途半端は」

 ベルヒテスガーデンの母親に会いに出かけたゲリは、思いの丈をぶちまけた。

 「少し距離を置きなさい」娘と同じ名を持つ母は、やさしく肩を抱いてくれた。「一人で旅行に出かけて、本当の自分の気持ちを探すといいわ。そして、はっきりとアドルフに言いなさい。本当の気持ちを」

 「ありがとう、お母さん」

 ウイーンに出かけよう。旅行カバンに荷物を詰め込んだ。そこへ電話が。ヒトラーの声だ。

 「勝手な旅行は許さない。早くミュンヘンに帰ってきなさい。そして、週末を一緒に過ごそう」

 まあ仕方ない。自分を見つめ直すのは、ミュンヘンでも出来ないわけじゃあない。

 大急ぎで帰宅したゲリを待っていたのは、しかし冷たい叔父の態度だった。

 「急な会議が入ったんだ。週末は、ベルリンに出かけなければならない。お前は、留守を守っていてくれ」

 「だったら」ゲリは金切り声を上げた。「どうしてあたしを呼び戻したのよ」

 「身内の安全を守るのは、私の義務だからだ」

 「嘘よ。叔父さんは、あたしが他の男の人と親しくなるのが怖いのよ。だからあたしを閉じこめようとするんだわ」

 「お前が、ろくな男を選ばないからだ」

 「何よ、よく知りもしないで。勝手なことばかり言って」

 「どうしたんだ、ゲリ」いつにない姪の激しい態度に、さすがの叔父も辟易しだした。「機嫌を直して、お前の大好きなスパゲッティでも食べようよ」

 二人は、食事中、終始無言であった。どちらも目を伏せ、暗い表情でひたすら皿と格闘していた。ただし、叔父の頭には、対面に座るうつろな目をした少女の面影は無く、その思念は、この先の講演の草稿で埋め尽くされていた。

 ゲリは、そんな叔父の額をしばし見つめていたが、やがて憤然として席を立った。いつものように、自室に戻ってひとしきり泣こう。泣けばきっと気が晴れる。そんな彼女は、玄関先に掛けてある叔父のトレンチコートに目を留めた。そのポケットから白い紙がはみだしている。手紙のようだ。すかさず抜いて、自室に持ち込むことに決めた。冷たい叔父を困らせてやりたかったのだ。

 愛用のソファに座り、例の手紙を読み上げるゲリ。その横顔は、たちまち蒼白となった。そこには、明らかにそれと分かる女性の筆跡で、次のように書かれてあった。

   いとしきヒトラー様

   劇場の招待、ありがとうございました。

    私にとって忘れられない夜になりました。

  ご親切には、いつも感謝しております。  

  またお会いできる日を指折り数えて待ち

  こがれています。    エヴァより

            

 「誰よ・・誰よエヴァって・・」

   叔父に女がいた。間違いない。叔父は、あたしに隠れて恋人とつき合っている。あたしの恋愛を邪魔し、自由を束縛しているくせにあたしの知らない女とつき合っているんだ。ひどい。これはあんまりだ。

 夢遊病者のように部屋を出たゲリは、玄関先で、ちょうど出かけようとするヒトラーの後ろ姿を見送る形になった。

 「さよなら、叔父さん」彼女は、強ばった表情を崩し、精一杯の笑顔で手を振った。何も知らぬ叔父は、笑顔で歩み寄ると、姪の頬を軽く叩き、そして言った。

 「行って来るよ。留守は頼む」

 迎えのベンツに乗り込んだヒトラーは、右手の指が濡れているのに気づいた。姪の頬に触れた指だ。

 「あいつ、泣いていたのか・・」

 嫌な胸騒ぎがした。気候のせいと思って打ち消そうとしたが、どうしても胸騒ぎは晴れなかった。

 そして、その予感は的中した。彼の愛する少女は、叔父に貰ったピストルでその胸を撃ち抜いて命を絶ったのである。その日の夜遅くの出来事だった。

 

 8

  総統は、打ちひしがれ、見る影もないほどに憔悴していた。

 ヒトラーは、姪の死をその翌朝に知った。側近のホフマンとともに、前泊したニュールンベルクのホテルを出て、車でハンブルクに移動する途中、タクシーで追ってきたホテルのボーイから事情を聞いたのである。

 一行は、大慌てでミュンヘンに引き返したが、既に遺体は運び去られていた。事件のあったアパートには、ミュンヘン在中のナチスの幹部たちが続々と駆けつけてきていた。

 「新聞記者が事件をかぎつけたようです」ヘスが沈痛な面もちで報告した。

 「しばらく身を隠した方が賢明です。印刷屋のミュラーの別荘が郊外にあります。そこならば・・」ホフマンが進言した。

 「後の処置は、ヘスに任せる。ひどい中傷記事を書かれたら、党は大打撃を受けるからな・・・」ヒトラーは、右手の中指を唇に押し当てながらつぶやいた。そこにあったはずの姪の涙は、とっくに乾ききっている。

 ハンフシュテングルは、そんな総統の姿を見て、さっそくミュラーの別荘に電話を入れて、銃器を全て隠すように指示した。ヒトラーの中に、後追い自殺の臭いを嗅ぎ取ったからである。

 ヒトラーは、ホフマンとともにミュラーの別荘に到着すると、部屋を借りて閉じこもった。そして、一滴の水も一片の食事も口にすることなく、一晩中部屋の中を歩き回った。ドアの外から呼びかける忠実な側近の声にも、いっさい耳を貸さなかった。

 「何が悪かったのか」ヒトラーは、自分自身に問いかけた。確かに、自分はあの少女の自由を束縛したかもしれない。でも、それは全て、世間知らずの彼女の身の上を思いやっての行為だったのだ。自分を責めることがあるとすれば、それは仕事に夢中のあまり、彼女のための時間を作ってあげられなかったことだ。国家社会主義の理想のために、彼女の気持ちを犠牲にしすぎたのだ。

 「あの子なら、きっと分かってくれると思っていたのに・・あの子だけは特別だと思っていたのに・・・」

 ヒトラーは、過去の自分を振り返り、その苦しみと挫折の大きさを思い見た。最愛の母は、癌で苦しみながら死んだ。芸術家を目指した少年時代、美術学校の石頭どもにその道を閉ざされた。愛国心に燃えた青年時代、ドイツの敗北に打ちひしがれた。政治家に転身してからは、ミュンヘンプッチで無惨な敗北を味わった。そして今、最愛の女性を永遠に失ってしまった。いつもいつも大きな打撃を受けてきた。自分の人生は、不運と挫折に満ちあふれている。何かが間違っているのだろうか。

 「いや、そんなことはない」ヒトラーは、自分の弱気を強く打ち消した。「これは、試練なのだ。前人未踏の偉大な業績を成し遂げようとする者に付き物の試練なのだ。フリードリヒ大王を見よ。試練を克服する者こそ超人と呼ばれる。国家社会主義は正しい。それに邁進する私も正しい。ドイツを救う唯一の力なのだ。ゲリは、ドイツの偉大な未来のために散った殉教者なのだ」

 二昼夜に及ぶ断食と徘徊の果て、ヒトラーの心はこれまで以上に研ぎ澄まされていた。もはや、迷いは何一つ残っていなかった。理想の人柱となって燃え尽きること以外に、彼に残された道は無かった。

 9月21日、哀れなゲリは、ウイーンの中央墓地に埋葬された。記者たちの目をかいくぐってウイーンに現れたヒトラーは、その墓前に一束の花を捧げ、一粒の涙を落とした。

 「よろしい、これからだ。闘争の再開だ」ヒトラーは、その拳を強く握りしめた。そして、彼の挙動はそれまで以上に快活で力強いものとなった。

 ただし、この強靱な魂を持った人物は、この事件以降二度と肉類を口にしなくなった。

 「死体を食うようなものだから」

 彼は、姪の死を忘れないため、菜食主義者になったのである。

 そのヒトラーとナチスは、いよいよその闘争の標的をただ一人に絞り込もうとしていた。その一人とは、ヒンデンブルク大統領に他ならない。