第八章 血の粛清

 

 アドルフ・ヒトラーが伍長だったころ、エルンスト・レーム大尉は、彼の尊敬の的だった。小柄で貧相なヒトラーに比べ、堂々たる体躯と銃弾で欠けた鷲鼻を持つレームは、絵に描いたような軍人だったからである。

 「アドルフよお」レームは、鼻毛を抜きながら聞いてきた。「おめえ、この戦争が終わったらどうするよ」

 「もちろん、また芸術家を目指して、勉強しますよ」ヒトラーは、まぶしいものを見る目で上官に答えた。「大尉どのは」

 「俺か、俺は南米に渡ろうかと思ってる」レームは、白い歯を見せて笑った。「ボリビア政府の傭兵になって、反政府ゲリラと戦うのさ。俺は、戦場の中でしか生きられない男だからな」

 だが、若き二人の夢は、敗戦によって打ち砕かれた。政治家に転身したヒトラーは、ミュンヘンで腐っていたレームに頼んで、突撃隊SAの指揮官になってもらった。その後二人は、手に手を取って幾多の苦難を乗り越え、ついに政権の座を獲得したのである。しかし今、二人の盟友の間に大きな亀裂が生じようとしていた。

 

 

 「アドルフは、変わっちまった」

 突撃隊長レームは、こう公言してはばからなかった。

 「奴は、首相の座について革命精神を忘れちまった。資本家や軍閥とつるんで、俺たちの立場をないがしろにしてやがる。軍備拡張なんて、無駄なことだよ。そもそも、今の軍隊なんて無くしちまうべきだ。今や四百万人を超えるSAを、軍隊に昇格すれば十分だろう。奴は、社会主義の理想を忘れ、ブルジョワに成り下がったのだわい」

 レームは、シュトラッサー以上に過激な社会主義を理想としていた。彼が理想とするのはソ連型の社会主義であり、ソ連の赤軍であった。ソ連のように旧軍隊を廃止し、民間義勇兵であるSAがその地位についてこそ、はじめて革命が成就するものと考えていたのである。

 しかし、それはヒトラーの理想とは食い違った。ヒトラーは、伝統ある国防軍の実力を正しく認識していたので、食い詰め者の集団であるSAをその地位に就けるなど論外だと考えていたのだ。

 また、急膨張したSAは、壊滅した共産党や社会民主党の旧党員を多く吸収し、急速に赤化し、その言動は日増しに過激になっていた。この事態は、ヒトラーの思想である反共とも真っ向から対立する。

 「第二革命だ」レームは叫んだ。「アドルフの目を、覚ましてやるのだ」

 4百万のSAが蜂起したら、大変なことになる。ヒトラー首相は、頭を抱えた。

 1933年12月、ヒトラーはレームと会見した。

 「第二革命は認めない」ヒトラーは、きっぱりと言った。「ドイツの革命は完了した」

 「なんでえアドルフ、その髪は。ポマード付けてやがるのか。豚みたいな臭いがするぜ。その高級な背広も何だよ。それでも大衆のための太鼓叩きと言えるのか」レームは、欠けた鼻を鳴らした。

 「素行のことを言うのなら」ヒトラーは、怒りを堪えて続けた。「君の男色癖が問題になっている。若き党員を毒牙にかけているという噂は本当かね。対外的にもまずいから、男色は止めてくれないか」

 「何言ってやがる。おめえだって年下趣味じゃねえか」

 「・・エヴァのことは、国民には秘密にしてあるのだ。ばらしたら承知しないからな」

 「かわいそうに。それであの娘は、一生日陰者なのか。俺の趣味を、どうこう言える柄じゃあねえな、アドルフよ」

 「・・ホモは別としても、SAの素行の悪さは、世界中で有名になっているのだ。もう少し静かにさせられないか」

 「ならば、SAの国防軍への昇格を要求するぜ。ブロンベルクをクビにして、俺を国防相に就けてくれよ」

 「君に提供できるのは、国務相だけだ」ヒトラーは、唸るように言った。「国防は、軍とブロンベルクの担当だ。SAと君は、国内の治安維持に当たってもらいたい」

 「ふん、国務相か。まあ、さしあたって悪くはないな。今はそれで妥協するよ」

 「・・ありがとう、これからもよろしく頼むよ」

 一応、和解は成立したが、状況は悪化の一途を辿った。レームとブロンベルクは、事あるごとに対立し、SAの横暴は募る一方だったからだ。

 また、SAの存在は、外交問題にも影を落としていた。1934年1月、ドイツはポーランドと不可侵条約を結び、フランスの孤立化に拍車をかけた。勢いに乗ったヒトラーは、英仏と個別交渉を行い、ドイツの軍備拡張政策を認めさせようとした。しかし、各国の要人たちはSAの存在に注目し、彼らを軍隊の一種と見なすことで、ドイツ国防軍の増強に難色を示したのである。

 ヒトラーは当惑した。彼は、社会に存在する様々な思想や勢力を糾合し、内部調整し、その上に乗る形で権力の座を手に入れた。しかし、そうして得た権力は、微妙なバランスの上に立脚するものだから、常に再調整と微妙な舵取りを必要とされるものなのだ。それでも、その作業は、これまではうまく行っていた。だから今度も乗り切れる。ヒトラーは、そう信じていたかった。

 それゆえ彼は、ゲーリングやヒムラーの讒言にも耳を貸そうとしなかった。航空相兼プロイセン州首相ゲーリングと、秘密警察ゲシュタポ長官ヒムラーは、従来からレームと不仲であって、この機会に彼を失脚させようと目論んでいたのである。彼らは、事あるごとにレームの謀反の噂をヒトラーの耳に吹き込んだ。しかし、

 「レームは親友だ。謀反などあり得ない」

 ヒトラーは、彼らの讒言を強く否定した。

 ところが、事態は大きく動いた。

 

  3

 

 副首相パーペンは、雇ったはずのヒトラーが、次第に強大になっていく有様を苦々しく見つめており、捲土重来の機会を虎視眈々と狙っていた。

 逆転のチャンスは、大統領の存命中にしか巡ってこない。ところが、そのヒンデンブルクは病気にかかり、余命幾ばくも無いと思われた。それゆえ、副首相は焦った。

 「これが最後のチャンスだ。SAとヒトラーの不協和音を利用するのだ」

 6月17日、パーペンは、ヒトラーがイタリアに外遊している隙に、マールブルク大学でナチスに対する反対演説を行った。その内容は、SAの素行不良を梃子にし、ナチスとヒトラーによる言論統制と非民主主義政策に対する露骨な批判に終始した。

 「第二革命などという戯言を野放しにしている首相の優柔不断を、私は弾劾するっ」

 そしてこの演説は、学生たちから万雷の拍手を持って受け入れられた。彼らインテリ層は、パーペンの見識の正しさを理解できたのだろう。

 宣伝相ゲッベルスは、慌てて新聞の発行を差し止めようとしたが、パーペンは彼の裏をかき、演説内容は、国内はおろか諸外国にも広く伝わったのである。

 ドイツ首相と副首相は不和であり、しかもSAという爆弾を抱えている。この事実は、新生ドイツの威信を大きく傷つけた。

 「なんてことだ。パーペンめ、とんでもないことをしてくれたなあ」

 イタリアから帰ったヒトラーは、髪を引きむしって悲嘆にくれた。

 しかし、彼はまだ内部調整で問題を解決しようとした。パーペンは、言論統制の解除をしなければ辞任すると息巻いたが、首相はこれを慰留した。ヒンデンブルクとの会談では、SAの縮小を俎上に上げた。ところが・・。

 「君の力で国内の安定が維持できないのなら、戒厳令を出す。政権を軍部に委ねる」

 車椅子の上で衰弱しきった老大統領は、精一杯の強い語調で宣告したのである。このとき大統領の傍らに佇立していたのは、国防相のブロンベルク中将であった。

 ヒトラーは、ようやく悟った。

 パーペンとブロンベルクは、大統領を抱き込んでの軍部独裁、ひいては帝政の復活を画策していたのである。

 「軍を敵に回すことはできない・」

 顔面蒼白となってホテルに帰り着いた首相は、翌日から気を取り直し、国防相と秘密交渉を始めた。何としても、彼を大統領から引き離さなければならない。

そして、国防相は言った。

 「首相がSAを野放しにしている限り、軍は、党に従うことはできません」

「・・何を望むのだ」

 「SAの解体縮小です。国防軍は、おのれの地位を脅かす存在を決して許しません」

 「ならば、貴君の望み通りに行動すれば、この私に忠誠を誓ってくれるか」

 「もちろんです。国防軍は、党と首相に忠誠を尽くすことでしょう」

「次期大統領の椅子は・・」

「首相のものです。軍は、全面的に支持します」

天を仰いだ首相は、ついに非情な決断を余儀なくされた。

 「SAを潰す・・レームを逮捕する・・」

 パーペンらの暗躍を阻止し、軍を味方に引き留める手段は、もはやそれしか残されていなかった。

 『長いナイフの夜』は、こうしてその悲劇の幕を開けたのである。

 

  4

 

 レームは、休暇中だった。

 彼はリウマチを病んでおり、その保養のために滞在するヴィースゼーのホテルで、満ち足りた毎日を送っていた。

 「さっき、アドルフから電話があったよ」レームは、笑顔で側近のハイネスに語った。「明日、こっちに来るそうだ。何か重要な案件が出来たのかな」

 近くで聞いていたホテルの女主人は、思わず喜色を浮かべた。

 「まあ、首相閣下がいらっしゃるのですか。どうしましょう、こんなむさ苦しい所で。おもてなしは鴨でよろしいでしょうか」

 「ははは、そんなに気を使う必要はないよ、ベルクさん。彼は菜食主義者だから、パンとサラダでも出しておけばいいのさ」

 「まあ、あの方は、そんな粗食で激務をこなしてらっしゃるのですか」

 「ははは、まあ健康にはいいだろうね。俺みたいに、リウマチを病むことも無いだろうよ」レームは、自嘲気味に哄笑した。

 ヒトラー来訪の目的が、彼の逮捕にあるとは、夢にも思わなかったのである。

 レームが上機嫌だった6月29日、噂のヒトラー首相は、ライン河畔のゴーデスブルクのホテル『ドレーゼン』で、幹部たちの集合を待っていた。彼は、党員の結婚パーティーへの参加を口実にベルリンを離れ、ここで陣頭指揮を執っていたのである。

 留守中のベルリンは、全てゲーリングとヒムラーに任せていた。『ハチドリ』の合言葉のもと、全国的にSA壊滅作戦が展開される手はずであった。

 ヒトラーは、前日から一睡もしていなかった。煩悶に煩悶を重ねた上での出動なのだった。そんな彼が到着を待ち望む人物は、宣伝相ゲッベルスであった。

 「彼は、来ないかもしれぬ」

 ヒトラーは、愛弟子のゲッベルスが、本質的に社会主義者であって、第二革命を密かに支持していることを知っていたのだ。

 午後九時、そんな彼のもとを、地元の青年団が訪れた。首相のために、歌を歌いたいのだという。ヒトラーは、とてもそんな気分では無かったが、むげに断るのも可哀想なので、彼らを部屋に招き入れた。

 入ってきたのは、二十人ばかりの、年端も行かぬ少年少女たちだった。バルコニーに整列した彼らは、簡単にかわいい前口上を述べると、少年たちが演奏し、少女たちが声を合わせて、国家やナチス党歌(ホルスト・ヴェッセル)を歌い出した。部屋のソファに腰掛けたヒトラーは、笑顔を作って彼らの誠意に応えた。

 その時、一天にわかにかき曇り、豪雨が降り注いだ。バルコニーには屋根がない。しかし、少年たちは演奏を止めようとしなかった。少女たちも、全身ずぶぬれになりながら、歌い止めようとしなかった。

 いつしか、ヒトラーの双眼に涙がこみ上げ、ポタポタと滴り落ちた。彼は、大声で彼らに言ってやりたかった。私は、これから親友を逮捕しに行くのだ。君たちの純情に報いることはできないのだと。

 そんな彼の膝を、いつの間にか隣に座っていた小柄な人物が叩いた。

 ゲッベルスなのだった。

 「ヨゼフ」ヒトラーは、安堵の声で呟いた。

 

  5

 

 6月30日午前4時、暴風雨を押して飛来したユンカースJu52型機は、ミュンヘン飛行場に着陸した。湿った滑走路に降り立ったのは、ヒトラー、ゲッベルスと、その側近者八名であった。

 出迎えたバイエルン州内相ワーグナーに向かって、ヒトラーは言った。

 「首都のゲーリングから報告があった。SAが暴動を起こそうとしている。我々は、それを未然に食い止めなければならない」

 「首相閣下、バイエルン州は最善を尽くします」

 「うむ・・今日は、我が人生で最悪の日となるだろう」沈痛な表情で、首相は呟いた。

 6月30日午前6時、極秘裏に展開した警官隊が、ミュンヘン市内のSAの拠点を包囲し、一斉に寝込みを襲い要人たちを逮捕した。

 午前7時、二台の車に分乗したヒトラー一行は、レームの眠るヴイースゼー村に到着した。待っていたのは、SS隊を率いるディートリヒだった。彼は、村の包囲は完全であって、標的は異常に気づいていないと報告した。

 「ご苦労」ヒトラーは拳銃を握りしめ、先頭に立ってホテル『ハンスルバウアー』に突入した。

 物音に気づいて出迎えたベルク夫人は、思わず喜声を上げた。

 「まあ、首相閣下、随分お早いお着きですこと。お会いできて光栄ですわ」

 「レームは、どこです」ヒトラーは、血走った眼で女主人を睨み付けた。

 夫人は、敬愛する首相のずぶ濡れのフロックコートと、右手の拳銃にようやく気づいた。何かが違う。これはおかしい。

 動揺して要領を得ない女主人に代わって、首相に後続した刑事たちが宿帳をめくり、レームたちの部屋を探り当てた。

 「ドアに鍵はかかっていないようですぞ」ディートリヒが、使用人から聞き出した。

 「よし、行くぞ」

 ヒトラーは、先頭に立って突進した。そして彼がドアを押し開けた時、レームは一人でベッドの中にいた。

 「おお、アドルフ・・どうした」

 「エルンスト、あなたを逮捕する」

 静かに宣告したヒトラーは、レームと目を合わすことなく、後の処置は部下に任せ、次の部屋へと進んだ。

 そこは、レームの側近ハイネスの部屋だった。ドアを蹴り開けたヒトラーの眼前には、醜悪な光景が広がっていた。ベッドの中で、二人の男が裸で抱き合っていたのだ。

 「逮捕だ」真っ赤な目をさらに血走らせたヒトラーは、次の部屋へと進んだ・・。

 そのころベルリンでは、ゲーリングが行動を開始していた。

 相棒のヒムラーは、ゲーリングが独自に作成した処刑リストを一瞥して絶句した。

 「こ、これは・・我々の任務はSA幹部の逮捕でしょう・・どうして関係ない人たちまで・・」

 「誰が、関係ないと決めたのだ、ハインリヒ」ゲーリングは、冷酷な目を光らせた。「SAの壊滅作戦は、SAのみならず、その関係者をも対象にしなければなるまい。総統も、きっとお喜びになる」

 「なるほど」ゲシュタポ長官は、その白い瓜実顔を引き締めた。「ならば、私にもいくらか心当たりがあります」

 「そうだろうとも」ゲーリングは、肥満腹を抱えて哄笑した。

 こうして、血の嵐が吹き荒れた。

 元首相のシュライヒャーは、ポツダム郊外の自宅でくつろいでいるところを、妻もろとも撃ち殺された。彼の親友ブレドウ将軍、元バイエルン州総裁カール、元ナチス組織局長シュトラッサー、占星術師ハイムゾート、神父シュテンプルら、SAと関係ない反ナチス分子も、問答無用に射殺されたのである。

 「副首相である私を差し置いて、何をしているのか説明して貰おう」異常に気づいたパーペンは、首相官邸のゲーリングの執務室に怒鳴り込んだのだが、冷酷な嘲笑にあしらわれ追い返された。

 憤怒を抑えきれずに公邸に向かった副首相は、血も凍るような恐怖に襲われた。公邸は武装された警官隊に包囲されており、居間には二つの射殺死体が転がっていたのだ。

 「おお、ユング、ボーゼ」

 二人は、パーペンのナチス反対演説の原稿を起こした有能な秘書だったのである。

 「わ、私も殺される」パーペンは、ソファの上に崩れ落ちた。「なんと恐ろしい。これが、法治国家の姿なのかっ」

 パーペンは確信した。これはもう、彼が愛したドイツ共和国ではない。悪魔の群に魅入られた恐怖の帝国なのだ。

 

  6

 

 白みわたった朝の空の中、ヒトラーは、彼が自ら設計したミュンヘン市内のナチス本部『褐色館』の執務室で沈思していた。傍らに控えるのは、ゲッベルスただ一人であった。

 「なあ、ヨゼフ、知っているか」孤独な総統は、うつろな声で呟いた。「癌細胞というのは、良性細胞が変異して生まれるものなのだ」

 「・・・」

 「私の母は、癌で死んだ。クリスマスの前日に・・私の見守る前で、それは苦しそうにね」

 「・・・」

 「信じて欲しい。私は、精一杯看病したのだ。母の苦しみを和らげるためなら、何だってやったのだ。でも、全て無駄だった。癌の転移が早すぎたのだ」

 ヒトラーは、潤む双眼を上げた。

 「だから私は誓ったのだ。社会の癌細胞の早期摘出を。共産主義者とユダヤ人は、悪性腫瘍の本性を現す前に根絶しなければならないのだ。しかし・・」

 ヒトラーは、両手で頭を抱えた。

 「まさか、SAとレームが、癌細胞になるとは思わなかった」

 ゲッベルスは、敬愛する党首の心に隠された、闇の深さを思い見て慄然とした。しかし、心の闇は自分にだってある。自分だって、幼少の頃に小児麻痺に冒されてから、ずっと日陰の人生を歩んできたのだ。宣伝相は、首相の膝をなでながら進言した。

 「総統、ためらってはなりません」

 「そうだな、やるしかない」

 ヒトラーは、天を仰いだ。

 そして、処刑命令が下された。

 午後5時、ドイツ各地の刑務所に収監されていたSA幹部たちは、次々にSSの処刑部隊によって銃殺されていった。

 悲惨だったのは、レームの副官のカール・エルンストだった。彼は、新婚旅行の船出から呼び戻されて収監されたのだが、これを友人たちの冗談だと思い込み、幸せな笑顔を浮かべたまま銃殺されたのだった。

 しかし、レームはまだ生きていた。

 ヒトラーは、決断することが出来ないまま午後10時、ベルリンに戻り、テンペルホーフ空港で出迎えのゲーリングとヒムラーから状況報告を受けた。

 充血した目をしばたかせ、無精ひげを撫でながら、官邸への車中で報告書に目を通したヒトラーは、その中にシュライヒャー元首相らの名を見つけて顔を歪めた。

 「彼らは、レームと結託して反乱を起こそうとしたのです」ヒムラーが機先を制し、左隣の席から言った。

 「ならば、どうして逮捕せずに、その場で銃殺したのだ」ヒトラーは鋭い目を向ける。

 「抵抗したので、やむなく・・」ゲーリングが、右席から助け船を出した。

 ヒトラーは、黙って頷いた。勢力伸張を図ってライバルを抹殺した彼らの野心は百も承知だが、それはナチスドイツの利益にも繋がるのだ。ここは容認するしかない。ゲーリングらは賢明にも、現職の大臣の命までは奪わなかった。これならば、大統領も国民も納得させられる。

 事実、ヒンデンブルクもブロンベルクも、ヒトラーのとった断固たる処置に大いに満足するのである。

 しかし、ヒトラーは左右に言った。

 「レームは殺さない」

 「なんですって」ゲーリングとヒムラーは、首相の両脇で飛び上がった。

 「SAは縮小し、レームの後任に真面目なルッツェを就ける。厳重な服務規程を遵守させ、軍の下位に位置づける。また、SSを拡張して彼らを牽制させる・・。だから、レームを殺す必要はないのだ」

 「しかしっ、それでは話が合いません」

 「反乱の首謀者を助けたら、何のために多くの幹部や要人を射殺したのか分からなくなります。国民は、反乱計画自体を、仕組まれた茶番だと受け止めるでしょう」

 「ふん、実際、その通りではないか」

 「総統、国会議事堂放火事件をお忘れか。事実を創るのは我々なのです。そして、事実の創造は、中途半端に終わらせてはなりません」ゲーリングは鋭い目で、憔悴した党首を睨み付けた。

 ヒトラーは、天を仰いだ。そして唇を歪め、大きなため息をついた。その両肩は、小刻みに震えていた。

 

  7

 

 レームは、事情を掴めないままにミュンヘン郊外のシュターデルハイム刑務所に収容されていた。そこは、かつて彼がミュンヘンプッチの時に収監された場所であった。

 「懐かしいなあ。あのときアドルフは、命がけで俺を助けようとして重傷を負ったんだっけな」

 牢獄の中は暑苦しく、レームは上半身裸になって、タオルでしきりに汗を拭いていた。

 7月1日日曜日、午後6時。

 SS幹部アイケは、前日の経過を記した新聞一部と、拳銃一丁とを持ってレームの独房を訪れた。

 新聞に目を通したレームは呻いた。

 「エルンストも死んだか。奴は新婚だったのに、さぞかし無念だったろう・・全ての革命は、我が子を貪り食らうというのは、本当だったんだなあ」

 アイケは、無言でレームに拳銃を渡した。

 「覚悟は出来ている。でも、死ぬ前に一度、アドルフに会わせてくれ。駄目なら、ヨゼフでも構わない」

 「それは出来ません」

 「そうか、ならば伝えてくれ。俺はアドルフに反旗を翻すつもりはなかった。ただ、俺の事を親父のように慕うSAのみんなを、幸せにしてやりたいだけだったんだ、と」

 「分かりました」

 頷いて退出したアイケは、隣室で15分待ったが、銃声が聞こえないので、副官とともに独房に戻った。

 レームは、上半身裸のまま沈思していた。

 「覚悟願います」

 アイケは、副官とともに、彼の裸の胸に銃弾を撃ち込んだ。

 「総統閣下・・」

レームは、一言呟いて絶命した。

 ナチス草創期からこの運動を盛り立ててきた人物は、非情な政治の犠牲者となったのである。

 7月2日まで続いたこの粛正で、何人が犠牲になったのか分からない。ゲーリングが、関係書類を全て焼却してしまったからである。1千人以上という学者もいるが、おそらくは百人前後といったところだろう。その全てが、裁判も受けられず命を奪われたのである。

 しかしヒトラーとゲッベルスは、非常事態であったことを強調して正当化に努めた。

 パーペンはさすがに抗議し、秘書たちの死の責任を追及し、辞任の決意すら表明したのだが、ヒトラーに辞任は責任逃れだと説得され、主張を引っ込めた。

 また、国防軍のマッケンゼン将軍は、大統領に向かって、ゲーリングとヒムラーの犯罪的行為やブロンベルクの傍観姿勢を糾弾し、彼らの追放を主張したのだが、容態の思わしくないヒンデンブルクは、聞く耳を持たなかった。

 その一方で、国民の多くは、もともと素行不良のSAを快く思っていなかったので、この事件を首相の世直しの一環として歓迎したのである。

 しかし、この事件は、ナチスドイツの法治国家としての基礎を著しく傷つけた。ナチスが後に引き起こす無道な大虐殺の前提は、このときに創られたと言っても過言ではないのである。

 だが、それは後の話。ヒトラーは危機を回避した。親友の命の代償として、大統領と軍部、そして国民の支持を得ることに成功したのであった。

 「エルンスト、あなたの死は無駄にしない。あなたは今、偉大な殉教者の一人となったのだ」孤独な首相は、心の中で親友の冥福を祈った。